1 ルーカ
【この章に登場する用語】
エレウォン: 中世ヨーロッパ風文明社会が広がる異世界
ニルストリア: エレウォンにある国
レミウム: ニルストリアの都
エイク語: ニルストリアで話されている言葉
ナイス・イン: レミウムにある宿。現在主人公が滞在している
イリアン: エレウォン人が主人公たち「俺達の世界」からの旅行者を
指して呼ぶ言葉。主に白人
イリリア: 主人公の住んでいた世界、俺達の世界、
日本、アメリカ、中国などのあるこの世界を指すエイク語
ノーマルワールド: イリリアと同義。主人公たち「俺達の世界」からの
旅行者たちが元の世界をこう呼ぶ。
【人物】
一色大: 主人公
ルーカ: ナイス・インで働く少女
「はい、ビール」
簡素な木製のテーブルに、並々とビールの注がれたジョッキが無造作に置かれる。
ジョッキと言ってもガラス製ではない。土色の陶製だ。
ここニルストリアでは、いやニルストリアに限らない、俺達がエレウォンと呼んでいるこの異世界においては、ガラスは一般的なものではなく貴重な存在で、食器のような日用品に使われることは珍しいのだ。
エレウォンには、一見するとまるで中世ヨーロッパとそっくりの文明・社会が広がっていた。ニルストリアはその内の一国である。
「ありがとう」
「いい発音ですね。ありがとう、だけは」
ビールを運んできた店員、青い目をした黒髪の少女がからかうように言った。
俺は今、ニルストリアで広く話されているエイク語で感謝の言葉を返したのだが、「ありがとう」以外のエイク語の発音はまだまだだと彼女は皮肉っているのだ。
少女のことを店員と言ったが、ここは純粋な食堂や飲み屋ではない。宿屋である。
ニルストリアの都レミウムの中心、マーケットにほど近い通りに面してこの宿「ナイス・イン」はあった。英語名である。レミウムでは多少は英語が通じるのだ。
ナイス・インは、「俺達の世界」からやってきた旅行者を相手にする宿だった。
ナイス・インに逗留して3ヶ月になろうとしていた。
この宿の1階は、この一帯の他の似たような宿の多くも同じであるが、食堂・飲み屋となっている。
夕暮れ時となると、この食堂で、まったく冷えていないビールを楽しむのが俺の日課だった。エレウォンには冷蔵庫なんてものはないのだ。
店員の少女ともすっかり顔馴染みである。俺は、少々の日常会話はエイク語でできるようになっていた。
その少女、名前はルーカと言う。年齢は10歳とのことだったが、やや大人びている。
はっきりとした目鼻立ちだが、顔の掘りはそこまで深いわけではない。
エレウォンの住人は、髪の色や目の色は様々だが色素が薄めであることが多い。
肌の色も白く、日本人の感覚からすると顔のパーツもぱっちりとしているが、白人ほどには立体的な造形ではない。
もし日本人の集団の中にエレウォン人が一人混じったならば、外国人(白人)的に見えてちょっと目立つだろう。しかし白人の感覚からすれば、アジア系に見えるかもしれない。
ちょうど日本人と白人とのミックス(ハーフ)のような風貌だろうか。
ルーカの目は澄んだ青色だが、髪の色は黒い。ただし漆黒ではなく、光があたるといくらか青みを帯びているように見える。編んだりまとめたりはしておらず、ラフにおろしている。若干ウェーブがかかっており、長さは肩にかかる程度だ。
服装はもちろんメイド服なんかではない。上半身は、胸の開いた袖の短い白いブラウスに、やはり胸の開いた袖のない濃紺のボディス(ベストのような胴衣)を正面で紐で締めあげて身につけている。
下半身はふんわりとした緑の膝丈スカート。そして赤いエプロン。
スカート丈を除けばアルプス地方の民族衣装であるディアンドルにそっくりだが、飾りが少なくシンプルで、メルヘンと言うよりは素朴と言ったほうが近いかもしれない。
足は素足にサンダルで、頭にはなにもかぶっておらず、装飾品の類も見あたらない。
でも、正直、かわいい。俺はロリコンではないが。
ルーカは俺の対面、テーブルを挟んだ向かい側の椅子にちょこんと腰掛けた。
夕食にはまだ早く、客も少なくて暇なのだろう。それに、客の話相手をするのも彼女の仕事ではある。
「ダイはいつまでここにいるのですか?」
一色大。俺の名前だ。100%日本人、32歳、中肉中背。
最近ようやく自分が不細工だと嫌々ながら認めるようになった。不細工の容貌を語っても仕方あるまい。
独身、無職。
仕事を辞め、1年ほど引きこもりのような生活をしたあと、アパートを引き払いエレウォンにやってきた。
目的があったわけではない。
ただ、日本でそうそう簡単に再就職できそうになかったし、その気も失せていた。
かといって、いつまでも働かないで暮らしていけるわけもない。わずかな貯金などみるみるなくなっていった。
しかし、ここエレウォンでは、俺が生まれ過ごしてきた元の世界から持ち込んだ物が大金に化けるのだ。
俺が残ったなけなしの金をかき集めてこの世界にやってきたのは、エレウォンでならまだしばらくの間、仕事をしないで暮らしていけると考えたからだった。
要するに逃げてきたのだ。
「そろそろレミウムを出るつもりだ」
「どこへ?」
「決めていない」
ルーカはにやにやとした表情で言う。
「みんなそう言います。そう言いながら、ここに居るんです。1年以上いる人も何人かいます」
俺は黙っていた。
「もし私がイリアンだったら、ダイみたいに自由だったら、いろんなところを見てまわりたいです」
エレウォン人は、「俺達の世界」からやってきた人間をイリアンと呼ぶ。
「うん。俺もそう思って旅しているんだ」
ルーカはくすくすと笑った。
「旅?あなたはずっとここにいて、何もしていません。それが旅なのですか?」
青く澄んだ目を、興味深げにじっと俺に向ける。俺はなんとなく後ろめたい気分になった。
「何もしていないわけじゃない」
俺は日本語で小さくつぶやいた。
◇
朝、ナイス・インの簡素な部屋で目を覚ます。
宿にはドミトリー(相部屋)もあるのだが、俺は自分の荷物すなわち全財産が盗まれることを恐れて個室をとっていた。エレウォンには近代的な警察などないのだ。
もちろんATMもなければクレジットカードも使えない。使えたところで俺の口座残高は限りなく0だったが。
仕事をしていた頃と違い急ぐことはなにもないので、しばらくはベッドでぼーっとしている。やがて起き上がり、いささか小汚くなってきたシャツとズボンに着替え、部屋を出て階下の食堂に降りる。
朝食はパンとミルクティーの簡単なもの。ルーカや、他にほんの数人いる宿の娘たちは、朝はなにかと忙しいらしく、客の話し相手となっている暇はない。
朝食を済ませると、宿を出て歩いて10分ほどでたどり着くマーケットに向かう。なにか買い物をするわけでもないが、マーケットはレミウムでもっとも人通りが多く賑やかな一帯だ。並んでいる品々も実に様々で、食料品から日用雑貨、布や衣類、生きている動物まで売っていた。
大きな壺に入ったスライム(と思われるもの)が売られているのを見たこともあった。何に使うのか聞いてみたが、返事は自分のエイク語能力ではよくわからなかった。
マーケットではニルストリア人だけでなく、エレウォンの様々な国の様々な格好をした人間を見ることができた。レミウムは、エレウォンでもかなり大きな都市らしい。絵描きや大道芸人のような者もいた。
怪しげな男がこそこそと、いい儲け話があるといったようなことを話しかけてくることもあった。正直なところ男の言ってる内容はよく理解できなかったが、たぶんそんな話だ。
レミウムの町並みは中世ヨーロッパ風なのだが、マーケットの喧騒はむしろアジアの雰囲気を醸し出していた。
要するに、暇つぶしにはちょうどいい場所なのだ。
俺と同じく時間を持て余しているイリアンの旅行者も少なくなく、彼らと周辺の茶屋に入り話し込むこともあった。
マーケットの店々は、昼過ぎには片付け始める。
俺は昼食をとったあと、とある教会を訪れる。その教会の僧侶の一人が英語をある程度解し、エイク語を教えてくれるのだ。
俺の他にも何人かのイリアンがエイク語を学びに彼の元に来ていたが、生徒はそう多くはなく、授業はほぼマンツーマンに近かった。
俺がこの「エイク語学校」を知ったのは、「エレウォンの歩き方」という日本語ガイドブック(正確にはガイドブックではないのだが)に掲載されていたからだった。生徒の少なさからすると、英語のガイドブックにはここが記されていないのかもしれない。
なお、生徒で日本人は俺一人だけだった。そもそもエレウォンには日本人旅行者はほとんどいなかった。
授業料はなかったが、たまにマーケットで買った食料などを渡すのが慣わしだ。
その後はナイス・インに戻ってビールの時間となるのが常だったが、ときに別の宿に赴くこともあった。
その宿も1階は食堂兼飲み屋なのだが、席に座ると宿の女の子も隣に座り、客の相手をするのである。キャバクラのようなものだ。
ナイス・インのルーカたちも客の話し相手になっているが、それはあくまで仕事の手が空いているときである。
こっちの宿の女の子たちはそれが専門、はっきりとホステスだった。
いや、彼女たちの専門はさらに別にあった。
客は、女の子を気に入れば、お金を払って宿の上階の部屋で彼女と寝ることができたのだ。つまりは売春宿である。
もっとも必ず女の子を買わなければならないわけではなく、飲み食いだけでも良かった。
むしろ飲み食いだけで帰る客のほうが多いように見受けられた。俺自身もそうだった。まあ、3ヶ月の間一度も上階に上がらなかったとは言わないが。
覚えたてのエイク語を試すのは楽しく、またやはり女の色香には逆らい難いものがあり、買って寝るつもりはなくとも俺はときたま売春宿に出向いていた。
あ、俺はロリコンではないからな。
ビールタイムあるいはキャバクラタイムの後、宿の誰かの部屋でガンチャタイムとなることもあった。
ガンチャつまりマリファナは、ニルストリアでは違法ではない。しかし、ニルストリア人がガンチャを吸うのは、なにかお祭りのときのみに限られていた。
レミウムのような都市の住人となると、お祭りのときでも吸わない、つまり一切ガンチャを嗜まない人も少なくなかった。
俺はガンチャよりは冷えてないビールのほうが好きだった。だが誘われれば、断ることはあまりなかった。
俺の最近3ヶ月はこのような感じだった。旅、とはちょっと言えないかもしれない。
かろうじてエイク語の勉強をしていると言えるかもしれない。でもそれも目的があるわけでもなく、向上心みたいなものとも無縁のものだった。
授業の内容も雑談のようなものだったし、あまり堂々と「俺は勉強をしている」とは言えない。
そもそも「何もしない」でいるために、俺はエレウォンに来たのだ。堂々と何もしなければいいのだ。
なんだかちょっと違う気はする。
何もせず、何にも追われることなくだらだらと過ごすのは、妙な中毒性があるらしい。
ナイス・インをはじめこの一帯の宿には、何ヶ月も何をするでもなく淡々とただ居着いてしまっているイリアン旅行者が少なくなかった。すでに俺もその一人なのだろう。
そういえば、日本での無職引きこもり生活も、中毒のようなものであったかもしれない。
なにかをしなければと思っても、なにもできなかった。ただただ焦りばかりが大きくなり、精神的に荒んでいった。
エレウォンに来て異なるのは、なにかをしなければという焦りから解放されたことだ。・・・いや、俺は本当に解放されているのだろうか。
ルーカのはずんだ声が、俺の物思いを中断させた。
「シャシン、また見せてくれますか?」
俺はスマホを取り出し、日本やレミウムまでの道中で撮影した画像を表示させ、ルーカに渡す。以前にも何度か彼女に写真画像を見せたことはあり、ルーカも少しはスマホの操作方法をわかっている。
ルーカは画像を1枚1枚ゆっくりと、不思議そうに見ていた。
「イリリアでは、カガク?の道具でなんでもできるんですよね?」
ひと通り画像を見終えると、ルーカはスマホを表裏させて観察しながらそう尋ねてきた。
エレウォン人は、俺達の世界、日本やアメリカや中国といった国のある俺達がよく知っている世界のことをイリリアと呼ぶ。向こうの土地といった意味らしい。
ちなみに俺達イリアン旅行者同士では、元の世界をノーマルワールドなどと言うことが多かった。
「なんでもはできない。でも、いろいろなことができる」
「空を飛んだり?馬よりもずっと早く走ったり?」
「そうだ」
「ちっちゃくなったり、消えちゃったりは出来ますか?」
「できない」
「なんだあ」
「ルーカ、お前なにか失敗して怒られそうなとき、それで逃げようって考えてるだろ」
「えへへ。うさぎになったりは?」
「できない」
「じゃ、なにができるんですか?」
そう尋ねられると、わかりやすくすごい例が意外と思い浮かばない。
「そうだなあ。カガクの道具は、人間のすることを手伝って楽にしてくれるんだよ。料理や掃除を簡単にしてくれたり」
「なるほど。じゃあ私がイリリアに住んでいたら、私の仕事はずっと楽になるんですね」
「あー・・・そうとは限らないな」
思わず日本語でつぶやく。
「え?」
「楽になっても、もっと他の仕事をするんだよ」
「なんでですか?」
「生きるためにはたくさん仕事をしなければならないのは、ここもイリリアも同じだよ」
あいたたたたたたた。自分の言葉で自分がダメージを負ってしまった。
ルーカはわかったようなわからないような、ちょっと不満そうな表情をしている。
なにか言いたげだったが、ちょうどそこに大きな荷物を背負った若い白人男性が食堂に入ってきたため、ルーカは彼女の仕事をするために席を立った。
この世界のもう少し詳細な説明は、話が転がり始めてから書く予定です。