比津ヶ山の神
外法丸は明音と出会ってから、明音の所に足しげく通うようになる。
孤独しか知らない外法丸にとって、明音は初めての友人。
今までは、孤独がどんなに辛くとも逃げる場所は無かった。しかし、今ではそれが存在する。
外法丸はそれが嬉しくて仕方なかった。
今日も今日とて明音の下で、畑の手伝いをする。主に秋の収穫は終わったので、冬野菜を育てる為に畑を耕していく。
それでも、農村に比べると小さな畑なので、一日の仕事はすぐに終わる。
「この山は陽の気が満ちていますから、実際の所、何を育てようとしても豊作になるんですよ」
明音は葉を煮詰めたお茶を持って来て、差し出しながら言う。
「そうなんだ。そういえば、比津ヶ村でも、飢饉が無いのは、この霊山のおかげなのかもな」
外法丸はそう言って、渡されたお茶を飲む。心底苦かった。いったい何の葉っぱを煮詰めたのだろうか。
「ふふ、おそらくそうでしょう」
お茶の苦味に顔を顰める外法丸に微笑みながら頷いて、明音はお茶を普通に飲んでいる。外法丸はその様子を見て、何で明音は平気なのだろうと、不思議に思う。
「じゃあさ。そこの花達が、季節を無視して咲き誇ってんのも、霊山の陽の気の影響ってことか」
「そうですね。きっと、この山に眠る神様は、お花がお好きなのでしょう」
霊山には神がいると言われている。
神とは、陽の気そのものでもあり、霊山に陽の気が満ちているのも、陽の気を持った神が、その山の中で眠っているから、陽の気が漏れだしているのだと言われている。
中腹に神社があるのもその為だ。山のどこかにいる神を祀る為に神社は造られ、神主もその為に、この山に住まう。
「……神様か」
外法丸は神を思い、複雑な気持ちになる。
外法丸は毎日のように、神に助けを祈っていた時期がある。神主と知り合ったのもその時期だ。しかし、結局神は、外法丸を救ってはくれなかった。
「いえ、救ってくれたのではないでしょうか?」
外法丸の心を読んで、明音がそんなことを言う。
「救ってくれたって、どういうことだ?」
「少なくとも、私は神様が私達を救ってくれたと思っています。神様が、私達を出会わせてくれたのだと」
「……明音は、俺と会って、救われたのか?」
外法丸は自信無く尋ねる。
自分が明音に救いを求めているだけで、自分が明音の役に立っているようには、あまり思えなかったのだ。
「ええ、随分と」
明音は、外法丸の不安を取り除くように、力強く頷く。
「……そうか。なら、こうやって出会わせてくれたことに感謝するよ。俺は、――……明音と会えて救われたから」
外法丸は最後の部分を、恥ずかしそうに小声で言う。
「最後、なんて言ったんですか?」
聞き取れなかったのか、明音は笑顔で聞いて来る。
「心が読めるんなら、俺がなんて言ったかくらいわかるだろうが」
外法丸がうんざりとした調子で返すと、明音は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「直接聞きたいんですよ」
「いやだ。恥ずかしい」
外法丸はそっぽを向いて、歩き出す。
「言って下さいよ」
追いかけてこようとする明音。
「いやだって、言ってんだろ」
逃げる外法丸。
「良いじゃないですか。減るもんじゃないんですし」
「減る。きっと、俺の心の中の、何かが減る」
そんなことを言い合いながら、二人は追いかけっこをし始める。
まるで、二人は童心に帰ったように、笑い合いながら走り回る。
むしろ、二人は幼い時に、こういった遊びが出来なかったのだ。幼い時に出来なかったことを、今、取り戻そうとしているようでもあった。
二人が疲れて、お互いに立ち止まった時には、何で追いかけ合っていたかなんて忘れていた。
「あはは、疲れました」
明音は肩で呼吸しながらも、笑って花畑に座り込む。
「全くだ」
外法丸はその隣に座ると、体を横にする。
「なんか、こうやって寝っ転がって花に埋もれていると、別世界に来たような気がする」
「別世界ですか?」
「そうさ。世の中は綺麗な物だけで、汚いものは何も無く、ただただ、幸せな世界」
「……本当に、そんな世界だったら、良いですね」
外法丸の夢想に、明音は頷いてくれた。
明音自身、いや、誰だって、外法丸の言うような世界に憧れるだろう。
「神々の住まう天海は、そんな世界なんだろうな」
「そうかもしれませんね」
「……俺は、生まれ変わったら、天海で産まれたい。そうすれば、悲しむことも無く、傷付けることも無く、幸せに生きられる」
外法丸は身を起こして、明音の方を見て、そんなことを言う。
人は死ぬと魂だけの存在になり、浄界と呼ばれる場所に向かい、魂を浄化して、生まれ変わる。浄化されてしまうと、記憶も人格も失ってしまうけれど、死は終わりではない。
そして、外法丸の今までの人生は、幸福とは程遠いものだった。もちろん、外法丸は、明音といる今は、幸せだと思ってはいる。しかしそれでも、この幸せがいつまで続くだろうかと言う恐怖を抱えながらの幸せだった。
呪い子と言われ続けた外法丸は、自分の幸せに関して、懐疑的になっていた。それが余計な心配かもしれず、もしかしたら、この幸せが永遠に続く可能性もあるかもしれないとは、外法丸だって思わないでもないが、それでも、それを信じきれない自分がいることを、何より自覚しているのだ。
しかし、天海で生まれ変われば、そんな心配とは無縁でいられるはず。
だからこそ、憧れる。
次の人生でこそ、心からの幸せが得られるかもと。
「明音だって、生まれ変わったら、天海で産まれたいだろう?」
外法丸は尋ねると、明音は考え込んでから、頷く。
「……そうですね。天海で産まれてみたいですね。でも、もし生まれ変わったら、私はまた、外法丸と一緒に居たいです」
「なっ」
外法丸は思わず絶句し、顔を真っ赤に染める。
「恥ずかしいこと言うなよ」
「でも、本音ですから」
明音は恥ずかしがる外法丸とは対照的に、呆気らかんとした顔で言って来る。
外法丸は、心を落ち着かせようと、大きく息を吐く。
「はぁ、……ったく。まぁ、良いさ。もし、俺が天海に産まれたとしたら、俺は神だからな。そしたら、俺は神の力で、明音のことを探してやるよ」
「ふふ、その時はお願いします」
外法丸の叶うはずの無い戯言に、明音は嬉しそうに頷いてくれた。
生まれ変わっても一緒に居たい。そんなことを思ってくれる相手など、普通の人生を送っている人でも、そうはいないだろう。
「……仕方ねぇな」
捻くれ者の外法丸は、素直に喜びを表現できずに億劫そうに答えてしまうが、内心ではとても嬉しかった。
心の読める明音は、外法丸の気持ちを読みとっているのだろう。外法丸の言葉にも、特に機嫌を損ねるようなこともせず、ニコニコと微笑んでくれいる。
外法丸はそのことに安堵の思いを抱く。
別に、外法丸だって、素直に表現したいのだ。しかし、言おうとすると恥ずかしくなり、つい、ぶっきら棒に、真反対のことを答えてしまう。
昔の素直だった頃に、戻りたいとも外法丸は最近思う。
そうすれば、どれだけ自分が、明音に会えて嬉しいか。それが、ちゃんと言葉として言えるのに。
「大丈夫ですよ」
明音は言う。
「外法丸に直接言ってもらえないのは、少しばかり残念ですけれど、ちゃんと、外法丸の気持ちはわかっていますから」
「ふ、ふん。どうでも良いよ」
外法丸の中で、嬉しさと恥ずかしさがせめぎ合うと、恥ずかしさの方が勝ったようだ。そっぽを向いて立ち上がると、小屋の方へと向かって行く。
そんな外法丸の背中に、明音は愛おしい者でも見るような、穏やかで優しい笑みを浮かべる。
外法丸にとって、明音と出会ってからの生活は楽しかった。
言葉をかければ、言葉を返してくれる。何もすることも無く、飽いてしまうような無為な時間を、一緒に遊んで浪費してくれる。味気ない御飯も、一緒に食べれば華やいで見えた。
そして何より、寂しい時、何も言わずに優しく抱きしめてくれる。
それらは、普通の人にとっては、何でも無いようなことだったかもしれない。しかし、孤独だった外法丸にとって、一緒に居てくれる人が居る。それがどれだけ、救いであり、嬉しかったことか。
外法丸は確かに思った。
妖になどならなくとも、ここには幸せがある。
外法丸はそう思うと、妖になる必要性を無くし、業を溜めることを止めた。そして、明音となるべく一緒に居ようとした。
そうすれば、幸せのままで居られると、信じるかのように。
明音はそんな外法丸を、喜んで迎え入れてくれる。
それは、孤独を抱えた者同士の、傷の舐め合い、慰め合い、そう言った感情からの交流なのかもしれない。けれど、この日々は間違いなく、存在した。
明音には懐かしく、外法丸には初めての、優しさに包まれた日々。
しかし、そんな優しさに包まれた日々は、人の心を弱くするには十分過ぎるものだった。
だから、外法丸は心を弱くし、忘れて行く。
自分の生きるこの世界が、酷く残酷で、何一つ思い通りになったことのない、悲しい世界だということを。
外法丸は、自分の中にある業を取り除く為、神社に向かう。
比津ヶ山の中腹には、木々を切り払われた平地が広がり、その真ん中に、大きな民家ほどの社がある。比津ヶ村の多くの農民達が、参拝しようと中に入るのだが、外法丸は中に入ったことがない。おそらく、比津ヶ山の神を祀る御神体が置かれているのだろう。
社から少し離れた所には、神主の住まう小さな民家があり、外法丸はそこを尋ねる。
明音と一緒に居たいのなら、自分の中に、業を溜めたままではいけないだろうと考えたのだ。
民家から顔を出した神主に外法丸は相談すると、神主は嬉しそうに頷いた。
「そうか。自らの業を取り払う気になったか」
「ああ、だからどうすれば良い?」
「……そうだな。ならば、ここで神の為に仕事をすると良い。そうすれば、おのずと業は払われることだろう」
「ここでか」
外法丸は顔を顰める。
外法丸は正直な所、神主が嫌いだった。だから、神主の下で行動したいとは思えなかったのだ。
まともに話してもくれるし、こうやって、導いてくれそうなことも言ってくれる。
しかし、外法丸を親殺しと断定したのも、呪い子と決めたのも、ここにいる神主なのだ。
神主は独善的で、自分の信じたこと以外は受け入れない。例え、自らの行いが間違っていたとしても、それを間違いとは認めないだろう。
神主は、外法丸に対して普通に接してくれているが、おそらく、誰よりも外法丸のことを呪い子として見ていることだろう。
普通に接してくれるからと、一度は、神主の下に身を寄せようしたことのある外法丸は、それを良く知っている。
「何か、他に方法は無いか?」
外法丸は他の方法を尋ねる。どうしても、神主の下で働きたいとは思えなかった。
「ふむ。好き嫌いをするものではない。お前は呪い子なのだから、神の下で善の道を進み、自らの業を浄化させるべきだ。そして、お前の――って、どこに行くのだ?」
神主が長々と説教じみたことを言いだすので、外法丸は無視して、神社から出て行く。
呪い子と言われて、気分が良いわけがなかった。しかし、半分ほど聞き流した神主の言葉には得るものがあった。
「……善行を行えば良いと言うことか」
神社は神を祀っているが、それは決して、神の恵みを得ているというわけではない。なので、神の下で善の道を進むと言うのも、本当は場所など関係ないのだ。
では、神社の役割は何なのかと言うと、霊的な神聖な場、ここでいえば比津ヶ山の霊山を、守護せんが為に造られた建物。霊山の満ちた陽の気は、神も神にならんとする者にとっても、都合の良い場所なので、神の住まい、もしくは神になる為の修練の場としても利用されている。つまり、神主は修練者であり、この場の守護者というわけだ。
別に外法丸は、神になろうとしているわけでもないので、業を無くす為に善行を行うなら、神社でなくとも比津ヶ村で十分だと、外法丸は考えた。
外法丸は比津ヶ村にやってくる。
とはいえ、外法丸は村人から呪い子として嫌われており、盗みも働いて来たので、彼らからすれば盗人の罪人でもある。心を入れ替えたと言って謝った所で、決して許してはくれない。むしろ、捕まりでもすれば、村人全員に殴り飛ばされることだろう。下手したら、殺されるかもしれない。
だから、表だって、何かすることはできないと、民家の物陰から働く村人達を覗き見る。
善行を行うとは思ったものの、行おうとしたら難しいものだ。
村人達は畑を耕している。
家族や友人達と話しながら、もしくは、調子っぱずれの歌を皆で歌いながら、仕事を進めて行く。
何とも楽しそうだと、外法丸は思う。
いつもその風景を見ては、外法丸は羨ましく思っていたものだ。
外法丸が真面目に仕事をしていた時、話しかけても無視をされ、見よう見真似で歌ってみれば、うるさいと怒鳴られた。
外法丸は、当時のことを思いだしてやりきれない気持ちを抱くが、明音を思ってなんとか飲み込む。
今では、明音に話しかければ話してくれる。歌おうとすれば、明音も一緒に歌ってくれるだろう。自分は今、一人では無い。
自分の気持ちを落ち着けるように、外法丸は大きく息を吐き、思考を元に戻す。
善行とは言っても何をするべきか。
見ての通り、村人達は忙しそうではあるけれど、それを苦にしているようには見えない。表だって手伝うこともできないので、仕事を手伝うという選択はまずないだろう。
誰か、困っている人はいないだろうかと、隠れながら村の中を陰から見て回りながら、村人達の話を聞いて行く。
途中、何度か見つかり石を投げつけられもしたが、気になる話を聞けた。それは、隣の村に妖が現れたと言うものだ。
隣の村で、子供が姿を消すと言う事件が起こっているという噂は聞いていたが、その事件の正体は、妖だったようだ。
外法丸は妖になろうとしていたので、神主に妖の事を色々と聞いていて、それなりに、妖について詳しい自信があるのだが、村人の話に意外に思う。
村人達は、事件を妖、もしくは神隠しだと思っていたようだったが、外法丸は野犬か狼にでも襲われて、食い殺されたのだと思っていた。もしくは、谷にでも落ちて転落死したか、山の中で、遭難でもしているのだろうと思っていた。
普通の妖は、村里までやっては来ない。
妖は自らの縄張りを持っており、縄張りに入らない限り、襲って来たりしないことが多い。だから月浦山のように、距離的には隣の村よりも近くの山に妖が棲んでいると言うのに、妖が村里にやってくることは無く、比津ヶ村の村人達は平和に暮らせているのだ。
外法丸にしても、そのことを利用して、妖の縄張りの境目のすぐそばにねぐらを作っている。もし、村人達が外法丸を捕まえに来たら、縄張りに入りこめば村人達は、妖を恐れて入って来れないし、獣にしても妖を警戒して、まず縄張りに近付いてこない。妖の縄張りの近くは、外法丸にとって安全な場所だったのだ。
しかし、隣の村に出て来るという妖は、村人の話だと、村の中までやって来たそうだ。つまり、縄張りを持たない妖。
神主の話だと、縄張りを持たない妖はとても危険な存在なのだと、外法丸は聞いている。
妖とは、世界を陰の気に穢して、自らの力へと変換する。
普通の妖なら、自らの縄張りを常に穢し続けることだけで満足するのだが、縄張りを持たない妖は、自分の縄張りにだけでは満足できず、貪欲に周囲を穢し、自らの力へと変換しようとする。
縄張りを持たない妖は一つの地に留まらないので、穢れが長く続くことはない。だから、世の中的に、そして、長期的に考えれば普通の妖程脅威ではないのだろうけれど、それでも周囲に穢れを撒き散らす妖は、今を生きる人にとっては、何よりも脅威である。
それに、色々な場所で陰の気を吸収しているので、普通の妖よりも強いことが多いらしい。
外法丸は考える。
もちろん、妖を退治しようなどと、考えているわけではない。もし万が一、退治しようとしても、返り討ちに遭うのが関の山だ。
妖退治は神主にでも任せることにして、外法丸の考えていることは、獣を狩ることだ。
妖が隣村に現れた。そのことによって、村の人達は、妖を恐れて山に狩猟に行けていない状態が続いている。
村では家畜の鶏を飼ってはいるが、それは卵を産ませる為に飼っているので、滅多に食用にはしない。だからここ最近、村の人間は肉を食べられずにいるはずだ。
だから、外法丸が獣を狩って村人達に渡せば、きっと喜んでくれる。
外法丸はそう思って、行動に移す。
外法丸は山のあちこちに罠を張り、丈夫でしなりのある木と、藁で作った紐を使って弓を作る。それだけで、一日を使ってしまった。
次の日に、細長い真っ直ぐな枝を拾っては、集めて行く。
「何をしているのですか?」
明音の小屋裏で、枝を石で作った小刀で削っていると、明音が聞いて来る。
「矢を作ってんのさ。こいつで獣を狩って、肉を得る。そうすれば、村人達も喜んでくれんだろ?」
「……お肉ですか。でも、この山で、狩りをしては駄目ですよ。霊山で殺生を行えば、神罰が下ってしまいます」
明音は注意して来る。
霊山の生き物は、この山に住まう神の物とされている。それを狩ることは業となると言われている。
霊山に神が住んでいるという話が、本当かどうかもわからないというのに、果たして本当に、霊山に住まう生き物は神の物なのだろうかという疑問もあるが、それでも業を減らそうとしているのに、試してみて、業を増えてしまっていたら、目も当てられない。
だから、外法丸にしても、霊山の獣を狩る気はない。
「わかってんさ。罠だって、月浦山に仕掛けてある。……ていうことは、もしかして、明音は全然、肉を食って無いのか?」
「いえ、そんなことは無いです。神主様が、時折お裾分けをしてくれるので、その時に、偶に食べますよ」
明音は嬉しそうに言う。おそらく明音は、神主のことを慕っているのだろう。独善的な部分を抜きにすれば、十分に良い人ではあるのだから。
「……神主がね」
外法丸は面白くない気持ちになるが、それを打ち消すように首を横に振る。
「――まぁ、良いや。いっぱい狩って、村人だけでなく、明音にもたらふく肉を食わせてやるよ」
「ふふ。楽しみにしています」
「おう、任せときな」
外法丸は作った矢を手に、意気揚々と月浦山に向かう。
「……おかしいな」
外法丸は仕掛けた罠を見て回ったのだが、何一つかかっていなかった。
まぁ、それは良い。外法丸自身、自分の作った罠が下手くそなのは理解している。だから、獲物が都合良く、かかってくれるとは思ってもいなかった。むしろ、かかっていれば僥倖とくらいしか思っていなかったので、この結果に不満は無い。
だが、外法丸が妙だと思ったのは、全くと言って良い程、獣の姿を見なかったことだ。山全てが静まり返り、不気味すぎる程の静寂で包まれている。
普段の月浦山は木々が鬱蒼と茂っていて、地面にまで光が照らされていない為、比津ヶ山とは違って、暗い雰囲気が常に付き纏う。けれど、鳥の囀りは常に聞こえ、冬でなければ、虫の鳴き声だって聞こえている。だが、今はそれが聞こえない。
しかし、決して生き物が居ないのではない。居ないと言うよりも、まるで、何かを恐れるように、全ての生き物が身を顰めている。
外法丸が歩き回っている間にも、生き物の気配のようなものは感じとっていた。どこからかまではわからないが、こちらを窺っているような気配。それも、襲おうとしているのでは無く、脅えるような視線。
周囲は緊張に包まれている。
外法丸はこの雰囲気に覚えがあった。
月浦山の山奥。
妖の縄張り。
「……やっぱり、おかしい」
外法丸は、妖の縄張りをしっかりと把握している。
この近くで寝起きしているのだから、ここが縄張りの中ではないことを誰よりも知っている。そして、昨日罠を仕掛けた時も、こんな雰囲気では全くなかった。
考えられる理由はいくつかある。
一つは、山奥に棲む妖が、縄張りを広げた。
それならば、ここが縄張りになっているのもわかる。しかし、少なくとも、外法丸がこの辺りに住まうようになって数年、こんなことは無かった。何故、急に縄張りを広げたのかがわからない。
そしてもう一つは、山奥の妖以外の妖が、この辺りに来ている。
普段であれば、外法丸はそんなことを考え付かなかったが、隣村に妖が現れたと言う噂を聞いたばかりだ。もしかしたら、隣村に現れた妖が、ここに来ているのかもしれない。
山奥に棲む妖の仕業で、この場所には陰の気が満ちている。そして、それは妖にとって居心地の良い環境。他の妖が、その場所を横取りに来た。その可能性だってあるかもしれない。
外法丸は考えれば考える程、他の妖が現れたのではないかと思えて来る。
「まずいな」
外法丸は一刻も早く、この場所から出ようと考える。どちらにしろ、この場所は危険なことに変わりはない。
幸い、まだ妖とは遭遇していない。
外法丸は近くに落ちていた石で軽く地面を掘り、土を体に擦り付ける。これで少しは、人間の臭いを消せる。相手が縄張りを持たない妖の場合、見つかったらどこまでも追いかけられる可能性がある。だから、見つからないように、脱出するのが一番だ。
外法丸は身を屈め、木々の陰に隠れるように移動する。
視野だけでなく、音にも注意しながら進む。
そうしていると、外法丸は気付く。
後ろの方で、トスッ、トスッ、と何かを刺す様な音が、僅かにする。それも少しずつだが大きくなっている。
後ろに何か居る。
まだ、遥か後方だ。しかし、着実に何かが近付いて来ている。
外法丸は、恐怖に体が強張るのを感じた。
後方にいるのは、おそらく、妖。
外法丸は焦り、闇雲に走り出したいという欲求を覚えるが、なんとか抑える。
後ろの妖は、こちらを窺うように付いて来ている。
それは何故か。
いくつか可能性を考えられる。
一つ目は、外法丸が怖がっているのを楽しんでいる。
二つ目は、外法丸に付いて行って、人里まで案内させようとしている。
三つ目は、外法丸を警戒している。
どちらにしろ、外法丸が逃げようとすれば即座に襲ってくる可能性がある。だから、外法丸は逃げ出したいのを堪えて、今までの歩調を変えずに歩く。
後ろの妖に気付いていないフリをしながら、妖はどうしてこちらを襲わないのかを考える。思い浮かんだ三つの動機。そのどれかによって、外法丸の取るべき行動が変わってくる。
外法丸が怖がっているのを妖が楽しんでいるのが、外法丸にとっては最悪だ。ただ、嬲り殺しにされていくだけ。
しかし、外法丸はその可能性は低いと思っている。もしそうならば、妖は外法丸に対して、何らかの行動を起こしているだろう。怖がらせるにしても、後を付けるだけなんて、生温いことはしない。妖は、相手に恐怖を与える為には、どこまでも狡猾な行動を起こして来るのだから。
では、人里まで案内させようとしているのではないか?
それならば十分あり得る。縄張りを持たない妖は、気を穢す為に人里を襲おうとする傾向がある。
人は他の動物に比べ、比較的、多くの気を保有していることが多い。故に、妖は人を喰らうことで、人の気を陰に染め、自らの力として取り込もうとする。
それならば、外法丸にとって話は簡単だ。
付いて来るならば、付いてこさせれば良い。
その場合、人里では無く、神社にだ。
神主とは、神を奉るだけでなく、神にならんと修練を積んでもいるのだ。つまり、神主なら、妖を倒せるだろう。
後ろを付いて来ている妖が、神主よりも強い場合は、それはそれで諦めるしかない。もし、神主よりも強いのならば、ここら辺には退治できる者がおらず、都に助けを求めた所で一日やそこらで助けが来てくれるわけもなく、比津ヶ村は妖によって滅ぶだろう。
つまり、神主の所に連れて行った所で、比津ヶ村の命運が早まるだけの話。外法丸にとっては、特に問題は無い結果だ。
なので、妖が人里に案内させようとしているのなら、外法丸はその通りにするのだが、問題は妖が外法丸を警戒している場合だ。
外法丸は土で臭いを隠している。
妖は外法丸が、何者かまでは気付いていない可能性がある。
外法丸を追っているのは、何者かを確かめるためで、襲ってこないのも、強敵の可能性を危惧しているだけなのかもしれない。そうならば、外法丸の存在を、完全に感知された瞬間に、妖は襲ってくることだろう。
その場合は、外法丸は完全に追い付かれる前に、気配を殺して、どこかに隠れなければいけない。
外法丸は選ばなければならなかった。
このまま、神社に向かうか、すぐさま隠れるか。
選択を間違えれば、死が待っている。
外法丸は死にたくないと心から思う。
明音に出会い、やっと幸せを知ったのだ。そして、これからもその幸せは続いてくれると思い始めていたのだ。
しかし、ここで死んでしまっては、全てが終わる。
明音と話すことはできない。
明音の笑顔が見ることができない。
そして、明音の温もりを感じることが、二度と出来ない。
そんなのは嫌だった。
外法丸は必死に考える。どちらを選ぶべきか。
急き立てるように、妖の音が、ゆっくりとだが着実に近付いて来ている。
くそ、時間が……。
そう思った時、外法丸は気付く。
妖は近付いて来ている。つまりは、追い付く気があるということ。
妖は、人里に案内させようなんて、思っていないのではないか?
外法丸は思い当たると、すぐさま辺りを見回して、隠れる場所を探す。
ここは木々溢れる森の中。
一見、隠れる場所はいくらでもあるように見えるが、木や、藪の陰に隠れるだけでは、駄目だろう。相手は追って来ているのだ。動きを止めて隠れれば、追って来た妖も、その場を探すことだろう。少し探されただけで、見つかるような場所では意味がない。
必死に目を動かして探す。
そして、外法丸は幸運にも、良い場所を見つける。
木々の隙間に、突き出るように存在する岩場。
苔に覆われた岩の下に、僅かながらに隙間があることに気付く。
普段であれば気付かなかっただろう。苔に覆われている為、外からはまるで、塞がっているように見える。気付いたのは、藪の中に隠れていた蛇が、妖の接近に恐れ、岩下に入って行くのを、目の端で捉えらからだ。
蛇の入った岩下には、外法丸が入るだけの隙間は無かったが、他にも似たような場所を見つけることが出来たのには、一生分の幸運を使ってしまった気がする程だ。
外法丸は即座に岩の下に潜り込む。
大人が入るには不可能な大きさだが、十三の割に、小柄な外法丸ならば、なんとか入れる隙魔だった。その中には虫が何十といて、何匹かが体を這う。肌が泡立つような気持ち悪さを感じたが、外法丸は唇を噛みしめるようにして耐える。
外法丸が姿を消したとわかると、妖の気配がすぐさま近付いて来る。
逃げ出さなかったのは正解のようだ。
外法丸は妖の姿を見ないように、岩場の中で顔を伏せて、妖が居なくなるのを待つ。明音のように、気配だけで妖がどこで何をしているのかといったように、正確なことまで感じとることはできない。だから、もしかしたら、すでに見つかっていて、岩下を覗きこまれているかもしれない。そんな想像が頭に浮かんで、外法丸は頭を上げようとしてしまう。だが、なんとか耐える。
視線と言うのは、それだけで、気配になってしまう。誰かに見られている気がする。そういう感覚を相手に与えてしまうのだ。
少しすると、岩の外からは、何が起こっているのかわからないが、轟音が鳴り響く。
外法丸は恐怖で、動機が激しくなる、
緊張し過ぎて、頭が痛くもなる。
それでも、外法丸は耐えて、耐えて、ひたすらに耐える。ただ、明音のことを思って。
岩下に蹲ったまま、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
一瞬のような気もするし、何日も経ったようにも、外法丸には感じられた。
そうしていると、いつの間にか妖の気配が無くなった。
それでも外法丸は耐える。
これが罠だとは言い切れないのだから。
けれど、欲求に耐えられずに頭を上げて、外の様子を少しだけ窺う。
外は真っ暗で、外の様子は、窺い知ることが出来なかった。どうやら、夜になってしまったことだけがわかる。
闇の先に妖が居ると思うと、外法丸は怖くて動くことが出来なかった。
外法丸は夜が明けるまで、ひたすら息を顰めて待ち続けた。
夜が明けた時には、外法丸は疲れ切っていた。
虫が体を這うのには慣れたが、脅えた状況で眠れるわけも無く、精根尽き果てたという状態で、岩の下から這い出る。
立ち上がって周囲を確認すると、妖は本当に居なくなっているようだ。
だが、驚くべきことに、周囲の状況は隠れる前とは一変していた。
木々が薙ぎ倒され、外法丸の隠れていた横の岩の一部も砕けている。おそらく、妖が外法丸を探して、周囲を破壊したのだろう。
岩の下で聞こえた轟音は、このことだったのだろうと、外法丸は納得し、木々の陰に隠れるなどと言う、安易なことをしなくて良かったと、安堵の息を吐く。
外法丸は安心感から座り込みたい気分になる。しかし、この場で留まっているわけにはいかないとなんとか堪え、すぐさまこの山から出ようと歩き出す。
外法丸が住んでいたのは月浦山なので、月浦山が妖によって寄り付けないとなると、外法丸の行ける先は決まっていた。
疲れ果てた体に鞭打って、比津ヶ山を登り、明音の下へと向かう。
頂上の花畑が目に入ると、戻ってこれたことに涙が出そうになる。
早く、明音に会いたかった。
まだ、早朝と呼べる時間。
明音は眠っているかもしれない。
それでも、早く明音の笑顔を見て心から安心したいと、外法丸は明音の住まう小屋の中に入る。
明音は起きていた。しかし、様子が変だった。
藁布団の上で、上半身だけ身を起こしていて、両手で顔を覆い、肩を震わせている。外法丸が入ってきたのにも気付いていないようだ。
外法丸は、何か悪いことが起こっているのではないかと、不安になり、慌てて明音に近付く。
「どうした。何かあったのか?」
外法丸が呼びかけると、明音はやっと外法丸に気付いたようで、顔を外法丸の方に向けて来る。
明音の閉じられた目からは、涙が伝い落ちていた。
明音は外法丸の胸に抱き付くと、堰を切ったように声を上げて泣きだした。
外法丸は、ただただ、困惑する。
自分の疲れなど忘れ、明音に何が起こったのか、心配で心配で仕方がなかった。しかし、外法丸には何かすることもできず、明音の頭を慰めるように撫でることしかできなかった。
「……ごめんなさい」
明音は一通り泣き通すと、ようやく落ち着いたようで、顔を上げて謝って来た。
「別に良いさ。それよりも、どうしたんだ。何があったんだ?」
「いえ、ただ、……怖い夢を見ただけです」
「なんだよ。夢か」
たいしたことない答えに、外法丸は安堵して気楽に笑い飛ばそうとするが、すぐに思い出す。明音の力を。
明音は夢と言う形で、先の出来事を見ることが出来る。そして、明音がここまで動転する夢だ。それが、笑い飛ばせるようなものであるわけがない。
「……明音。……お前の見た夢は、先の出来事なのか?」
外法丸は恐る恐ると言ったように尋ねる。
出来ることならば、ただの悪夢であって欲しい。外法丸は心の底から思うが、明音は迷いながらも確かに頷いた。
次の日、明音は花を摘んでは、茎を結んで何かを楽しそうに作っているのを、外法丸は眺めていた。
昨日は妖に追いかけられた疲れと、明音に聞いた夢の内容に動転して、外法丸は平静ではいられなかったのだが、一日経つと、少しばかり心に余裕が出来た。
明音の先を予知する夢。
外法丸にとって、絶対に起きてはいけない夢の内容。
だから、外法丸は明音に聞いた。
その予知夢で見たことは、必ず起きるのかと。
この世は、何が起きるか決まっているなんてことは、外法丸には思えなかったし、思いたくなかった。
日々の出来事が決まっていないから、皆は努力するのだ。
暮らしが少しでも良くなるように。
少しでも幸せになるように。
しかし、この世の出来事が決まっていたとしたら、努力は無駄。どんなに頑張っても、幸せになる者はなり、幸せにならない者はならない。そんな決められた世界なんてものに、希望は存在しないし、少なくとも、外法丸にはそんな世界は容認できない。
自分が両親の愛を受けられずに育ったのも、全て決められていたと言うのなら、外法丸はこの世界を憎む。例え、無駄であろうとも。
だが、それに対しての明音の答えは微妙なものだった。
明音の今まで見た先の出来事は、必ず起きているのだと言う。しかしそれは、先の出来事を変えようとしていなかったからかもしれないとも、明音は言う。
明音は良い予知夢を見れば変える必要も無く、悪い予知夢を見て警告しても、人は信じてくれず、そのまま悪い出来事が起こる。
少なくとも明音の予知夢は、何もしなければ必ず起きている。そして、今まで強く変えようともしたことがないので、変えられるものなのかもわかっていない。
ならばと、外法丸は思う。
明音の予知した先の出来事を、自分が変えてみせると。
外法丸が、決意を固めていると、いつの間にか近付いて来ていた明音が、外法丸の頭に何かを乗せる。
「ん? なんだ?」
外法丸は頭に乗ったものを手で触ると、花で作られた飾りが乗っていた。
「ふふ、可愛いです」
花飾りを付けた外法丸を、面白そうに明音が見ているようだ。目を閉じているので、いまいちわかり難いが。
「可愛くねぇよ」
外法丸は憮然としたように花飾りを取ると、それを明音の頭に乗せる。
「うん。俺なんかより、よっぽど明音の方が似合ってる」
「そうでしょうか?」
「ああ、可愛いっていうより、綺麗って感じだけどな」
外法丸の言葉に明音は少し驚いた顔をすると、クスクスと笑いだす。
「ふふ。――あらら、今日は素直なのですね」
「うっさいは、ボケ」
外法丸は憮然としてそっぽを向く。そんな外法丸に、明音は困った子供でも見るように苦笑すると、外法丸を抱きしめて来る。
「な、何を」
明音の腕にすっぽりと納まった外法丸は戸惑うが、明音は構わず外法丸を元気づけるように背中を優しく撫でる。
「私は大丈夫ですよ」
「大丈夫って何だよ。お前は、……お前は――」
外法丸は思わず口を噤む。口にしてしまったら、明音の予知夢が起こってしまいそうで怖くて仕方なかったのだ。
「……確かに、私はこのままでいれば死んでしまうでしょう」
明音が、外法丸の口に出来なかったことを口にする。
そう、明音の予知夢。
それは自らの死。
「……けれど、私は大丈夫です」
「だから、大丈夫って何だよ。……死から、逃れる方法があるのか?」
外法丸は期待するように、縋るような思いで明音に尋ねる。しかし、明音は首を横に振って来る。
「どうすれば、自分の死から逃れられるかわかりません。……でも、私は死んでも良いとも思っているんですよ」
「なっ、ふざけんなよ」
外法丸は明音の言葉に驚き、明音の腕から離れて明音の顔を苛立ったように見つめる。しかし、それに明音は、どこまでも優しく微笑み返してくる。
「……だって、私は幸せなんですもの。今まで孤独だったのが嘘のように、毎日、外法丸が遊びに来てくれます。それだけで、私は嬉しくて幸せで、……例え、今この場で死んでも、私は悔いなどありませんから」
「だ、だから、ふざけるなって言ってんだろ。明音に悔いが無い? そんなこと知るか。お前が死んだら、俺が、……俺が悲しくて、寂しいだろうが……」
外法丸の怒鳴り声は、急に消え入りそうな声に変わる。それだけに、外法丸の切実な気持ちが伝わってくる。
「……そうですね。……ごめんなさい。死んでも良いなんて言いません。私も外法丸には死んで欲しくは無いです。そんな悲しいことは起こって欲しくないですものね」
「わかってんなら、死んでも良いなんて言うんじゃねぇよ。今度、そんなことを言ったら、俺がお前をぶっ殺してやる」
「ふふ、そんなこと出来ない癖に」
「うっせ」
外法丸は吐き捨てるように言うと、花畑から出て行く。
どうにかしなければと、外法丸は思ったのだ。明音は死んでも良いと言わない約束をしてはくれたものの、しかし、明音がそう思っているということに変わりは無い。
事実、明音は外法丸に、どうやって殺されるかを決して教えてくれなかった。それはおそらく、外法丸が巻き込まれないようにする為の配慮だろう。しかし、明音を助けようとするならば、状況がわかっていた方が、遥かに守り易い。それを教えてくれないと言うことは、明音の中には諦めがあると言うことだ。
だから、外法丸は思う。自分でどうにかしなければと。
例え、明音がそんな外法丸を悲しげに見ていようと構わない。外法丸は明音に絶対に死んでほしくは無いのだから。
自分が悲しいからだけではない。寂しいからだけでもない。
好きだから。
だから、明音には、誰よりも幸せになって欲しい。例え、自分の命を差し出すことになろうと、明音が助かってくれるのなら、それでも良いとすら、外法丸は思う。
外法丸は山を下りながら考える。
明音の死の理由。
外法丸には心当たりが一つあった。
比津ヶ山という霊山に住まう明音が死ぬと言うことは、普通はあまりない。崖から落ちたり、寿命と言うなら仕方ないかもしれない。だがまず、病で亡くなることも、凶暴な獣に襲われて殺されることもあまりないだろう。
血生臭いことが起こらないからこそ、陽の気は溢れ、霊山と呼ばれているのだから。
ならば、何故明音は死ぬのか?
それは、陽の気だろうと陰の気だろうと気にしない、強い意志を持った者によって、殺されるからだろう。そうとしか、考えられない。
普通であれば、陽の気の満ちた場所での陰の気に起因する行為は、よっぽどの理由と、それを行おうと言う意思が無ければ行えないのだ。
外法丸が、比津ヶ山で狩りをしようとしなかったのも、明音に言われたからだけでは無く、それが理由だ。
比津ヶ山を穢そうがどうしようが、外法丸には本来関係無く、元々、生きる為の狩りは、それほど陰の気になる行為ではないというのに、外法丸はそれを避けたほどだ。
つまり、比津ヶ山に住まい、出ることのない明音を殺すのには、それだけの意思も理由も必要ということだ。しかし、明音に対して、そんな強い殺意を持った人間は、少なくとも比津ヶ村の農民達の中に居るとは、外法丸には思えない。
ならば、誰か?
外法丸の心当たり。それは妖の存在。
月浦山で外法丸を追って来た、縄張りを持たない妖。それが、比津ヶ山の霊山を疎ましく思い、穢しに来たらどうだろうか?
おそらく、明音と遭遇し、明音は殺されてしまうだろう。もしその場に、外法丸が居たとしても結果は変わらない。ただ、殺される者が増えるだけ。
だからこそ明音は、外法丸を巻き込まないように、教えようとしないのではないか?
外法丸は、考えれば考える程、その可能性が正しい気がしてくる。だから、外法丸は神社に向かう。
この村で唯一、妖と戦えるであろう人物の下へと。
「やはりそうか」
神社の境内を掃除していた神主は、急にやって来た外法丸に驚いたものの、話を聞くと、手を止めて考え込む。
「外法丸。昨日から比津ヶ村の子供が行方知れずになっていてな。おそらく、外法丸の見た妖が、村の外で遊んでいた子供を攫ったのかもしれん」
神主の言葉に、外法丸は驚いた。
月浦山の麓に妖が出たのだから、近い内に、妖が比津ヶ村を襲うかもしれないとは思っていたが、既に被害者が出ていたとは……。
「しかし、何故子供が村の外に? 比津ヶ村では、隣村の妖を警戒して、村の外に出ることを、禁じてんじゃないのか?」
外法丸が前に村の様子を見に行った時は、隣村の妖を恐れて、村人達は狩りにも出ないようにもしていたのだ。そんな中、子供が村の外で遊ぶなんてことが、あるのだろうかと、外法丸は思ったのだ。
「確かにな。しかし、中には、言いつけを守らない子供が居るものだ。そう言った者が、運悪く妖と遭遇したのだろう」
神主は、そんな子供達に苛々しているようだ。
「……なるほどな」
外法丸は納得する。
言いつけを守らない子供なんていくらでもいるものだ。
外法丸はそれを理解している。
外法丸が村に住んでいた時、外法丸は呪い子として村人から恐れられていた。関わったら不幸になるから、外法丸と一緒に遊んでは駄目だよと、親達が子供に言い聞かせるのを、何度も聞いたことがある。それでも悪餓鬼達は、親達の言いつけを無視して、外法丸を虐める対象として来たのだ。
子供は、親の言いつけを守らない。それが例え、自らの危険を避ける為の言いつけだろうと。……愚かしいことだと、外法丸は思うが、それは仕方ないことだとも思う。子供に、何が正しいのか、判断するだけの能力を期待する方がおかしいのだ。子供は間違いを犯す。だからこそ、大人は子供を正しい方向に導こうと、躍起になるのだ。しかし神主は、言いつけを守らない子供に対して、忌々しそうに顔を顰めている。神主は正しいことを押しつけ、間違った者を許そうとしない。それを悪いとは言わないが、外法丸は苛々した様子に、相変わらず心は狭いようだと、ため息を吐く。
「それで、お前は妖の姿は見ていないのか?」
「見てねぇよ。俺は必死で隠れてただけだからな」
「ふむ、……そうか。隣村に現れた妖は、蜘蛛の姿をしていたと言う。お前が妖の姿を見ていれば、同じ存在かどうかを、知ることもできたのだがな」
神主は少し残念そうな顔をする。しかし、外法丸は外法丸で、神主の言葉に何か引っかかる気がして、腑に落ちない顔をする。
「どうかしたか? 外法丸」
神主が、外法丸の様子に気付いて尋ねて来る。
「ん、いや、……何だろう? ……蜘蛛の妖ってのを、どこかで聞いた気がして」
「ふむ、誰かの噂ででも聞いたのだろう」
「そっかなぁ? ……まぁ、良いや」
外法丸は特に思い当たることも無く、首を横に振って考えを切り変える。
月浦山で妖に追われていた時のことを思い出し、妖について、何か手がかりは無いものかと、必死に考える。
「……もしかしたら、俺を追っかけて来た妖は、蜘蛛なのかもしれない」
外法丸は思い付いたことを言ってみる
「どう言うことだ?」
「いや、足音を聞いたって言ったろう? なんて言うか、トスッ、トスッ、ていう感じが、重い物が動いていると言うより、何かが地面を刺しているような感じだったんだ。そして、そんな足音させるのは虫だろう? 少なくとも、獣じゃないとは思う。獣なら、もっと、サクッ、とか、ザクッ、と言う感じで、地面を鳴らしているはずだ」
「つまり、虫型の妖。ならば、蜘蛛なのかもしれないと言うことか」
「そうさ。縄張りを持たない虫型の妖が、いきなり何体も現れて堪るかっての」
外法丸は肩を竦めて言うと、神主は苦笑する。
外法丸の言う通り、種類の違う妖が、この地に、それも同時期にやってくると言うことは、まず無いだろう。可能性は皆無とは言い切れないが、限りなく低い。
縄張りを持たない妖とは、欲深な存在だ。その為、縄張りを持たない妖のほとんどは、欲深な人間が業を溜めて、妖になった存在である。つまり、欲深な人間の多い都ならまだしも、何も無い、穏やかな農村では、縄張りを持たない妖が現れることはあまりないのだ。
だから、隣村に現れた妖と、月浦山に現れた妖は、同じ存在であると考えるのが普通だ。
神主は、もしもの可能性を考えて危惧していたのだろうけれど、外法丸からしてみれば、心配し過ぎだとしか思えない。
事実、この近くの村を含めて、ここ百年以上、縄張りを持たない妖が現れたと言う話は無いのだから。一体現れるだけでも、そんな少ない可能性だと言うのに、いきなり二体現れるなんてあり得ない。
外法丸はそう思ったのだが、また、何か違和感を覚える。
何かが引っ掛かる。
「さて、妖が現れたとなると、何か手を打たねばならないな」
外法丸が違和感の正体を探ろうと、深く考えようとしていると、神主がそんなことを言って来る。
「なぁ、結局さ。あんたは妖に勝てんのか?」
外法丸は不安に駆られて、神主に尋ねる。
おそらく、ここら辺で妖を倒せる者など神主だけだ。もし、神主が妖を倒してくれたなら、明音に危険が及ぶことも無くなる。死の危険に晒されることもない。しかしそれは、神主が妖を退治できなければ、妖を止めることが出来ないと言うことでもあるのだ。
神主は外法丸の問いに、肩を竦める。
「私は妖を見ていないのだ。どのくらいの実力を持った奴かわからないのでは、比べようもない」
「……そっか」
外法丸は肩を落とす。
神主の答えは期待したものではなかった。必ず勝てる。そう言ってもらえれば、どれだけ安心出来たことか。
だからと言って、過信だけで言われるよりは、良いのかもしれないと、外法丸は考え直す。
「もし、神主より強い場合はどうするんだ?」
「……ふむ、そうだな。その可能性を考える必要もあろう。私一人では無理でも、力を借りれば倒せるものだ」
「力を借りる? 誰にだよ?」
「村人達に決まっているだろう。力自慢の男衆に手伝ってもらえれば、妖退治もかなり楽になるだろう」
「ただの人間に、妖を倒せるのか?」
外法丸は意外に思う。
今まで、外法丸の見てきた妖は強く、普通の人間に倒せるような存在には見えなかった。修行を積んで、神や妖のように自らの気を使うことの出来るようになった、神主や侍などなら妖とも戦うことができるだろうけれど、ただの村人に退治などできるとは思えない。
神主は戸惑う外法丸に苦笑する。
「はは、気とは、お前が思う程、万能な力ではないのさ。私も気を使うことが出来るが、不意を打たれれば死にもしよう。そして、それは妖も同じ。妖は、陰の気によって体が変質し、醜い程の生命力を得ているとはいえ、それでも生き物であることに変わりはない。だから、私が妖と正面から対峙し、村の男衆が、周囲から妖を傷付けるようにすれば、より確実に妖を仕留めることができるだろう」
「……そうなのか」
神主の説明に、外法丸は頷く。
村人の中には猟をする者がいる。彼らの弓の技量は、子供の外法丸なんかよりも、ずっと上だ。そんな彼らが、遠くから射かけて動きを妨げ、神主が近くで妖に攻撃を仕掛けて大きな傷を負わせる。そうすれば、より簡単に、妖を退治することもできるだろう。
外法丸は考え込む。
「……なぁ。あんたが前に言ってたように、神社で修業を積めば、俺も妖と戦えるかな?」
「そうだな。十数年も修行すれば、少しは対抗することもできるだろう」
「十数年かよ。長げぇよ。数日にまかんないか」
「無理に決まっているだろう」
「くそ」
外法丸は悔しそうに歯がみする。
明音の予知夢。それが実際に起こる明確な日にちは、明音自身にもわからないらしい。それでも、一ヶ月より先ということもなく、ほとんどは十日以内に起こるそうだ。明音が予知夢を見たのは昨日。長くとも、後、九日しかない。
明音を守る為の修行に、十数年と言う時間をかけている余裕などない。
「なら、妖と戦う方法は無いのか?」
外法丸は喰い下がって尋ねると、神主は不思議そうに首を傾げる。
「……何故、そこまで妖を退治しようとする?」
「何故って、……明音を守る為だ。妖はたぶん、明音を狙ってくると思うんだ。だから、最悪あんたがやられた時、俺が少しでも対抗する為に強くなりたいんだ」
外法丸の言葉に、神主は驚いた顔をして言う。
「外法丸。お前は明音様と会っていたのか?」
「ん? ああ、そうだけど。……明音様? 何で、様付けなんだ?」
「……そうか。明音様は、お前に何も教えていないのだな」
「教えてないって、何をだよ」
外法丸が訝しそうに聞くと、神主は首を横に振る。
「明音様が教えようとしていないのなら、私が教えることではない。……それよりも、明音様を助ける為に、強くなりたいと言ったな」
神主が、外法丸の心を見透かすように、瞳を覗きこんでくる。
外法丸はその雰囲気に、一瞬気圧されそうになるが、踏みとどまって、目を逸らさずに頷く。
「……そうか。お前の心が本当ならば、妖に対抗する手段を与えよう。付いて来ると良い」
そう言って、神主は外法丸を社の中へと案内する。
社には板敷きの床が張られ、障子からは日が差し込んでいる。稀に比津ヶ村の人達の集会所としても使われるので、特に何か物が置いてあるわけでは無く、広々とした空間が広がり、その奥の壁には、神棚が一つ置いてあるだけだった。
外法丸は社の中に入るのは初めてで、清潔にされているが、中はあまりに質素で、神棚にしても、小さな社の形をした棚に、注連縄が巻かれているだけという造りに、外法丸は意外に思う。てっきり、社の中には神々しいばかりの意匠がこらしてあるのだとばかり思っていたのだ。
神主は神棚に近付いて行くので、外法丸もその後に続く。
外法丸は間近で、神棚をマジマジと見つめる。
神棚に巻かれた注連縄は、まるで、神棚の扉が開かないように、封印しているように見える。
神主は注連縄に手を当てて何事か呟くと、注連縄が光に包まれて力を無くしたように、床へと落ちる。
神主はそれを見届けると、神棚の扉に恭しく手をかけて開く。
外法丸は、中の物を目にする。
神棚の中には、外法丸の肘から指先まで長さほどの、小刀が入っていた。何の飾り気のない白木の柄と鞘に収まっていて、刃までは見てとれないが、間違いなく小刀だとわかる造り。
神主は小刀を手に取ると、外法丸に渡してきた。
渡された瞬間、温かいものに包まれた気がする。
「これは?」
外法丸は繁々と受け取った小刀を眺めるが、外法丸には普通の小刀との違いを見て取ることは出来なかった。
もしかしたら、刃に何か細工が施されているのかもしれないと、小刀を抜き放つ。すると、明るい光が一瞬だけだが、刃から漏れだしたように感じた。
しかし、抜いた刃は、良く砥がれているが普通の刃だった。
「……やはり、抜くことが出来るか」
小刀を抜いた外法丸を、何か眩しい者でも見るように、目を細めて神主が言う。
「抜くことができた? 抜けないこともあるのか?」
外法丸が尋ねると、神主は頷く。
「少なくとも、私では抜くことはできなかった。……その刀は神刀でな。比津ヶ山に住まう、……神様の力が宿っている」
「すげぇな」
外法丸は驚き、自分の握った小刀を見詰めるながら、何故、神主は神様と言う時に、言葉を濁したのだろうと不思議にも思った。
「そう。神様の力を宿した刀には、強き気の力が宿っていて、その小刀で傷付けられた者は、たちどころに浄化されるだろう。……それ故に、その刀は扱う者を選ぶのだ」
「ふ~ん、そうなのか。傷付けられた者ってことは、妖以外にも効果があるのか?」
「……ああ。その小刀に封じられているのは、この山に住まう神様が、癒しの神になろうとして、自らの攻撃的な部分を、その小刀に封じたのだ。故にそれは、神様に仇名す者全てに通じる」
「へぇ。もしかして、かなり危険な物なんじゃないか?」
「そうだ。だから、使い方に気を付けろ。神様がお前のことを認めているからこそ、その神刀を託すのだ。もし、それを悪用するようなら、妖の前に、貴様を始末するからな」
「……わかっているさ。……もう、俺は業を溜めようなんて、思っちゃいないんだ。……つ~か、何で、神主であるあんたはこの刀を抜けないんだ?」
神主は、神になろうと修行に励む者であり、先達である神を奉る人間でもある。つまり、神から最も信頼された人とも言えるだろう。それなのに、神に神刀を扱うことを許されていないと言うのも、おかしな話しだと外法丸は思った。
「比津ヶ山の神様は、中々に心を許してくれないのだよ。人の心の奥底まで、探り知ることができるお方だからな。私自身でも気付いていない、陰の心にでも気付いておられるのかもしれない」
「ふ~ん。じゃあ、何で俺は抜けるんだろうな? 俺なんて、業だらけだぞ」
「そんなものは、神様に直接聞くと良い」
「はぁ? 何言ってんだ。俺がどうやって神様と話すんだよ」
外法丸は比津ヶ山の神が、どこにいるかも知らないのに、直接聞くことなど、出来るわけもない。
眉を寄せる外法丸に対して、神主は鼻で笑ったような気がする。
「まぁ、それでだ。その神刀を持てば、妖に対抗できるようになるだろう。ただし、神様の加護も万能ではない。過信して、無茶はするなよ」
「……わかってるよ。俺は妖の強さを知っているし、本当は、泣きたい程怖いんだ。過信なんて出来るわけがない」
外法丸は大事そうに、小刀を懐に仕舞う。
「さて、私は妖の対策を、村人達と話し合ってくる。――外法丸。お前はどうするんだ? 私と村人の所に行くか?」
神主の問いに、外法丸は首を横に振って、神主を睨みつける。
「村人が俺を受け入れてくれないことを、お前が一番知ってんだろうが」
外法丸を呪い子として定めたのは、神主だ。
外法丸が比津ヶ村に入れないのは、今まで働いてきた悪行の性ではあるものの、少なくとも、呪い子として村人に忌避されなければ、そんな悪行を働かなくて済んだのだ。
喉元まで出かかった、憎しみの籠った罵倒を、外法丸はなんとか飲み込む。外法丸にとって、倒すべきは神主では無い。
「……俺は行かないよ。明音を守るんだ。だからもし、妖の居場所がわかって退治に行くのなら、俺にも教えてくれ」
「……わかった。だが、絶対に明音様を守るのだぞ。あの方は、この地に必要な方なのだから」
「必要って何だ?」
「私の口から語るようなことではない。良いから、わかったのならさっさと行け。そして、明音様をお守りしろ」
「わかったよ。ケチ野郎」
教えてくれない神主に、外法丸は悪態を吐きながら社を出て行く。
「あら? 戻ってきたのですね」
畑の手入れをしていた明音が、比津ヶ山の頂上に戻ってきた外法丸を目にして、嬉しそうに微笑む。
「まぁ、あれだよ。少しばかり、明音を助ける光明を得たからな」
「そうなのですか?」
「おうよ。これを見な」
外法丸はそう言って、懐から神主に渡された小刀を取り出し、掲げ持つ。
「これは、神主の話だと、神刀なんだってよ」
「明比花ですね」
明音は外法丸の持つ神刀を見て、少し悲しげに言う。
「明比花?」
「その小刀の名前ですよ。神刀明比花」
「へぇ、そうなのか。神主はそこまで教えてはくれなかったな。……――まぁ、それでだ。俺は明音が死んでしまう原因は、妖だと思っているんだ。だから、妖を倒せる力さえあれば、明音を守れる。そして、明比花には、それだけの力があるんだと思う」
外法丸が力強く言う。しかし、それに対して、明音は眉根を寄せる。
「それは、外法丸が危険な目に遭うと言うことです。……私は反対です」
今までの明音からは想像できない、強い口調での否定。
「大丈夫だよ。無茶はしない。神主や村人達にも協力してもらうんだ。絶対に妖を倒せるさ」
呆気らかんと答える外法丸。その内側の意志はとても固いと明音は感じとったのか、諦めたようにため息を吐く。
「……そう。でも、少しでも危険だと思ったら、すぐに逃げるんですよ」
「わかってるって。俺だって死にたくないしな」
明音を守る為なら、死んでも良いと外法丸は思っているが、それでも、決して死にたいわけではない。出来ればこれからも、明音と一緒に生きて居たい。
その為には、出来るだけのことをやらなければと外法丸は思い、明比花を抜き放ち、素振りを始める。
人間の体と言うのは、慣れない動きをすぐには起こせないものだ。明比花を振るうが、思うような軌道を描いてもくれないし、自分の力が十分に腕の動きに伝わっているようにも思えない。しかしこれを繰り返せば、いずれはしっくり来るようになる。思った通りの軌道を描き、十分な力を伝えることだって出来る。
外法丸は正式な剣術を習ったことがあるわけも無く、その素振りは滅茶苦茶で、見る人が見れば隙だらけなのかもしれないが、自分の身一つで生きて来た外法丸は、自分の体がどれだけ動き、どれだけ動けるようになるかは、十分に理解していた。
外法丸は一心不乱に明比花を振るったり突いたりする。
そんな様子を傍目から見ていた明音は、外法丸の姿にクスクスと笑う。
「……何だよ」
外法丸は動きを止め、明音を恨みがましく見つめる。
「なんだか、剣術の稽古と言うよりも、一人で侍ごっこの練習をしているみたいに見えるんですよ」
確かに基礎の全くない外法丸の動きは、傍目からは子供同士が侍の真似事をして行っている、侍ごっことたいして違い無く見えることだろう。
外法丸も、自分の様子を何となく想像できたが、大真面目にやっている身としては、そんな指摘は面白くない。
「……侍ごっこって酷ぇな。俺は子供じゃねぇぞ」
明比花を鞘に戻しながら、外法丸は文句を言う。
「あら? 十分子供だと思いますよ」
「うっせ。年増」
子供扱いされた外法丸は悪態をつく。
「ふふ、酷いことを言いますね、糞餓鬼」
明音は笑みを浮かべたまま、悪態を返して来る。
「言ったな、細目」
「目は細いんじゃなくて、閉じているんです。それに、あなたの目付きの悪さよりは、大分良いと思いますよ」
外法丸の悪口を、明音は余裕で受け流す。
「くぅ、なら、貧乳」
「チビ」
「馬鹿」
「阿呆」
「ドジ」
「天の邪鬼」
二人は思いつく限りの悪口を言い合う。
しかし、二人の顔に浮かんでいる表情は笑みだった。
二人にとって、友人と悪口を言い合うということは、今まで無かったのだ。二人の間を飛び交う言葉は悪意に満ちたものだったけれど、二人にはそれが面白かった。
「って言うか、刀の練習ができてねぇ」
悪口を言うのに夢中になり、素振りをするのをすっかり忘れていた外法丸は、愕然としたように言う。
「ふふん。今頃気付いたのですか。良いですか? 私の目が黒い内は、あなたに刀の練習なんてさせません」
「黒目が見えねぇ」
外法丸は思わず突っ込んでしまう。
当然の如く、目を瞑っている明音の目の色は見える訳も無く、本当に黒いのかも、怪しいものだ。
「あら?」
明音は少し困ったように小首を傾げる。
「あら? じゃねぇよ。って言うか、なんで邪魔をすんだよ」
「そんなの、外法丸が一人で頑張っていると、私が暇だからに決まっているじゃないですか」
明音は、何もやましいことはないと言わんばかりに、胸を張って答える。
あまりに堂々とした態度に、外法丸は呆れを通り越し、思わず苦笑してしまう。
「暇って、それくらい我慢してくれよ。明音を守ることが出来たら、ずっと遊んでやっから」
「いやです。私は今を楽しみたい」
「我が儘を」
外法丸は、うんざりしたように眉根を寄せるが、すぐに思い至る。
明音も不安なのだと。
もし、明音を助けることが出来なければ、今流れている時間が、明音に残された最後の平穏な時間かもしれないのだ。せめて、その残された時間を楽しい思い出で埋め尽くしたい。明音はそんな風に考えているのかもしれない。
「……なぁ。なんだったら、この山から一緒に逃げないか? そうすれば、危険な目に遭う可能性もなくなるんじゃないのか?」
そう。明音は常に比津ヶ山に居る。
この地に居るからこそ、明音の死と言う悲劇が起こるということではないだろうか?
外法丸は思うのだ。この地から出て行けば、明音は助かるのではないかと。
外法丸には、この地に対して愛着などない。
父を亡くし、差別され、育った地。少なくとも、外法丸にとって必要なものは、明音だけだ。明音と一緒なら、この地から離れることに何の抵抗も無い。
この地から出ることは、危険なことではある。
妖だけでなく、外の地には獣や山賊も居て、子供の外法丸にとって、いや、普通の大人にとっても、十分に脅威だ。今まで、外法丸がこの地を出なかったのもその為だ。だが、この地に留まれば、明音は必ず死ぬとわかっているのならば、危険を押してでも、この地から離れるのが正解のように思えた。
しかし、明音は悲しげに首を横に振る。
「……私はこの地から出られません」
「何でだよ?」
「……それは……」
明音は俯いて黙りこんでしまう。
明音には、何か秘密があるのだろうかと、外法丸は思い、なんだか、自分が信用されていないような、そんな寂しい気分になる。
その、外法丸の気持ちに気付いたのか、明音は慌てて顔を上げる。
「違うのです、外法丸。……私は、……怖いのです」
「怖い? 怖いって、何がだ?」
「……外法丸に、……外法丸は、私が人でないとしたら、どう思いますか?」
「……人じゃない?」
「ええ」
何を言っているんだろうと、外法丸は思った。明音は確かに、普通の人ではないだろう。けれど、外法丸にとって、そんなことは関係ない。外法丸にとって、明音は人だから大切なのではなく、優しく接してくれたからこそ、大切なのだ。だからこそ、外法丸は言う。
「そんなの、関係ない」
「……ありがとう、外法丸」
「ん、いや、別に。――で、人間じゃないとか、何なんだ?」
「……言葉通りですよ。……外法丸と初めて会った時、言ったはずですよ? 私は神なのか、人なのか、はたまた、妖なのかと」
「つまり、明音は人ではないと?」
「……神主様は、……私を神様だと思っているようですけど」
「か、神様?」
外法丸は驚きの声を上げる。しかし思ってみれば、最初外法丸が明音に会った時、明音は神ではないかと思ったのだ。そして、神主は、明音のことを明音様と呼んでいたのはつまり、明音が神だったからだ。
「……えっと、俺も、神主みたいに、明音様って呼んだ方が良いのか?」
「やめて下さい。……外法丸まで、私を特別扱いするのですか?」
明音は寂しそうな顔をする。それに、外法丸は気付く。
枠組みを決められることの悲しさを。
外法丸は呪い子と言う枠組みを決められた。
それは、自分とは違う者だと言う壁。
例え、何をしようとした所で、外法丸は、村人達の張った、呪い子と言う壁を越えることはできなかった。どんなに好かれるような努力をしても。
明音だって同じだろう。
明音は神という枠組みを作られたことにより、対等に扱ってくれる者などいなかったのだ。神主がいくら明音の為に行動しようと、それは神の為。決して明音の為ではない。心の読める明音にとって、その思いは、透けて見えるだろう。
明音にとって、対等に接してくれるのは外法丸だけ。もし、外法丸まで神として特別視してしまえば、明音はまた、孤独になってしまう。
外法丸にとって、明音が何だろうと関係ない。そう思ったのは、事実なのだ。だから、外法丸は安心させようと、笑みを浮かべる。
「ごめんな、明音。別に、明音が何だろうと、俺は明音と一緒に居たいだけだ」
「……ありがとう」
明音は嬉しそうに微笑み、その閉じた瞳からは涙が流れた。
「べ、別に、俺だって、明音に嫌われたら、孤独になっちまうからな。それより、明音が神様だとして、何でこの山から出れないんだ?」
「……それは、妖が縄張りを持つように、私も、長年この地に住まうことで、この地を縄張りとしてしまっているのです。私と、この山の繋がりは強く、私がこの地を出ることはできません。無理に出ようとすれば、私は多くの力を無くしてしまうでしょう」
「……そうなのか」
明音が力を無くすと言うが、それがどれだけのものかはわからない。
ただ、心を読むことが出来なくなったり、未来を見ることができなくなるだけか。もしくは、気を読んで、周囲の状況を確かめる力か。……最悪、人として生きていけるだけの力すら無くしてしまうのかもしれない。それはわからない。
明音を失うことが怖い外法丸にとって、そんな不確かな可能性に、賭けることはできなかった。
「――ん?」
何かを思い出しそうに、外法丸は首を傾げる。
「どうかしたのですか?」
「いや、さっき、神主と話していて、少し違和感を覚えたんだけど、もしかして、明音って、百年以上生きてんのか?」
ここ百年以上、近くの村を含めて妖は出ていない。それなのに、明音は隣村に住んでいたと言っている。その矛盾は、明音が百年以上生きていると思えば、辻褄は合う。神である明音なら、百年以上生きていても、不思議ではない。
「女性に年を聞くのは、失礼だと思いませんか?」
明音は明後日の方向を向いて言う。
「……そうか。明音はそんなにお婆ちゃんだったんだな」
外法丸はからかうような笑みを浮かべて言う。
「お婆ちゃんって言わないでください」
「いやいや、俺を子供扱いする理由も、わかるってものさ」
「うぅ~、そうですよ。どうせ、私はお婆ちゃんですよ。神主様だって、私が来てから、三代目ですし」
「あはは」
落ち込む明音に、外法丸は楽しそうに笑う。
次の日も、外法丸は明比花を振るう。
「飽きずにやってますね」
外法丸の熱心な様子に、明音は呆れたよう言う。
「明音を守る為だからな」
「ふふ、その気持ちは嬉しいのですけどね。……それで、外法丸に危険な目に遭っては欲しくないのですよ」
そう言ってくれる明音だからこそ、外法丸は守りたいのだ。
しばらく小刀を振るい続けた外法丸は、疲れたので小刀を懐にしまい、荒くなった息を整える。
「……そう言えば思ったんだけど、明音がこの山に来た時から、ここは霊山なんだよな? 明音以外にも、神様は居るのか?」
「ん? どうなんでしょうか? ……でも、元々この比津ヶ山は、気の強めの山だったと言うだけで、本格的に霊山になったのは、私が住んでからと言われています。だから、おそらく他の神様は居ないと思いますよ。私を預かった神主様にしても、気の力が陰に傾かないように、明比花に攻撃的な力を封印させたので」
「へぇ、そうなのか。……と言うことは、明音自身は、妖と戦うことができないのか?」
「……えぇ。戦う力はありませんけれど、身を守ることは、十分にできますよ」
「ふ~ん。まぁ、安心しな。俺が――なっ」
外法丸の言葉の途中に、大きな何かが空から降ってきたと思ったら、それは泉に落ちる。
盛大な水しぶきが起こり、周囲の花を押し流す。
「……何だ?」
外法丸はいきなりの出来事に茫然としたように呟いた瞬間、未だ慌ただしく揺れ動く水面から、何かが二方向に飛び出してきた。
外法丸の方と、もう一つは明音の方にだ。
飛び出して来たものは、外法丸に絡みつき引っ張ってきた。
「うわっ」
あまりにも強力な力に、外法丸は抵抗できず、地面の上を跳ねるように引かれる。その時の勢いで、明比花が懐から落ちてしまう。
「っふぶ」
外法丸は泉の中に引き摺り込まれる。
泡立って良く見えない水中に目を向けると、泉の中に何かが居るのに気付く。
外法丸は考える間もなく、今度は引っ張り上げられる。そして、水面に出た時には、何かが体中に絡みついたのか、身動きできない状態になっていた。
「げほっ、えほっ」
急に水中に入れられたので、気管に入った水を吐き出すように咳き込みながら、外法丸は周囲を見回す。
外法丸のすぐ横に、泉の中に落ちた者が居た。
それは巨大な蜘蛛。
それも蜘蛛の頭のある部分には、人の上半身が生えている。いや、人の下半身が蜘蛛の体をしていると言うのが、正解なのだろうか?
人の部分は皺だらけの翁の姿をしていて、その細腕からは信じられない力で、糸で吊るした外法丸の体を軽々と片手で持ち上げている。
そう、糸。
外法丸に絡みついたものとは、蜘蛛の糸だった。
外法丸はすぐに理解する。
この人と蜘蛛の姿の合わさった存在が、隣村に現れた妖なのだと。
慌てて明音の方に視線を向ける。
明音はどうやったのか、糸に絡め取られること無く、先程まで居た場所に佇んでいた。
「明音。逃げろ」
外法丸がそう叫ぶが、明音は動こうとしない。
何で動かないんだと、外法丸が思っていると、横から笑い声が聞こえた。それは妖の笑い声だった。
「グググ。懐カシイデハナイカ、小娘」
妖の言葉は流暢とは程遠いが、それでも意味を十分に聞きとれるものだった。
「最近。ここら辺に現れたと言う妖は、お前だったのですね」
二人の言葉は、知り合いであることを示していた。
「百年以上前、貴様ニヤラレ、力ヲ取リ戻スノニ相当ナ時間ヲ必要トシタ」
「……そうですか。あの時に死んでいなかったのですね。……残念です」
「グググ」
「お前の性で、私の人生は狂わされた。お前はまた、私の人生を狂わせるのですか」
明音は厳しい顔をしている。まるで、憎い者を見るような顔つき。外法丸は明音の、そんな顔を初めて見る。
明音の人生を狂わせたと言う妖。外法丸はその妖を見ていると、あることに気付く。明音が力に目覚めるきっかけとなった事件。その時に現れたと言う妖の姿に似ているのだ。と言うことは、この妖は、明音の目が見えなくなった原因なのだろう。
「グググ。貴様ノ人生ナド知ラヌ。シカシ、貴様ノ性デ、我ハ死ニカケタ。コノ恨ミハ忘レヌゾ。貴様ハ、我ガ喰ラッテクレヨウ」
「くっ」
明音は行動を起こそうとした。おそらく、外法丸の落とした明音花を拾いに行こうとしたのかもしれない。明音自身には、攻撃する力はないのだから。
「止マレ」
蜘蛛の妖の言葉に、走り出そうとしていた明音の動きは止まる。
いったい、何が起こったのだろうと、外法丸は思うと、すぐ近くの妖が、愉快そうに笑う。
「グググ。我モ馬鹿デハナイ。力ヲ取リ戻シテモ、貴様ノ力ニハ、及バナイコトヲ知ッテイル。ダカラ、我ハ貴様ノ、弱点ヲ探ッタ。コノ、小僧ト言ウ、弱点ヲナ」
外法丸は、自分の首に、妖のもう一つの手が、後ろから突き付けられているのに気付く。
つまり、明音が戦うことも、逃げることもできていないのは、外法丸が人質として取られているから。そう思い当たると、外法丸はあまりの情けなさに歯噛みする。
明音を守ると言っておきながら、結局の所、自分の性で危険な目に合わせている。
「俺のことは良いから、早く逃げろっ。逃げるんだ、明音」
明音は決して逃げないだろう。そうはわかっていながらも、外法丸は声の限り叫ぶ。
「黙レ」
妖は喚く外法丸をうるさく思ったのか、空いている方の腕で、外法丸の腹を殴る。
「げへっ、ぐはっ」
無防備な腹への一撃に、外法丸は痛みと衝撃に咳き込む。
「やめなさい」
明音は妖を威圧するように言う。
「ヤメテ欲シケレバ、貴様ガ抵抗セズニ、我ニ喰ワレレバ良イ。ソウスレバ、コノ小僧ハ、逃ガシテヤロウ」
「明音。言うことを聞くんじゃない」
「黙レト言ッテイル」
妖は糸を外法丸の口に巻きつけ黙らせる。
「サテ、ドウスル? 我ハ、百年以上、貴様ヲ喰ラウコトヲ考エテキタノダ。貴様ヲ喰エルノナラ、コノ小僧クライ、見逃シテヤロウ」
明音には嘘を見抜くことが出来る。だから、妖の言葉が真実か、明音は探っている。
「……私が喰われれば、本当にその子を助けてくれるのですか?」
妖が、外法丸を助けても良いと思っているのなら、明音は自分が喰われても良いと思ってしまうだろう。
「モチロン助ケルトモ」
妖は頷く。
駄目だ。自分の命を犠牲にするなんて。
外法丸はそう叫びたかったが、糸が口に巻きついていて叫ぶことが出来ない。それでも、外法丸は心を読みとれる明音に、訴え続ける。
しかし、明音は外法丸に優しい笑みを向けるだけだった。
「わかりました。私の命をどうしようと構いません。ですから、その子を放しなさい」
「グググ、良イダロウ。抵抗スルナヨ」
蜘蛛の妖は笑いながらそう言うと、明音に向かって糸を飛ばす。今度は明音に巻き付き、引き摺り寄せられる。それでも、明音は抵抗せず、されるがままになっている。
止めてくれ。
外法丸は心の中で叫ぶが、周囲に助けてくれる者などいないし、どんなに力を込めた所で、糸の戒めからは逃れることも出来ない。
止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。
しかし、外法丸の目の前で、蜘蛛の妖は明音の首元に噛みついた。
外法丸は目の前が真っ暗になるような絶望に襲われる。
だが、妖は長く噛むと言うことは無く、すぐに明音から離れる。明音の首元には牙の突き立てられた跡があり、そこからは僅かに血が流れている。だが、噛み切られたわけではないようだ。
明音はぐったりとした様子ではあるけれど、死んだわけではないようだ。
「グググ」
外法丸が安心しかけたのも束の間、蜘蛛の妖が笑う。
「ドウダ、動ケマイ。今、貴様ニ打チ込ンダノハ、我ガ作リシ毒。――グググ、スグニハ殺サンヨ。貴様ノ力ハ強過ギル。今喰ラッテモ、我ガ十分ナ力ヲ吸収デキルトハ限ラナイノデナ。貴様ノ力ヲジワジワト吸収シ、貴様ノ力ガ尽キタ時、ソノ時ニ貴様ヲ全テ喰ラッテヤロウ。ソレマデ、精々脅エルガ良イ」
蜘蛛の妖は上機嫌に語る。
妖にとって、神である明音の力は、喉から手が出る程欲しいものなのだろう。それが手に入ったのだ。妖の喜びはどれだけのものだろう。だが、そんなことは外法丸には関係ない。
少なくとも蜘蛛の妖の言葉からは、すぐに明音は死なないと言うことがわかる。それならば、助け出せる可能性は、まだ、無いわけではない。
「……さぁ、外法丸を……放しなさい」
明音が辛そうに、しかしはっきりと蜘蛛の妖に言う。
「グググ、良イダロウ」
蜘蛛の妖はそう答えると、外法丸に巻き付いていた糸が取れ、地面に落ちる。
「明音」
外法丸はすぐさま起き上がり、明音に近付こうとする。
「邪魔ヲスルナ」
巨大な蜘蛛の足で、外法丸は殴り飛ばされる。
蜘蛛の妖にとっては、近くの物をどかす為に払った程度の力加減だったのだろう。それなのに、外法丸は一瞬、息が出来なくなるほどの衝撃と痛みを感じる。
「げ、外法丸」
明音が動かない体を動かそうとしながら、心配するように外法丸の方を見て来る。
「小僧。貴様ヲ殺サナイノハ、約束ダカラダ。シカシ、我ノ邪魔ヲスルナラバ、殺シテクレヨウ」
外法丸は痛みによろめく体を堪えて、立ち上がる。
明音を助けたい。
しかし、自分にはそれだけの力が無い。殺される覚悟をしたところで、明音を救うことすらできない。
外法丸は走りだす。
妖とは反対側に。
悔しかった。自分の弱さが。
情けなかった。自分の無力さが。
外法丸は涙を流しなら、山を駆け下りる。
本当なら、蜘蛛の妖に跳びかかり、死んだって良かった。明音の居ない世界など、どうでもいいくらいに、明音が噛まれた時の絶望感は強かった。
ならば、明音と一緒に死ぬ。それも良いとすら思える。
しかし、自分が生きているのは、明音が自分を助けようとしたからだ。
外法丸さえ、人質にされなければ、明音はむざむざ捕まったりはしなかっただろう。むしろ、蜘蛛の妖の警戒ぶりを考えるに、もし、明音一人だったなら、妖を退治できたのかもしれなかったのだ。だからこそ、助けてもらっておいて、安易な死を選ぶことはできないと思った。
「くそっ、くそっ、くそっ」
死にたいほどの後悔。
それでも、死ぬわけにはいかない。
明音を助けるまでは。