こんな夜も悪くはない!
「そろそろ夕時よ。お昼もとらずに、あのひと大丈夫かしら」
「ちょいと心配だねぇ。アキト、見てきておくれよ」
「えぇ、分かったわ。母さん」
私は家を出て、先ほど彼を案内した場所に向かいました。もしかしたら、逃げ出しているんじゃないかな……とも、思いつつね。むしろ、その可能性のほうが高いとすら、思っていました。
「……やっぱりね」
そこには、誰の姿もありませんでした。やっぱり逃げてしまったのかと思った私は、踵を返して家に戻ろうと思いました。けれども私は、そのときこの荒地の状態にはじめて気がついたんです。
「これは……」
四時間ほど前には、手の付けようがないほど荒れていたその土地は、ほぼ全てが耕されていました。私はこの光景に、自分の目を疑いました。
「嘘……本当に、彼がひとりで?」
その肝心の、彼の姿がどこにもありません。私は、もう一度畑の中を見渡しました。すると、畑の向こう側に人影があることに気がつきました。私は、耕されたばかりの土の上をゆっくりと歩いて、その人影の方に近づきました。
「……あら?」
そこには、鍬を抱え込むような形で座り込み、眠っている彼の姿がありました。彼の眠っている先からは、まだ少し荒地が続いていました。おそらくは、ここまで耕して力尽きてしまったのでしょう。
彼は私が近づいても、全く起きる気配を見せませんでした。よほど疲れているようです。あれだけ恥ずかしがっていたのに、シーツは腰から外されていました。自分で取ったようで、それを短く裂き破いて、手の部分に巻きつけていました。そのため、私のスカートの裾からは、彼の素足がはっきりと見えていました。土に塗れてはいましたが、色白で細い、女の人のような足をしていました。
「……」
「使者」様は、彼に畑仕事をさせるように言っていました。だから私は、彼を起こそうと思ったのだけれど……。
「まぁ、充分働いたものね」
これ以上はあまりにも可哀相だと思ったから、このまま寝かせておいてあげようと思いました。私は、先ほど自分が放り出した鍬を取りにいくと、彼のやり残した部分を耕し始めました。
「う~ん……やっぱり力仕事はきついわ。久しくしていなかったからね」
みんながいた。父上、母上、ハルナ……そして、「ライローク」の村人たち。みんな、当時の姿のままだった。でも、俺だけは大人の姿だった。だから、これは夢なんだって、すぐに分かった。
夢の中のみんなは、笑っていた。罪びとである俺を、責めようとはしなかった。ただただ、優しく笑ってくれていて……俺は、そんな彼らの前に膝間づいて、泣きながら謝っていた。
死なせてしまってすまなかった……と。
ハルナはまだ、三つだった。
それなのに、炎に焼かれて死んでしまった。
許して欲しいなんて、少しも思っていない。どれだけ謝ったところで、一生許されたりなどしないと分かっている。例え村の人たちが私の事を許してくれたとしても、私自身が私を許すなと言っている。
永遠に、俺には安息の時は来ない……。
「ハルナ……」
あまりにも胸が苦しくなって、私は目を覚ました。そこはまた、朝寝かせてもらっていたベッドの上だった。私がシーツをはがしてしまった為、それはなくなっている。
ぼんやりとした視界の中、私はふと窓の方に目を向けた。すると、辺りはすでに暗くなっていた。
「……しまった!」
私は、畑仕事の途中であったことを思い出し、急いで外に出ようとした……しかし、体の節々が痛み、容易にできなかった。
「痛っ……」
「起きました?」
「あ、アキト殿……」
私は合わす顔がないように思え、俯いた。
「申し訳ない。畑がまだ……」
「ご飯の支度ができましたから、食事にしましょうか」
「えっ……?」
怒られると思っていた。しかしアキトは、全然気にしていないようだった。むしろ、笑顔で柔らかな表情をしている。私はてっきり、途中で畑仕事をなげてしまい、馬の機嫌をまた損ねたとかなんとか言われるかと思っていたが、どうやら彼女は、私が途中で畑仕事を断念してしまったことを知らないようであった。
いや、途中で投げ出すつもりなどなかったのだが……急に眠気が襲ってきてしまって、少しだけ休息をとろうとしたのだ。それが、うっかり眠りこんでしまったようだ。
(私をここまで運んできたのは……シトフ殿かな?)
となると、母親の方は畑が途中までしか耕されていないことを、知っているということになる。私は苦笑した。怒鳴られるならまだよいが……体を叩かれたりは、しないであろうかと不安に駆られた。今、私の身体は至るところが筋肉痛で、悲鳴をあげている。このような身体をシトフに叩かれでもしたら……私は絶対に死ぬ程痛い目に遭う。
「立てますか?」
「あ、あぁ」
私はゆっくりと立ち上がった。やはり身体がきしむ為、どうしても鈍い動きになってしまう。辛そうな私に、アキトはそっと手を差し延べてくれた。私が首を傾げていると、アキトは少し頬をふくらませて怒った。
「行きますよ。料理が冷めてしまうでしょう?」
「あぁ、すまない」
急に優しくなった彼女の態度に戸惑いながらも、私は彼女の手を借りながら、食卓の方に向かった。
そこにはすでに、料理が並べてあった。それはとても、家庭的な雰囲気であった。パンに、スープ。それから、テーブルの中央にはサラダが置いてあった。それを見て私は、胸が熱くなってきた。
(母上も、よくこういう料理を作ってくれていたな)
ここへ来てからというもの、昔のこと……家族や村の人たちのことをよく思い出すようになってしまった。
懐かしさ、切なさ、悲しみ、怒り、憎しみ……。全ての思いが一気にこみ上げてきてしまった私は、その場に立っていることさえ、出来なくなってしまった。その場に崩れ落ちると、女ふたりの前だというのに、私は涙を止めることがどうしてもできず、手で顔を隠しながらも暫く泣き続けていた……。
「落ち着きました?」
「……」
言葉がでなかった。恥ずかしいという気持ちもあったが、それよりただ、極度の疲労感が私を襲っていた。あまりの疲れから、涙は自然に止まった。
考えてみれば、泣くということも何年ぶりのことであったろうか。もう、十年は泣いていないような気がする。なんだか、十年分の涙を今、流したような気がした。
「……すまない」
暫くして、私はようやく言葉を発するまでになった。椅子に手をかけながら立ち上がると、どっかりと椅子に腰掛けた。自分は一体、どれだけの間泣いていたのだろうと思った。湯気を出していたスープからは、もうそれが無くなっているところを見ると、結構な時間が経過しているように思われる。
「せっかく私の分まで用意していただいたというのに……申し訳ない」
頭を下げる私を前に、シトフは笑って許してくれた。
「別にいいわよ、そんなこと。お前さんには、よく働いてもらったからね」
「……使者の言いつけだからな」
確かにきつかった。あの畑仕事は並大抵の仕事ではない。それでも、私にとってよい経験になったし、今、こうやって家族というものを、もう一度感じさせてくれたことには感謝すらしている。
シトフ、アキト、私は順に席につき、目をつむってから手を組んだ。料理を食べるときのマナーである。全てのものに、祈りを捧げるのだ。
「……感謝する」
「何にですか?」
私は目を開け、二人の方をみた。
「あなた方と、村の方々に……」
(それから、馬に……かな)
私達は揃って、食事をはじめた。
食事の間ふたりは私に、色々なことを質問してきた。私も、答えられることには応えた。
「あなた、名前は?」
そういえば名乗っていなかったのだということに、私はこの時はじめて気がついた。本来ならば真っ先に名を名乗り、村長の家に向かうものなのだが……。今回は、予定が大分狂ってしまっていた。
私は、「カガリ」と名乗っていいのかどうか迷った。馬をフロートの使者と思ってしまうほど、俗世間から離れている村なのだから、私の名など知らないかもしれないが……一応、フロートのカガリと言えば、有名だったからだ。
(……名乗っても、よいのであろうか)
カガリだと名乗り、もしも彼女らが私の名を知っていたのならば……彼女たちは、どう反応するのであろうか。私のことはこの村に、どういう風に伝わっているのであろうか。
フロートのカガリ。
冷酷な男だとか、国王の犬だとか、思われているのであろうか。疫病神と言われている私は、それを知るのが少し怖かった。彼女たちには、嫌われたくない。まだ、会って一日も経っていないというのに、そんな想いが私の中にはあった。
「私の名は……カガリ」
ギリギリまで迷ったが、私はそのまま自分の名を名乗ることにした。ここで名を偽ることは、名を付けてくださった長老様に申し訳ないように思えるし、これまでの自分を、全て否定してしまうような気がしたからだ。
確かに私は、国王の命令を受けて、汚い仕事にも手を出してきた。村人を苦しめると分かっていて、フロートの支配下になれと、たくさんの人々に、色々な村で命令してきた。それでも、「殺し」だけは決してしなかったことだけが、私の唯一の誇りであった。
「……カガリ?」
アキトは首を傾げた。シトフは別に、興味を示していない。どうやら彼女たちは、私の名を聞いたことがないようであった。少し私はほっとした。
「聞いたことある名ね」
「えっ……」
予想は外れた。
「確かフロートの……」
私は彼女たちから視線を外した。そして、手に持っていたスプーンをテーブルに置くと、じっと言葉を待った。これで、この村にはどういう風に私の名が伝わっているのかが分かる。
「馬の名前と同じですね」
「はっ?」
はじめは、アキトが何を言ったのか理解できなかった。しかし、確かに今、馬の名前と同じだとか言わなかったか? どうなっているのか。馬が使者で、私が馬? この村には、事実がかなり捻じ曲がって伝わっているようであった。
「馬……か」
何だか可笑しかった。胃が痛むくらい、名を名乗ろうかどうしようかということだけでこんなにも悩んでいたというのに、いざ名乗ってみればこのような言葉が返ってくるだけだ。
ここでは、私の常識は何一つ通じないような気がした。
「……そうか」
それでも私は、よいと思った。たとえ真実とは違うものを信じて生きているのだとしても、それが、真実よりもよい世界ならば……。冷え切っていた私の心を、ここまで暖かくしてくれる村が、悪いものであるはずはない。
「……あら?」
アキトは私の顔を見つめてきた。何事かと思い、私は首を傾げた。するとアキトは微笑みながら、私にこう言った。
「あなたでも、そういう顔をするのね」
「……そういう、顔?」
何を言っているのか理解できず、私はスープに映った自分の顔を見てみた。別に、普段と何も変わらないように思えた。とりあえず、スプーンを色々な方向に揺らし、自分の顔をしばらく見てみた。すると、くすっと笑いながらアキトは言葉を続けた。
「あなた今、とても自然に笑っていたわ」
私は、彼女の意外な言葉に目を丸くした。体の全ての動きが止まり、驚いた顔で彼女のほうを見ていた。
「なぁに? そんなに驚いちゃって」
アキトは、あまりにも私が驚く為、おかしかったらしい。パンを口にほうりながら笑っていた。シトフもまた、アキトと同じように、いや、豪快に笑っていた。
「お前さん。ここへ来てからずっと気難しい顔をしていたもんねぇ」
「そうそう。なんて言うのかしら……どこか、抜けているんだけれど、空気は重いというか……」
それは、自分ではまるで気がついていないことであった。私はこの村に来て、随分と気を楽にさせていただいていたような気がしていたが……それでも、他人から見れば、まだまだ警戒心は高く、孤立していたようである。人とは、自分を映す鏡であるといわれているが、こういう時にもそれが使われるのだと思った。自分を知るには、他人に聞くのが一番よい……と。
それにしても、ふたりの話を聞いて私はまた、気が重くなるのを感じた。どのような環境に行っても、もはや私の中から闇は消えないのか……と。国王の呪いが、完全に根を下ろしてしまったように思えた。
絶望的だ。私はもう、永遠に闇の住人なのかもしれない。私の手は、血で汚れてしまっている。あまりにも、汚れすぎてしまった。
「でも、寝顔は可愛かったですよ?」
「えっ……?」
アキトもシトフも、私の顔を見ながら笑っていた。
「畑で眠っている姿なんて、それはもう可愛かったねぇ。あの素足がなんとも言えない」
「あら、顔に勝るものはないわよ、母さん。本当に、幼い子どもみたいな顔をしていたわね」
(それ以上言うな……)
私は頭を抱え込み、呻いた。この村に来てから、私はどれだけ恥をかいたのか……。もはや、数えることが面倒に思えるほどになっていた。
それでも……そういう自分もまだいるのだと少し安心もした。私はまだ、闇から抜け出せるのであろうか。
それにしても、先ほどから手が痛む。鍬を持ちすぎて肉刺ができ、手のひらに物があた
る度に激痛がはしった。そのため、なかなかスムーズに食事を摂れないでいた。
その様子に最初に気がついたのは、アキトだった。
「カガリさん。あなた、手が痛むの?」
「……あぁ、少し」
そういえば、勝手にシーツを破いて包帯の変わりしてしまったが、よかったのであろうか。今さら駄目だと言われても、すでにこんなにも汚してしまったし、これを返すわけにもいかないので、遅いといわれればそうなのだが……。
「じゃあ、私が食べさせてあげますよ。はい」
(はい……って、おい)
私の口の前のスプーンを持ってきて、鳥の親が雛の口にえさをあげるような感じで、アキトはスタンバイしていた。
(冗談じゃないぞ……)
私は椅子を引き、アキトとの間に少し距離をとった。すると、アキトはまた怒ったような顔をした。
「離れたら、食べさせてあげられないじゃないですか。ほら、あ~ん……して?」
私はいったい、何歳だと思われているのだ。二十七だぞ? 二十七にもなった男、がこのようなことを……出来るはずがないではないか。いや、二十七でなくても、そうだな……少なくとも七つの時でさえ、このようなことをした覚えはない。
「アキト殿。冗談がすぎるのではないか?」
「冗談? 私は本気よ?」
冗談だと言って欲しかった。私は困り、頭をかいた。すると、腕をシトフにグイっとつかまれた。何事かと思い不安になった。
「手が痛いんだろう? 大人しくしてなさい」
いや、頭をかいただけで、決して暴れたりしているわけではないのだが……。確かにスプーンを持つだけで痛みはしたが、これくらいならば平気だ。でも、心配してくれていることには、感謝する。それに、なんだか嬉しい。見ず知らずの他人である私のことを、このように心配してくれるとは……。
「ほら、あ~ん」
「……」
目を開けていては、まともにアキトの顔を見てしまうので、私は目を閉じながら口を少しあけた。それでもやはり、まだ照れる。
「はい、おりこうさんですねぇ」
「おい」
私は半眼でアキトの顔を見た。私の口にスープを運ぶと、ちゃんと飲み込んだことを確認したアキトは、私の頭をよしよしと撫でてきた。
(手をどけてくれ……)
わなわなと拳を振るわせる私をみて、アキトはきょとんとしていた。
「……何か?」
「アキト殿。アキト殿は私のことを、何歳だと思っているのだ?」
あまりにも自分を子ども扱いするので、私は聞いてみることにした。
「何歳? 母さんは、どれくらいだと思っているの?」
「そうだねぇ……」
私の席の隣に座っているシトフは、私の顔をじっと見ながら考えていた。そして、何を思ったのか。私の頬に手を伸ばしてきた。そして、数回さするとまた手を離し、今度は私の髪の毛を見ていた。
「な、なんだ?」
「綺麗な肌に、髪の毛をしているねぇ。いくつというより……お前さん、女なんじゃないのかい?」
「なっ……」
そんなことを言われたのは、成長期を迎えてからは今回が初めてだった。子ども扱いされたことならば、何度かあるが……私が女? これだけ背も伸びたというのに、まだ大人の男として見てはもらえないのか? 私は再び、自分が情けなくなってきた。そして、自分の今までの生き方を振り返ってみた。どこか、女々しいところでもあったのかと思ったのだ。しかし、どれだけ思い返してみても、私はそれなりに、男らしく生きてきたように思えた。声だって、みんなと同じように変声したわけだし……ただ、そこまで低くはならなかったが。
(そうだ。私は男だ)
自分の中でそう答えがはっきりすると、少しだけ自信がわいてきた。
「私は男だ。このような声の女がいるものか」
「冗談だよ」
あっさりとそう言うシトフの言葉に私はムッとした。そんなムキになる私を見て、ふたりは笑っていた。そして、そのことで私はまた、顔が赤くなっていることを自覚した。
「そうだねぇ……十七か、そこそこじゃないのかい? 成人しているようには見えないね」
十も年下……なんだか、ショックだった。そんなに私は子どもっぽいのか? 十七の私といえば、まだラバースSクラスに入って一年といったところだぞ? あの頃よりは成長している。あの頃の私と一緒だと言わないでくれ。この十年が、無駄に思えてしまうではないか。
まぁ、母親は十年前の私を知らないのだから、こんなことを思っても仕方のないことなのだが……。
「アキトはどう思うんだい?」
「そうねぇ。性格だけを見れば、十歳くらいじゃないの? 背丈だけは高いみたいだけれどね」
私は絶句していた。
(十歳……)
今まで、ラナンのことを子どもっぽいと思ってきたが、私も他人から見たら似たようなものだったのだろうか。本当に落ち込んできた。
「な~に? あなた、気にしてるの? 本当はいくつなのよ」
答える気にはなれなかった。答えたところで、また笑われそうな気がするからだ。もう、たくさんだ。
「何を黙っているんだい?」
バシン!
「ごふっ……!」
おもいきり背中を叩かれ、私は口の中に含んでいた物を思わず吹き出してしまった。そのあとも暫く咳き込みがとまらず、苦しい思いをした。背中からは、じんじんと痛みを感じていた。
「あらあら……何を噴き出しているんだい。服も汚れちゃったわね」
「す、すまな……ごほっ」
誰のせいだよ……だとか思いつつも、私は咳をなんとかして止めようと口元に手を当て、無理やりにでも抑え込もうとした。しかしそれでもなかなか咳の止まらない私を見かねて、シトフは水を私の口元に持ってきてくれた。そして、ゆっくりとそれを飲ませてくれた。その動作はとても自然であって、これまでの豪快さは感じられなかった。
私はもしかしてと、思った。アキトの父親は、病気なのでは……と。それで、この家からは生気が彼女達からしか感じられないのかもしれない。この食事の時でさえ、姿を見せられないとすると……よほど、具合が悪いのか。
(私に何かできればよいのだが……)
散々ひどい目に合わされたような気もするが、やはりこの村で懐かしい思いをさせていただいたことは事実であるし、このふたりには世話になっているのだから、何かしら自分に出来ることがあればいいと思った。
(明日また、畑に行くか。何かよさそうな苗でも植えよう)
明日の計画を練っている間に、咳は治まっていた。先ほどシトフが私に飲ませてくれた水には、何か薬草のエキスでも混ぜてあったのかもしれない。ほのかに苦味のする水であった。
「どうやら咳はおさまったようだねぇ」
シトフも安心したようで、さすってくれていた私の背中から手を放した。
「母さん、カガリさんは体を痛めてるんだから、労わらなくっちゃ駄目よ。あ、それであなたはいくつなのよ」
けっこうな時間が流れたと思うのだが……アキトはこの話題のことを忘れてはくれなかった。
「今年で二十七だ」
「……えっ?」
案の定、ふたりは驚いたような顔をしていた。そんな顔をされても、困るのだが……。
「あなた、私と同い年なんだぁ。そっかぁ……じゃあ、呼び捨てでもいいかな」
「同い年!?」
散々私の事を子ども扱いしてきて、自分だって童顔ではないかと言ってやりたくなった。私が見たところ、二十前の女子の容姿をしている。
「なに?」
なんていうのか、お腹がくすぐったい感じがした。
「アキト殿も子どもっぽいではないか」
「へぇ~……あんた、いい度胸してるわね? この私にむかって、そういうことを言いますか」
明らかに目は怒っているが、口元だけは不気味に笑っていた。そのような怒り方をするところがまた、子どもっぽさを強調していると思うのだが……。
「いや、事実だから……」
「母さん、こいつのこと、痛めつけちゃって」
「あ、それだけは勘弁してくれ……」
しかし、にやっと笑ったシトフの右手は、すでに頭より高い位置まで振り上げられていた。私は苦笑いをすると、次にくる衝撃に耐えるため、目を堅くつむった。
その日はとても疲れていたけれど、私達は夜遅くまで語りあった。けれども途中から、シトフが酒を出してきて大変だった。私は酒をあまり好まない為、水だけを飲んでいたのだが……いつの間にすり替えられたのか。水だと思って一気に飲み干したものが、アルコール度のかなりきつい酒になっていて、その結果……。
「全く。国王は俺をこき使いすぎなんだよ」
私は、完全に酔っ払った。
「あんた……いいの? 国王のことをそんな風に言って」
けらけら笑うアキトを半眼で見ながら、私は奴をあざ笑うかのように言った。
「いいのさ、あんな奴。王などではない。ただの、嫌な奴だ」
「この世界にここまで王のことを悪いという子は、そうは居ないんじゃないのかね?」
私は更に酒を飲んだ。頭が次第にぼーっとしてきたが、もうすでに、飲まずにはいられなくなっていた。酒の力を借りて私は、これまでの恨みやら何やらを、一気に吐き出していた。
以前一度だけ、ルシエル様と酒を飲み交わしたときも、私は自分のストレスを一方的にルシエル様にぶちまけていたらしい……。自分では、そのときのことを全く覚えていないのだが、記憶を失くす私をルシエル様は心配していらした。
実はその時、師匠から酒はルシエル様の前で以外飲むなと注意されていたのだが……すり替えた彼女達が悪いという事にして、飲み続けることを私は選んだ。久々の酒は、美味いというよりは、気分がよくなった。
「あんたさぁ……いい男だね。好きな奴とかいるわけ?」
アキトもかなり酔ってきていた。顔を赤くして、酒臭い息を吐きながら私の席の隣に移ってきた。
「好きな者? そうだな……いる」
「へぇ~……可愛い?」
私は、あの子のしぐさや思い出を振り返りながら、ふっと口元が緩むのを感じた。
「あぁ、可愛い」
「そうなんだ。会ってみたいものね。あんたのように可愛い子が、これまた可愛いって言う子に」
私はアキトの髪をくしゃっとかき混ぜた。何をするのかと、アキトは怒っていたけれども、私は構わず続けていた。あの子の頭もよく、こうやって弄っていた。あの子の髪の毛はアキトのものより線が細く、さらっとしていた。手に絡ませようとしても、指から滑り落ちていってしまうのだ。そして、日の光の下でそれをやると、髪の毛が光を反射して、すごく綺麗だった。懐かしい。今からもう、十五年も前のことであった。
「懐かしいな」
それからまた暫く、私は物思いに耽りながら酒を手にしていた。
楽しい時間ほど、短く感じるものはない。
こんなにもあたたかくて、懐かしい時間を、私はもうずっと、感じてはいなかった。
私も、まだ笑えるのだと……。
それが少し、嬉しかった。




