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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

踊り子と火吹き男

作者: 南条素兵

 1.


 赤、青、黄、緑、白、紫、桃色―――。

 色とりどりの布は糸で、テープで、ピンで、繋ぎ合わされて一枚の大きな布になっている。


 花柄、魚柄、市松模様、タータンチェック、ペイズリー、ピンストライプ―――。

 雑多な柄を組み込んだそれは、高い所から吊り下げられ、カーテンの役割を担っている。


 あたかもスクラップブックの一ページをそのまま持ってきたような大幕には文字があった。


『サーカス』


 一字ごとに違う書体の、ペンキや刺繍、アップリケで作られた文字がでかでかと並べられている。


 とある町の端にある空き地―――。

 そこにサーカスの一座がやって来たのは半月前のこと。

 昼間は客が頻繁に出入りしていたテントも、今はひっそりと黙り込んでいる。


 ツギハギのカーテンの手前、舞台上手から一人の少女が出て来た。

 彼女は栗色の髪をひっつめにして固め、そこにビジューの冠と髪飾りを載せている。

 吐く息は真っ白になっているというのに、彼女が着ているのは肌を大きく露出させたスパンコールとビジューで飾り立てられたバレエ衣装。三段重ねのチュチュが、夜風によってわずかに揺れている。


 少女はチュチュの裾をつまんで一礼した。

 観客席にいるのは、静かに燃える焚き火だけ。舞台の照明は月明りで、伴奏はどこからともなく聞こえてくる街の喧騒でしかない。

 それでもバレエダンサー然とした少女は、ばかに恭しく頭を下げていた。


 彼女はゆっくりと顔を上げる。

 水色の両目の縁は、金銀のラメとアイシャドーをふんだんに使って色付けされており、大袈裟にチークをいた頬のうち、右側には雫型のビジュー。少女らしい小さな唇は真っ赤に塗り込められて、その様子は道化師パジャッソじみている。


 彼女は頼り無さげな若木のような手足を伸ばし、舞台上で舞い始めた。


 軽やかなステップ。

 大胆なジャンプ。

 美しいスピン。


 少女は軋む舞台の上を限界まで使って踊る。あたかも重力など存在していないかのように、自分には体力の限界など無いように。

 微笑みながら、高度な技術が求められる振り付けをこなし、所々サーカス特有の滑稽な動作も挟む。


 そして、少女は上半身をしなやかに大きく反り返し、虚空に向かって手を伸ばし、ポーズを極める。その切なげな表情は、手の届かない愛しい者を求めるかのよう。


 少女がポーズを極めながら肩を上下させていると、客席からぱん、ぱん、ぱん、と音がした。


 少女はハッと我に返り、音の方向へと顔を向ける。


「フエゴ!」


 少女は喜色満面で舞台から飛び降りる。

 駆け寄る先、焚き火の傍らに人が立っていた。


 拍手の主は男だった。

 拍手をするその手には、指先の無いウールの手袋がはめられており、そのせいで拍手の音は幾分くぐもっている。

 男は黒いコートを着て、顔を隠すようにフードを目深に被っている。一応、辛うじて口元が見えるが、男の唇は歪なへの字を描いており、口元の髭は、なぜか左側が唐突に途切れている。


「いつから見ていたの?フエゴ」


 白い息を吐き出しながら少女は男の胸元に飛び込む。


「半分過ぎからだ、バイラリン」


 男は少女を受け止めながら答える。

 その声は調整されていない楽器のような、割れたガラスをこすり合わせたような、酷く不気味で耳障りな音だ。


「やめて」


 少女が頬を膨らませる。


「リタ、バイラリンはきらい」


 少女がどん、と男の胸に拳を叩きつけると、男はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら肩をすくめる。


「分かったよ、リタ」


 フエゴと呼ばれた男は、リタの頭に手を置く。

 リタはふわりと笑ってフエゴに抱き付く。


「おんなの人は買えた?」


 リタはフエゴを見上げ、コートの懐を探る。


「いいや。俺の評判はもう広がっちまったからな。誰も相手にしてくれないさ」


 フエゴは懐をまさぐるリタの細い手首をやんわりと掴むと、コートの胸ポケットのジッパーを開ける。

 そこから取り出すのは、赤い包み紙のキャンディーが一つ。


「リタ赤いのはいや。青いのがいいわ」


 すかさずリタが唇を尖らせる。


「残念だったな。あとは黄色のしか、」

「青!」


 リタはフエゴの言い訳を許さない。

 それでもフエゴはがさつく声で不服そうに言い返す。


「どうせ中身は一緒なんだ。包み紙が赤でも青でも何でも良いじゃねぇか」


 フエゴは溜息を吐くが、リタは地団太を踏んで、青!青!と繰り返す。


「リタ、青じゃなきゃだめ!赤も黄色もいや!きらい!」


 リタはわめきながら頬のビジューを引き剥がし、フエゴに向かって叩き付ける。

 こうなると、直に少女は赤子のように泣き始めるだろう。


 リタは駄々をこねながら、フエゴに向かって耳飾りやネックレスを投げつけていく。

 フエゴは投擲されるアクセサリーをひょいひょいと躱しながら、赤い包み紙を剥がし、その中から出て来た透明なキャンディーを自分の口の中に放り込んだ。


「あ!ずるい!」


 頭の冠を投げつけようとしていたリタはフエゴの胸倉を掴む。その拍子にビジューの冠は地面に落下して軽い音を立てる。

 フエゴはぽん、とリタの頭を叩く。


「いいか?リタ。こうやって好き嫌いしていると何も貰えねぇんだぞ?」

「でも、リタは赤いのを食べると死んでしまうのよ?」

「そうかぁ?俺は死なねぇようだが?」


 フエゴは口の中でころころとキャンディーを転がす。

 リタは飄々と構えるフエゴを睨みつけていたが、幾ばくも経たないうちにぼすん、とフエゴの胸に顔を押し付けた。


「どおしてお店のおんなの人はすききらいしてもいいのに、リタはダメなの?」


 フエゴは返答に困る。


「あー、それは……」


 サーカスの踊り子バイラリン―――リタ。


 彼女は十六歳になってしばらく経つのだが、幼子のようにわがままで、純粋で、自分だけの妙なルールを持っていて、巷の同年代の娘たちが持つ知識の半分も持ち合わせていないのではないかと不安を感じる程、何も知らない。


 それゆえに、フエゴは言葉に迷う。

 男が女を買って何をするのか。

 それを説明するには、彼女はあまりにも無邪気過ぎる。年こそ十六だが、中身は利発な五歳児でしかないのだ。そんな彼女に男の欲について説いても良いのだろうか。


 せめて何か上手い言い回しは無いものか。

 フエゴは唸りながら、自分の腰元にまとわりつくリタを引き剥がし、コートのボタンを外していく。

 フエゴが最後のボタンを外したところで、ようやく言葉が見つかった。


「そりゃあ、アレだ」


 フエゴは自嘲気味な声を出す。


「誰だって、ガソリン臭い口でキスされるのは嫌いだし、半分焦げた野郎に抱かれるのは御免だろ?」

「がそりん?」


 リタは首を傾げる。


「フエゴの薬さ。ステージに上がるときにいつも持っているよな?緑の瓶に入ってるアレだ」


 フエゴは解説しながら、コートを脱いでリタの白い肩にそれを掛けてやる。


「リタは衣装ハンガーじゃないわ」


 リタは少し怒ったようにフエゴにコートを突き返す。


「そのカッコじゃ寒いだろ?着ていろよ」


「いやよ。だってなんだか、へんな香水のにおいがするんだもの。だったらフエゴとこうしていた方があたたかくて、リタ、すきよ?」


 リタは目を細めてフエゴの体にすり寄る。


「焼け焦げフエゴの何処が『すきよ』だ?」


 フエゴはケッ、と声を吐き出してコートの袖に腕を通してフードを被ると、身頃を開いてリタを招き入れる。


「フエゴの、焼きすぎたマシュマロみたいなところ」


 リタは漆黒のコートにくるまり、フエゴを見上げてにこりと笑う。

 しかしフエゴは、何だと?と眉根を寄せる。


「フエゴの体って、半分だけちょっと焦げて、とけていて、焚き火に落としたマシュマロみたいですきなの。あとフエゴの魔法の薬のにおいもリタ、すき」


 リタはふふ、と笑いながら語る。


「『マシュマロ』、ねぇ……」


 フエゴは苦笑する。

 確かに、この体は焚き火に落ちたかのように、半分以上焼けこげている。


 以前、フエゴはサーカスのショーで大失敗してしまった。

 心無い客が芸を披露しているフエゴに向かって食べかけのリンゴを投げつけた所為だ。手元が狂った彼は炎を浴びただけでなく、燃え盛る炎を飲み込んでしまった。

 その結果、彼の体の左上半分を火傷し、発声器官を壊してしまった。


「だが、リタは壊れた蓄音機みてぇな声の男は嫌いじゃないか?」


 フエゴが言えば、リタは首を振る。


「ううん。きらいじゃないわ。とってもおもしろいもの」

「おいおい、一度病院に行った方が良いんじゃないか?」

「どおして?」

「マトモな女はな、俺を『バケモノ』って言うもんさ」


 今日も言われたその言葉―――。

 あの日の炎は彼の造形を大きく変えてしまったし、歌声と笑い声と人並みの慰みを奪い去った。代わりに得たのは、醜く歪んだ体と、酷く不気味で耳障りな声。


「何が『マシュマロ』だ?そういうのはマトモじゃあねぇよ」


 だから病院で頭ン中治してもらいな?とフエゴはうそぶく。


「リタ、病院はいや!」


 リタは泣き出しそうな声を出す。


「病院はおばけの行くところよ?リタおばけじゃないもの!」


 リタはフエゴの胸板を叩きながら、リタはリタなの!と訴える。


「あー、はいはい、分かったよ」


 フエゴは降参の意を表して両手を挙げる。

 リタは振り上げた拳を止め、頬を膨らませたままフエゴに抱き付くようにしてコートにくるまる。


「フエゴはリタを病院に連れて行かない。それで良いな?」

「…うん」


 フエゴはリタの機嫌を取るように肩を叩くが、リタはフエゴの胸に顔を押し付けたまま不機嫌そうな声を出している。


「じゃあ、今日はもう寝ろ。明日は移動だぞ?」


 フエゴはコートの中からリタを追い出そうとするが、リタは全く動こうとはしない。


「リタ?」

「いや」


 リタはフエゴにしがみつく。


「リタは移動しないもの。だからねなくてもへいき」

「移動しない?」

「そおよ?リタは移動しないの。セニョルがリタをよそのサーカスに移すんだって」

「何だと?」


 フエゴはしがみ付くリタを無理矢理にでも引き剥がすと、その場に膝をついて少女の顔を覗き込んだ。

 少女の、鮮やかな化粧を施されたその顔は、苛立ちと憂いを半分ずつ混ぜ合わせたような表情をしている。


「ほんとうよ?」


 リタは訴える。


「リタ、セニョルに言われたもの。リタは新しいサーカス小屋で、新しいバイエをしなくちゃいけないの」

「新しい踊りバイエだ?」

「そうよ」


 リタはこくりと頷く。


「見てて。アダにならったの」

「アダ?」


 フエゴが疑問の声を上げるが、リタは一切答えることなくチュチュの裾をつまみ、フエゴに向かって恭しく一礼する。


 それはいつもの一礼だ。

 サーカスの本番でも、練習であっても、リタが踊り始める時は必ず行う、踊り子バイラリンの一礼。

 しかし、それに続くのはジャンプでもスピンでもステップでも無い。


 踊り子バイラリンの少女は悩ましげに眉をひそめると、頭から銀メッキの髪飾りを引き抜いた。栗色の髪がバラバラと解けて華奢な背中に落ちる。

 彼女は乱れないようにと固めていた髪をほぐすように掻き上げながら、細い腰をゆるりと揺らす。


「―――……」


 フエゴはその光景に自身の目を疑った。


 リタの言うところの『新しい踊りバイエ』―――。

 それはサーカスの踊り子バイラリン踊りバイエでは無かった。


 男を誘うような目付き。

 妖艶な腰の動き。

 踊り子バイラリンはトウシューズを脱ぐと、思わせ振りにチュチュをたくし上げる。


 フエゴは呆然とその場に立ち上がる。


 男の前、踊り子は靴下留めのクリップをぱちり、ぱちり、と外し、ラメが入ったタイツを降ろしていく。


 花街の踊り子バイラリンによる踊りバイエ―――――。


 フエゴがそうと気付いた頃には、リタは恍惚うっとりとした表情で自らの乳房を愛撫するような“振り付け”を披露した。


「リタッ!」


 堪らず、フエゴはコルセットに手をかけ始めた踊り子バイラリンをかき抱いた。


「リタ!リタッ…!」


 フエゴはぜいぜいと喉を鳴らしながら、それでも少女の名を呼び続ける。


 長くサーカス団に身を置いているフエゴにとって、それは別段珍しいことでは無かった。

 先月も猛獣使いの助手が、リタが来る少し前には女曲芸師が同じような目に遭った。しかしそれらの出来事に対してフエゴは漫然とした同情と諦め、それと少しの安堵しか感じなかった。

 だが、今回ばかりは『可哀相だが仕方が無い』とは思えない。

 今回ばかりは『自分じゃなくて良かった』とは思えない。


「よしてよフエゴ。バイエはまだ終わっていないわ」


 リタが不満を口に出すが、フエゴの耳にはそれすらもかなしい。


「リタ……」


 フエゴは少女の細い体を抱き締める。

 そうしていると、じわじわと火傷の痕が疼き出してくる。


 サーカスの団長セニョルは平気でサーカスの団員を売りに出してきた。理由は様々だったが、その売却先は決まっている。

 女であれば娼館。

 男であれば工場か炭鉱。

 ただし女でも男でも、ごくまれにだが物好きな金持ちの愛玩用として売却されることもあった。


 金持ちの愛玩用ならば、フエゴにも諦めがついた。

 多少酷い扱いは受けても、温かい食事と今よりも上質な衣服、そして隙間風の吹き込まない住まいが与えられるからだ。更に気に入られたなら貴族の暮らしをすることも出来る。


 しかし娼館となれば話は違う。

 彼女が踊りバイエを習ったということは、見世物娼婦として舞台に上がらなくてはならないということだ。

 見世物娼婦たちは基本的に、舞台上で痴態を演じて稼ぐ。しかし客が『買う』と言えば舞台から降りて、その相手をしなければならない。


 リタは巷の十六歳よりも物事を知らない。

 だから大の男を相手に上手く商売を出来るとは思えないし、悪い男に騙されてしまえば最後、溝に捨てられても、彼女は騙されたことに気付かないだろう。


「フエゴはリタのバイエ、見たくないの?」


 フエゴの腕の中、リタが身をよじる。その声には不安が色濃く表れていた。


「フエゴは…」


 フエゴは返答に迷う。抱き留めるリタの、不安そうな様子にどのような言葉を掛けてやるべきか分からない。

 フエゴが炎の通った喉をひきつらせていると、きいて、フエゴ、とリタが口を開く。


「アダはとぶのも回るのもやってはダメっていうのよ?サーカスなのに、ほっぺたにダイヤのなみだもダメっていうの」


 どうしてなの?とリタはフエゴの背中に腕を回す。


「リタ……」


 フエゴは華奢な背中をゆっくりと撫でて、口を開く。


「そうだよな。リタは跳んだり回ったりが好きなんだよな?ダイヤのドレスが、エメラルドの冠が、大好きなんだよな?」


 毎日、軋む舞台の上でストーリーの無い踊りを披露して、身に着けるのは派手な衣装と嘘っぽいアクセサリー。ショーの最中に野次が飛んでくることも、酒瓶が飛んでくることも少なくない。

 それでも少女の答えは決まっている。


「うん。だいすき」


 リタはフエゴの胸に顔を押し当て、背中に回した腕に力を入れる。


 リタに言われなくとも、フエゴには分かっていた。この少女は純粋に、着飾って踊ることが好きなのだ。

 だから、着飾ることが出来るなら、身に着けるジュエリーの真贋など関係無い。

 だから、踊ることが出来るのなら、サーカスの見世物としてでも、娼館の見世物娼婦としてでも関係無い。

 しかし、娼館に入るとなれば、着飾って踊るだけでは済まされない。


 でもね、とリタは続ける。


「新しいサーカスは全部だめなの。新しいドレスは今のよりもすごくきれいだから、だいすきになったんだけど、バイエの途中でどんどん脱いでいかなきゃいけないのよ?おかしいでしょう?」


 ああ、とフエゴは唸る。


「リタ、新しいサーカスはきらい」


 リタはフエゴの胸に顔を埋めたまま鼻をすする。


「だってみんなバイエリンなんだもの。パイアソも、クチージョも、アクローバタもいないの。いるのはバイエリンとセニョルと、ムーシコが一人だけ」


 娼館だから、とは言えなかった。


 娼館なのだから、道化師パイアソも、ナイフ使いクチージョも、曲芸師アクローバタもいない。

 娼婦バイラリンと、支配人セニョルと、見世物バイラリンの為の音楽家ムーシコしかいないのは当然だ。

 しかし、フエゴは少女に対してその事実を言えなかった。


 お前はサーカスじゃなくて、娼館に売られたんだぞ。

 お前は娼婦になるんだぞ。


 その言葉は、かさつく喉に引っ掛かって、外へ発することは出来なかった。


「リタ……」


 フエゴはにわかに湧き立つ、得体の知れない感情の所為で、まともな言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。

 慰めるべきか。

 励ますべきか。

 同情してみせるべきか。

 ありのままの真実を語ってみせるべきか。

 怒ってみせるべきか。

 いくつもの感情と言葉が胸の中で、心の奥で、折り重なって渦巻いて、呼吸一つするのも難しい。


 それを見抜いたのか、リタはくすりと笑って顔を上げる。


「今日のフエゴはなんだかへん。リタ、リタ、リタ、って」


 リタは対抗するようにフエゴ、フエゴ、フエゴ、と歌うように繰り返す。


「リタがおまじないしてあげる」


 ふいにリタは身動みじろぎする。

 そこで初めて、フエゴは自分が力一杯リタを抱き留めていたことに気付き、腕の力を緩めた。


「まってて」


 リタはフエゴのフードに両手を差し込み、隠れている頬を包み込む。

 フエゴはたじろぎ身構えるが、リタにうごかないで、と言われると何も出来なくなってしまう。

 リタはフエゴのフードはそのままに、く、と踵を浮かせて、フエゴの顔を自分の方へ引き寄せる。


「おいッ、」


 フエゴはリタが何をしようとしているか悟り、声を上げる。しかし制止は間に合わない。


 少女は目を閉じて、男のかさつく唇に自らの唇を重ねてしまった。

 漆黒のフードの中、男の右目が大きく見開く。

 小さく唇が音を立てたなら、リタはそっと踵を落とす。


「これでいいわ」


 リタは満足気に目を細める。


「セニョルに教えてもらったの。リタのとっておきのおまじない」


 秘密を打ち明けるようにリタは囁く。

 ああ、とフエゴはかすれる声を漏らした。


「おかしくなくなった?」


 リタはじ、とフードの中身を覗き込む。


 フエゴは、恐る恐る少女の白い頬を撫でる。

 彼女は全くの無垢だ。何も知らず、何も理解していない。

 無垢だからどんな言葉でも信じ、無知だから明日からどんな悲惨な出来事が待っているか分からず、無理解だから『バケモノ』に口付をした。


 フエゴはリタの体を固く抱き締める。


「良く、効いたよ」


 フエゴはリタの頭頂部にキスをする。安い整髪料の臭いが、今はどうしても甘く感じた。


「ありがとう、リタ」


 呟けば、自分の腕の中で少女が無邪気に笑う。


 すると自分の腹の中で、形容しがたい感情が劫火となって渦巻く。






 2.


 サーカスの火吹男はずらりと並んだ樽の一つを開ける。

 開け口から立ち上がる独特な臭いは、今、この時に限っては極上の香水にも勝る。


 火吹男は樽から緑の小瓶へと透明な液体を慎重に移していく。

 その小瓶は木箱の上に十数と並んでいる。大きさは薬瓶程で、幻想的な模様が入った様相がどこか御伽話じみている。

 事実、彼にとってはそういう物だ。とっておきの魔法には欠かせない、とっておきの薬と称している。


 そんな薬を瓶に詰め込んでいく。その内の何本かには欠けたビジューやスパンコール、銀のメッキが剥げかけたツタのような部品も入れておく。

 中身が揃えば、液体のみの小瓶はそのまま硝子の蓋で封をし、ガラクタ入りの方はラメの入ったタイツや縞模様の靴下によって封をしていく。


「アダ、か……」


 火吹男には、その“呼び名”に聞き覚えがあった。


 妖精アダ―――昔、サーカスの花形を務めた女曲芸師だ。

 天井から吊り下げた鉄のリングをブランコにして曲芸を披露していた女。リタがサーカス団に入る少し前に足を故障してしまったために売られた女。


 売り上げの悪い団員も、団長セニョルは容赦なく売り飛ばした。

 彼自身にも、一時は売却の話が持ち掛けられた。しかし何処の炭鉱も工場も、体が半分焼け焦げた酷い声の男を買い取ろうとはしなかった。漁船にも売られそうになったが、船長達は不気味なバケモノは不幸を呼ぶ、と言って断った。

 最終的に、 団長セニョルは彼を売ることを諦めた。それ故に彼はサーカスに残ることが出来た。


 火吹男は最後の瓶を硝子の蓋で閉めると、コートの懐にすとん、と落とした。


「見ていろ…」


 壊れた蓄音機の声は呻く。


「これが俺の真打だ……」


 漆黒のフードの奥、闇の中で男の右目だけが煌々と激情の炎を宿していた。






 3.


 フエゴはコートのポケットに両手を突っ込んでだらだらと歩いていた。

 ショーの直後のように体中から焦げたような臭いがするし、口の中にまだ苦みが残っているようで気分は良くない。

 そのはずだった。


「笑えるな、全く」


 フエゴは今すぐにでも高らかに笑い出したい気分だった。しかしそれはもう出来ない。よって、唇を緩めるにとどめる。


 そうでなくとも夜明けまでにしなくてはならないことがあるのだ。そのことを考えるとフエゴの顔は自然、引き締まり、サーカスのテントへ向かう足は早まる。


 そこで、フエゴは気が付いた。


「リタ…?」


 撤去を待つサーカスのステージの縁。

 そこに一人の少女が腰を掛けて、体を前後に揺らしていた。


 不思議に思ったフエゴは、ステージに向かって歩き出す。


 リタの病気はアタマの病気。


 サーカスの誰かが言った言葉がよぎる。

 リタの動作がおかしかったり、些細なことでかんしゃくを起こしたり、物を知らないことは、そういうことなんだろうと誰もが考えている。フエゴもその一人だ。


 フエゴはステージに腰を掛けるリタの前に辿り着く。


 リタが着ているのはバレエ衣装ではなく、シンプルな袖無しのワンピース。

 ほどけた栗毛は体の動きに合わせてばさばさと振り回されて、ルージュの無い唇はしきりに何かを呟き続けている。

 リタはフエゴが接近したことに全く気付いていないようで、何の反応も示さない。


「リタ、」


 フエゴは試しに名前を呼ぶ。

 しかしリタは虚ろな目で体を揺らし続け、呼び掛けに応える様子は無い。


「リタ、」


 この時、少女の肩を掴んだらどうなるか。


「おい、リタ」


 聞けば、顔を引っかかれたり噛みつかれたり、と酷い目に合うらしい。だからこうなったリタは放っておかれるのが常だった。

 

「リタ」


 しかし、フエゴは今回だけはそうしなかった。


「リタ」


 応答なし。


「リタ」


 応答なし。


「おい、」


 仕方が無い。


「バイラリン」


 その瞬間、少女の目はカッと見開き、男に掴み掛った。


「いやぁああぁぁぁああああああッ!!リタはバイラリンじゃないのぉぉぉおおおおおおッ!!」


 リタは絶叫と共に男のフードを引き剥がし、剥き出しになった顔に殴りかかる。


「きらいきらいだいっきらい!リタはバイラリンじゃないの!リタはリタなの!!」


 リタは涙を飛び散らせて、金切り声と共にフエゴを何度も殴打する。

 フエゴは歯を食いしばって、少女の拳ごとその体を抱き留める。


「いぃぃぃいいきゃああああああああああ!!はなしてっ!はなしてぇえええええええ!!バイラリンはいやぁああああぁぁああ!!」


 リタは半狂乱で四肢をバタつかせ、フエゴの拘束を抜け出そうとする。

 振り回される少女の手が、足が、自分の頭や目元、腹を叩きつけてくる。しかしフエゴは負けじと少女の体を抱き締め続ける。


「分かってるッ…!リタはバイラリン、嫌なんだよな?」


 フエゴは腕の中でもがき苦しむ少女の耳元に言葉を吹き込む。


 リタは聞く耳を持たず、奇声を上げながらフエゴの左の二の腕に噛み付く。そのこめかみに血管が浮き出る程に力を込めて噛み付いても、男の拘束は全く緩まない。


「分かってる。分かってるよ、リタ」


 フエゴはゆっくりと言葉を掛けながら、リタの背中を宥めるように叩く。

 リタは鼻息荒く、コートの腕に噛みついていたが、徐々に力が弱まり、やがて二の腕を放す。


「リタは、リタだもん…」


 リタは泣きじゃくりながら、フエゴのコートにしがみつく。


「ああそうだ。リタはリタ以外の何者でもねぇ。そうだよな?」


 フエゴはリタをステージから地面へと降ろそうとするが、リタはフエゴの胴に足を絡みつかせてしがみ付く。

 フエゴは少し考え、リタを抱え直して地面に落ちないようにした。


「リタ、バイラリンはいや。リタはバイラリンじゃないもの。でもバイラリンじゃなきゃ。リタは…リタは…」


 リタはフエゴの肩に涙をこすり付ける。ぐずぐずと泣き止まないまま、何度も言葉を繰り返す。


 リタはリタ。

 バイラリンじゃない。


 フエゴは赤子をあやすように両手で抱えた少女を揺らして、華奢な背中をさする。

 そうしていると、段々リタは無口になってきた。ようやく泣き止む気になったのだろう。嗚咽交じりに大きく深呼吸を繰り返している。

 ここまで来ると正気に戻ったも同然だ。

 フエゴは一息つくと、リタの背をさすりながら本題に斬り込む。


「テント、戻ってなくていいのか?リタ」


 フエゴが問えば、リタの手がコートの布地を強く握り締める。


「いや。あそこにいったらリタ、バイラリンじゃなきゃだめだからここがいいの」

「バイラリンに?」


 フエゴは首を傾げる。

 テントに戻ったら踊り子バイラリンでなくてはならない―――。

 それが何を意味するのかフエゴには分からないが、今は気にしてはいられない。薄着のまま、夜空の下に居ても良いことなど何も無いのだ。その証拠にリタの肩は小刻みに震え始めている。


「じゃあ、俺も一緒に行って、リタがリタのままでいられるように手伝ってやろうか?」


 フエゴは探るように提案する。

 しかしリタは首を振る。


「フエゴじゃあ、だめ。だって、フエゴは、セニョルよりえらくないもの」


団長セニョル?」


 フエゴは思い掛けない単語に片眉を跳ね上げる。


「ここではセニョルがいちばんえらいんでしょう?だからフエゴもリタも、セニョルのオーダーはぜったいなの」


 だってリタもフエゴもセニョルよりえらくないもの。


 リタは鼻をすすり、フエゴの顔に頬ずりをする。


 その顔は、二つの領域に分かれていた。


 右半分は困惑した表情を浮かべる、精悍な壮年の男の顔。灰色がかった髪を短く刈り揃え、しっかりとした形の顎は髪よりも濃い色の髭に囲まれている。

 そこには舞台俳優のような華やかさはないが、黒の目には兵士や労働者特有の力強さがあった。


 しかし、少女が頬ずりしている顔の左半分には、到底人間味など見受けられない。

 奇妙な模様を描く赤黒いケロイドが、頭の頂から側面、顔の左半分を覆い、首元、シャツの中へと続いているのだ。

 頭髪は左半分だけ見事に焼け落ちて、左耳は変形し側頭部に張り付き、左目は瞼の癒着により満足に開いておらず、そして口元は溶けた皮膚によってへの字を描くように歪んでしまっている。

 それは火事現場に残された、無様に溶解したセルロイド人形のようだ。


「リタは、団長セニョルが嫌いか?」


 フエゴはひび割れ、かすれる声で問う。


「わからないの」


 リタは愛おしむように、フエゴの左目をぐるりと指先でなぞる。


「セニョルはダイヤのなみだもエメラルドのくつもくれたし、こんどはルビーをくれるって言うからすきけど、『バイラリン、あそぼ』って言うからきらい」


 リタは言いながらフエゴの閉じかかった瞼をこじ開けようとする。

 フエゴは黙って話を聞きながらリタにされるがままとなっている。力尽くで左目の瞼をめくり上げられようと、強張って固まった皮膚では何の痛みも覚えない。


「いつも夜に来るのよ?セニョル」


 リタは続ける。


「それで『バイラリン、あそぼ』ってオーダーするの。セニョルとあそぶのは苦しくて痛くて、体中、汚くなるからきらいなんだけど、リタが『だめ』って、『いや』って言うと次の日のバイエをさせてもらえなくなるから、リタはバイラリンになるの」


「………」


「ここにいればバイラリンじゃなくてもいいの。ここにいればリタはリタなの」


 少女の手が、ケロイドの痕が作る迷路を辿る。つつつ、と少女の細指は進み、幾ばくも経たないうちに健全な肌の上に出てしまう。


「そう…か」


 フエゴにはリタの言っていることが理解出来た。


 サーカスの団長セニョルが団員に手を出すことは、今までにもあった。

 それは合意の上とは言い難かったが、誰も団長セニョルの暴挙を止めることは出来なかった。

 それは彼が自分たちに対して絶対的な力を持っているからであり、女たちに限って言えば自分への被害を回避するためでもあった。

  団長を諫めたり、拒絶すれば売りに出される。だから団員は口を噤み、目を逸らしてきた。

  そして女たちは同じテントで寝起きする女が慰み者にされているのを横目に、自分に被害が及ばないことに安堵してきた。


 フエゴの場合は、他の団員たちよりも徹底して団長の横暴から目を逸らしてきた。

 この、醜く焼け焦げた体のせいでろくな就職先も無いのだ。サーカスから追い出されたら最後、自分は浮浪者が無法者に身を堕とす他に生き抜く道は無い。

 だから決して団長に盾突くような真似はしない、と決めていた。


 しかし、


「じゃあ、燃やしてやろうか?」


 その言葉はいともたやすく、全くの自然に、男の口から出た。


「リタの嫌いなもの、全部、片っ端から、根こそぎ、俺が燃やしてやろうか?」


 フエゴはじ、と残った黒い目でリタを見据える。


「いいの?」


 リタは首を傾げる。


「勿論」


 フエゴは顎を引く。しかしリタの顔から不安は払拭されない。


「でも、セニョルを燃やしたらだれがセニョルになるの?」

「俺が団長セニョルになるのはどうだ?」

「それは、いや」


 リタは唇を尖らせ、フエゴの鼻をつまむ。


「フエゴはフエゴじゃなきゃいや。セニョルになったら『バイラリン、あそぼ』って言うんでしょ?だったら燃やしちゃダメ」

「俺と遊ぶのは嫌か?リタ」


 フエゴはリタの鼻をつまみ返す。

 リタはいや、と言って首を振り、フエゴの手を振り切る。


「だれがやったって、痛くて苦しいに決まってるわ。『きもちいいだろ?』ってセニョルは言うけどぜんぜんなんだもの」


 言いながらリタは、フエゴの胴に下腹部を押し当て、こすり付けるように上下させる。


「ほら、こうやってあそんでたって、ちっともきもちよくないもの。でもそう言うとセニョルにたたかれるの」

「あのなぁ…」


 フエゴは溜息を吐いた。

 これではどう見ても立ちながらにして睦み合う男女だ。

 辻の娼婦ですらこのような体勢で仕事はしないというのに、年頃の娘が、それも今まで純粋だと信じてきた少女がやってのけるとは驚きを通り越して呆れさえ覚え、呆れはすぐさま怒りへと変換される。


 誰が彼女をこのようにしてしまったのか、と。


「なぁ、そういう奴は燃やしたって悪いことは無いんだぜ?」


 フエゴはずり落ち始めたリタを揺すって抱え直す。


「でも、フエゴにできっこないわ」


 リタはフエゴの芝生じみた右頭部を撫でると、するりと腕の中から滑り落ちる。


「だってフエゴはフエゴだもん。フエゴのことはもやせてもセニョルはもやせないわ、きっと」


 リタは歌うように告げる。

 フエゴはぴく、と左のこめかみを痙攣させる。


 彼女はあの日の"失敗"のことを言っているのだろうか。

 自分が"バケモノ"となった原因のことを揶揄しているのだろうか。

 自分の体は燃やせても、雇い主すら燃やせない臆病者だと言いたいのだろうか。


「じゃあッ、」


 フエゴの腹の底で何かがのたうつ。


「そういうことなら、やってやらぁ……!」


 フエゴは低い唸りを上げ、リタを押し退けて歩き出す。

 早足で突き進み、同時にフードを深く被り込み、顔を隠し込んでしまう。


「フエゴ?」


 少女が不安げに声を掛けてくるが、男は聞き入れることなく突き進む。


 フエゴにはリタの寝床がどこにあるのかくらい分かり切っている。そこに憎い男がいるというのならば、為すべきは、一つ。


「見ていろ、リタ。俺のとっておきのショーだ」


 フエゴはテントに手を掛け、入口を開く。ばさり、帆布が舞い上がる。


「だめぇっ!」


 フエゴが一歩、テントの中へと足を踏み出そうとした瞬間、背後に軽い衝撃が走った。腹を見れば、少女の細腕が巻き付いていた。


「だめっ!燃やしちゃだめっ!」


 リタが力一杯男の胴にしがみついて、その進軍を阻止しようとしていた。

 フエゴは少女の悲壮な叫びに思わず歩みを止めてしまう。


「フエゴやめて!リタからステージをとらないで!」

「ステージなんざ今、関係あるかよ!」

「あるもん!リタのステージはセニョルしか用意できないもん!だからセニョルを燃やしちゃだめ!」

「馬鹿言うなッ!!」


 フエゴの怒声にリタはひッ、と短い悲鳴を上げ、弾かれたように後退る。


「ステージなんざあの野郎以外でも用意できる!俺でも用意してやれる!」


 フエゴはリタに背を向けたまま、両手それぞれで拳を結び、言葉を絞り出す。


「ダイヤだって、サファイヤだって、エメラルドだって、何でだって俺が用意してやれる!俺はお前が嫌がることは何もしないし、お前のことは死んでも打たない!俺が団長になったらお前が踊りバイエだけやってりゃ良いようにしてやれるんだぞ!?それでもッ、」


 フエゴは勢いよく振り返る。


 それでも嫌なのか?


 その言葉を、フエゴは最後まで紡ぐことは叶わなかった。

 彼は目の前の光景に、思わず言葉を呑み込んでしまったのだ。


 ほとほとと涙が伝い落ちていくのが見えた。

 少女は怯える表情を浮かべながら、ゆるゆると首を振って拒絶の意思を示していた。


「いや…。リタのステージはセニョルしか用意できないんだもの…。だからいや……」


 フエゴは呆然と立ち尽くす少女を眺めながら、殆ど独白するように言葉を吐く。


「お前は、嬲られてでもあのステージに立っていたいのか…?」

「リタは『お前』じゃない…」


 リタは目をこすって、的外れな言葉を返す。

 フエゴはぐ、と喉を鳴らし、さらに言葉を絞り出す。


「リタは団長セニョルが何やってるのか分かっているのか?」

「リタはちゃんとわかってるわ。セニョルとはあそんでるの」

「リタは、」


 フエゴは声を引きつらせる。


「リタは遊んでいるんじゃねぇ。遊ばれているんだ。俺が言ってる意味、分かる―――いや、分かんねぇか」


 フエゴは溜息を吐く。

 リタは泣き濡れた目でフエゴの吐いた白を追う。


 沈黙が二人の間に流れた。

 しばらくして、フエゴは口を開いた。


「よし、こうしよう」


 フエゴは気を取り直して、リタの前で膝をつき、目を合わせる。


「俺が今から団長セニョルと話をしてくる。で、リタの嫌がることをしないように、リタが嫌がっても叩かないように頼んで来てやる」

「フエゴできるの?」


 リタは不信がる。

 フエゴは出来る、と力強く返す。


「リタより俺の方が団長セニョルとの付き合いは長いからな。ひょっとしたら上手く話を運べるかもしれねぇ」


 どうだ?とフエゴはリタに選択を託す。


「リタだって何回も言ったのよ?」


 リタは口をへの字に押し曲げる。


「でも、リタが『いや』って一回言うたび三回ぶたれるから、フエゴも三回ぶたれるよ?」

「打たれたって構うもんか。俺は平気さ」


 フエゴはぜいぜいと喉を鳴らす。

 リタはどうして?とフエゴの肩に手を置く。


「そんなの決まってる」


 フエゴはリタの頬に残る雫を親指で拭い取る。


「俺は男で、リタは女の子。そもそもの体の造りが違うからな」

「リタは女の子じゃなくてリタだよ?」


 リタは唇を尖らせる。

 フエゴは一旦目を丸くするが、すぐに肩をすくめ、違いねぇ、と零し、立ち上がる。


「じゃあ、いいな?」


 フエゴはくしゃり、とリタの髪をかき混ぜる。


「俺が終わるまでここで待っていられるな?」


 フエゴは努めて優しい声を出す。しかし出てくる声はどう足掻いても、壊れてひび割れてしまう。


「うん。まってる」


 にもかかわらずリタは素直に頷く。


「よし、良い子だ」


 フエゴは左頬に渾身の力を込めてひきつらせて、精一杯の笑みを作る。その表情は酷く不格好であったが、少女は満面の笑みを返してくれた。


「しゃがんで、フエゴ」


 リタの求めに応じてフエゴは身を屈める。するとリタはフエゴの頬に両手を添え、目を閉じて顔を寄せる。

 フエゴは苦笑しながら少しだけ顔の角度を変え、少女の口付けを受け取ることにした。






 4.


 ぜろぜろと呼吸は乱れたきり、元通りには戻らない。

 それでも彼は引きつる喉を鳴らしてガラガラと声を上げていた。それは獣が持つ野蛮さと人間が持つ残忍さが丁度半々に混じり合う、奇怪な声だった。


「ざ、ざまぁ…、みろ」


 息を切らしながら彼は言う。


「あんたのことは前々からロクでもねぇ、と思っていたが、とうとうここまでやってやったぞ?どうだ?参ったか?」


 彼は目の前に転がるモノに足を載せる。


 それは男の裸体だった。

 何か詰め物でもしているのではないかと疑いたくなるほどにでっぷりと張り出した腹に、禿げ上がった頭。手足はぐったりと床に投げ出され、失禁したために股間はじっとりと濡れ、臭気を放っている。


 その男の顔は、原型を失っていた。

 額が切れて血を垂らし、頬は片や陥没、片や無様に腫れ上がり、目は白目をむいて横手にある粗末なベッドに向けられている。血泡を添えた唇は赤く膨れて、べろりと舌を飛び出させていた。


 これが、今日の昼までサーカスの舞台で、愛嬌を振りまいていた男の成れの果てであった。


「さぁて、どうしてやろうか?」


 男は中年男の太鼓腹に足を載せたまま、壊れた蓄音機のような声を出す。


「あんた…狂ってる!!」


 テントの隅から声。

 そこでは寝間着姿の若い娘たちが肩を寄せ合っていた。その中の、褐色の肌をした娘が言う。


「団長無しにどうやってサーカスを続けよって言うんだい!?こいつは、」

「こいつは真正のクソ野郎だ!違うかよ!?」


 娘の言葉を奪うように男は声を荒げる。


「でも、仕方が無いじゃないか!」


 褐色の肌の娘は叫ぶ。


「あたしらはろくに字も読めない!交渉も出来ない!アンタだってそうだろ!?どうせここでの営業許可だなんて何をどうやったらいいのか分からないんだろ!?だからこんなクソ野郎でも交渉が出来る奴に従っていくしかないんだ!」


 彼女の叫びに他の少女たちも同意を示す。


「そうよ!」

「そうだよ!」

「なのに酷い!」

「あたしたちどうなっちゃうの!?」

「捕まるのは嫌だよぅ」

「逆に警察に突き出してやるんだ!」

「怖い、怖いよ!どうしたらいいの!?」

「私たち、離れ離れになっちゃうの?」


「そもそもッ!」


 今度はそばかすの娘が声を上げる。


「そもそもあの子は何の役にも立たないじゃない!いくら上手に踊れても、ショーの準備どころか自分の世話も自分で出来ないお荷物じゃないの!!だから!!」


 そばかすの娘は踏みつけにされているサーカスの団長セニョルを指差す。


「だから、あれくらい、やってもいいじゃない……」


 そばかすの娘は語尾を震わせた。


「―――……」


 男は溜息を吐いて、フードを外す。

 肩を寄せ合った少女たちはめいめいに嫌悪や恐怖の声を上げた。


「嫌がっていただろうに、あいつも」


 男は懐から緑の小瓶を取り出す。その大きさは薬瓶程で、幻想的な模様が入った様相がどこか御伽話じみている。


「うッさい!」


 そばかすの娘はすぐさま反論する。


「アンタは何を知ってるっての!?あの子だって満更じゃなかったよ!さっきもうるさいくらい夢中でやってたもん!」


 そばかすの娘に同調して、他の少女たちも騒ぎ立てる。


「そのとおりだよ!」

「おかげで眠れやしないんだから!」

「いつも楽しんでた!」

「嫌って一言も言ってなかったよ!?」

「この間なんて自分から誘ってた!わたし見たよ!」

「自分がステージに上がりたいからってやってたことなんだ!」

「あんたに文句は言えっこない!」

「権利も無いよ!」


 少女たちの騒音に対して、男はぼそりと言葉を吐く。


「結局、自分のことしか考えていないようだな、お前ら」


 男は瓶の蓋を外し、中身を口に含む。


「それはアンタも同じじゃないか!!」


 今度は金髪の少女が糾弾する。


 勿論。


 男はそう言う代わりにコートの懐から銀メッキの小箱を取り出し、中からマッチをつまみ上げた。

 少女たちが一斉に声を上げる。中には急いで立ち上がろうとする者もいるが、後退りする別の者につまづいてすぐに転倒してしまう。


 男は右目を細めてマッチを擦った。独特の臭いと共に小さな炎が産声を上げる。

 少女たちがぎゃあぎゃあと悲鳴を上げ、互いにもつれ合いながら男から距離を置こうと後退っていく。

 彼はその様子を冷めた目で眺めながら、小さな炎を口元に持って行くと、大きく鼻から息を吸い込み、一拍置いて、口から吐き出した。






 5.


 炎は瞬く間に広がった。冬の乾燥していた時期だから当然のことだろう。さらに風が出て来たため、炎はテントや舞台装置、曲芸馬や他の団員たちを次々と飲み込んで、さらに成長していった。


「………」


 黒いコートのフードをすっぽりと被った男は、燃え盛る篝火と手前に居る少女をぼんやりと眺めていた。


 少女はくるくると回っていた。回りながら笑っていた。

 彼女は舞台衣装を着ている訳でも無いのに、彼は何かのショーを見ているかのような気分になった。


「すごい!フエゴすごいわ!」


 きゃはははははは、と少女は笑い、回る。

 ワンピースが遠心力と風によって持ち上がり、ほっそりとした足が露わになっても少女は止まらない。


「みんないつかのフエゴみたい!明日にはみんな焦げたマシュマロみたいになっているかしら?」


 リタの病気はアタマの病気。


 フエゴの脳裏にそんな言葉が蘇る。しかし、それこそがフエゴにとっての救いだ。

 リタは何も理解していない。

 自分が団長に強姦されていたということも、フエゴが今、何をやったのかも。

 だからこそ、笑い、踊っている。

 だからこそ、笑い、踊っていられる。


 フエゴは地面にきらりと光る物を見つけた。それを拾い上げてみれば雫型のビジューだった。

 フエゴはビジューをコートのポケットにしまうと、声を上げた。


「リタ!そろそろ行くぞ!」


 リタは回転を止める。


「どこに行くの?」


 リタはフエゴに向かって歩み寄る。その足元が全くふらついていないのは、流石はサーカス団で一番の踊り子バイエリンと言ったところか。


団長セニョルに解雇されちまったんだよ、俺達。オーダーを聞かないんだったら他所のサーカスに行っちまえ、だとさ」


 フエゴは平然と嘘を吐く。


「じゃ、じゃあ、フエゴもリタとおんなじ所に行かなきゃならないの?あそこはバイラリンだらけだから、ひょっとしたらフエゴはいらないって言われるかもしれないよ?」


 リタの表情に不安が混じる。


「いいや。リタも俺も、ずっと遠くにある、もっと大きなサーカスに移るんだ」


 フエゴは少女を安心させるように頭を撫で、言葉を並べ立てる。


「リタは踊りながら衣装ドレスを脱がなくても良いし、俺も今まで通りに魔法の薬で炎のショーをする。そういうところに行くんだ」


「ほんと!?」


 リタの表情が喜色に輝く。


「嘘じゃあない。本当だ」


 フエゴはフードを降ろし、右半分だけの笑みを晒す。


「だから、さっさと行こう、リタ」


 フエゴはリタに向かって手を差し出す。しかしリタは逡巡を見せる。


「リタ?」


 フエゴが名を呼べば、リタは燃え盛る篝火に目を向ける。


「でも、リタのドレス、あそこにあるんじゃないの?」


 自分で言いながらにして気付いたのか、リタは急に焦り始める。


「そうよたいへん!ダイヤもエメラルドもぜんぶフエゴみたいになっちゃう!」


 リタは忙しなく足踏みしながらも、炎に包まれるテントとフエゴとを見比べ、しきりにどうしよう、と繰り返す。自分の荷物の回収に向かいたくても、炎に飛び込む自信も勇気も無いのだろう。


「大丈夫。こっちに来な」


 フエゴは右目を細めてフードを被り、リタを手招きする。


「そっちはワゴンだよ?リタのドレスはないよ?」


 フエゴの行き先を察してリタが首を傾げる。


「良いから黙ってついて来な?」


 フエゴはとたとたと歩み寄ってきたリタの肩に手を回し、ごてごてとした飾り文字で『サーカス』と書かれたワゴンに向かう。


「セニョルのワゴン、かってに入っていいの?」


「良いんだよ。団長セニョルが餞別にくれてやるって言ったからな」


 フエゴはワゴンの後部座席側のドアを開ける。

 座席の上にはトランクやツギハギの旅行鞄、べたべたとシールが張り付けられた化粧道具のケース、そしてくたびれた背嚢が放り込んであった。


「あ!リタの宝石箱!」


 リタは真っ先に化粧道具のケースに飛びつく。


「実はリタのもこっちに全部持ってきたんだ。エメラルドの冠もダイヤの涙も、何もかも」


 フエゴは得意になって言うが、リタの荷物の確認に忙しく、全くと言って良い程聞いていない。リタは必死の形相で化粧道具のケースを開けて中身を引っくり返したかと思えば、トランクを開けて中身を漁っている。

 フエゴは息を吐いてワゴンに寄り掛かる。

 リタの病気はアタマの病気だ。人の話を聞かなくても仕方が無い。


「ない!」


 唐突にリタが叫ぶ。


「ダイヤのなみだはどこ!?ねぇどこ!?」


 リタは真っ青になってトランクや旅行鞄を引っくり返す。バレエ衣装や私服がシートの上に散らばるが雫型のビジューは全く出て来ない。

 フエゴはあ、と声を上げてコートのポケットを漁る。


「リタ、」


 フエゴの一声にリタは振り向く。


「あ!」


 フエゴの手には雫型のビジューがつままれていた。リタはすぐさま男の手からビジューを取り上げる。


「フエゴのいじわる!みんなここに入れておかなきゃだめなのに!」


 リタは頬を膨らませながらも雫型のビジューを化粧道具のケースに丁寧に仕舞い、蓋をする。


「全部あったか?」


「うん、あった!」


 リタははしゃいでフエゴに飛びつく。

 フエゴはよろけつつもリタの体を受け止め、口の左端をひきつらせた。


「やっぱりリタ、フエゴのことすき!宝石もドレスもみちづれにしなかったもの!」

「道連れってな、お前」

「いや!リタはおまえじゃなくてリタなの!ちゃんとリタって言ってくれないときらい!」

「だったら俺だって、フエゴじゃあないぜ?」

「フエゴじゃないの?」

「ああそうさ。俺はテオドロって言うんだ」


 火吹男フエゴはぐい、と顎を上げる。


「俺がリタ位の時はみんなテオ、テオ、って呼んでくれたのに、今じゃみんな火吹男フエゴ火吹男フエゴ、と呼びやがる」

「て、お?」


 リタは顔に疑問符を浮かべる。

 男は、ああそうともさ、と右目で少女の顔を覗き込む。


「リタにとってのバイエリンが、俺にとってのフエゴなんだ。意味、分かるか?」

「えっと…、じゃあ、フエゴってよばれるの、きらい?」

「まぁ、大好きって訳じゃあ無ぇな」

「じゃ、リタのこともきらい?」

「何だと?」

「だって、今までずうっとフエゴって言ってたから。ごめんなさい。リタはわるい子」


 リタはしゅん、と眉尻を下げ、肩を落とす。


「いいって。これから直しゃ良い、リタ」


 フエゴは右目を細めてリタの頭を軽く叩く。


「さあ、行こう。次のサーカスは遠い所にテント張ってやがるから、早く出発しようぜ?」

「うん」


 テオドロは抱き上げていたリタを助手席に押し込むと、自分は運転席に回り込んだ。





 6.


「リタ、」


 走るワゴンの中、テオドロは助手席に目を向ける。二件の火事によって賑わう街を抜けたことを助手席のリタに伝えようとして、テオドロは言葉を止めた。

 リタはシートに身体を預け、ぐったりとしていた。


「リタ?」


 テオドロは不審がって再度、声を掛ける。

 しかしリタは答えない。少女はぴったりと目を閉じ、わずかに首を傾げ、規則正しく胸を上下させている。運転しながらに観察していれば、どうやら眠っているらしいと分かった。


「ったく、しゃあねぇな」


 テオドロは一旦、ワゴンを路肩に止め、コートを脱いだ。それをリタの体にかけてやると、わずかにリタは寝返りを打ち、口元が何かを食べているように動く。

 まさか起こしてしまったか、とテオドロはわずかに右目を押し開く。


「………」


 少しの間様子を見たが、リタは目覚めない。

 安堵したテオドロはリタの頬に左手を伸ばす。しかし自分の指先が視界に入った所で手を止めた。


 火傷の範囲は左手から左後頭部にかけて。

 ウールの手袋が覆っていない左手の指先も、例外なくケロイドに侵されている。さらに今に限って言えば、手袋は血糊や煤で汚れている。


「……全部、燃やしてやるからな、リタ」


 火吹男フエゴは一旦手を引きながら、眠る踊り子バイラリンに向かって囁きかける。


「お前が嫌いなモノ、嫌なモノ、あとお前を傷付ける奴も、助けなかった奴も、ついでに俺からお前を引き剥がす奴も、全部、根こそぎ、この俺が、燃やしてやる」


 男はウールの手袋を外し、焼けただれた手で少女の柔らかな頬をなぞる。


「だから俺のそばを離れてくれるなよ、リタ。それで不幸になっても、俺のそばからいなくなるんじゃねぇぞ?」


 絶対に。


 軋む声で囁き、テオドロは、静かにリタの唇に自分の唇を落とした。

 アイドリング中のワゴンの中、彼の唇の立てる音はほんのささやかで、彼女を起こすには不十分だった。


 テオドロはリタが目を覚まさないことを確認すると、静かにギアを変え、ゆっくりとワゴンを走らせ始めた。


「て、お……」


 少女が呟く。

 それが寝言かどうかは分からないが、男は唇の右側を緩めて、さらにギアを変えた。

 揺れるワゴンの中、運転席側の窓からは色を薄めていく夜空の端が見えていた。




 〈END〉



最後までお読み下さり、ありがとうございましたァッ!

少しでも気に入っていただけたのならば幸いです!

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[良い点] 登場人物全員が不幸で恵まれてなくて自分勝手で表現は悪いですがクソに思えました。 テオドロは火傷が原因で心が荒んでおり自分のことだけで精一杯。でもリタの純粋で無垢で自分の容姿を気にしない言…
[良い点] サーカスという妖しく美しい舞台にふさわしい、光と影を感じる素敵なお話でした。 リタもテオドロもすごく魅力的に描かれていていますね。特にテオドロの優しさと哀しさに惹かれました。
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