第一章 『日常が壊れる音』
大学を卒業して、就職の為海外研修に参加して二ヶ月。無事に研修も終了して、しっかりと時差ボケを直し、本格的に働くまでの一週間の休み。
洋子は空港に降り立つなり、二ヶ月も離れていた自宅に連絡を入れる。久しぶりに聞く母の声は優しく、帰ってきた事を実感すれば僅かに目頭が熱くなるものの、それを悟られまいと電話口に元気な声で"今から帰るね‼"と短い言葉を残し電話を切った。
帰りの電車の中で揺られながら、何度も首が項垂れて眠りそうになるのを必死で抑えながら帰路を急ぐ。
初めての海外で溜まっていた疲れが一気に吹き出したのを感じながら、研修へと行く前より帰りの方が増えてしまった荷物を、"忘れ物がないように"と電車の乗り換えの度荷物を数え大荷物を引きづりながら、自宅のマンションへと辿り着いた。
たった二ヶ月。それでも、住み慣れたマンションを見上げ、こんなに懐かしく感じるのかと苦笑いを浮かべる。研修はやり甲斐のあるものだったが、やはり寂しさは拭えなかった。感慨に浸りながら洋子は自宅のあるマンションの三階へと歩を進めた。
「ただいま~。」
洋子はずっと両親と共に住んでいたマンションの扉を元気な声と共に勢いよく開けた。
初めての海外。初めての就職研修。初めての経験ばかりで緊張と疲れで碌に連絡も取らずにいた。両親もそんな洋子を気遣ってか、心配しながらも応援してくれた。話したい事も沢山あったが、何より元気な姿を見せて両親を安心させたかった。
自宅のドアを開ければ、洋子が住んでいた時と変わらない懐かしい雰囲気と匂い。
洋子は両親を安心させようと帰ってきたのに、安心したのは洋子自身だと気づき思わず笑みが零れる。何一つ変わらない居心地の良い場所。
「おかえりなさい。何玄関でニヤニヤしてるの?」
玄関から少し入った所にあるキッチンから笑顔の母親が顔を出した。洋子の大好きな唐揚げの香りが漂う。
「ニヤニヤなんかしてないよ!!」
母親に自分の事を見透かされたような恥ずかしい気分のなり洋子は顔を背けた。
優しい笑顔で見ている母親を横目で見つつ懐かしい我が家に上がる。着替えなどが入った荷物は後で片づけようと玄関の端へと置き、お土産の入った大きな袋だけを持ってキッチンへと近づく。
「お腹空いたでしょ?もう直ぐご飯出来るから食べなさい。」
先に少し眠りたかったがキッチンのテーブルへと視線を向ければ、テーブルの上には洋子の好物ばかりが所狭しと並んでいた。洋子はそれを見れば眠気が吹き飛んだかの様に目を輝かせ、母の言葉に頷いてリビングのソファへと腰を落ち着ける。
ソファに座り、手に持ったお土産の袋を抱える。ゆっくりと袋から綺麗にラッピングされた長方形の箱を取り出しテーブルへと置く。中は両親への土産にと買ったペアのティーカップとソーサーのセット。特に食器の類が大好きな母は喜んでくれる。そう確信があり、渡すのを愉しみに帰って来た。
キッチンで食事の用意をしている母が出て来るのを待つ。ふっと、その時リビングの棚の上のオルゴールが目に止まった。子供の頃から大事にしているオルゴール。もう、螺子を回さなくても頭の中で音が鳴るぐらい聞き込んだ。ソファの背凭れに凭れて、小さな声でオルゴールが奏でる曲を口ずさむ。
「本当に洋子は、そのオルゴールが好きね。」
小さな声で口ずさんでいた曲にお盆に料理を乗せた母が棚の上のオルゴールへと視線を向け笑みを深める。テーブルにお盆が置かれると、洋子は歌うのを止めてソファから身を乗り出した。懐かしい母の手料理。自分の好物だけが乗せられたお盆の中を覗き込み、箸を手にする。直ぐにでも食べたい衝動を抑えて顔の前で手を合わせた。
「お母さんの手料理も好きだよ、頂きます!!」
洋子の言葉に”現金なんだから…”と零しながらも母が嬉しそうに笑った。唐揚げを箸で摘まんで口へと運ぶ洋子のお盆の横に麦茶を注いだグラスを置く。
唐揚げに齧りつき、サクッとした歯ごたえと咥内へと溢れる肉汁の美味しさに洋子が思わず唸る。しっかり唐揚げの味を堪能している洋子の横に置かれた箱を母親が目敏く見つけると、それに手を伸ばした。”これは?”と視線で問いかける母に洋子は、咥内の唐揚げを喉奥に押し込め言葉を紡ぐ。
「おみゅあげ…。」
咥内に残る唐揚げの所為で不鮮明な言葉にはなったが、母には伝わったらしく早速お土産の箱に手に取り、綺麗に施されたラッピングを破れないように解いていく。
箱を開ければ、そこには白磁のティーカップに色鮮やかな花の模様、お揃いのティーソーサー。嬉しそうにそれを手に取って眺める母を洋子は満足そうな表情で眺めていた。
一通り、陶器の感触と柄を眺めた後、母は箱に丁寧に戻し洋子へと向き直った。
「こんな素敵なお土産をありがとう…高かったんじゃないの?」
箱へと戻したティーカップを横目で見ながら、少し値段を気にする母に洋子は思わず噴き出しそうになった。今度はしっかりと唐揚げを胃の中へと納めてから口を開く。母の手を伸ばし、肩を軽く押して笑う。
「お土産の値段なんて普通訊かないよー。でもね、そんなに高くないから…日本で買うとそれなりにするかもしれないけど、向うで買うと結構安くて吃驚しちゃった。後、他にもお土産があるんだよ。家のじゃないけど…。」
一度、箸をお盆へと置き、持ち帰った袋に手を伸ばした。
その時…、
バキッ、ガシャン
隣の部屋から物凄い勢いで何か壊れる音がした。
「何……?」
あまりの音に洋子はビクッと体を震わせ、袋に伸ばした手を止め母親に視線を移した。さっきとは打って変わって神妙な顔つきの母親は音が止むのをじっと待っていた。
「何なの?今の……?」
隣には、洋子を本当の姉のようにしたっていた卓という名前の男の子が住んでいた。卓は両親との三人家族。人懐っこく洋子も卓を弟のように可愛がっていた。
卓は体が弱く日差しを避けるため夏でも薄手の長袖を着ていて洋子と卓が仲の良かったせいか、家族ぐるみでの付き合いも頻繁に行っていた。
母親の神妙な顔と、隣から聞こえた尋常ではない音。洋子は何かあったのかもしれないと、ソファから立ち上がり隣へと急ごうとした。
「やめておきなさい。」
走り出そうとした洋子の背中に母親が声をかける。思ってもいなかった母の言葉に洋子は振り返る。母親は洋子と目を合わさないように俯いてしまっている。
「何を言ってるの?何かあったのかもしれないのよ?」
尋常じゃない物音。 仲の良かった家族に何かあったのかもしれないのに、声を荒げながら何もしようとしない母親に苛立ちを覚えた。
「待ちなさい。洋子、卓君は…。」
母親の言葉を遮るように、再度隣から物が壊れる音がする。何かを壁に投げつけ、乱暴に家具を床へと引き倒すような通常では有り得ないような破壊の音。
居ても立っても居られず、洋子は後ろから聞こえる母親の声を無視して家を出た。
隣の家のチャイムを鳴らす。
反応は…無い。
もう一度チャイムへと手を伸ばし鳴らしてみる。やはり反応は無い。洋子自身、何も起こってない事を願っていた。願ってはいたが、先程自宅まで響いた尋常ではない音を思い出せば気持ちが急く。
チャイムを鳴らせば照れた顔のおばさんが『ごめんなさい。棚を倒しちゃって…』と言って出てくる。洋子はそう願っていたのに隣の家からの反応は無い。
洋子の心に不安が広がる。不安が焦りに変わり、洋子はドアを叩こうとした。
ガチャ…。
ドアを叩こうと振り上げた手を洋子は急いで止めた。ドアが開いたのだ。ゆっくり開くドアの中から男の子が出てくる。 俯いていて顔がよく見えないが洋子にはそれが誰か一目で判った。
夏なのに長袖を着ている男の子。
「卓君…。」
洋子はドアから出てきた男の子の名を呼んだ。卓は洋子の声に反応して俯いていた顔を上げた。くりくりとした大きな目が洋子を見上げる。
「洋子…お姉ちゃん?」
顔を上げ洋子の事を呼ぶ声も顔も洋子の知っている卓だった。しかし、いつも明るい笑顔を振り撒いていた卓が今は顔色が悪く覇気がない。目の前にいるのは確かに卓なのに、二ヵ月ぶりに見る表情は洋子の知っている卓ではない…そんな感覚を覚える。
「卓君…何かあったの?凄い音が聞こえたよ?」
たった二か月会わなかっただけでここまで人が変わるだろうか?何かあったに違いないと洋子は卓が安心出来るように優しく声をかけた。
「何でもないよ。お姉ちゃん。」
卓は声とは裏腹に顔を俯けた。洋子は卓がこの件に関して追及されたくないのか、言いにくい事情なのかが判断できず、とにかく元気づけようと言葉を捜す。 口を開きかけると卓が洋子の腕を引っ張った。
「ねぇ、洋子お姉ちゃん。公園行こう。」
卓の言う公園とは、二人の住むマンションの向かいにある公園だ。洋子が大学に入る前はよく二人で散歩に出かけた。二人にとっては思い出の場所だといえる。洋子はそれで少しでも卓に元気が戻るのならと、
「…そうだね。行こうか。」
卓の手を取り歩き出した。楽しかった思い出の場所に行けばきっと卓は笑顔を取り戻してくれる、何かあったならその理由を話してくれる。理由がわかれば洋子は卓を助けてあげられる。
そう、思った。