本気で勝負で風邪なチョコの、甘い秘密
「どうなってんだ、一体」
それは今日、何度目かの独り言だった。まず朝、出がけに家の前で、そして登校途中から校舎に着くまで、いや、着いてからもずっと、もう何度口に出したかわからない言葉。
普段でも付きまとわれていておかしくないのに、なんといっても今日は二月十四日。別に自分にとってはどうでもいい日だが、この日をあのイベント好き、かつイベントなどなくとも毎日大騒ぎの幼馴染がはりきらないはずはないのだ。それが、よりによって今日に限って、全く姿を見せないなんて。もちろん、携帯にも何の連絡もない。
「……どうなってんだ? 本当に」
また、呟いてしまった。廊下を歩きつつも突然飛び出されることを警戒し、妙にきょろきょろしてしまう。だが、その謎の真相は、教室に着いてから判明した。
「今日の欠席は木邑か。キムラヨシノ――って名前だけならあの美人女優と一緒なのになあ」
がっはっは、と笑う担任の声に、クラスメイトたちも笑う。だがその笑いは決して嘲笑ではなかった。木邑嘉乃。そう、名前だけなら例の女優よりも風流な字面を持つ彼女――俺の幼馴染は皆に好かれている。いつも元気で明るくて、小さい体でちょこちょこ走り回って、皆に話しかけては笑い、また笑いを取る。子リスか何かみたいに、小動物的な意味合いで言うならば、容姿だって多少――いや、結構皆に褒められている。そんな目立つ嘉乃がいないだけで、教室内はひどく静かに見えた。少なくとも、自分にとっては。
「――藤、円藤 秀作! コラ、読みだけ有名人と同姓同名仲間!」
「はい」
慌てて顔を上げると、担任がにやつく。
「木邑の席ばっかり見て、そんなに寂しいのか~? まあ風邪だっつうし心配はないだろうが、帰りにでもほれ、コレ届けて様子見てこいよ」
渡されたのは連絡事項の書かれたプリントだ。確かに家は真向かいで、まさに生まれた時からの幼馴染であることは皆にも知られているから、頼まれても仕方がないことではある。
「しかし病人を襲うなよ~? なんて、お前が襲われかねないか」
そこでまた担任は下品に笑い、教室中が沸いた。そう、皆に知られているのは幼馴染だという関係だけではない。といっても、嘉乃のほうが一方的に、そして大々的に公言してやまない事実――あいつが俺を好きだ、という話も周知の事実だった。無言で椅子に腰を下ろす自分の頬が、わずかにでも染まってしまうのが腹立たしい。それでも相手にせず、無表情を貫くと、いつものように皆も静かになった。
「やっぱ円藤くんは脈ないのかな。かわいそうだけど、木邑さんの片想いかも」
「え~でもさぁ、あの鉄壁ポーカーフェイスの裏で、内心喜んでるのかもよ? だってさ、あんな可愛い子が幼馴染で好きだ好きだって毎日攻めてこられたら、陥落しない男いないでしょ」
「うんうん、毎年山ほどチョコ渡しに来る女の子、一人一人断ってるって言うしね。ま、うちのクラスじゃそんな最初から無理な勝負に出る子もいないけど」
「やっぱくっつくのも秒読みなんじゃないの~」
「残念だけど、あの麗しい和風美顔は拝むだけに留めとこ。眼福眼福」
ぼそぼそと話し合う女たちの声が、ちょうど鳴り始めたチャイムの音で消されていった。
――何が陥落だ、秒読みだ。好き勝手なこと言いやがって。
脳内では毒づいても、無論声に出せるわけがない。絶対に陥落なんてするものか。誓いを新たにしつつ、向かうのは部室。中学の時からやっている剣道で、高校に入って二度目の冬を迎えた。もうすぐ高三の今は、部活引退も視野に入ってきた時期である。それだけに竹刀を持つ手にも力がこもり、面を打つ声にも気合が入るというもの。なのだが、どうしても集中できずに、最後には顧問の声が飛んだ。
「円藤! 真面目にできんのなら、今日はもう帰れ! 頭冷やして出直してこい!」
結局言い返せるわけもなく、俺は頭を下げ、道場を出ることにした。その背中に、小さな声で顧問が言い添える。
「嘉乃ちゃんによろしくな。言っとくが顧問命令は絶対だぞ」
必ず伝言しろ。それはつまり、絶対に見舞いに行けということで。俺は、また頬に血が上る前にもう一度礼をした。他の部員からの言葉が、足を速める手伝いをする。
「元気印のあの嘉乃ちゃんが風邪で休みなんてなー。すっげー高熱だったりして」
「かわいそうだ……かわいそすぎて泣けてくるぜ。あーあ、俺ならダッシュで行くな。全速力決定」
そんな言葉が背中を押したわけではない。気づけば足は速まり、駅まで駆けていた。
いつもなら、あのうるさすぎるほどうるさい幼馴染の存在がウザくてたまらない帰り道。解放されるなら、一人でゆっくり過ごしたいと常々思っていた下校時間。それなのに、どうしてこんなに急いでしまうのか。その答えを、心の奥底に封じ込める。
肩を上下させ、到着したドアの手前、俺は息を整えた。いつもの木邑家の、車のミラーで自分の顔を確認する。大丈夫、クールな仮面は剥がれていない。
「おい、入るぞ」
嘉乃をそのまま年取らせたようなおばさんに迎えられ、通された部屋の中――は、真っ暗だった。分厚い遮光カーテンまで閉め切っているから、ベッドの中の嘉乃が見えない。いや、そもそも布団にくるまってるから顔も出ていないのだが。
「嘉乃? ……寝てるのか?」
さっきおばさんは起きていると言ったのに、返事もない。それとも熱で消耗して、声も出せないとか。それにしてはおばさんはご機嫌でお茶の用意をしていたようだったけれど。
おかしいと思いながらカーテンを少し開け、ベッドのそばに立つ。そのまま布団にそっと手をかけると、突然嘉乃の大声が飛んだ。
「だめ! 見ないで……!」
それは少し、いや、かなりのかすれ声だった。驚きはしたものの、そんなことで躊躇する間柄ではない。むしろ、その声のひどさで逆に心配になった。
「大丈夫かよ、まさかインフルエンザとか……こら、嘉乃、顔見せろよ」
半ば強引に布団を剥ぐと、おでこに冷えピタシートを貼った、見知った顔が現れた。ふにゃり、とその顔が泣きそうにゆがむ。
「秀ちゃんのばか……見ないでって言ったのに」
うるうるしているのと、熱のせいでか普段は色白の頬が赤いだけで、別に変わらない。やたらと目が大きくて、唇はちょっとぽってりしてて、鼻はちょこんと突き出ている。いつもの嘉乃だ。色素の薄い瞳と同じ、薄茶色の天パの髪が、多少寝乱れているぐらいか。
そう思ったのは、自分だけだったらしい。嘉乃はついに大粒の涙を零し出した。
「せっかくのバレンタインなのに……昨日徹夜でチョコもプレゼントも用意したのに……起きたら熱とか、しかもこんな惨めな顔なんか、あり得ない……あり得ないんだもん……」
ふええ、と泣き始めた嘉乃が嫌々指し示したのは、唇の横にポツンとできた、小さなニキビだった。そんなことか――と盛大に肩を落とした俺に、嘉乃が涙声で言い募る。
「こんなとこにニキビなんてできて、可愛くバレンタインチョコとかあげたって絶対無理だもん……せっかく今年ははりきってたのに……」
「何が無理なんだよ。っていうか、お前がはりきってるのはいつものことだろ?」
冷めた声でティッシュを渡してやると、嘉乃はまた涙を流す。
「違うもんっ……今年は、去年までと違うんだもん……! ちゃんと……で、……するつもりで……っ」
合間に入った咳で、言葉はちゃんと聞こえなかった。でも、はいはい、と頭を軽く撫でてやる。
「興奮すると熱が上がるぞ。別にチョコなら後で受け取ってやるから」
いつもみたいに。そう暗に込めた俺の言葉の響きに気づいたのか、嘉乃は不服そうに唇を尖らせた。
「後じゃだめなの! バレンタイン当日じゃなきゃ」
「じゃあ今渡せばいいだろ?」
「それもだめ! こんな可愛くない状態で渡せないの!」
まるで聞き分けのない子供だ。嘉乃が子供っぽいのはいつものことだが、早退までしてきた俺はかちんと来てしまった。つい、尖った声で言い返してしまう。
「なら別にいらないよ。今までだって、俺はほしいなんて言ったことない」
「……っ、秀ちゃんのばか……もういいから帰ってよ……!」
そこで再び咳き込み出した嘉乃は布団で顔を隠してしまう。泣き顔を見ていたらなぜか落ち着かなくて、それなのに顔が見えないのも無性に腹が立って。
俺は言った。言って、しまった。
「いいから渡せよ。恒例のモンがないと、なんか落ち着かないんだよ」
――まったく、誰のために他の女のチョコ受け取らないと思ってんだ。
そう、俺がいちいち全員に断って、たとえ義理でも受け取らないのは、この幼馴染のためだ。あれは忘れもしない小学校一年のバレンタイン。チョコの箱を抱えて戻った俺を見て、嘉乃は泣いた。それはもう、いつ泣き止むのかってくらいに延々と。
断ってもごちゃごちゃ言われて面倒だからと受け取ってきたら、大泣きの嘉乃をひたすら慰めることのほうがよっぽど面倒だと思い知らされたのだ。あの日から俺は、嘉乃に内緒でチョコを断ってきた。もちろん、それ以外の日の告白にしても同じことだ。論外だ。
容易に想像がつく嘉乃の涙――今みたいな普通のものでさえそうなのに、本気の泣き顔はもう見たくない。なんでか、胸が痛んで自分がすごい悪者になった気がするから。
これは、いつも嘉乃のふざけた告白を拒絶するのとは、別問題なのだ。
そんな本音までは言わなかったが、俺は自分の失敗を悟った。ああ、余計なことを。
のそり、と布団の中で嘉乃が動いた気配がする。これは絶対、喜んでる動きだ。
「……でも、ニキビが」
まだ涙声で、嘉乃が言う。俺はため息をついて、額を押さえた。
「いいよニキビぐらい。っていうかそんなのあってもなくても嘉乃は嘉乃だろ?」
また、布団の中で喜んでる息遣いが聞こえる。ああやばい。これはいつもの、向こうの掌中にはまる前触れだ。熱がある分弱ってはいるが、やはり嘉乃は嘉乃だった。
がばっと布団から出てきた顔は、満面の笑みを浮かべていた。
「それってそれって、ニキビなんか俺は気にしない。それでも嘉乃は可愛いぜ――ってこと? ねえそういうこと?」
途中に変な低音が入ったのは俺の声真似のつもりだろうか。頭を抱えたくなるが、時、既に遅しだ。
「何だそういうことー! もーっ秀ちゃんってばそれならそうと早く言ってくれたらいいのに! ちょっと待ってて! 今持ってくるからねっ!」
ビューン、と漫画の擬音が聞こえてきそうな凄まじい動きで、パジャマ姿の嘉乃はチョコの箱を抱えて戻ってきた。何だ、熱で動けないんじゃなかったのか。
「はいっ、秀ちゃん! 今年の本気チョコレート!」
いつもは本気を出していなかったのだろうか、などとはもう聞く元気もない。いつも派手ではあるラッピングとリボンがゴールドなのが本気度を示しているのだろう。まあ、そういうことにしておこう。
「……ああ、ありがとう」
頬をひくつかせながら受け取る俺を見て、嘉乃はにっこりする。それはもう、本当に嬉しくてたまらない子供みたいな純真な笑顔で、それだけでもいいことをした気になった。
いつもの告白は徹底拒絶しても、結局は毎年こうして嘉乃からチョコをもらう。それもまた、幼馴染として過ごしてきた年数分の習慣だった。本気だと言う今年が例年とどう違うのかは、正直よくわからないけれど。俺のそんな内心を知らない嘉乃はひとしきり興奮して喋り続け、仕方なく相手をしてやる。そして、そろそろ疲れが出てきた嘉乃の目がとろんとしてきた頃のこと。差し入れられた紅茶のセットをキッチンに返しに行って、戻ってきた俺は、嘉乃が眠っているのに気づいた。
「子供だな、本当に」
遠足ではしゃいで疲れたみたいな、満足げな微笑を浮かべたまま、幸せそうに寝息を立てている。肩まで布団をかけてやって、ふと枕の下に忍ばせたらしい本を発見した。
『彼に贈る手編みグッズ』『初めての手編み』『超・初心者にもできる手編み術』等々。そのタイトルで予想できた通り、チョコと共に渡された紙袋には、手編みのマフラーと帽子が入っていた。俺がよく被っているニット帽と似た、グレーの毛糸で丁寧に編まれている。が、編み目ははっきり言って不ぞろいではある。それでも、嘉乃がどれだけ一生懸命準備したのかは、十分伝わるものだった。
「こんなの被って登校したら、またからかわれるし」
クラスメイトにも部活の仲間にも、あれこれ言われるのは目に見えている。でも、鞄に入れないわけには行かなかった。
続いてチョコの箱を開けた俺は、つい吹き出しそうになった。大きなハート型に、白いクリームででかでかと「愛」と書かれているのだ。
「漢字かよ……」
くっく、と肩を揺らしながら、チョコを少しだけかじってみる。何が入っているのか、やたらと甘かった。
――こんだけ長い付き合いで、俺が甘いもの苦手ってまだわからないのかこいつは。
苦笑する。けれど、知っていても『だって本気の愛は甘いんだもん!』とか言いそうだと予想できて笑えた。
「まったく……無理しやがって」
徹夜してこんなことをしているから、熱を出したりするのだ。いつもは必要以上に元気なくせに、肝心な時にはこうしてダウンしたりする奴だから。
冬の日は短く、そうこうするうちにもう部屋は薄暗くなっていた。嘉乃も起きないし、そろそろ潮時だろう。帰ろうとしたところで、俺を呼び止めたのは嘉乃の寝言だった。
「う……ん……秀ちゃん」
えへへ、と世にも幸せそうな笑顔で、嘉乃は呟く。ちょうどベッドの端に置いていた腕を、きゅっと掴まれた。
「大好き……」
もう何度聞いたかわからない言葉なのに、その瞬間どきりとした。夢の中にいてもなお、自分を呼んで、告白してくる。そんな幼馴染の純粋な、甘い声が、夕日の中で自分を引き止める。寝顔の頬はまだ少し赤く、唇はうっすらと開いていて、まるで呼ばれているような気がしてしまった。思わずその横に手を突いて、じっと見ていた自分に気づき、我に返る。
「何やってんだ俺は」
わざわざ声に出したのは、冷静になるためだ。なのに、また寝言が俺を呼んだ。
「秀ちゃん……」
囁きにも似た嘉乃の声。赤い頬、赤い唇。そして、少しめくれた布団の下から、ピンクのパジャマが――留められていない二つ目のボタンのせいで、隙間から白い肌が見えている。
再び頭を振り、ベッドから立ち上がろうとする。その刹那を待っていたかのような絶妙のタイミングで、嘉乃が言った。
「秀ちゃん……キス、して……」
寝言にしても、たちが悪い。そう毒づいてしまうほどに、破壊力は強大だった。
幸せそうに自分の夢を見て、腕を掴んで、無意識の中でも誘惑してくる幼馴染。気づけば覗きこむ距離はまた狭まり、自分を呼ぶ唇に――吸い寄せられるように自身の唇を近づけた、その瞬間だった。
「ぶあっくしょおいいい!」
まさに目と鼻の先で大きなくしゃみをぶちまけられ、俺は固まった。瞼が持ち上がるのを見て、慌ててベッドから離れる。目覚めた嘉乃が、きょとんとしてそんな俺を見つめる。
「あれ、寝ちゃってた? どうかしたの? 秀ちゃん」
「……何でもない。帰る」
「えーもう帰っちゃうのお? どうせなら夕飯一緒に食べてってよう。ママがカレー用意するって言ってたよ?」
「腹は減ってない!」
「秀ちゃん? 秀ちゃんってばあ~!」
追いかけてこようとする嘉乃をなんとか振り切って、俺は外へ出た。といっても自宅は、まん前なのだけれど。顔面に吹きかけられたくしゃみによりも、自分のとんでもない行動に驚き、また動揺していた俺は思った。これは秘密だ。絶対に誰にも言わない、俺だけの――ましてや、あの妙なところ鈍感な、厄介な幼馴染にだけは、絶対に。
決意と共に帰宅した俺は、まだ知らない。結局しっかり移された風邪のせいで、明日から散々からかわれることになることも、ひそかに嘉乃母がドアの隙間から覗いてにんまりしていたことも、何も――。
END
読んでくださり、ありがとうございました。
こんなヨシノちゃん目線の前作「義理で遊びでごっこなチョコの、小さな主張」もよろしければ合わせてどうぞ^^