3 結婚
【この章に登場する用語】
エレウォン: 中世ヨーロッパ風文明社会が広がる異世界
ナイス・イン: レミウムにある宿。現在主人公が滞在している
イリアン: エレウォン人が主人公たち「俺達の世界」からの旅行者を
指して呼ぶ言葉。主に白人
イリリア: 主人公の住んでいた世界、俺達の世界、
日本、アメリカ、中国などのあるこの世界を指すエイク語
ノーマルワールド: イリリアと同義。主人公たち「俺達の世界」からの
旅行者たちが元の世界をこう呼ぶ。
【人物】
一色大: 主人公
ルーカ: ナイス・インで働く少女
エリオ: ナイス・インの主人。ルーカの父親
ウィリー: アメリカ人旅行者。ルーカの婚約者
「私、結婚をします」
えっ!?
「昨日、お父さんから、私の結婚が決まったと言われました。1ヶ月後には結婚だそうです。その前に、ナイス・インの仕事も辞めることになります」
俺は、あまりの衝撃に声すらも出なかった。まだこんな子供なのに、結婚?
のどかな午後の中華料理店。世界が止まったような気がした。
そしてすぐに、恐るべき絶望の感情が沸き起こってきた。
俺はこの感情を知っている。昔、経験したことがある。今俺を捉えているこの強烈な感情は、失恋だ。
そうか。俺は知らない間に、ルーカに恋をしていたのか。
と、いうようなことはなかった。
エレウォンでは、女は10代半ばあたりで結婚することが多い。10歳で結婚というのはエレウォンにおいても早いが、しかしそれほど珍しい話でもない。
また、本人の預かり知らぬところで、親同士が子供の結婚を決めてしまうことも普通だ。
そのようなエレウォンの結婚事情を、俺は「エレウォンの歩き方」を読んで知っていた。
たしかに、ルーカが結婚と聞いて驚いたことは驚いたが、衝撃というほどではない。
連絡もほとんどとらなくなった、昔の学生時代の友人が結婚したという話を聞いたくらいの驚きだ。
いや、さすがにそれよりはもっと驚きが大きいか。
もちろん失恋のような感情に襲われてもいない。
俺はロリコンではないからな。
でも、どこか残念なような気がしなくもないようなような。
俺は、料理とは別注文となる食後のジャスミン茶をすすった。
「そうか。驚いたな」
「私も驚きました」
「おめでとう。と言っていいのかな」
「はい、たぶん」
ルーカの表情は、喜んでいるようでも悲しんでいるようでもなかった。まるで心を失ったかのような無表情、でもない。
ごくごく普通の表情だ。普段、どちらかといえば年に似合わず澄ました顔をしてることが少なくないルーカとしては、いくぶん笑顔ではある。だがその笑顔は、結婚話とは無関係に、食事の満足感によるもののようだった。
「結婚か。俺もまだしたことがないのに、ルーカはすごいな」
「男はお金を持っていなければ、結婚できませんから。結婚できない男はいっぱいいます」
「ははは、エレウォンでもそうなのか」
「ダイはお金を持っています。だから、結婚できます」
「俺は貧乏だよ。イリリアでは」
「エレウォンでは、ダイはお金持ちですよ」
たしかに、2~3年はエレウォンをふらふらと旅していられるだけの金はあるだろう。だが、10年も20年も暮らしていけるほどではない。エレウォンにおいてであっても、お金持ちだとはとてもじゃないが言えまい。
でもルーカのような子供にとっては、働きもせずに毎日のんきに飲み食いだけはしているイリアン旅行者は、お金持ちに見えても不思議はないのかもしれない。
「まあ、俺は結婚したいと思ってるわけでもないしな」
「どうしてですか?」
「特に理由はないが・・・結婚する理由もない」
「大人は結婚するものです。できない人もいますけど」
「ルーカは結婚したいのか?」
そう聞かれて、はっとしたような、戸惑ったような表情をルーカは見せた。
自信なさげな声で答える。
「・・・したい、です」
「ならば、結婚が決まって、ルーカは今嬉しいわけだ」
ルーカの顔が、ほんの微かに、悔しそうに歪んだように思えた。
「ダイはいじわるです」
「なんで?」
「だって・・・」
「本当は結婚が嫌なのか?」
「嫌ではありません」
「じゃ、嬉しいのか」
「よくわかりません」
なぜか問い詰めてるような感じとなってしまった。子供相手に、大人げない。俺は反省した。
「ごめん」
「いじわるです」
「ごめんて」
「結婚が嫌ではありません。でも、ちょっと不安です」
「まあそうだろうな。でも大丈夫さ。なんとかなるよ」
「私が結婚する相手はイリアンです。ちょっと不安です」
「えっ」
ついさっき結婚すると聞かされたときよりも、俺はだいぶ驚いた。
まったく予想外だった。不意打ちだった。
俺は慌てた。
「ちょ。イリアンって」
「どうして慌ててるのですか?」
「えっ、いや。・・・そうだな。慌てることでもないな」
「変なの」
「はは・・」
全然予想もしてなかったことなので、つい必要以上に驚いてしまったのだ。と、思う。
でも、ルーカがイリアンと結婚すると聞いて、なんだかそれを嫌に思う気持ちが生じてきた。
なぜかは、自分でもわからない。
「イリアンは旅人です。イリリアに帰ってしまうかもしれません」
エレウォン人がノーマルワールドに行くことは、原則として出来ない。
実を言うと、俺達イリアンも公的にはエレウォンに来ることは出来なかったりするのだが、その話は今は置いておこう。
「結婚するというのだから、ずっとエレウォンに住むつもりなんだろう」
「それならいいのですが」
「エリオが選んだんだ。大丈夫だろう」
「ウィリーです」
「え?」
「10日くらい前からナイス・インに泊まってる太ったイリアンのおじさんがいるでしょう。私は彼と結婚します」
思い出した。最近よく食堂で見かける、50歳くらいと思われるデブのアメリカ人の名前がウィリーだった。
ほんの1回か2回、挨拶に毛が生えた程度の会話をしたことはあるが、どんな人間かまではわからない。
正直なところ、あまりまっとうな人間のようにも見えないが・・・まあ、エレウォンにいるイリアン旅行者なんて、みなどこかまともじゃないようにも思える。俺もそうだからだ。
だとしても、わざわざ今以上にルーカを不安がらせることもあるまい。
「けっこう歳だなあ。俺よりもずっと上じゃないか」
「そうですね」
ルーカは、相手の年齢については別に気にしてないようだ。けろっとしている。
エレウォンでは、このくらい年齢差のある結婚も、特に珍しいことではないのかもしれない。
「でもどうせなら、若くてかっこいい男のほうがいいだろう?」
「それは、恋人としてならばそうですけど」
ルーカの口から恋人という単語が出てくるとは思っていなかったので、また少し驚いてしまった。これまでそのような話をしたことがなかった。
でも、そろそろ色気づく年頃ではあるか。
「ダイは恋人には失格です。かっこよくありません」
「わかってるよ。うるさいな」
「でも私はダイを好きですよ」
「それはどうも」
からかわれてるような気がしてきたが、ルーカは無邪気に言っているようだった。
「恋人がいたことはあるのか?」
逆にからかい返すようにそう口にしてから、俺は10歳の子供相手に何を言ってるんだと後悔した。
何度も驚かされているせいか、どうも調子が狂う。
「恋愛をしたことはありません」
「結婚する前に、恋愛したいと思わないのか?」
「恋愛したければ、結婚してからすればいいのです」
「結婚相手とってことか」
「違います。他の男とです。ウィリー相手に恋はできないと思います」
「えっ。それっていいのか?」
「ダメです」
「なんだそれ」
「でも、そういうものでしょう」
ルーカの恋愛・結婚観は、あるいはエレウォン人のそれは、いまいちよくわからなかった。
それにしても子供相手の会話ではない。いやに収まりが悪いというか、落ち着かないというか、会話していて居心地が悪い。
そろそろナイス・インに戻ることにしよう。
◇
宿に戻ると、食堂でエリオが待っていた。
「おう、帰ってきたか。ダイ、話がある。座ってくれ」
俺は一瞬不審に思ったが、しかしエリオの顔を見ると、むしろ機嫌が良さそうだった。
エリオの対面に腰掛ける。
「ルーカ、ビールを1つダイにやってくれ。俺のおごりだ。そしたら今日は仕事はしなくていいぞ。奥で好きにしていろ」
ルーカは素直に嬉しそうな顔となり、特急でビールを持ってくると、そのままそそくさと俺達の前から姿を消した。
「まあ飲んでくれ」
いただきます、と俺は日本語で小さく口にし、ごくごくごくっとジョッキの3分の1ほど、冷えていないビールを喉に注ぎ込む。
エリオはにこにこと俺のその様子を見ている。
やっぱり、なんだか気持ち悪い。
俺がジョッキをテーブルに置くと、エリオはおもむろに口を開いた。
「ダイ、おまえルーカと結婚しないか」
俺はむせた。
今日は、何度も驚かされる日だ。
ここまであまりファンタジーらしさがないかもしれない。旅に出たらファンタジーになるはず!