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ある紳士

作者: おまめ

 その角度はたしかに常軌を逸していた。私の顔は相手の顔の真横に飛び込んでそのままぐいと挟まり、その下の誰かに暴力的に馬乗りになった。これはまったくもって光の瞬く速さの不条理な出来事であり、決して私の意図するところではない。しかし、はっと一同が息を殺すのがわかった。動揺と衝動に耐えているのがわかった。私もそうである。直後、あたりは真っ暗になった。それを待って、相手の困惑と微かな怒りの混じった視線が、下の者からの唸り声が、ほかの者のしらけたため息が、私の全身を縮こませた。ここまで戸惑いと恥ずかしさを覚えた経験は記憶にない。大変なことになった。なんとかせねば。勇気を奮い起こし非礼を詫びようと息を吸い込んだとき、悲劇を知った。


 相手の顔が喉元の芯の部分に挟まりこれをぐっと抑え込んでいるために発声どころか呼吸すら危うく、しかもそれは相手も同じで、うっうっと小さく呻き始めているのである。大変なことになった。あまりのことに以前腐りかけた古傷がずきずきと痛み始める。誰か、誰か助けてくれ。我ら2人は同じ目を周囲に投げつけ、救助を仰いだ。


 我々の視線を浴びて、密着した2つの顔が色を失くしかけていることに気が付いた周りの者たちは、冷ややかに笑っていた体の小さいものも含めてようやく非自然的に重なり合った2つの体を引きはがし始めた。とはいっても、我ら、不器用な者たちである。ぴたりと交差した部分を解消するには、とある技術よりも体力の強さを発揮するほか、もとよりそれ以外の方法はないのである。ついに全員が全身を上下に弾ませ、また弾ませ、私たちは衝撃に浮かんでは下へ叩きつけられ、下の者は喘ぎ、それでも繰り返した。途中、目が回り、吐き気がして、天に召される幻を見つつ、全身が下へぶつけられるたびにこの世に戻ってきた。すると、あたりが明るくなったので、私たちは静かになった。息を止めた全員の肩が震えている。またすぐに暗くなる。そこでもう一度上へ、下へ、最後に大きく上へ。下に落ちたときには、ついに、私と彼女は、分かれわかれに皆の上に小さく転がった。


「ついに罰が当たったのだ。こうなったからにはお前が謝るべきだ」


 皆が口々に言うので、観念した私は相手に顔を向けるためにまた転がった。下の者はにやにや顔で私を彼女へ押し出すのだから始末が悪い。


 彼女は私に滑らかな背中を向けて、こちらに来ないでちょうだい、と言っている。それでも、周りの者が責め立てるので、私はついつい口を開いたのである。


「悪かった。あんなことになるとは、本当に運が悪かった」


 ここでは不条理なことがあまりに当然にまかりとおっているので、今回の場合は私が非礼を詫びるのが決まりである。しかし相手が相手だし、そもそも、このような出来事が起こる兆候すらなかったのも確かだ。なんたる理不尽。私はしばし沈黙した。正直に言えば、納得いかぬ頑とした気持ちがないわけでもなかったが、ここには、私以上にしきたりを大事にする者がいない。長年、相手にも自分にもこの慣習を守らせてきた自負は私の体にしがみつき、梃子でも握力を弱めてくれなかった。


「悪かったよ」


 ゆっくりと振り向いた彼女は泣いていた。その隣で、3人の姉妹は憎しみを宿した眼で私を睨みつけている。女はすぐにこれである。なんとも手に負えない生き物である。


「謝っても無駄」

「あんたが私たちに、ねえさんにした嫌がらせを全部思い出してみてよ」

「この薄情者。うそつき。でくのぼう」


 甲高い罵声に周りの者が呼応する。下の者も、横の者も、その横も下も、みんなにやにや笑っているか、彼女たちと同じような不機嫌な顔だ。別に予想外ではない。最近は、味方がいないのは知っている。ただ、取るに足りない彼らであっても、その「全員」が一度完全に私を「この集団の恥」と烙印を押し、その心を進んで離反するに任せる事態は避けねばならない。私は自分の気持ちを貫徹したい。が、我らの完全な孤立は望まない。


 ついに私は、双子の弟の顔を見た。彼は泣き顔で、兄さん許してもらわなきゃ、などと涙声でのたまっている。これまで散々私に喋らせてもらえなかった彼のことを、皆は思ったよりも敵意のない表情で見守っている。彼は私のように嫌われていない。そうか。孤立するとなれば、私一人か。


「ねえさん、言ってやってよ」

「これまで、あいつにひどいことされた分、殴っちまってよ」

「ねえさんてば」


 小娘たちのやかましい声に、長姉はついに涙を拭いた。一同も、弟も、彼女を静かに見守っている。


「あの、私たちに意地悪なさるのはもうよしてくださいな」


 彼女の小さな顔が息を求めて黙る。もう一度息を落ち着かせ、最後の涙をぬぐう。


「たしかに、私たちは新参者で、私たちのせいで、あなたがあまり外に出なくなったのは知っています。それまではあなたに毎日お呼びがかかっていて、他のみなさんのよきお兄さんで、理解者で、厳しく、でも寛大で、前からいた外国の方にも親切にされていたんでしょう。私たちがここに来たばかりの日だって、4人姉妹で心細かったのを、あなたのおかげで皆さんに馴染むことができたんです。だから、」


 これ以上は我慢ならない。なんだと? 私の足先は怒りでぶるぶると震え、全身の硬度が上がっていくのがわかった。彼女の声は妹たちと同じで、やはり耳障りである。


「今日の事故のほかに、私が何をしたと? 関係のない言いがかりを持ち出されても困りますよ」


「いえ、いいえ、お聞きになって。もうよしましょう。私、いいえ、私たち、あなたたちに感謝しているのです。だから、とても苦しいのです。私たちばかりが呼ばれるようになって、あなたに嫌な気持ちをさせてしまっているから、本当に申し訳ないと思っていますのよ。でも、だからって私たちを皆さんの下にぎゅうぎゅうに押し込んだり、偶然を装って殴ったり、ありもしない悪口を言ったり、最近はこんなことばかり。こんなの、お互い望んでいないはずですわ。私たちはすぐに呼ばれなくなります。あなたほど、必要とされている方がどうして、私たちのような小物を敵視するのです。どうか、もうやめてくださいな」


 澱みのない哀願であった。彼女の言葉が切られたと同時に、真実、私の胸の内で、いまでは親しみのある、黒い熱情がちらちらと炎を失い始めていた。震えはなくなり、むなしさが遠くから走ってくるのが見える。硬度は低くなっていく。これは私の望んでいることじゃないはずだ。私は瞬きをした。放心状態で横を見ると、衝撃がきた。私は小さく転んだ。弟が生まれて初めて、全身で私を殴ったのだ。


「兄さん、目を覚ましてよ。こんなこと続けるなんて兄さんじゃない。僕たちは、明るい場所に導かれて、あんなに立派に、素晴らしく役に立つじゃないか。彼女たちだって、そうだよ。こんなにすてきなレディが仲間になって嬉しいって言ってたじゃないか」


 私は顔をあげられなかった。涙が出ている。顔は下の者の胸にうずめる形になっているが、彼も私をどかそうとしない。彼だけでなく、一同も見抜いているのだ。それがこんなにも恥ずかしいのだ。


「なあ、あんた、ここが潮時だよ。ほら、端正な顔と体を上げな。俺たちや、ちっこいあいつらとは違って、あんたもお嬢さんがたもよくやってるよ。あんたたちは、みんなの憧れだったんだぜ。俺らはだれも敵じゃない。あんたたちはスターだ。意地なんて張らずにお嬢さんたちと互いに尊敬し合えばいいじゃねえか」


 私は涙のまま、彼の太い胸板から顔をあげた。


 蓮華は笑っている。隣のティースプーンも、今度は悪意のないにやにや顔をよこしている。ナイフは唇に父性をたたえ、スープ用スプーンはひょうきん者らしくウィンクをし、デザート用フォークは聞いていないふりをしながら花柄の絵をさりげなく見せてくる。私たちは窮屈に同居し、大概が体の一部を誰かに、また誰かから重ねられているが、顔はちゃんと、全員よく見えるのである。みんな。羞恥心よりも強い感情が、私の胸にたちのぼった。


 私は彼女たち――フォーク――が嫌いだった。


 真実を言えば、いつの間にか、好きから嫌いになっていた。


 彼らのいうとおり、これまでは、私たち兄弟が、光のなかに連れていかれ、何か巨大なものに、どこか癖になる、ある特定の楽しい動きを強要され、きれいに洗われてここに戻ってきた。それが私たちの毎日だった。選ばれしものの輝かしく誇り高き毎日だった。たまに仲間が加わっても、年に何度かしか光に出ていかないものもいたし、一度会ったきりでいなくなったものもいた。


 あなたたち、兄弟は本当にまっすぐで美しいわ。

 箸さんのように活躍したい。

 いつか箸さんのようになるには、どうしたらいいの?


 私たちは本当のところ、なんの答えも知らなかったし、一同に優しくするのが大好きだった。羨望の眼差しを、例えば、全員が心地よくなるように体の大きさ別に横になる角度を工夫してみたり、光のなかにはどんな特別な景色が広がっているかなどを話してみたりして、惜しみない親切で返していた。


 しかし、フォークが来て、少し経ってから、我々は呼ばれなくなった。フォークと、スプーン、これまでほとんど呼ばれることのなかったあのナイフが光に消えていく。それは一時的なものだと信じていた私の心を打ち砕き、これが新しい毎日なのだと認識させるに足る回数を超えて、粉々になった自尊心の欠片をさらに砂塵にまですり潰した。


 その集大成ともいえる今日はついに、フォーク一同が戻った後に、何の気まぐれか私たち兄弟を久々に光に出して糠喜びさせ、まだ明るさに目も慣れていない一瞬の間に、ひどく横暴な動きで私たちを彼らに叩きつけて戻す、という激烈な結末を迎えたのであった。


 私は今日までふさぎ込み、日に日に暗くなっていた。真っ暗なこの空間以外をほとんど知らないものもいるのに、彼らの飲み込んでいる不条理を受け入れる強さをもたなかった。徹底的に、誰のことも気にかけずに現実から逃げた。そうやって、不条理を憎み、ついに彼女たちを強く嫌悪するようになった。好感を抱いていた分、浅ましくも反動は大きかった。そうして、彼女たちさえ来ていなければこんなことになってはいないのではないかと反芻し、それを確信に昇華させたのである。


 心は曇る一方、終わりのない苦悩から脱出する他の方法の探求を怠り、嫌がらせの手を休めないまま長い日々を過ごしてしまった。


 フォークに、彼女たちに謝らなければならない。


「これまでのことを心から謝るよ。悪かった。怖かったんだ。もう兄弟で呼ばれなくなるのが怖かった」 恥ずかしくも、私の声は震えていた。


 フォークはしばらく黙り、その頃には甲高い声をあげていた妹たちも何も言わなくなっていた。彼女が口をひらいたとき、頬に走っていた緊張が消えていた。


「箸さん、ありがとう。私、あなたとまた仲良く一緒に過ごせると思うと、とても嬉しいです」


 私たちは久しぶりに互いに正面に向き合い、相手の目を見た。フォークの曲線はやはり初めて会った日の確信のまま、見事な芸術だった。4人とも美しく、気高い。私の体はみるみる軽くなり、天にも昇っていくのではないかと思われた。


 弟は早くも妹たちと嬉しそうに笑い合っている。私がおしゃべりを禁じていた間の積もる話もあるだろう。蓮華も、スプーンも、ティースプーンも、スープ用スプーンも、ナイフも、デザート用フォークも、みんなほっとした様子で我々と面した体を優しく震わせてくれた。なんていい仲間だろう。二度とあんなことをするのはやめよう。またいつか光に呼ばれる日もあるさ。それまでは、みんなと、彼女たちと弟と、一緒に穏やかに過ごせばいいじゃないか。彼らのためになんだってしてやるさ、と決意を新たにした私は、背筋をぐっと伸ばし、真っ直ぐで美しい体をさらに直線にした。


 彼女と目が合うと、それはまるで、誰かに握られ、光の中で見たこともない不思議なものを弟と掴んで運ばされる、あのひとときのような恍惚が、私を大きく包みこむのだった。私たちはもう一度、あの日のように微笑み合った。


「はっ、言ってやがる」という使い捨てアイス用スプーンのヤジももちろん聞こえていたが、紳士的に何も聞こえないふりをしてやった。


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