5 出発
【この章に登場する用語】
エレウォン: 中世ヨーロッパ風文明社会が広がる異世界
ノーマルワールド: イリリアと同義。主人公たち「俺達の世界」からの
旅行者たちが元の世界をこう呼ぶ。
【人物】
一色大: 主人公
設定の説明回です。流し読みで問題ないと思います。
25年前、中国とミャンマーの国境地域の人里離れた山中に奇妙な場所が発見された。
鬱蒼とした山林が突如開け、そこに見渡す限りの平野が広がっていた。山岳地帯であるこの一帯に、そのような平野が存在しているはずがない。
はじめ山岳少数民族の間に広まったその不思議な土地の話は、中国のとある大学の知るところとなり、学者を中心とする調査隊が派遣される運びとなった。調査隊は、その土地で驚くべき光景を見た。
1000年も前の中世ヨーロッパを思わせる建築物、村、町、人々を、調査隊は目にしたのである。
最初の隊に続いて、いくつもの調査隊が派遣された。彼らは、その土地の広さの見当を付けることさえできなかった。それだけ広かったのだ。
不思議なことに、広大な土地であるにも関わらず、航空機や人工衛星からはその場所を発見できなかった。陸路でのみその土地に辿り着くことができたのだ。そこではGPSの類も使用不可能だった。
地図上のどこにもない存在しない土地。
後年、その土地は、nowhereの綴りを逆さまにして、エレウォンと俗に呼ばれるようになる。
エレウォンには中世ヨーロッパにそっくりな文明があった。調査の結果、その社会も、中世の封建制度と似通ったものであることが判明した。
中小の君主が割拠し、強力な中央政権は存在しないようだった。君主の間の争いも頻繁にあった。
それぞれの君主たちの支配の及ぶ範囲も限定的で、町や村を離れれば無法地帯のようなものであった。調査の途中で命を落とした者、消息を断った隊も少なくない。
国際社会は、エレウォンを紛争地域と認定した。
当初、エレウォンは自然と中国領と見なされていたが、その後それは否定され、国連によっていかなる国による領有も認められないものとされた。南極と似ているかも知れない。
エレウォンの軍事利用(軍隊の派遣)や商業利用つまり貿易や資源の採掘も、国際的に禁止された。さらにはエレウォンに産するすべてのもの、人工の物から自然物、生き物に至るまで、その持ち出しが原則として禁じられた。逆に、エレウォンにエレウォン外の物品を持ち込むことも禁止となった。
例外は学術目的の場合であった。
エレウォンの文明に対する外からの干渉、影響を排除し、エレウォンをエレウォンのままとすることがその理由である。
こうしてエレウォンは隔離された。
これらの国際的な協定を監視するため、エレウォンへの入り口にあたる地域を国連管理下に置くことが提案されたが、それについては中国は拒否した。そのため、現在その一帯は中国当局の管理下となっている。
このような状況で、一般人がエレウォンを訪れることは不可能であった。
エレウォンが発見されて8年後、イギリスのテレビ局が許可を得てエレウォンを訪れ、ドキュメンタリー番組を制作し、そのファンタジックな光景を放映した。番組は世界的に大きな反響を呼び、エレウォンがブームとなる。
エレウォンに行ってみたいと望む者が多く出た。
またそのころ、エレウォンにおける科学的に説明のつき難い不思議な力、あるいはその力を持つ道具の存在が報告された。それが何であるかは今以って解明されていない。
ある者はそれを魔法だと主張した。
もちろん公的には、あるいは科学的にはその主張は無視されている。
◇
学生時代、俺はバックパッカーの真似事みたいな旅行をしたことがあった。1ヶ月にも満たないものだったが、ゲストハウス(安宿)に泊まりながら東南アジア数カ国を周った。
当時、一部のバックパッカーの間に、エレウォンに行くことができるという話が広まっていた。案内人の手引によって、ミャンマー経由でエレウォンに潜入するとのことだった。もちろん合法的なものではない。
俺は、旅行者の間の面白いネタ話のひとつとしてそれを聞いただけで、そのときはさほど興味を持たなかった。
その後、個人によるエレウォンの写真や旅行記が少数ながらネット上にアップされ、潜入できるという話はおよそ事実であると思われた。
数年前、俺がだらだらとサラリーマン生活をしていたころ、「エレウォンの歩き方」という本が出版された。
某海外旅行ガイドブック丸パクリのタイトルで、装丁も某ガイドブックに似せてあったが、その本はガイドブックに分類されてはいなかった。
内容はエレウォンについての様々なネタ、話を集めたもので、ガイドブックとして使えないこともなさそうではあったが、コラムや体験記のような記事が多く、ガイドブック的な構成ではなかった。
実用書ではなく、娯楽のための読み物として書かれていた。
俺はその本を買って読んだが、そのときはエレウォンに行きたいという思いは特に持っていなかった。
◇
1年半前、俺は勤めていた会社を退職した。
辞めた理由は、仕事あるいは会社が嫌になったというよりも、うまく言えないが強いて言うならば日本の社会そのものが嫌になってしまったからだった。仕事自体はさほどきついわけではなかったのだが。
社会にコミットしたくなかったので、再就職しなければと思いつつもどうしてもその気になれなかった。仕事そのものよりも面接が嫌だった。履歴書に書く自己PRや志望動機が嫌だった。1年間、履歴書の1枚すら書けなかった。
もともと漠然と海外で暮らしてみたいという気持ちがいくらかはあったのだが、退職してからその思いが強くなっていた。
外国の社会が素晴らしいものとは考えていなかった。だが、社会における異邦人という立ち位置が、社会に対するその特殊なコミットのありかたが、自分にとっては居心地がいいように思われたのだ。
かと言って、海外に出る具体的な行動は何もしなかった。俺にとっては、それは現実的なこととは思えなかったのである。
しかし、当たり前のことだが、何もせずとも日々金は消費されていく。
俺はただただ焦るだけだった。
俺は、エレウォンの歩き方を読んで、こちらの世界の物品をエレウォンに持ち込んで換金すれば大金となることを知っていた。歩き方には、豪遊しないのであれば、数年間エレウォンを旅するのも金銭的には難しくないと書かれていた。
俺の頭にエレウォンに行くという考えが生じ、育ち始めた。
その考えは前向きな海外移住みたいなものではなく、引きこもり生活を延長しようというものに近い。逃げである。俺は逃げたかった。
引き篭もっていても俺は追い詰められていた。
俺は決心した。
◇
俺は日本を発ち、タイのバンコクに降り立った。
東南アジア独特のむっとする匂いが身を包む。なつかしい匂いだ。
学生時代にも訪れたことのあるカオサン通りのゲストハウスに投宿する。バンコクのカオサン通りは、バックパッカーの聖地と言われることもある安宿や貧乏旅行者相手の店が集中する一帯で、そこで準備、情報収集、貧乏旅行生活に対するリハビリをしよう思ったのである。
余談であるが、カオサン通りは現地タイ人も含む各国の若者たちの繁華街としての側面も持っており、近年その傾向は強まっている。クラブやバーも多く、通りでは大音量の音楽が嫌でも耳に入ってくる。そのため、真面目なバックパッカーの中にはむしろカオサン通りを嫌悪する者が少なくない。
カオサンには10日ほど滞在したが、その間に、これからエレウォンに行くというフランス人旅行者と知り合うことが出来た。彼は俺よりもエレウォンについてよく知っており、いくつかのアドバイスをくれた。
アドバイスに従い、バンコクにいるうちに乾電池および充電式電池を大量に購入した。エレウォンで大金になるノーマルワールドの物品とは、電池のことだったのだ。他にも大金になるものはあるのだが、電池がなにかと都合が良く、エレウォンに行こうという旅行者は必ず持っていくらしい。
なお、自分のスマホの充電や懐中電灯等のためのソーラー充電器と充電式電池は、日本であらかじめ買ってあった。
そのフランス人にはエレウォンまで一緒に行くかとも誘われたが、それは断った。彼は、ジャンキーとまでは言わないが、俺からすると見た目が少々怖ろしかったのである。
彼とは日を数日ずらしてバンコクを発ち、タイとミャンマーの国境の町メーサイに到着する。この街に、希望者をエレウォンに導いてくれる案内人がいるのである。
合法的なものではないので、案内人は当然旅行代理店にいるわけではなく、表立った看板など出していない。そのフランス人によると、とある食堂でビールでも飲みながらしばらく待っていれば、案内人のほうから勧誘の声をかけてくるとのことだった。
しばらくというのがどの程度か、数時間なのか数日なのかは彼にもわからなかった。
言われた通りに食堂で座っていると、実際には2時間ほどで、某お笑い芸人のような風貌のタイ人男性が「エレウォンに行ってみないか」と声をかけてきた。さすがに即答はしなかったが、興味があると応じると彼は逆に驚いた様子だった。
日本人でエレウォンに行こうとする者はほとんどいないので、まさか俺が本当に行くつもりがあるとは思っていなかったらしい。一応声をかけてみたまでで、期待はしてなかったとのことだ。
提示されたガイド料金は、日本円に換算すると15万円近い額であった。エレウォンから戻ってくるときの料金も含むということだが、さすがに高い。支払えば、俺に残される金はもうほとんどない。
だが、俺はこのまま日本に戻るわけにはいかないのだ。
出発は3日後。
デポジットを払って男と別れ、残りの費用分の金額をタイ・バーツに両替する。
あとは、特に必要な準備はもうないはずだ。
緊張と興奮で落ち着かない。
男は、エレウォンから戻ってこない者も多いと言っていた。そうだ、俺ももう二度とこちら側に戻ってこれないかもしれないのだ。
エレウォンは紛争地帯なのである。
なぜかあまり想像してなかったが、命を落とす可能性だって低くないのだ。
説明回は次章まで続きます。その次の章で本題に戻ります。