Mind-Collision 【心】【衝突】 Bパート
方舟の運航に関わる人々の生活圏となるブリッジ区域及び作業区から居住区に下りるための出入り口。そのほとんどは公共用シェルターの内部に存在しているが、その理由は非常時における脱出路の確保である。
シェルター内部には数百人規模の人間を収容可能なスペースが確保されているが、居住区の総人口に比べれば圧倒的に足りない。そのため最悪の場合、ブリッジから続く通路や特区と呼ばれる特別区域を避難箇所に利用できるよう、道を繋げてあるというわけだ。
もちろん万を超える人々の生活を支えられるわけではないが、ひとまずの避難口にはなる。というより、そもそもシェルターに何日も逃げ込むような状況になれば、方舟そのものの方が持たないだろう。
「こんな場所を通らないとその居住区って場所にでられないの?」
「いや。普通に扉を通るって方法もあるけど、それだと居住区の端の区域にしか出られないから。内の区域に行く場合、シェルターを使った方が都合がいいだけだよ」
そう言って、レムはシェルターの天井の鉄扉に手を掛ける。ずっしりと重たい感触が手元に返ってきて、片手で開けるのはなかなかに骨が折れそうであった。
「杖、邪魔なら持っていてあげようか?」
「いいよ。そこまでキミを信用していないから」
「そう。せっかくの善意なのに」
クリスタからレムに伝えられた命令はククルの監視。彼女を泳がせてぼろを出させるというものだったのだが、レム自身はいまいちそれを理解しきれていないようであった。
「ところでゴシソク。そのキミというのは止めて。私には、お姉ちゃんに貰ったククルって大切な名前があるんだから」
「ゴシソク?」
「……? 名前じゃないの? クリスタはそういう風に呼んでいたみたいだけど」
「違うよ、僕はレム。ククルって名前で呼んで欲しいなら、そっちもちゃんとした名前で呼んで」
勢いよく扉を押し上げ、レムはシェルターの蓋を開く。瞬間、まぶしいぐらいの光が空から降り注いできて、レムは思わず目を閉じる。
光に驚いたのはレムだけではなかった。梯子を伝ってシェルターから外に出ると、ククルは信じられない、という様子で上空を見上げ続けていた。
「なにこれ。ここ、方舟って言う船の中だよね? どうして空や太陽が」
「本物じゃないよ。どちらも人工的に創り出したもの。外の世界を真似て、出来るだけ同じにしようとしてるんだよ。居住区の街並みも、人が地上で暮らしていた時代のものを真似ているんだって」
「どうして真似したりするの?」
「どうしてって、人間は元々青空とか太陽の下で生きていたから、せめて形だけでもってことじゃないかな。何にもないただの天井が広がってるだけだと、穴倉のなかで生活しているのと変わらないから」
「穴倉のなかで生活するのは、人ではないということ?」
「……少なくとも、普通でないのは確かだろうね」
言われた言葉に自分を照らし合わせる。ククルがそうしている事にレム自身も気がついていたが、だからといってわざわざ何かを言うなんて気にはならなかった。そもそもあんな場所にいる時点で普通ではないのだから、ククルを例外扱いする必要はないだろう。
「ところで居住区に下りてきたのはいいけどどうする気? 何か見てみたいものでもあるの?」
「ん……何でもいいよ。あそこを出たの自体が初めてだから、楽しそうなものなら何でも。あ、そうだ。とりあえず『街』を見てみたいかな。人がたくさんいるんでしょ。どんな風なのか、少し興味があるし」
「街ね。なら中央区域のほうに行こう。人が多いから、下手に動いて迷わないようにね」
中央区域というのは二十四の区域に切り分けられた居住区の真ん中に位置する、H地区やK地区のことだ。居住区の人口密度は一定でなく中央の辺りに集中しているので、その分だけ人の往来が激しく、経済が発展しているということになる。
「歩いていくの?」
「うん。人力車や魔力車を使うほど遠くないからね。それに、お金は持ってないんでしょ。僕もそんなに手持ちがないから、歩ける距離ならその方がいいよ」
舗装された地面を踏みしめながら二人は移動。左右に並ぶ灰色の建物の群れがだんだんと数を増やし始め、巨大なコンクリートビルが生え揃った区域に辿り着く。ビルの足元にはたくさんのお店が溢れていて、何十、何百という人々が店を賑やかせていた。
「このケースに飾ってあるの私やレムが持っているのと同じ、魔法の杖。こんなに一杯あったんだ」
「うん? いや、違うよ。それは魔導師以外の人が使う簡易的な杖で、低出力しか出す事が出来ないもの。オリハルコンどころかミスリルもほとんど使われていないし、フレームは普通の合成金属。魔導師が使うものとは比べ物にならないよ」
「……? よくわからないのだけど。オリハルコンやミスリルってなに?」
「ん、魔導機杖の材質って言えばいいのかな。マナ伝導率の良い鉱石。魔鉱石ってものがあるんだけど、魔導師が扱う杖はこれを大量に使用してる。杖の形状を変化できるのも、魔鉱石を加工した金属にそういう特徴があるからだよ。オリハルコンとかは単純に金属の名前。主成分にオリハルコンを多く含んだ鉱石。ミスリルを含んだ鉱石。術式が放つマナの波長はそれぞれで全然波が違うから、粗末な魔鉱石だとその波長が交じり合って――」
「レム。悪いのだけど、何言ってるのか全然わからない」
「……ようするに、こうやって売っているものはインストールしておける術式が四つだけで、出力もかなり低くなるってこと」
「うん。そういう風にわかりやすく言ってくれるといい。でもそうか、生み出せる術式の数に制限があるんだ。それは扱いづらそう……この、杖の下に書いてある数字はなに? ゼロがたくさん書いてあるけど」
「値段だよ。その分だけのお金を渡すとその杖が買えるってこと」
「ふーん。高いの?」
「高い、と思う。何ヶ月かお金を貯めて、やっと買えるようなものらしいから」
魔導機杖の構造よりも値段の方が気になるなんてよくわからないな。と、レムはククルの態度に首を捻ってしまう。何を動力にしているか、どういう仕組みで動いているか。そういうものに興味や疑問を抱くのが普通のはずなのに。
繁華街と通称されるK地区を東から西。レムたちは色々なところを見て回りながら歩いていく。そんな折。
「この絵、すごく綺麗。女の人に真っ白な羽根が生えてて、なんだか天使みたい。ふわふわしてて、すごく優しそう」
雨避けの天井が頭上に広がる、人の往来が激しい通り。何気なく柱に飾られた油絵の前でククルは足を止め、その絵をじっと見上げる。
「優しい? 大きな剣を持っていかつい表情で、とてもそんな風には見えないけど」
自分の身体ほどもある巨大な剣を片手に掲げた、翼を生やした女性。汚れ一つない絹のような純白の肌に黄金と同じ色の長い髪。
絵のタイトルなどはどこにも記されていないが、ククルの言うように天使。あるいは、戦乙女がモチーフなのだろう。
「ううん。絶対に優しいと思う。だって、雰囲気がお姉ちゃんに似てるもの。怖そうに見えるけど本当はぜんぜんそんなことなくて、私のことを大事にしてくれて」
「持ち上げすぎ、考えすぎじゃないの?」
言葉を漏らした瞬間、ククルの表情がむっとしたものに変わる。レム自身にそんなつもりはなかったが、ククルからすれば、レムの言葉が『お姉ちゃん』に対する冒涜に聞こえたのかもしれない。
「レムはお姉ちゃんみたいな人を知らないからそんなことが言える。厳しくて少し怖いところがあるけど本当は凄く優しくて、誰よりも誇り高い性格をしていて。そういう人のことを」
「……知ってるよ」
「えっ?」
「自分にも他人にも厳しい性格をしていて、何があっても自分の信念を貫く槍のような人。でも刃が鋭すぎるから、近づくもの全てを傷つける。そのせいで不器用な生き方しか出来なくて」
「レムが言っている人、クリスタとは違うよね。だれ? なんとなく、お姉ちゃんに似ているような気がするけど」
「今は、いない。ここじゃない、ずっと遠くの方に行っちゃったから」
「それって……う、ううん。そうなんだ。ねえレム。もっと案内をしてよ」
「えっ?」
「私、あそこを出たことがなかったから。船に乗るのも、こういう人がたくさんいる街にも来たことがない。だから、案内して。綺麗なものや楽しいもの。もっともっとたくさんあるんでしょ?」
「あるだろうけど……居住区に下りたのは僕も数えるくらいだし、この辺りに来たのは初めてだから道案内は出来ないよ」
「初めて? なら、ちょうどいいかも。レムも一緒に見て回ろう。その方が、きっと楽しいから……あ、」
「どうしたの?」
「あの、黄色いのの上にフルーツがたくさん乗っているのはなに? なんだか凄く美味しそうだけど」
ククルがじっと見ている方向に目を向けてみると、小さな屋台の前にレムと同じか、少し上くらいの年齢の女の子が何人も並んでいた。方舟艦内の季節が夏に設定されているせいか、みんな薄手の、涼しそうな服装をしている。
「あれは、たしかクレープって食べ物だったと思う」
「クレープ? ってなに?」
「…………」
Search
答えにつまり、レムは魔導機杖を起動。【検索】の術式を呼び起こす。
クレープ
パンケーキの一種。小麦粉、牛乳、鶏卵、砂糖を混ぜ合わせたクレープ生地に、フルーツや生クリームを包んだ料理。そば粉(タデ科の一年草。ソバの実。絶滅種)で作った、ガレットと呼ばれる薄いパンケーキが起源とされている。
「そういう情報だけを見せられても困る。うん、私ちょっと行ってくる」
「ちょっとククル。行くって、買ってくるってこと? お金は?」
勢いよく駆け出そうとしていた背中にそう声をかけると、ククルははっとしたように足を止め、しょんぼりとこちらに戻ってくる。
「お金……持ってない。凄く気になるけど、我慢する……」
変な奴。そんな風に思う反面、ククルが発した我慢するという言葉が妙に気になった。
母さんの事件の後に聞いた話では、騎士と呼ばれる一連の人たちはマナ以外の物質を体内に取り入れる事が出来ないのだそうだ。とすれば、実際にこの子が食事をするかどうかで判断できそうな気がする。
「ククル。そんなに気になるなら買ってきてあげようか?」
「えっ?」
「えって、何を驚いているの? 興味があって、食べてみたかったんじゃないの?」
「それはそうだけど、いいの? そんなことをしてもらっても」
「別に、僕は構わないよ。興味があるのは僕も同じだし」
ククルが騎士でなかった場合、機甲虫が多数生息していたあの場所でなぜ生き長らえることが出来たのか。そんな疑問がさらに深まることになってしまうが、ひとまずは解き明かせそうな謎から順に取り掛かっていくのが良いだろう。
「お金は渡すから買ってきなよ。僕は、そこのベンチで待ってるからさ」
クレープ一枚分のお金をククルに手渡して、レムは近くに備え付けてあった木製のベンチに移動する。ベンチの端っこに座って魔導機杖を隣に立て掛けると、途端、ふうっと息を吐き出してしまう。
疲れが溜まっているわけではないが、今日は朝から色々な事が起きすぎて、妙な目まぐるしさを感じてしまっていた。考えてみれば、まだお昼の時間を少し過ぎたばかりなのだ。
早めの昼食を終えた後、救難信号が示した場所に向かって、そこでククルを見つけて。
敵なのは間違いないだろうけど、尻尾を出すまで待つって……クリスタさん、まさか今の状態を何日も続ける気なのかな。
いまの状態を続けるということは、トレーニングに割く時間を満足に確保できないということだ。正直それは嫌だな。と、レムは魔導機杖を片手にそんなことを考える。
ミュウを守るために機甲虫を駆逐する。そんな風に明確な、はっきりとした目的が出来た以上、あまり時間を無駄に浪費するようなことはしたくなかった。
「ただいま、レム。見てこれ。物凄く大きい。私がクレープを食べるの初めてだって言ったら、おまけだって言ってたくさんフルーツを入れてくれたの」
黒曜のように澄んだ瞳をきらきらと輝かせ、ククルは心の底からの喜び。幸せをレムに振舞ってくる。
「凄いの。本当に凄くて、甘い匂いがいっぱいで、こんなの初めてで」
豹変というほどではないが、出会ったときから見せていたどこか冷めた表情から一変、上機嫌で興奮している様子に、レムは少しだけ気圧されてしまう。
「それじゃ、いただきまーーす」
「えっ」
かぷっ。
「レム。凄い、これ。甘くて、イチゴやバナナが冷たくて、すっごく美味しいの」
クレープの頭に小さくかぶりついて、ククルは幸せそうな、満面の笑みをレムに向けてくる。騎士はマナ以外の物質を栄養分として体内に取り込む事が出来ない。そういう前提がある以上、探りを入れるために食べ物を進めてみたのだけど、ククルのこの様子を見るに……。
「ククル、何ともないの?」
「何ともない? うん、本当に物凄く美味しいけど……ひょっとして、レムも食べたかった?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「…………」
予想が外れて少しだけ戸惑っていたところを話しかけられ、レムは言葉に詰まる。と、
「いいよ、遠慮しなくても。元々レムが買ってくれたものだし」
何かを勘違いしているようで、ククルは手に持っていたクレープをレムに勧めてくる。
「あ、千切るとフルーツが飛び出てきちゃうかも。レム。はい、これ。食べさせてあげる。あーんして」
かぷり。
フルーツだけでなく、端から溢れてくるくらいたっぷりと詰まった生クリームの味が口元いっぱいに広がっていく。疲れが溜まっているときは糖類が効くというし、クリームやフルーツの甘さが身体中に染み渡ってくるように感じるのは、やっぱり、知らず知らずのうちに疲れを貯めていたからなのだろう。
「甘いね。思ってたよりずっと美味しい」
「ほら、やっぱりレムも食べたかったんだ」
「…………」
「また黙り込んだ。照れ隠しや考え事をするとき、レムはすぐに目を逸らすからわかりやすい。よかったら、もう一口食べる?」
「たべなーーーーい!」
ククルがクレープを再びクレープを勧めようとしたその拍子、土豪のような声が響き渡る。何の騒ぎだろうと目を向けてみれば、そこには一人の少女が立っていた。
ミュウ・アシュホード。レムが何に代えても守ると誓った大切な、とても大切な人。
「ミュウ? どうしてここに」
魔導機杖を左手でぎゅっと握り締めて、レムはククルの一歩前へと足を踏み出す。むろん、ククルからミュウを守るためだ。今のところ怪しい動きは見せていないが、ミュウがすぐそばにいる以上、わずかの危険でも最上級と同等に捉えておいた方がいい。
ちらり。後ろに立つククルの側に目を傾けてみる。と、何故だかククルは目を丸くして、じっとミュウのことを凝視し続けていた。
「お姉ちゃん……?」
「えっ?」
不意にククルが漏らした言葉に反応しかけたその拍子。
「どうして、じゃない!」
ずん、ずん、ずん。と、ミュウがこちらまで歩いてくる。何故だか、物凄く怒っているような様子で。
「レム。この子はだれ! というか、なにをやってるの! そんな仲良しな感じで……わたしのこと好きって言ってくれたのに、ひょっとして、ずっと会ってくれなかったのはその子がいたからなの!? 浮気なの!? 不倫なの!? ぽいっ、なの!?」
「ちょ、ちょ、ちょ、ミュウちゃん気持ちはわかるけど落ち着いて。ほら、とりあえず話しを聞こう。たぶん、何か訳があったからだろうからさ」
興奮しきった様子のミュウの両肩をぐっと掴んで、後から駆け寄ってきた女性が胸元にぎゅっとミュウを抱え込む。
が、とうのミュウ本人は気が静まっていないようで、うーっと、不機嫌そうな声を漏らし続けるばかりであった。
「レム、この子……と、このお姉さんは誰? なんだか凄く怒っているけど」
「あ、うん。この子はミュウ・アシュホード。僕の友達で、こちらの女性は」
レム自身も戸惑っていたところがあるが、ククルの方も、なぜだか軽く困惑しているように見えた。ミュウがククルのお姉ちゃん。さすがにそんな無茶な話はないだろうけど、どこか、顔つきの似ているところがあったのだろうか。
「あたたた。始めましてレム君。キミとは初対面になるかな。わたしはフォット・バンテ。シャルの知り合いで、ミュウちゃんのことを任された魔導師さんって、痛い痛い。ちょっとミュウちゃん暴れないで。そ、それで、レム君とあまーい感じだったその子は?」
「私? 私はククル・クラスタ。あまーい感じって、甘いのは感じじゃないよ? このクレープってお菓子」
「ク、クレープ?」
と、フォットは思わず裏返りかけたような声を上げてしまう。確かに、脈絡もなくクレープがどうこうなんて言われたら戸惑うのが当然かもしれない。
「うん。レムが買ってくれたの。それで、レムが一口食べたいって言ったから食べさせてあげて」
「食べたいとは一言も言ってない」
「そうだっけ? でも、食べたそうにしてたのは本当でしょ」
「…………」
「黙り込んだ。やっぱり本当だったんだ」
別に、食べたいと思っていたわけではない。けれど実際に口にしてみてそれを美味しいと感じたのだから、ある意味ククルの言っていることは的を射ていて。
「う、う、うーー。レム。わたしもクレープ食べてみたいっ」
「えっ? 食べてみたいって、ミュウはお金を持ってないってわけじゃないよね。だったら自分で買ってこれば」
どうしてミュウがそんな事を言うのか。意味がわからず首を捻っていると、とんとんとん、右肩をフォットという女性に軽く叩かれる。
「レム君。お金は私が後で立て替えてあげるから、ミュウちゃんの言うことを聞いてあげて」
「……? 構わないですけど、どうしてそんな回りくどい方法を。最初から自分で買えば――」
「いいから。世の中には言葉では現しきれない複雑な想いってものが存在するの。アンダースタン?」
「……? アンダースタン」
頭のなかにいっぱいの?マークを浮かべながらも、ひとまず、レムはフォットの言葉に頷いてみせる。
「よし。じゃあ、行ってくるね」
気合十分、といった様子でミュウは勢いよく屋台のほうに駆け出していく。買い物をするだけなのに何故あんなに力を入れているのかは、レムにはよくわからなかったが。
「…………」
ククルの方にちらり。目を傾けてみると、彼女はミュウを目で追いかけ続けていた。
「ククル、さっき言っていたお姉ちゃんって言うのは?」
「何でもない。気のせいだったみたい。色が同じだったから、そういう風に思っただけ」
「色?」
「うん。胸のところに見える色。お姉ちゃん以外はみんな同じ色だと思ってたんだけど」
同じ色。何を言いたいのかいまいち伝わってこなくて、レムは自分の胸にそっと手を添えてみる。けれど感じるのは心臓の音ぐらいで、ククルが言うようなことは何一つ伝わってこない。
「のうのう、レム君や。あのククルという子、クラスタと名乗っていたけど、ひょっとしてクリスタさんの妹さんか何かかい?」
「妹かは今も不明の状態です。機甲虫が蔓延っていた場所で見つけた子で、機甲虫との繋がりもまだ判明していません。クリスタさんは泳がせて正体を探る、ぼろを出させると言っていました。その監視役に僕が選ばれて……ところで、フォットさんたちはどうしてこんな場所に?」
「ん、私たちは買い出しにきたところだよ。夕飯用の食材と、あとお店で使うサラダ油に漂白剤にスポンジに」
「あの、フォットさんはミュウの『護衛』を任された魔導師なんですよね」
魔導機杖の代わりに手提げ鞄。法衣服の代わりに薄い桃色のワンピースを着込んでいる姿を見ていると、護衛というより――。
「失礼ですが、正直ただのお手伝いさんにしか……」
「だよね。やっぱり、レム君もおかしいと思うよね」
レムの指摘を自分でも自覚しているのか、フォットは少しうな垂れながら、あはは、と乾いた笑いを漏らす。
「まったくあの店長は、何事も経験なんて言って私を従業員扱いして……そりゃ、衣食住を世話してもらっている以上大きなことは言えないけど、こっちだって仕事で居住区に下りてきているわけで」
「でもフォットさん、嫌だと言っているわりには楽しそうにも見えますけど」
「うん? まああの子を見てると退屈しないからね。そういう意味では楽しいと言えるかも」
確かに、ころころと表情を変えるミュウの姿は見ていて退屈しないし、楽しいと言えなくもないかもしれない。
「でもさ、私は魔導師であって主婦でも家政婦でもないのだよ。そりゃ将来的には結婚して家庭に入るという可能性も無きにしもあらずだけど、それとこれとは話が別ってものだろう?」
「確かに。いくら退屈しないといっても、そのせいで鍛錬の時間が減ったら元も子もありませんし」
ククルを視界の端に捉えながら屋台の方向に目を向けてみると、包み紙に包まれた棒状のクレープを大事そうに両手で掴み、大急ぎでこちらに駆けてくる女の子の姿が見えた。
「ただいまー。レム、わたしもクレープ買ってきたよ。チョコレートがたっぷり入ったやつ。レムも食べる? 食べるよね」
満面の笑み。おまけに妙な勢いを感じて、レムはその勢いに軽く圧されてしまう。
「えっ? いいよ。ミュウが買ったものだし、別に無理に食べようってつもりは」
「いいのっ。はい、口あけて。あーんしてあーん」
「レム、こっちのも食べる? 私、少しお腹がふくれてきたからこんなに食べられないかも」
「だーーめ。レムはわたしのを食べるの! って、それより。たしかククルちゃんって言ったよね。レムとの関係、あとでしっかり教えてもらうからね!」
「関係? 強引に連れてこられただけで、特別なことは何もないけど」
「ご、強引に連れてこられた……? ちょ、ちょっとレム。どういうこと! 本当なの!? ホントのホントなの!? なんとか言ってっ」
「もがっ……」
「食べてないでなんとか言って! 強引に連れてきたってどういうことなの! あいびきなの! やっぱり新しい子のほうがいいの! 女房とたたみは新しい方がいい、なの!」
「ミュウ、くるし……」
「ほーーんと、退屈しないわ。この子らを見てると」
レムとミュウ、ククルがどたばたと騒ぎ立てる様子を見ながら、春を迎えられない魔導師が一人、遠巻きに小さな笑みを浮かべ続けていた。
少しラブコメちっくになった今回の話。こういった描写のシーンは苦手なので、結構難産だったりしました。
個人的に日常パートは伏線や謎をぽんっと放り投げて読者に若干の違和感を与えながらも、その謎には一切触れることなく日常的なシーンを描いていく。
そんな風にすると、読んでいて退屈しない作りになるかなと思っています。
(この話がそんな考え方を上手く実践できているかはわかりませんが)
次回より、4章目に突入です。