第二章 『心の傷と痣』
日が少し傾いて、視界はオレンジと藍色が入り交じり見知った公園は不思議な感覚のする景色に見えた。
「なんか懐かしいなぁ~。」
洋子は数ヶ月ぶりに訪れた公園は家と同じぐらい懐かしく思った。懐かしく思う反面、不思議な感覚を感じている事は言葉には出さなかった。何故か、口に出してはいけないような奇妙な違和感。
以前来たときと同じように隣には卓がいる。以前と変わらない。ただ、一つ。明らかな違いは、卓の表情は以前来た時と比べものにならないほど暗い。
「ごめんね。お姉ちゃん。」
卓の消え去りそうな声が聞こえた。隣にいる卓が横目で洋子を見上げている。卓の声に視線を下げた洋子の視線が卓の視線に合わされば、目を逸らすように卓が俯いた。洋子は卓の視線に合わせる為しゃがみ込む。
「どうしたの?元気がないし、卓君が謝る事なんて何にもないじゃない。ねっ。」
卓の頭をグシャグシャに撫でてやる。昔、卓の母親に怒られて泣いていた卓に同じ事をしたのをふいに思い出した。卓も同じ事を思い出したのか少し笑って見せた。笑った顔は洋子もよく知っている人懐っこい顔。
「凄い音がしたでしょ。びっくりしたんじゃないかと思って…。」
先ほどよりは元気な声で卓が話しはじめた。話しはじめるが、元気な声は束の間で直ぐに悲しそうな曇った声に変わる。泣くのを必死に我慢しているんだろう。言葉の途中途中で鼻をすする。
「パパとママ、離婚しちゃったんだ。パパが出て行ってママ…たまに…物を壊しちゃうんだ…。」
卓によって紡がれた意外な言葉に洋子は驚きで目を見開いた。洋子にとって信じられなかった。卓の両親は洋子の目から見てどこより幸せそうな夫婦だった。
洋子にとって理想の夫婦だったのだ。
それが、壊れたと聞いて呆然とした。
「ママが目を離したせいでパパの大切な物が壊れちゃったんだって…。だからパパ出ていちゃったんだ。」
「だからって…。」
離婚なんてする?と続けようとしたが、不安そうに洋子の顔を覗き込んでいる卓と目が合い言い留まった。
何より辛い思いをしているのは卓だと思ったからだ。
そして、卓の母親も…。
きっと心に溜まった後悔とか悲しみ、寂しさを紛らわせるために物を壊して発散させているのだ。
だから、洋子の母親も何も言わず見守っているのだ。洋子の両親も卓の両親に負けないぐらい仲が良い。そんな両親から、どんな慰めの言葉を掛けられても悲しみのドン底にいる卓の母には届かないだろう。
立ち入ってはいけない心の傷があるのだと知っていたから洋子の母は洋子を止めたのだ。
洋子は心の中で自分の母親に謝った。
「大丈夫だよ。ママには卓君がいるんだから…。きっとすぐに元気になるよ。」
卓を元気づけようとした洋子の言葉に卓は目を伏せてしまった。元気づけるための言葉が逆に卓を傷つけてしまったのかと洋子は焦った。
もし傷つけてしまったのなら謝ろうと思わず卓の手首を掴んだ。
「イタッ…。」
洋子は驚いて卓の手首を離した。強く握ったつもりはなかったのだが卓は顔をしかめていた。
「ごめんね。そんなに強く握る気はなかったんだけど……大丈夫?」
今度は優しく掬うように自身の掌に卓の掌を乗せて引き寄せ、もう片方の手を卓の手の甲へと乗せ手首に向かって撫でる。薄い長袖から除く小さい手。卓の手を優しく撫でる洋子の手が止まった。
「何?…これ…?」
撫でていた手が袖口にかかれば、袖口から見えるか見えないかぐらいの所に赤黒い線のような痣が見えた。丁度、洋子が掴んだあたり。
洋子の反応に手を引っ込めようとする卓を制御し長袖を少し捲った。手首を一周している痣はロープで縛られた後がくっきり残っている。最近つけられた痣のようだ。
卓の長袖を肘まで捲ると信じられないような数の打撲跡や、切り傷まである。
「……これ…まさか、おばさんが…。」
信じられない程のショックで急激に喉が渇き、言葉が出てこない。卓は隠すように捲くられた袖を元に戻す。
「ママ…寂しいんだ……、僕は何もしてあげられないから……。」
諦めに似た表情で微かに笑う卓が洋子にはとても切なく見えた。しかし、卓が母親から暴力を受けているのであれば、放ってはおけなかった。
「卓君。ママにはお姉ちゃんがちゃんとお話してあげる。」
洋子の言葉に少し卓は肩を震わせた。洋子は卓が怯えているのかもしれないと思い卓の目をしっかり見ながらゆっくりとした口調で話しかける。
「大丈夫だよ。おばさんだってちゃんと話せばわかってくれる。だって卓君のママなんだから。」
そう、洋子は卓の母親がどれだけ卓のことを愛しているか知っている。知っているからこそ大切な人を悲しみにまかせて傷つけてはいけないという事をわかって欲しい。
卓に洋子の思いが伝わったのが、洋子の手を握り小さく頷いた。
「……洋子お姉ちゃんがホントのお姉ちゃんだったら良かったのに…。」
卓が控えめの声で呟いた。今まさに立ち上がろうとしていた洋子は中途半端な格好で動きを止めた。
子供の素直な言葉に嬉しいやら照れるやらでどう反応したらいいのかわからなくなったのだ。
洋子は照れ隠しに明るい元気な声を精一杯使って
「あら、そんなの今更じゃない、卓君。わたしは卓君の事本当の弟だと思ってたのに!!卓君のためならどこだって行っちゃうよ。」
洋子の言葉がよほど嬉しかったのか、卓はようやく洋子にとって懐かしいと思える笑顔を見せた。
これからもずっと卓が今見せた笑顔でいられるように洋子は気持ちを引き締め卓の家まで戻った。
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