オプション
多分、来年も再来年もまたここに来てしまうんだろうな、なんて事を考えながら、目の前の景色につい溜息を吐いてしまった。
私の名前には夏と言う字が入っているのに、物心付いた頃から夏が大嫌いだった。
肌は焼けるし汗は出るしやる事は多いし虫は多いし、泳げない。
それはもう夏なんて無くなればいいのにと思うほどで、春秋冬で一年を回せなかったのかと神様を問い詰めたいくらいだ。だけど、そうは思っても口に出した事は一度もない。
「みっきー! まだ来ないのー?」
「もっ、もうちょっとだけここで休んでるよー!」
「りょーかーい、きゃっ! もぉーっ!」
「ああっ! ボールがっ!」
無邪気に遊ぶ子犬のような友人たちを見て、そんな事を言えるわけがなかった。
ビーチパラソルの影にいるだけなら心地よい海風に汗をかいたりする事もなくそれなりに快適で、こうしてここから眺めている分には夏も悪くないと思えるのに、海水浴客たちの賑わう声がこことの温度差をしつこく伝えてくる。
「はあ」
目の前の楽しげな光景に下唇を噛み締めて、この領域を侵そうとシートに乗り上げてきた砂を払いのける。
反対側の砂も払おうと気だるく鈍った上体を捻ると、視界の端に映った不穏な影に気付いて目を向けた。
「うわあっ」
「やあ」
ちょうど一人分ほど空いていた隣には、いつの間にか知らない男の人が座っていた。気配なんて全然感じなかったのに一体どこからやって来たのだろう。
「隣、いいかな」
もう座ってるし。周りを見渡してみても、本当に一体どこから来たのか足跡はどこにも見当たらない。まるで忍者かそうでなければ砂だ。
しかもこの光景と言うか景色と言うか、雰囲気みたいなものに余りにも馴染んでいて、いかにも遊び人っぽい人だった。
場の空気に溶け込むルックスに驚くタイミングすら逃してしまい、おかしいくらい冷静に見れた彼はサーフボードでも持っていれば見事にはまりそうな、チャラい色の海パンが印象的。
「あの、誰……ですか?」
しかしそれとは対照的に、羨ましく思ってしまうほど透き通った白肌に若干の違和感を覚えてしまう。
「君、名前は?」
いや、私が聞いてるんですけど。もしかしたらこれは何かヤバいんじゃないだろうか。と言うより確実にヤバい。まず会話になっていないし、海の方ではまだ友達は楽しそうに遊んでいて、こっちには目もくれず自分達の夏を満喫している。
私は祈る――お願い、お願いだからこっちに気付いて!
「君は遊ばないの?」
しかしそんな刹那の祈りは通じるわけがなかった。
大声でも出して助けを呼ぶべきかもしれないけど、でも……もしかしてこれはナンパと言うやつなのだろうか。仮にそうだとしても、今までそんな経験がないから判断も付かない。
前髪越しに何となく見た顔はそこそこ男前、歳は私と同い年か、少し上くらいかなという具合、でも一応不審人物。これがナンパならこれからの事も気にはなる。一夏の恋なんてのも経験してみたいな、なんて風にざっくりと考えた事もあったけど、もし何か変な事に巻き込まれでもしたら笑えない。
色々な不安がぐるぐる回り始めると怖くなる、そうなってしまう前にやっぱり助けを呼ぼうと立ち上がったのとほぼ同時、
「俺、夏って大嫌いなんだよね。泳ぐの苦手だし、でも連れの奴らはすげー楽しそうに遊んでやがんの。正直叫んでやりたいよ、夏なんて消えちまえってね」
言い切った彼の瞳はどことなく物憂げで、心を見透かされたような気もしてどきっとした。もしかしたら彼も夏に呪われているのだろうか。そう考えれば妙だけど親近感みたいなものも沸いてきて、彼の隣に腰を下ろした。
しかしほんの一瞬、不覚にも不審人物のレッテルを剥がしそうになった事を咄嗟に後悔した。さっきよりも気持ち距離を開けてから、間にカバンを挟んで領地を分けた。
「ほら、見てみ」
彼の指した方向に何かあったかなと考えるが、答えは出てこなかった。渋々をアピールしながら斜めに目線を送ってみると、やっぱりそこにはこのビーチを謳歌する人々の楽しげな夏が広がっていた。
ボール遊びにに浅瀬の戯れ、刺すような日の下で寝そべっている人もいた。私のように特に何をするでもなく傘の下にいる人でさえも、やはり楽しげに笑みを浮かべていて、きっとそういう人たちは一時的にそこにいるだけか、そこでの楽しみ方をマスターしている人なのだろう。
むしろそれは当たり前のことで、海にまで来て日陰に身を隠してナマコのように動かず、辛気臭い顔をしている人なんて私くらいだった。
「もうずっと見てるけど……」
去年初めて今の友達と海に来て、最初の頃は羨ましくもあったけど、帰る頃にはそれがどうしたと言えるくらいには見慣れた光景となり、それに対しては特に何の感想も浮かばない。こんなものをわざわざ示して、彼は何が言いたいのだろう。
「はーあ、つまんないよね。何であんなに楽しそうに出来んの? 魔法にでも掛かっちゃってるわけ?」
言われてみて今までの事を思い出す。
泳げなくても浅瀬なら遊べるでしょ、なんて皆は口をそろえて言うのだ。だけど、本当に泳げない私は水が怖くて仕方ないんだからそんなに気楽な話じゃない。体を水に触れさせるだけでもこけたら溺れるんじゃないかとびくびくしながら、必死にビーチボールを受け止めたり投げ返したり、浮き輪で浮かぶ事すら恐ろしいのに「海行こ」の一言でまたここへ来てしまった。
「……どうかな。私たちが呪われてるだけかもしれないよ」
そもそも私の夏嫌いの理由の大部分は泳げないという事にある。それが今の水恐怖症にまで繋がっているくらい本当に泳げない、浮かない。
お父さんは高校で水球部のキャプテンだったって言うし、小学生の頃に家族で行ったプールではお母さんも普通に遊んでいた。
その二人の間に生まれた私。遺伝子的には何の問題もないはずなのに、名前とコンプレックスのがんじがらめで、これはもう呪いか何か超常的なものの仕業としか思えないほどに身動きが取れなかった。
「ふうん……じゃあ、呪いの解き方を考えなきゃなぁ」
彼は指でわっかを作ってそこから海を覗いたり、かき氷を頬張る子供に向けて大げさに羨ましがったり、まるでどっちが子供か分らない。
その仕草がなんだか可笑しくて思わず笑ってしまうと、彼も一緒に笑ってくれた。
「みっきーは彼女達と遊ばないの?」
「どうして私のあだ名知ってるの?」
「あの子がさっき言ってたから」
「あぁ」
彼の視線の先に誰がいるのかは追わなくてもわかる。だけど、私にはそっちを向く気はない事を訴えたくて、わざとらしく膝を抱いてみせた。
しかし直後に聞きなれた嬌声が鼓膜を貫く。私ってすごく嫌な奴だ。
「あんまり仲良くないの?」
「ううん、そんな事ないよ。私もね、泳ぐの苦手だからここでぼーっとしてる」
「ふうん。てっきり罰ゲームかと思った」
「違うよ、誘われたの」
「そっか」
でも、罰ゲームってのは当たらずとも遠からずだ。
水が怖いのに海に来る理由なんてそれだけしかない。私にとって海は水の親玉みたいな感じで、その恐怖といえば子供の頃に見た映画のエイリアンに似ている。あれは気持ち悪さもあって相当怖かったけど、今私はその親玉と対峙しているのだ。それはもう怖いなんてレベルの騒ぎじゃない。本当ならすぐにでも逃げ出したいくらい。
「それでもやっぱり水は怖いし、夏は嫌い」
彼女達は高1の時に出来た友人で、中学卒業と同時にこっちへ引っ越してきた私には他に友達はいない。だからそう簡単に逃げ出すわけにも行かなくて、この友人関係はどうしても大事にしたくて必死でいる。
本当にがんじがらめだなと思いながら自嘲気味に海を見て、またすぐ自分の膝に目を戻した。
「夏嫌われてんなぁ」
あてつけみたいな潮風は、このシートから私を追い出そうとするみたいに砂と熱を運んでくる。だけど水に溺れるくらいなら、砂に埋もれた方がまだマシだ。
「けど俺は夏より、夏になった途端はしゃぐ友達のほうが嫌い」
「え?」
すると彼はぽつりと呟くように、喧騒にかき消されてしまいそうな声で言った。
「マジで嫌いなわけじゃないよ。なんつーか、嫌いって言う以外言葉が分かんないから言ってるだけだけど」
それは何となくわかるような気がして、何も言わずに頷いた。
「何だかんだ言ってもやっぱ友達だからさ、仲間内のある程度の好き嫌いとかは知ってるじゃん。んで俺は夏が嫌い、それはあいつらも知ってる。俺もあいつらの嫌いなものは知ってるし、そういうのはなるべく避けるようにしてるつもり」
一瞬だけそれは本音なのかなと疑いながら、もし本音だったとしたら私にも大いに心当たりがあって、でもどうしてそんな事を話してくれるんだろうと思いながら耳を傾ける。
「でもあいつらは俺の大嫌いな夏を思いっきり楽しんでる。俺が蚊帳の外って訳じゃないけど、あいつらはあいつらで思い出が欲しいんだろうね。でもそこに俺の意思とか好みとかは関係ない。ただ純粋にあいつらは夏が好きなだけで、俺はそんな夏に嫉妬してる」
多分、私は無意識の内に嫉妬と言う言葉をずっと避けてきた。だけど、そのおかげで彼が語った事が本音だとも解った。
「嫉妬かぁ……そうかも」
「するよねえ。だってこの季節だけは、あいつらと同じ思い出を共有できないんだもん。夏になると、自分からあいつらのオプションにならざるを得ないんだ。妬けるよ」
普段ならそんな事はないけど、この季節になると私は彼女達の輪の中には入れない。だからせめて彼女達の邪魔にならないように、空気のように振舞うしかないのだ。
「私ね、名前に夏って字が入ってるんだ。それだけでもすごい名前負けなのに、さらに泳げなくて水も怖いからどうしようもなくてさ。お父さんもお母さんも泳げるのにね、酷くない?」
私も本当の事を言ってみたけど、彼の言ってくれた本音とは少し違う。ただ私自身の面白みもなにもない話。
それでも彼はくすくすと笑ってくれて、いたずらっぽく私の顔を覗き込んできた。
「じゃあ、俺よりも夏が嫌いなんだろうね」
「うん、多分ね」
返事をする代わりに彼は表情で応え、直視していた私はまるで恋に落ちたような気分になった。
「よいしょ、んじゃ俺そろそろ行くね。昼飯の買い出し頼まれてたんだ」
その一言とともに、予想外に魅力的で私には少しもったいないかなと思うくらいの笑顔をだらしなく崩して、彼はあっけなく私の領域から飛び出す。
境にした鞄を抱き寄せてみたら、シートがとても広くなったような感じがした。
「あ……うん、わかった。じゃあね」
気付いたらお互いに手を振っていて、咄嗟に手を引っ込める。彼の歩いていった方を振り向くと、ちゃんと足跡を残して彼の後姿はだんだん小さくなっていった。
忍者でも砂でもなく、そういえば名前も聞いていなかったけど、一応不審人物ではなくなった。そんな彼の後姿をしばらく見つめていた。
たった十分ほどの短い会話。オプション同士の僅かな交流は意外と楽しかった。
それに、きっともう二度と逢う事もないだろう。だから彼も空気に話すみたいに本音を言ってくれたんだ。そう勝手に結論を出しながら、そろそろ後ろ髪を振り切ろうとした時。
「またねー! みっきぃー!」
突然振り返った彼は叫んだ、それも両手を振りながら。
きっと、それはこのビーチにいる全ての人に聞こえただろう。見渡した視界に入るみんなの視線は彼か私のどちらかに向いていて、最後の最後に何の嫌がらせなのよと思いながら手を振り返すことはしなかった。その代わり、今出来る精一杯の笑顔を彼に向ける。
さっき私が味わったようなあの感覚を、彼も感じてくれればいいな、なんて事を考えながら。