呪い子
素朴にして長閑な農村に、悲鳴が木霊する。
当初は狼でも出たのかと村人達は、眉を顰めた。しかし、退治しようと村の男達が向かった先には、もっと危険な存在が居た。
農村は、血と火により、赤く染まっていく。
老若男女問うことなく、人が切られ、引き裂かれ、殴り砕かれ、燃やされ、噛みちぎられていく。
村人達は即死することは無かった。明らかに手加減されている。だけれど、それは果たして幸いなことだろうか?
村人達の負った傷は、全て放っておけば死んでしまう傷。そして、周囲には傷を手当てしてくれる者はいないどころか、傷を負った者以外は、傷付けた相手しか存在しない。
ただ、悪戯に死ぬまでの苦しみを引き伸ばしているだけだ。
村人の誰もが言う。
何故、自分達がこんな目に遭うのだ。
何故、誰も助けてくれないのだ。
自分達は、何も悪いことをしていないのに。
自分達は、ただ、平穏に生きたいだけなのに。
そんな苦しみながら訴える村人達を、傷付けた存在は、憎しみに染まった瞳で睨み据え、怒鳴り散らす。
ふざけるな。
忘れるものか。お前達の罪を。
忘れるものか。お前達の悪を。
許さない。例え、神々が許そうと、俺は許さない。
ただ、俺達は穏やかに生きたかっただけなのに。
ただ俺は、彼女に生きていて欲しかっただけなのに。
簡単には殺さない。彼女が苦しんだように、お前達も、苦しみの中で自らの罪を反省して、死ぬがいい。
人が苦しむ様に獰猛な笑みを浮かべ、人の悲鳴と呻き声が、自分の心を癒してくれると言わんばかりに、執拗なまでに痛めつける。そして、死した村人には興味を失せたように、炎を操り消し炭に変えていく。
誰一人、逃げることもできず、誰一人、助かることも無く、その村は、地獄と化して、滅んでいった。
それを行った存在は、人の姿をしていた。
背格好は十三、四歳程の少年。
まるで神主が着るような、白くゆったりとした斎服を着ている。
しかし、それは明らかに人ではなかった。
黒髪黒目が主流のこの国ではあり得ない、白色の髪に、金色の瞳が爛々と輝いている。そして何より、額にある一本の角。
そう、少年は鬼だった。
人が陰に堕ち、妖に成り下がった存在。
人を傷付け、人を貶め、人を喰らう、人にとって、最悪の敵。
そして、その少年の姿をした鬼は、後に、この国の首都にして最大の都、蔡の都を、崩壊にまで追い詰めた。
最強にして最悪として恐れられた鬼。
その名を外天童子と言う。
これは、外天童子が初めて行った、悪行であった。
遥か昔、神話の時代のこと、全ての祖、心命大神によって、現世は創られた。
心命大神は、生まれた頃から大神として存在し、他には何もない、孤独な存在だったと言う。
その孤独を取り払う為、大神は世界を創りだそうとした。しかし、創ろうにも心命大神以外の存在のない場所で、何かを新しく創り出すことはできなかった。
それでも、孤独に飽いていた、もしくは悲しんでいた大神は世界を創り上げようとした。
何も無いのなら、自分の体を使えば良い。
そう考えた大神は、自分の体を変じて行く。
大神の体は大地となり、大神の血は海となり、大神の体毛は森となる。
魂だけが残った大神は、自分の創り上げた世界に満足し、眺めていた。
しかし、その世界では同じことの繰り返し。何千年と眺めていると、それも次第に飽きて来る。そこで大神は、その世界に干渉して、新たな生命を創りだす。
あらゆる生き物が生まれる。
鳥や虫、魚や動物、多種多様な生き物たち。
大神は満足して、更に世界を眺める。しかし、数百年して大神は気付く。その生き物たちもまた、意思など無く、決まったことを繰り返しているだけだと。
大神は悩んだ。どうすれば、自分のように意思を持てるのだろうと。
そして、大神は答えを出す。彼らには魂がないのだと。
しかし、大神には魂を創りだすことはできなかった。
だから、大神は決める。
自分の魂を分け与えることを。
分けられた、大神の陽なる心は神となり、大神の迷う心は生き物に宿り、大神の陰なる心は妖となった。
これが、現世創造の話である。
神代と呼ばれる海に囲まれた国がある。
最初の神の末裔と言われる天宮帝の御膝元、人々は穏やかに暮らしていた。しかし、その平穏の時期も千年以上続くことにより、今では天宮帝の威光も陰ってきていた。
人々は毎日暮らしに追われ、神々への信仰が次第に薄れて行き、各領地を任されていた大名は、自らの権力を広げんが為、各地で小競り合いを起こしている。
未だ、大きな戦乱にまではなっていないが、確実に、人の世界は荒れていく。
世の中の荒廃に、陽の気は薄れ、陰の木は増えて言った。それに、陽を力とする神々の力は衰退し、世の中の陰を力とする妖は、力を増していく。
現世は今、乱れ始めていた。
神代の辺境には、比津ヶ村と呼ばれる、牧歌的な農村があり、比津ヶ村は、周囲を比津ヶ山と呼ばれる霊山を代表に、多くの山々に囲まれていた。比津ヶ村はその中で、比津ヶ山の麓にある僅かな平地を開拓して造られた村だ。しかし、僅かと言っても、他の山々と比べたらというだけだ。比津ヶ村の中央部には、二百数十人もの村人達が暮らしていた。村の中央には藁ぶき屋根の民家が密集しており、その民家群の周りを、広大な畑が広がっている。
この地の取り柄は、霊山と多くの自然というだけで、霊山があること以外は、他の田舎とたいして変わらず、一番近い隣の村に行くにも、山を二つは越えなくてはいけない。なので、旅人も滅多にやってくることも無く、年に二回ある都からの税の徴収以外に、外からの影響を受けることも少ないので、村人達は、村全体を一つ家族として捉える節があり、村人達は互いに助け合って生きている。比津ヶ山と言う霊山が近くにあるおかげか、村には不作や飢饉の心配も無く、この村に住まう人々は、他の地の農民達よりも、比較的、余裕のある暮らしが出来ていた。
そんな比津ヶ村に暮らす人々にとっては、大名が起こしているという小競り合いなどは、遠くの地の出来事でしかなく、平穏な日々を送れていたのだ。
だが、事、妖に関しては、関係ないでは済まされない。
「隣村で、子供がいなくなったそうだ」
「そりゃ、本当かい? 神隠しか何かかね」
「神隠しならまだマシさ。それなら、いつかはひょっこり帰ってくる可能性がある。けど、厄介なのは、妖だ。もし、妖なら、奴らが、人里まで降りてきているということだ。」
「そうだな。それは恐ろしい。神主さんに、相談すべきかね?」
「それが良いかもしれん」
村人が、鍬を肩に担いだまま、話に没頭している。話の内容は中々に物騒な内容ではある。隠れている少年は、そんな村人の話に、耳を傾けながらも、村人達の様子を確認する。
妖がもし、こんな辺鄙な村にやってくるようなら、少年は即刻この村から逃げ出すだけだと考える。少年は、比津ヶ村に特別な思い入れが無かったわけではないのだが、だからと言って、危ない思いをしてまで、この村に居座る気はしなかった。
少年は、畑の窪みに身を這わせて、ひたすら見つからないように畑を進む。目的の場所までもうすぐだ。
村人の視線がこっちに向かって無いかを時折確認しながら、土にまみれた布を被って、景色と同化しながら進む。
そして、目的地。
再度、村人達の様子を確認し、気付かれていないとわかると、手で地面を掘り進んでいく。
ミミズやムカデに混ざって、目的の物の端っこが顔を出す。
少年は息を吐いて、気を落ち着かせる。ここで慌てて掘り起こせば、目的の物を傷付けてしまう。丁寧に、土を掻き分けて、目的の物、……芋を掘り起こす。
芋は蔓にいくつも生えているのだが、さすがに何個も盗もうとすれば気付かれてしまう。だから、今日の所は一個にしようと、少年は謙虚に考えて、芋を蔓から引き離そうと、引っ張る。しかし、芋の蔓は頑強で、中々切り離せはしない。こんなことなら、石を削って作った小刀でも持って来るんだったと、自分の不用意さを、心の中で嘆く。
「くっぬっ」
少年は諦めきれず、力を入れて引っ張る。すると、その勢いで、一気にいくつもの芋が、地面から飛び出していく。
「こら、お前、何をしている」
「やべ」
さすがに気付かれてしまったようだ。
少年は出て来てしまった芋を全部引っ掴むと、慌てて立ち上がる。
「またお前か、外法丸」
村人達が怒りの籠った視線を、外法丸と呼ばれた少年に向けて来る。
外法丸と呼ばれた少年は、年の頃は、十三、四と言った所。目付き悪いが、小柄にして幼さの残る顔立ちの為か、悪人と言うよりも悪戯小僧と言う言葉が似合う顔立ちをしている。
「良いじゃねぇか。こんないっぱい芋があるんだ。一個くらい貰ったってよ」
外法丸が村人達に向かって悪びれずに言う。
「それのどこが一個だ。お前の抱えている芋は、少なくとも五個はあんだろうが」
村人の怒鳴り声に、外法丸は、自分の抱えている芋をチラリと見ると、確かに芋は複数あった。村人の言う数より多い六個だ。
だが、外法丸はふてぶてしく笑みを浮かべる。
「うっせぇよ。こんだけあんだから、五個も一個もたいして変わんねぇだろうが」
「馬鹿野郎が、お役人さんからの税で、ほとんど取られちまう俺達からしてみれば、芋一個でも、貴重なんだよ」
「んなもん、知るか。それなら、税なんてやらなければ良いだろうが」
外法丸は吐き捨てて、その場から脱兎の如く立ち去る。村人達は慌てて追いかけて来るが、外法丸のすばしっこさに、誰も付いてはいけなかった。
比津ヶ村からは、比津ヶ山の切り立った崖が間の辺りに出来る。
外法丸はその崖を迂回する。
崖の外れ辺りには、山の上に登る為の長い石の階段がある。
外法丸は、予想以上に手に入れてしまった芋を抱えて石段に座り込むと、荒れた呼吸を落ち着かせる。
「おや、また盗みを働いたのだな。この悪餓鬼は」
背中に声をかけられ、外法丸は驚いて振り向くと、見知った顔があり、ため息を吐く。そこに居たのは、山の中腹にある神社に住まう、神主だった。
白髪が混じり灰色になった長い髪を後ろで綺麗にまとめ、かなりの高齢にも関わらず、足腰に全く衰えを見せていない。
「別に良いじゃねぇか。あんだけたくさんの芋があるんだ。一つや二つ」
「一つや二つには見えんがな?」
神主は抱えた芋を見てくるので、外法丸は芋を隠すように背中を向ける。
「これは成り行き上だ。ちゃんと食うし、無駄にはしないんだから良いだろう?」
「……ふむ。そんなことを続けていると業が溜まり、妖になってしまうぞ」
神主は危惧するように言って来る。
「……妖ね。……それも良いさ。少なくとも、今の俺よりは楽しそうじゃねぇか」
「この馬鹿者が。そんなことばかりしているから、村人に嫌われ、友も出来ずにいるのだぞ」
外法丸は鼻で笑う。
「例え、俺が何もしていなくとも、誰も俺とは仲良くしようとはしないだろうさ。なんせ、呪い子なんだから」
外法丸は吐き捨てるように言い、さっさと背嚢に芋を仕舞って立ち上がると、木々の乱立する山の中に、姿を消す。
「何が友だ」
外法丸は山の中を歩きながら、苛々とした様子で一人叫ぶ。
自分に友が出来ないことは誰よりも、外法丸自身が知っている。それなのに、無駄な希望を与えようとする神主が、酷く腹立たしい。
かつて、外法丸も人と交わる暮らしに憧れ、色々な努力をした。村人に媚び、村人に逆らわず、村人の為に傷付きもした。しかし、村人は外法丸を受け入れることなく、呪い子として、忌み嫌うのだ。比津ヶ村のように、皆が皆、協力し合って生きている場所では、多数の人間に嫌われれば、村人全員に嫌われると言うことだ。そんな中で、呪い子として忌み嫌われる外法丸と、仲良くしようなどと言う者が現れるわけがないだろう。
外法丸は自分の人生を振り返る。
外法丸が生まれたと同時に、母は死んでしまったそうだ。それを嘆いた父は、当初は懸命に育ててくれたのだが、外法丸が物心付くようになる頃には、愛する妻を奪った憎しみが、外法丸に向けられていた。
外法丸が五つの頃、父は外法丸を近くの山に呼び出し、谷から落として殺そうとして来た。だが、それに外法丸は抵抗した。
死にたくなかったのだ。
しかし、その抵抗によって、父は足を滑らせ谷底に落ちて死んでしまう。例え、愛してくれていなくとも、唯一頼れる肉親。外法丸には殺意は無く、本当に偶然の出来事。
外法丸は父の死に最も悲しんだのだ。
だけれど、村人は信じてくれず、外法丸は親殺しとして、村人から蔑視と嫌悪の視線を向けられた。
引き取られた先でも、待遇は改善することなく、虐待は絶えることなく続く。
誰も親しく接してくれる者のいない毎日。
絶対的な孤独と、涙も出ない程の悲しみと、死んでしまいそうな痛みが、毎日のように続いて行く。
逃げ出したい程の絶望的な日々。
けれど、何の力もない子供の外法丸には、逃げ出すことは出来なかった。頼れる者のいない子供の外法丸が、この村を逃げ出したとしても途中で野垂れ死ぬのが関の山。
それでも外法丸は、例え村人に呪われた子供だと言われ続けたとしても、毎日を正しく生きていれば、いつかは誤解が解ける。いつかは、神様が自分を救ってくれる。そんなあるかどうかもわからない、そんな淡い希望を抱いて、外法丸は不満も言わずに、毎日をなんとか生きて行く。
しかし、その中で生きて来たが、そんな希望も実現することはなかった。
ある日、外法丸が九つの頃のことだ。
山菜を取りに、外法丸はいつも以上に、山の奥深くに入ってしまった。
外法丸が行く山は、比津ヶ山とは比津ヶ村を挟んで反対側にある月浦山、その奥深くには、妖が棲むと言われている。なので、普通は入ってはいけないと言われているのだが、死んでも良いと思われている外法丸には教えられることもなく、知らずに山の奥深くへと入って行く。
そして、外法丸は初めて妖を目にする。
外法丸は幸い、妖の存在にいち早く気付き、木々の陰に隠れることができたのだが、チラリと覗き見たその姿に、奇妙に引きつけられる。
その姿は芋虫のようであった。しかし、人の数倍にも及ぶ大きさ。そして、体の表皮には、無数の人の顔が張り付いている。普通の人にとってはおぞましいとすら思える姿。その巨体をズルズルと這わせて、前へ進んで行く。
外法丸はその姿に、奇妙な思いを抱いた。
それは憧れ。
妖は我が物顔で進んで行く。
妖の姿に脅えは無く、妖の姿に媚びは無く、妖の姿に悲しみもない。
その姿には縛るものがなく、圧倒的な自由が存在する。
外法丸が憧れる生き方を、妖がしている。
その日より、外法丸は家を出て、生き方を変える。
人は妖になれる。
業を溜めると人は、人を外れて妖となる。
自分のことを、神は救ってくれなかった。自分のことを、人は愛してはくれなかった。ならば、自分は妖になろう。
外法丸はそう決意して、悪事を働く。
神主は、妖になってしまうぞ、と脅してきたが、それこそ外法丸の望み。
妖になれば、自分はこの孤独にも、悲しみにも、悪事を働く罪悪感にも囚われることなく、自由になれるのだと信じて。
外法丸はいつもとは違う場所に向かうことにする。
いつもなら、昔、妖に出会った月浦山の近くに、ねぐらを作っているので、そこに帰るのだが、神主の性で気分を害した外法丸は、神主に嫌がらせをしようと、比津ヶ山の頂上に向かう。
比津ヶ山は霊山とされ、頂上には神聖なる霊水が湧いていると言うことらしい。
神聖な地であるから、一般の村人達は、山の中腹にある神社までしか登山を許されていない。外法丸にしても、折角溜めた業を浄化されそうな気がして、今まで近付いたことが無かった。
だが、何がしか、神主に嫌がらせをせねばと、外法丸はなんとなくムキになって、神主に見つからないように、木々や藪で覆われた、道なき道を登って行く。
その行程は、山に慣れた外法丸でも骨の折れるものではあったけれど、標高の高い山と言うわけでもないので、特に大きな問題も無く登りきる。
比津ヶ山の頂上には背の高い木々が生えておらず、頂上の高原に出ると、今まで遮られていた日の光が降り注ぎ、一瞬目が眩む。
光に目が慣れて来て、改めて周囲の景色を見ると、思わず外法丸は息を飲んだ。
高原には綺麗な色取り取りの花々が咲き乱れていて、甘い香りに包まれる。中央辺りには、霊水が湧き出ていた。その水はとても澄んでいて、日の光にキラキラと眩しい程に輝いている。湧き出た水は泉となり、小さな川となって流れ出ていて、その小川のせせらぎは心地よく耳に響いていく。
今まで、外法丸の見たことない程、その景色は穏やかで美しく、まるで、話に聞いた、神々の住まいし天海のようだ。
世の中には気というものがある。生き物全てに宿り、大気中にも漂っているもの。
心命大神が世界を創る時に、自らを変質させた力であり、生き物に宿る魂でもある。それは、世界を変質させる力。その力は周囲の影響を受け、影響を受けた気を、陰と陽と言う。
陰は、腐敗した空気や血や死体の溢れる戦場などの、不浄な空気や場所、または、怒れる心や悲しみの心などの、負の感情などに触れた気のことを言い、人や生き物が陰に堕ちれば、体の中の気は陰に染まり、人は妖となる。
また、陽は、澄んだ空気や生命溢れる大地などの、清浄な空気や場所、または、優しい心や愛する心などの、善なる感情などに触れた気のことを言い、人や生き物が陽に開花すれば、体の中の気は、陽に浄化され、人は神となる。
しかし残念ながら、人の世は陰に染まり易い。
陽なる気を自らの力とする神々の大半は、そのことを嘆き、不浄なる場を嫌い、神々の強大な力を利用して、天海と言う陽に保たれた世界を創り上げ、現世を離れて天界に移り住んでいる。
ここはその、神々の住まう天界のようだと、外法丸は思ったのだ。
陽なる力を生み出している霊泉の為、辺りの空気は通常では考えられない程澄み渡り、陽の気が充ち満ちている。
「すげぇな、こりゃ」
見惚れていた外法丸は、ポツリと呟き、改めて周囲を熱心に見渡す。
外法丸はここを穢しに来たのだが、ここまで素晴らしい場所だと思うと気が引ける。
それに、霊泉を穢すということは、霊泉から流れ出た川を生活用水として利用する比津ヶ村の村人にも、悪しき影響を及ぼすことだろう。作物が育たなくなり、飢えで亡くなるものまで出るかもしれない。
……それを行えば、どれだけの業が溜まることだろうか。
外法丸はそう思うものの、実行する気が中々しない。
迷いに迷って、結局、出来ないと、外法丸は首を横に振る。
外法丸は今まで悪事を行ってきたが、それでも小さなものばかりだ。生来、外道丸は悪人だったわけではなく、むしろ善人と言える人間だった。なので、すぐさま妖になれるだけの悪逆非道な振舞いができるわけではない。
霊泉を穢すことは、結果的に人の命すら奪うと思うと、怖くなって行動には移せなかった。
「まぁ、どうやって穢すのかもわかんねぇし、仕方ねぇよな」
外法丸は自分の弱さに気付かないように、行動に起こさない言い訳をしながら、花の溢れる高原を歩く。
そうすると、外法丸が登って来た位置とは丁度反対側、咲き乱れる花々の脇に、小さいながらも畑があることに気付く。
「何故、畑?」
比津ヶ山は霊山だ。人が住むことは許されない神聖な土地。そんな所に、畑があるわけないと、外法丸は思うものの、どんなに見直しても、そこにあるのは耕された畑。
背の低い木々には、瑞々しいまでの野菜が生っている。そして、翌々見れば、その畑から少し離れた所に、木々に紛れて、木で造られた小屋まである。
「人が住んでいるのか?」
外法丸は呟いて、小屋へと恐る恐る近付いて行く。雨戸は開いているので、中の様子を覗き込む。中は板敷きの床が張られ、中央には囲炉裏がある。中は普通の民家とたいして変わらない造り。人の姿が見えないが、囲炉裏には火が点いたままなので、今も使われているということが、一目でわかった。
「ふむ」
外法丸は少し考えてから、中に入ってみようと決心し、扉の方に周り、引き戸に手を掛ける。
「何をしているのですか?」
「うわ」
いきなり背後から声を掛けられ、外法丸は慌てて後ろを振り向く。
そこには、山菜の詰まった籠を持った少女が、不思議そうに首を傾げていた。外法丸はその少女の美しさに、一瞬、見惚れてしまう。
背は外法丸より、頭一つくらい大きい。それは、外法丸が小さいだけで、女性としては平均か、少し大きいくらい。整った顔立ちをしていて、その中には、幾ばくかの幼さが残る。年は、十三歳の外法丸より三つくらいは上だろう。黒く艶やかな髪とは、対照的に肌は、日の下に居ると言うのに、雪のように白い。どこか、儚げな印象で、この世の物とは思えない美しさで存在する少女。
不思議なことに、少女は瞳を閉じていた。
「……あなたは、外法丸ですね」
「……俺のことを、知ってるのか?」
外法丸は戸惑って尋ねる。
これだけ特異な少女なら、一度会ったら覚えているはずだ。しかし、外法丸には会った記憶など無く、外法丸には、少女のことが普通の人間には見えなくなってくる。
「私は、……人間なのでしょうか?」
「なっ」
まるで、外法丸の考えを読みとったかのような言葉に、外法丸は絶句する。
心の中から来るのは恐怖。
相手が神ならば、業に塗れた外法丸は罰せられるだろう。相手が妖なら、自らの業の為、外法丸を襲ってくるだろう。
「……あんたは、何なんだ?」
外法丸は脅えに任せて叫んでいた。
少女は少し悲しげに、眉を寄せる。
「……私は、明音。私が何なのかは、私にもわかりません。私は人? 私は神? 私は妖? ……外法丸。……あなたには、私は何に見えますか?」
尋ねて来る少女――明音に、外法丸は戸惑う。
「な、何って、……俺にはわからねぇよ。……でも、……明音は俺をどうするんだ?」
「どうする? どうもしません。私は何もしない。だから、生きていられます」
外法丸には、少女が何を言っているのか全くわからなかった。でも、少なくとも、敵意は無いようだということだけはわかった。
ならば、慌てる必要はないだろうと、外法丸は気持ちを落ち着けるように息を吐く。ゆっくり、理解して行けばいいのだ。
「なぁ、何で明音は俺のことを知っているんだ?」
とりあえず気になったので、最初の質問をする。
「あなたを知ったのは、一週間ほど前。……夢で見ました」
「夢? と言うか、あんた、さっきから目を閉じているけど、見えてんのか?」
明音は外法丸と話している間も、目を閉じたままだった。それで、人の顔を判別できているようには見えない。
案の定、明音は外法丸の問いに首を横に振る。
「私は目が見えません」
「……何だよ、それ。それなのに、何で俺が外法丸だってわかるんだ」
「わかります。声が夢と同じでしたし、何より、目が見えなくとも、気で感じとり、どんな姿をしているかを感じとることはできますから」
そう言って、明音は微笑む。
普通の人間でしかない外法丸には、気を曖昧にしか感じとることしかできない。この場所のように、強く陽の気が満ちていれば、ここは陽の場所だとわかりもするが、人に流れる気まで、感じとることなど、到底できはしない。
けれど、修行をした者には、気をはっきりと感じとることができるという。そして、極めた者になれば、気だけで周囲の状況を目で見るよりもはっきりと、把握できるらしい。
おそらく、明音の目が見えないという状態が、気を感じとる修行として、効果を現したのかもしれない。
「気を感じとるってのは、……何となくわかったが、さっきから言っている夢ってのは、何なんだ?」
「私は、先に起こることを、夢として見ることができるのです」
「夢として?」
外法丸は良くわからず、首を傾げる。
「……そうですね。私について、お話しますね。それでから、わからないことがあれば、聞いて下さい」
明音は自らの人生を語り始める
明音が住んでいたのは、比津ヶ村の隣の村。
普通の子供達と同じように、明音は産まれた時には目が見えていた。
明音の両親は子供に恵まれず、やっと産まれた我が子に深い愛情を注いでくれた。優しい母に、厳しいけれど、やはり優しい父の下、明音は貧しくも平穏に、ごく普通の少女として過す。
そんなある日、明音が七つの頃、森で友達と遊んでいると、目の前に妖が現れた。
その妖は、下半身を蜘蛛の姿をしていて、頭の所には、人間の男の姿をした上半身が付いている妖だった。
妖は蜘蛛の尻から糸を吐き、遊んでいた子供達を捉えて行く。そして、明音もその妖に成す術も無く捕まってしまう。
妖は、明音を見て、目を輝かす。
全ての生き物に宿る気の力。明音の持つその力は、富に強かったのだろう。強い気を持った者を喰らえば、妖はそれだけ強くなる。蜘蛛の妖にとって、明音は何よりも御馳走に見えたのかもしれない。
蜘蛛の妖は明音に近付くと、恐怖に震える明音を嬲るように見てくる。そして、最初に、恐怖に染まった目玉を食おうと思ったのか、明音の目に触れる。
その時、明音の中の恐怖が爆ぜた。
明音は良く覚えていないと言うが、おそらく、その時に明音の中の気が恐怖によって解放され、蜘蛛の妖を追い払ったのではないかと言うことらしい。
その気の解放で明音は意識を失っていたのだが、次に目を覚ましたのは自分の家だった。しかし、明音にはその確証は無い。何故なら、その時には明音の目は見えなくなっていたからだ。
そのことを両親はとても嘆いていた。
明音も、当初は目が見えないことが不安ではあったけれど、それもすぐに慣れた。おそらく、気が解放されたことにより、気を感じとり易くなっていたからだろう。目が見えなくとも普通に暮らすことに、すぐに支障が無くなって行ったのだ。そして更に不思議なことに、明音は人の心を読めるようになっていた。
当初、明音はそれが面白く、人の言う言葉を、先周りするようなことをしていた。だが、人には誰しも、隠していることがあるものだ。明音にしても、秘密を語ったとしても、誰が誰を好きだとか、そんな他愛のない隠し事を言い当てていただけだけれど、それでも、人が気味悪く感じるには十分だった。
皆が自分を気味悪がっていると気付いた時には、明音も人の考えを口にすることを止めることを覚えたのだが、その頃には手遅れになっていた。
明音は村人達に忌避され始めた。残念ながら友達を無くしてしまったが、それでも、両親の優しさは変わらずにあり、家で両親の手伝いをしながら、ひっそりとだが暮らし続ける。
そして、そんな日々が続いていると、明音は自分の見ている夢が、偶に未来を見ているのだと気付いた。
良いことも見るけれど、嫌なことももちろん見る。だから、明音は嫌な未来を見ると、皆に警告することにした。
皆の為を思っての行動。
しかし、明音のことを忌避していた村人達は、最初は何を言っているんだと言う顔をし、実際に災厄が起こると、明音のことを恐怖して見るようになる。まるで、その災厄が起こったのを、明音の性だと言わんばかりに。
その村人達から、懸命に明音を守ってくれていた両親だったが、しばらくして、明音に弟が産まれた。それは喜ばしいことだった。しかし、それが明音にとっての平穏の終わりとなる。
両親の愛情は自然、弟に向かう。
明音のように特殊な力を抱えた子供より、ただ、平凡で健やかな子供の方が可愛い。そう思うのは、普通だろう。
両親の明音に対する愛情は変わらないものの、両親の中に、そう言った思いが芽生えているのを、心を読める明音は感じとっていた。
だから、明音は決意する。
家を出ることを。
完全に、両親に嫌われてしまうことを恐れたのだ。
明音が両親に家を出ると伝えると、両親はとても悲しんでくれたが、心の奥底には、安堵する気持ちがあることに、明音は気付いていた。
だが、家を出ると言っても明音は子供。一人で生きられるわけでもなく、頼れる人もいない。だから、明音は持ち前の気の高さから、比津ヶ山にある神社に預けられることになる。
しかし実際は、神主にすら明音の力は手に余った。
明音の力が、陽の気から来るものであることを確認した神主は、明音を比津ヶ山の頂上で暮らさせることにする。
それからは、霊山の頂上での明音の暮らしが、今現在まで続いている。時たま、神主が明音の様子を見に来てくれるものの、それでも、変わることのない孤独な毎日が。
話を聞き終えた外法丸は思う。
明音は自分と似た境遇をしていると。
両親の愛情を知っているだけ、羨ましくはあるものの、それでも、世の中の理不尽に振り回されて、孤独になった存在。その悲しさは、外法丸にとって、共感できるものだった。
「……なぁ、明音はやっぱり孤独は嫌か?」
「……ええ、外法丸と同じで、私も孤独は嫌いです。……でも、仕方ないことだと思います」
明音は諦めたように言う。
明音の能力は、決して悪い力ではない。神主自身、明音の力は陽の気によるものだと認めているのだ。それでも、自らの能力を忌避され過ぎた性で、自分が悪いと思い込んでしまっている。その気持ちは、わからないでもない。外法丸自身、呪い子と呼ばれ過ぎた性で、自分が悪いのではないかと思ったことは、数え切れないほどある。
「……そうか。と言うか、俺は別に、孤独が嫌だなんて言っていない」
外法丸は強がって言う。
「ふふ、そうですか?」
明音は笑みを浮かべて首を傾げる。
外法丸は、明音の能力に思い至る。人の心が読めるのだ。嘘は通じない。つまり、本心がわかってしまうと言うこと。
確かに厄介な能力だと思って、ため息を吐く。
「……そうだな。明音の言う通り、俺も孤独は嫌なんだろうな」
外法丸は産まれた頃から孤独だった。だからこそ、役に立つことで、誰かに必要とされたい。そう思っていたのだが、誰も自分の手を握ってくれる者はいなかった。
そして、一番手を握って欲しかった父は、手を取ってくれない所か、突き落そうとまでしてきたのだ。そこに、外法丸には怒りは無い。あるのは、ただただ悲しみだけだ。
外法丸は目頭が熱くなるのを感じて、隠すように俯く。
その時だった。
温かい感触が、外法丸を抱きしめる。
「ごめんなさい」
明音が外法丸を抱きしめて、すまなそうに言ってくる。
明音は心が読める。外法丸の泣きそうな心を感じとったのだろう。
外法丸は少し気恥ずかしかったが、明音から伝わってくる温かさが心地良く、抱きしめられるままでいた。
思ってみれば、人に優しく抱きしめられるのは、初めてなのかもしれない。悲しみで埋め尽くされた心が、少しずつ癒されていくようだった。
「……ありがとう」
しばらくこの状態が続いてから、外法丸は少し名残惜しい気はしたが、感謝の言葉を述べながら、明音をやんわりと押し返す。
「いえ、悲しいことを思い出させてしまって、ごめんなさい」
「別に良いさ。俺は、……優しくされて、嬉しかったから。……ありがとう」
外法丸は素直に言う。
明音は心を読めるのだから、嘘を言っても意味がないと、外法丸は思ったわけでは無く、本当に、素直に礼を言いたかったから出た言葉だ。
しかし、明音は首を振る。
「私も、久しぶりに人と話せたから、少しばかり、はしゃぎ過ぎてしまったのかもしれません。……あまり、語り過ぎてはいけないと、悟ったはずなのに」
悲しげな顔をする明音。
おそらく、秘密をばらして、気味悪がられた時のことを思い出しているのだろう。外法丸は、自分は気にしていないと言うように、笑顔を浮かべる。
「さて、そろそろ夜になるから、俺は帰るな」
遠くを見ると、日は大分傾いている。そろそろ、山を下りないと日が沈む。さすがに、山歩きに慣れているとは言え、夜の山を歩く気にはなれない。それに、大分お腹も空いている。何か食べたいという欲求は、空気を読まずにやってくるものだ。
「なら、今日は泊まって行ってはどうですか?」
「はぁ?」
明音の提案に、外法丸は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何言ってんだ。見ず知らずの男を、自分の家に泊めるなんて馬鹿じゃないか」
この神代の国では、常識的に考えて、女性が男性を家に招くと言うのは、将来を誓い合った恋人同士でもないとあり得ないことだった。愛の無い淫らな行いは、陰の気となる。
なので、神々を信仰する普通の人間にとって、貞操観は厳しいものだった。
悪事を働こうと考えている外法丸だけれど、考え方は一般人と変わりないので、明音の申し出に驚いてしまったのだ。
しかし、それに対して、明音は苦笑する。
「何を考えているのですか? ――別に、外法丸は子供なんだから変ではないでしょう?」
「……こ、子供」
外法丸は頭を、抱えてしまう。
外法丸は確かに子供だ。この国の成人として認められる年は、十五。まだ、二年足りない。それでも、一人で、立派とは言えないが、しっかりと生きて来た外法丸としては、あまり良い気分はしない。
だから、一言言ってやろうと思ったのだが、先に明音が口を開く。
「そうやって、ムキになるのが子供だと思いますよ」
先手を打たれた明音の言葉に、ぐうの音も出なかった。
外法丸は何だか、馬鹿らしく感じて息を吐く。
「じゃあ、お言葉に甘えさせて貰うよ」
確かに、自分が泊まって、明音に何かできるとは思えなかった。もちろん、明音より小柄とは言え、男である。力なら明音に勝てるだろう。
けれど、明音は自分にまともに接してくれる。
外法丸が差し出した手を、掴んでくれる人。
いくら業を溜める為とは言え、明音に嫌われたくはないと、外法丸は心から思ったのだ。
「待ってて下さいね。今、夕食の準備をしますから」
明音は小屋の中に入ると、囲炉裏の上に水の入った土鍋を吊るし、湯を沸かす。そして、湯を沸かしている間に、明音は摘んで来た山菜に下拵えをしていく。
外法丸はそれを呆けたように眺める。
不思議な気分だった。
人に料理を作ってもらうと言うことに慣れていないのだ。
最後に、人の手料理を食べたのはいつだっただろうかと、外法丸は思い出す。
引き取られた家では、外法丸は扱き使われていたので、食事を用意していたのも外法丸だった。
なら、昔に料理を作ってくれたのは、父親だろう。物心付いたばかりの頃は、さすがに外法丸にも料理は出来なかったのだから。つまり、八年近く、人の作った料理を食べていない。
そんなことを思っていると、外法丸は背嚢に、芋が入っていることを思い出す。
「なぁ、良かったら芋も食うか?」
外法丸が背嚢から、芋を取り出して尋ねる。
「良いのですか?」
「良いから聞いてんだろ」
「……では、頂きます。……ふふ、お芋は甘くておいしいですよね」
明音は嬉しそうな顔をする。
「そうだな」
外法丸は頷いて、火の近くに置いて、芋を焼く。
「はい、出来ましたよ」
しばらくすると、明音はそう言って、鍋からよそったものを、木の椀に掬って渡してくる。それは山菜粥だった。
「いただきます」
この言葉を言うのも久しぶりだなと思いながら、山菜粥を口にする。
その味は、青臭く、味噌で味付けされているが、基本的には薄い。粥と言っても、入っているのは米では無く粟。
貧しい暮らしに慣れた外法丸にとっては、特に珍しいものではないし、お世辞にも特別、美味しものでもない。
それでも外法丸は思った。
美味しいと。
食べていると、お腹では無く、胸が温まるような気持ちになる。
人に、好意的に料理を振舞われたことのない外法丸にとって、この何気ない食事がどれだけ嬉しかったことか。
外法丸は思わず、泣きそうになるのをなんとか堪える。
明音の方に目を向けると、外法丸を優しい笑みを浮かべていた。
「どうですか? 味は」
「別に、たいして美味くも無い。普通だろ」
外法丸は、わざとぶっきらぼうに答えて、山菜粥を口の中に掻っ込み、椀を明音の方に差し出す。
明音は気分を害することなく、むしろ嬉しそうに椀を受け取り、おかわりをよそってくれる。
しばらく、二人はぽつぽつと会話を交わしながら食事を続ける。
明音が本当に美味しそうに、焼いた芋を食べているのを見ると、外法丸は、それを用意した自分が嬉しくなっていたりする。
「ふぅ。食った食った」
お腹がいっぱいになった外法丸は、椀を置いて、その場に寝転がる。
「外法丸。お行儀が悪いですよ」
明音が優しく窘める。
「あいよ」
外法丸は素直に頷き、身を起こす。
怒られていれば、外法丸は反発して言うことを聞かなかっただろう。だが、明音は怒っていると言うよりも、優しく諭すような言い方だった。
外法丸は今まで、何か悪いことをすると、怒鳴られ叩かれていた。優しく諭されるなんて、経験が無かった。だから、外法丸は素直に言うことを聞いた。
妖に憧れて、少しばかり捻くれてはいるものの、相手が優しく接してくれるのなら、何でも言うことを聞いてしまう程に、外法丸は人からの愛に飢えている。
「さて、洗い物は俺がやっとくよ。何から何までしてもらうのは、悪いからな」
「ふふ。妖になろうとしている人が、人に悪いと思うのですか?」
明音がからかうように言ってくる。
「……参ったな。そこまで、知られるのか。人の心を読むってのは」
外法丸は困ったように頭を掻く。
「まぁ、あれだ。別に俺は、明音を不幸にしてまで妖になりたいとは思わないから、明音には悪いと思うんだろうな」
「ふふ、そうですか。でも、妖は周りを不幸にします。おそらく、妖になった外法丸自身も。……妖にならない。その選択肢は、外法丸にはないのですか?」
明音が、外法丸を心配するように聞いて来る。
「……俺はさ。弱いんだよ。悲しいのも痛いのも、寂しいのも嫌なんだ。でも、妖になれば、そんな思いをしなくて済む」
「……では、私が一緒に居ます。外法丸が悲しくないように、痛い思いをしないように、寂しい思いをしないように、……そうならないように、私が外法丸と一緒に居ます。……そうすれば、外法丸は、妖にならずに済みますか?」
真剣な目で見つめて来る明音から、外法丸は顔を逸らす。
「……そうだな。本当にそうなったら――。……ちょっと、水を汲んでくる」
外法丸は明確な答えを避け、木桶を持って小屋から出て行く。
外法丸は怖かったのだ。もし、自分が明音と一緒に居ることを本気で望んで、それが手に入らなかった時のことを考えると。
今まで、心から欲しいと思ったものが、手に入ったことのない外法丸は、臆病になっていた。
外法丸は泉から水を汲んでくると、汚れが取れるまで擦り濯いでいく。小屋の外でそうしていると、後ろで明音が、泉から家の間を行ったり来たりし始める。
何をしているのかと思うと、大きめの木桶で、水を運んでいるようだ。そっちの方が重労働に見える。
「……何してんだ?」
見かねて外法丸は尋ねる。
「え? 水を運んでいるんですよ」
「んなの、見ればわかるさ。何で運んでんだって聞いてんのさ」
「お風呂に水を溜める為ですよ。外法丸も入るでしょう? 泥だらけに汗だらけですし」
「……風呂なんてあるんだな」
外法丸は驚いた顔をする。
風呂のある家など、少なくとも外法丸の知っている限りでは、地主の家くらいだろう。大名などが住まう城下町では、共同浴場などもあるらしいが、少なくとも、ここら辺の村人達は川で水浴びする程度だ。
「まぁ、地面を掘って板張りにしただけですけど、焼いた石入れると、良い湯加減になるんですよ」
焼いた石を入れて水の温度を上げることは、寒い冬ならやることだ。溜めた水の中なら、十分に温まることだろう。
「なら、それも俺が運ぶよ。そっちの方が疲れるだろ?」
「ええ。……でも、良いのですか?」
「良いさ」
外法丸はそう言って洗った食器を片づけると、明音から水桶を受け取り、風呂の場所を聞いて向かおうとする。しかし、途中で思い出したように立ち止まって、明音の方に向き直る。
「なぁ、一つ聞いて良いか?」
「なんですか?」
「どうして、俺に優しくしてくれるんだ?」
真剣な顔で尋ねる外法丸。しかし、それを聞いた明音は笑い出す。
「な、なんだよ」
外法丸は変なことを聞いただろうかと戸惑う。
「あはは、私よりも、外法丸の方が優しくしてくれているじゃないですか」
外法丸は明音に言われて、傍と気付く。自分が明音の為に、色々としてあげていることに。
「まぁ、何で優しくするかは、同じ理由ですよ。外法丸と」
明音はそう言って微笑み、小屋の中に入って行く。
「同じ理由?」
外法丸は首を傾げて、風呂場に水桶を運びながら考える。
何故、自分が明音に優しく接しているか。それは、自分に優しく接してくれるのが嬉しかったから。まともに話してくれるのが嬉しかったから。明音と一緒に居れば、孤独を感じなくて済むような気がしたから。
「……そうか」
明音も自分と同じような境遇だった。もしかしたら、明音も外法丸と同じように嬉しかったのかもしれない。いや、心の読める明音は同じだと言っていたのだから、同じなのだろう。
外法丸は心が躍る。
自分と一緒に居ることを嬉しいと思ってもらえる。こんな嬉しいことがあるだろうか。
湯に浸かるのは、体の芯から温まり、体が解れて行くようでもあり、とても気持ち良かった。いつもは水でさっさと汚れを落としているだけだったから、こんなに気持ち良いことだとは知らなかった。これなら、少しくらい苦労してでも、水を溜める理由がわかる。
風呂から帰ると、先に風呂に入っていた明音は、外法丸が風呂に入っている間に、服を洗って、火にあてて乾かしておいてくれた。少しだけ湿ってはいるが、着れない程では無い。
明音が藁を編んで作られた寝床を用意してくれる。
「外法丸はここで、寝て下さい」
「明音はどこで寝るんだ?」
周りを見ると、藁を編んだ寝床は一つしかない。
「私は、自分の服を重ねて寝ます。そうすれば、十分、暖かいですから」
明音は微笑みながらそんなことを言う。
譲ってくれている。その優しさは嬉しいが、外法丸は首を横に振る。
「いいよ。それなら、明音がその寝床で寝な。俺はそこら辺で雑魚寝でもしているさ」
「ですが、それだと、外法丸は冷えてしまいます」
「別に冬でもないし、囲炉裏の近くで寝てれば、大丈夫だろ。それに、俺は男だ。女なんかより、頑丈に出来てんのさ」
今の季節は秋。それに、今は標高の高い場所に居るので、少しばかり肌寒くもあったが、耐えられないと言う程のものでもない。
「駄目です。病気になったら、大変です」
薬を買うだけのお金の無い外法丸にとって、風邪を引き、万が一こじらせでもすれば、治す手立ても無く、命に関わることである。明音はそれを心配したのだろう。
けれど、それは明音にとっても同じことだと、外法丸は思う。
外法丸が、頑なに断っていると、明音は諦めたようにため息を吐く。
「では、一緒に寝ましょう」
「……正気か?」
明音の提案に、外法丸は思わずそんなことを言ってしまう。
「ふふ、正気ですよ。別に寝るだけですもの。それとも何ですか? 外法丸は何か、厭らしいことでもしてくるのですか?」
明音の問いに、外法丸は慌てて首を横に振る。
「いや、しない。天地神明にかけても」
「なら、良いではないですか。それなら、全ての問題が片付きます」
「……見ず知らずの男と、一緒に寝床を共にするという、明音の頭が問題だらけのような気もするが」
「酷いですね。私だって、人は選びますよ。私は、外法丸を信じているのです」
そんなことを言ってくる明音に、外法丸は顔を赤らめ、そっぽを向く。
「さて、寝ましょうか」
明音はそう言って、藁の布団に入ると、横半分を開けて外法丸を招く。
外法丸は仕方なく、恐る恐ると言った感じで、その横半分の中に潜り込む。そんな外法丸の姿に、明音は苦笑するが、そんなことを気にしているだけの余裕は、外法丸には無かった。
緊張した外法丸は、ただただ動かないようにしている。すると、明音が頭を撫でて来た。そうすると、不思議なことに、撫でられるごとに緊張が解け、安心感が産まれて来る。
外法丸は思う。
母と一緒に寝るとは、こんな感じなのだろうかと。
外法丸の母は、産まれたと同時に亡くなってしまった。外法丸は母の顔どころか、温もりさえ知らない。他の子供達が、母親と仲良さそうにしているのを、外法丸は常に羨ましいという気持ちで見ていた。
だけれど、明音に優しく頭を撫でられていると、願っても得られなかったものを、今、叶えられているのではないかと、知らないはずの母の温もりを思い出して、何故だか泣きたくなる。
外法丸は明音に会ってから、涙を堪えてばかりだなと思う。すると、明音の頭を撫でていた手が、顔の方へと回り、顔を上げさせる。
「泣くのを我慢なんかしなくても良いのですよ」
「別に、我慢なんかしてない」
優しく言ってくる明音に、外法丸は強がって見せる。
「ふふ、そうですか」
明音は微笑み答える。しかし、何故かその瞳から、涙が流れる。
「どうしたんだ?」
外法丸が驚き、戸惑いながら尋ねると、明音は何でも無いと言うように首を横に振る。
「……外法丸と同じですよ。私には弟がいました。まだ、赤ん坊の時に別れてしまったけれど、外法丸とこうしていると、弟のことを思い出してしまいまして」
「……そうか。……寂しいのか?」
「ええ、寂しいのでしょう。でも、どうすることも出来ません」
「……そうだな」
おそらく、明音は両親の下へは、一生戻れないだろう。戻ったとしても、家を出る前の生活に、戻ってしまうだけだ。それでも、家族と一緒に居れると言うだけで、今よりも幸せなのかもしれない。だけれど、もし万が一、明音の危惧したとおり家族が明音を邪魔に思い、嫌うようになったら、明音はおそらく絶望し、心が壊れてしまう。
今、明音がこうして外法丸のように捻くれずに生きて行けてるのは、自分を愛してくれている家族の思い出を持っているからだ。
明音の寂しさは、外法丸にも容易に理解できた。
決して楽しい思い出では無かったにも関わらず、外法丸は父を思って、寂しくなることがあるのだ。
だから、外法丸は明音の頭を抱きしめた。
「泣きたいんなら、泣くと良い。俺もさっき、散々、泣かせてもらったからな。……俺は、……お前の家族ではないけれど、……一緒に居てやることは出来るからな」
照れるように言う外法丸の言葉に、明音は頷き、外法丸の背中に手を回し、ひっそりと泣き始めた。