私が高校を中退するまでの半年
4月、高校に入学した私は自転車で片道30分かけて旧国道を走っていた。家からすぐ近くの農業高校とどちらにするか迷って、商業高校を選び、こうして汗を流しながら走っている。部活に入らなければならないのでソフトテニス部に入った。簿記を学び、放課後は部活をし、20時ごろに帰宅する生活を送っていた。女子が多く男子が少ない学校で、私は3人しかいないクラスメイトの男子の中から代表に選ばれた。クラスの代表を集めた合宿なるものにも参加した。中学の頃の生活とは全然違っていた。人間関係も。 担任の先生は若い女性で、黒いスーツを着ていて、背が高かった。先生になりたてという感じだった。張り切っているのが分かった。私も彼女に何度も笑顔で話しかけられたりしたのを覚えている。ある時なにかの催しでバレーボールをやる事になり、私は同じチームになった。私は小学生の頃にバレーボール部をやっていた。だからというわけではないが先生があげたボールを打った。点を取る事ができた。先生は嬉しそうに「心が通じ合った」と言っていた。私も嬉しかった。
5月のゴールデンウィークが過ぎた頃、私は学校に行くのが怖くなった。きっかけは覚えていない。中学二年生の頃から人間関係が難しくなって、友達が徐々に減っていって、高校に入る頃には仲のいい人物はいなくなっていた。高校に入ってからはどうすればいいのか分からなかった。新しい人々に私は話しかける事もできず、同じ中学から進学してきた人々とはほぼ交流が無かった。それでもクラスや部活で可能な限りのコミュニケーションのようなものをとった。話しかけられれば答えた。
しかし私は自分でも思っていた以上に駄目になっていたのだろう。結局は高校に馴染む事ができなくなった。母親に学校に行きたくないと言ったのか体調不良だと言ったのか。私は休み、そして「学校に行ったらどう思われるか?」という考えに取りつかれた。だからまた休み、そしてますます学校に行くのが怖くなった。悪循環だった。しかし抜け出す事ができず、ついにおかしいと思った両親と先生に説得されて学校にたまに行くようになった。クラスメイト達も私のおかしさにはとっくに気付いているはず。私は怯えながら一日を過ごした。授業は全く頭に入らなかった。当時学んだ事は今は何も覚えていない。簿記の教科書を少しは読んだはずなのに。
たまに部活にも参加したが苦痛でしかなかった。もともと運動がそれほど好きではないのだ。スイミングに通い、バレーボールやソフトテニスを少しはやっていたとはいえ、高校の活動は段違いで激しかった。ついていけない、と思った。夜、旧国道を自転車で漕ぎながら、カゴに詰まったカバンやユニフォームの重さにふらつきながら、やめたい、とそれだけを思っていた。言い出せなかった。怖くて。何が怖いのか。怒られる事が?誰が怒るのか。部活には在籍しなければならないという学校の規則か?分からない。先輩達に何か言われるとでも?分からない。本当に分からなかった。ただ恐ろしかった。学校は私にとって恐怖と苦痛の空間でしかなかった。
そしていよいよ家に引きこもる時間の方が長くなった。
カーテンを閉めた暗い自室でパソコンでネット掲示板を覗くか、あるいは本を読んでいた。ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」がネットで賞賛されているので買ったり、秋山瑞人「鉄コミュニケーション」を中古で買って読んでいた。どちらも楽しく読んだ。中学の頃にヘヴィメタルに興味を抱き、CDを買ったりし始めたので、家に籠りながらもレンタルなどで聴いていた。ネットのメタルコミュニティで見かけたバンドと名盤を漁った。ハロウィン、スレイヤー、ブラインドガーディアン、インフレイムス、ドリームシアター、ソナタアークティカ、ラプソディーオブファイア、アングラ、ナイトウィッシュ、色んな素晴らしいバンドをこの頃に知った。今でも聴いている。10代の思い出の音楽は一生聴くという。そうであってほしい。好きなものへの興味が褪せていく瞬間はとても悲しいから。
小学生の頃に国語の教科書で星新一の「おみやげ」を読んだ。おみやげが消えるシーンが妙に心に残った。しばらくして家の納戸で星新一を見つけた。母親が伯父から貰った本だという。「ようこそ地球さん」の「処刑」と「殉教」を読んだ時、今まで味わった事のないふわりとした充実感があった。以降、私は読書に惹かれるようになった。学校にたまに行く日はこっそり校舎の隅っこやトイレで読んだ。上遠野浩平「ブギーポップ・リターンズ」はトイレに差し込む午後の光のおかげで文字を追う事が出来た。中村恵里加「ダブルブリッド」を特に好んで新刊を待ち望んでいた。あの時、星新一を見つけることができたのは、私の人生の数少ない幸運の一つだろう。
母親が怒りのあまり私の部屋に押しかけて包丁を向けてきた事があった。私への苛立ちと怒りのあまり。私は椅子に座って包丁の先端を見つめていた。母親は私に先生に電話して学校に行くと言えと言った。私はそうした。母親と包丁への恐ろしさはなかった。刺せない事が分かっていたから。絶対に刺せない。どんなに大きな声を出そうと、怖い顔を作ろうとも。「今、包丁を向けられています」と私は言った。先生は「大丈夫?」と言った。冗談だと思ったのだろう。「大丈夫です」電話を切った。私は学校への登校を再開した。しかしすぐにまた引きこもるようになった。この程度で登校拒否が改善されるのなら、包丁はもっと売れているだろう。
学校にろくに行かないまま夏休みになった。夏祭りが駅前で開催される夜、私は何故か行ってみる気になった。小学校、中学校を通して友人たちと一緒に遊びにいっていたからだ。あの頃は親から小遣いをもらい、自転車を漕いで駅前まで行き、屋台を巡った。途中、同じように遊びに来ていたクラスメイト達と出会い、笑い合い、夜が更けていった。屋台のご飯を食べ、くじを引いた。携帯電話を落としたというクラスメイトの為にみんなで探し回った。浴衣姿の女子を見た。公園から出て暗くて細い道を覗くといかにもな青年たちがたむろしていた。夏の暑い夜の思い出。月と星と黒い夜空。その黒色を下から照らす祭りの赤い光。しかしその夜、一人で行った私は知り合いに誰とも会う事もなかったし、何かを買う事も、食べる事もしなかった。ただ人の群れの中に混ざって一人で歩いていた。これが友達が全くいないという事か、と思った。私は生まれてはじめて孤独に触れた。家に帰った。行くべきではなかった。私は何を期待していたのだろうか。
母親がバイトをしないかと私に言った。私がかつて通っていた小学校のプールの夏休みの監視員だという。二人を採用し、14万の給与を二人で山分けだという。私はお金が欲しかったので受けてみる事にした。小学生の頃に見かけた先生が面接をしてくれて、採用となった。こんな形で改めて小学校を再訪するのは奇妙な気分だった。夏の暑い朝と昼、小学校に向かい、更衣室やプールの掃除をし、集まってきた児童たちの監視をする。一番大事なのは誰かが溺れてないか、プールの底に沈んでないかを定期的にチェックする事だった。私はプールサイドをふらふら歩きながら児童たちが笑い合うのを眺めていた。1時間ほど経ったらプールから出てもらい、休憩をし、それからまた遊んでもらった。休憩の間にしっかりとプールを確認した。幸いにも私が働いている間には大きなトラブルはなかった。小さなトラブルのようなものはあった。児童が嘔吐するのである。何故か女子ばかりがプールサイドに胃の中身を吐き出して泣くのだった。私と同僚は一緒に片づけた。一度は下の方を漏らしている女子児童がいて、あれには困り果てた。幸いにも同僚がプールに連れてきていた同僚の彼女が対応してくれた。彼女を連れてくるっておいおい、と思ったが、何がどう役に立つかは誰にも分からない。後に掃除をしている時にボイラー室の摺りガラスをふと見たらその向こうで口付けを交わしている二人がぼんやりと見えた。おいおい、と思った。私も一緒にプールに飛び込んで児童と遊ぶ時があった。プールサイドから児童をプールに放り投げると喜ばれた。先生に苦言を呈されたが、児童たちは喜んでくれた。今思うと大変危ない。夏休み終了間際にバイトも終わり、給料を受け取った。
これが人生で初めての労働であり、その対価となった。
通販で前から気になっていたエレキギターを買った。本体やアンプ込みで数万円の安物である。ぺらぺらの教本とネットのサイトを見ながら練習した。ディープパープルのスモークオンザウォーターを演奏しようとした。全然うまくうかず、嫌になってすぐに放り出した。チューニングすら上手くできなかった。楽器演奏は自分には無理だと理解し、もっぱら聴く方の趣味にのめりこんだ。メロディックスピードメタル、メロディックデスメタル、メタルコアが私のお気に入りになり、たまにプログレッシブメタルを聴いた。しかし一番気に入ったのはリンキンパークのメテオラで、その中のNUMBを何度も何度も聴いた。私にとってこれほど胸を締め付ける切ない曲は他にない。
夏が過ぎて涼しくなり、私は滅多に学校に行かなくなった。先生が家にやってきて私を見て言った。「やつれたね」「はぁ…そうですか」鏡で見る自分の顔は醜い。 見たくもない。私は産まれた時、全然可愛くなくて、母方の祖父が抱くのを嫌がったという、そんなエピソードを聞かされた覚えがある。
台所の流し台の下には包丁が二本、果物ナイフが一本である。私は果物ナイフをとると自分の部屋に戻った。椅子に座ってその刃を見つめた。それからカバンに仕舞った。
出席日数という現実的な問題が持ち上がり、このままだと留年する、という事になり、私はそれでも学校に行くのが怖くて、それで教室ではなく相談室に登校する事になった。相談室に登校する生徒がいる、というのは中学生の頃から存在は知っていたが、まさか自分がそうなるとは。
相談室では自学自習をし、たまに先生と学生主任がやってきて面談をした。自分の悩みを紙に書けと言われてそうして、その一つ一つについて肯定的な助言をもらった。どのような悩みを書いたのかは覚えていない。何と言われたのかも。一人で相談室で机に向かっていると、たまに窓から生徒たちのざわめきが聞こえた。窓から入り込む太陽の光が穏やかになり、秋が近づいてきた。私は自分の学生生活を振り返った。
まだ学校に通えてた頃、ソフトテニス部で遠征があった。他校との合同練習だったと思う。私は部活動でももはやコミュニケーションがとれなくなっていたから、自分が何故ここにいるのか分からず、やはり怯えていた。いきなり顧問に呼ばれて二人で話をする事になった。会話の内容はよく覚えていないが、私は俯いてろくに返事もできずにいた事、そしてこういわれた事だけは覚えている。
「お前これまでの人生で何も成し遂げたことがないだろ」
別の日に親たちを交えた懇親会のようなものがあり、私はバーべーキューセットの上で焼けている肉をぼんやりとつまんでいた。誰かが私の方を叩き、「作業しているよ」「行ったほうがよくない」と伝えた。見ると先輩と何人かがコートにローラーをかけていた。私は皿を置いて駆け寄った。近寄っていくと、先輩は私の腹を殴った。私は「すいません」と言った。何かを言われたような気がするが、振る舞いからとても苛立っているのは分かった。「すいません」謝る事しかできなかった。
別の男子の先輩は女子の先輩に思い切り蹴りを入れていたのを覚えている。男子が少ない学校なので女子と合同のソフトテニス部で、大会が近かった。その男子の先輩は傍目から見ても調子が悪かった。上手くボールを打ち返せず、どんどん苛立っていた。私と他の男子たちは気まずさで黙り込んでいた。夜になって、休憩でみんなで座って会話していると、女子の先輩の一人が明るく男性の先輩に対してからかいのようなものを言った。多分場を和ませるためだろう。それで激昂した男子の先輩は立ち上がると、思いっきり女子の先輩の肩のあたりを蹴った。女子の先輩は地面に横たわった。男子の先輩は怒鳴ってから部室へ走り去った。騒然とした。女子の先輩は泣いていた。泣きながら怒っていた。私たち男子は部室へ行き、部室で座り込んでいる先輩を見つけた。彼は言った。「俺…昔…人を刺したことがあって自分でもカッとなると…」そんな噂を聞いていたし、どこか感情的で変な先輩だな、と思っていたが、私はこういう人もいるんだなと慄然としていた。その先輩は話しながら、笑いながら、よく人前で爪を噛んでいたのを覚えている。
部活の合宿では私の知らない人間関係が繰り広げられていた。部活のOBがやってきて色々手伝ったり言ったりしてきた。ご飯をたっぷり食べた。吐きそうになりながら、顔を赤くして食べた。身体づくりだという。嫌だったのは酢の物で、これは美味しくなかった。しかし栄養とか消化とか、そんな理由で食べさせられた。腹がぱんぱんで戻しそうになりながら、何故か正座をしてOBの語りを聞いた。いったい彼は何を語っていたのか。苦しさだけが頭に残っている。
唯一参加した大会では二回戦で敗退した。私も出場してダブルスでサーブを打ったりフォアハンドで球を返そうとしたが、全く何も上手くいかなかった。大会二日目の夜だったか、やっぱり私たちは正座をして顧問と昔から部活の関係者だという指導者やOBに囲まれていた。あの人を刺したという先輩が立ち上がって怒鳴り、指導者が「殴りたければ殴れ」などと言った。先輩は「いきます」と言って思いっきりビンタした。それから泣いた。指導者は涙声で「お前を見捨てない」と言って蹲る先輩を抱きしめた。私は正座をしながら「なんだこれは」と思っていた。なんだこれは。大会で敗北し、帰り支度をして、歩いていると前を歩いていた先輩が俯いて腕に顔を押し付けた。別の先輩が、かつて私を殴った先輩がその肩を抱いた。私は最初から部活に入るべきではなかった、と心から思っていた。私は辛かったし、きっと他の部員や顧問も辛かっただろう。学校に行かなくなるのと同時に部活にも一切近寄らなくなった。
担任の先生は私にとてもよくしてくれた。先生は私を学校に来させる為に、立ち直るために尽力してくれた。短い学校生活の中で、先生の期待に応えられなかった、それだけは本当に心苦しかった。先生も大変だったのだろう。ある部活の顧問もやっていたが、ある時、女子生徒に反発されている姿を見た。非常に感情的な言葉は何を言っているのかは聞こえなかったが、糾弾の響きを帯びていた。先生が家を訪れてくれると、私たちは会話をした。彼女はたまに疲れたような表情をし、溜息をついた。それから笑った。今のはただの冗談だというように。しかしきっと本当に疲れていたのだろう。そしてその疲労の一部は確かに私だったのだ。私はそれに気づけなかった。ただ自分の事だけを考えていた。
学校に行く振りをして自転車を漕いであちらこちらを巡った。高校は隣町にあって、その道中の左右には森と田んぼしかない。目に付いた道に入り、ペダルを踏んでいると、風が私の顔を撫でていく。お金が無かったからどこかで遊ぶ事もできず、他に行くところもできることもなく、ただ自転車を走らせ、疲れたら座り込んだ。隣町まで行って川沿いを走ったり、神社の境内をうろついたり、更に山の方に向かったりした。夕暮れになるまでそうした。家に帰れば私が学校に行ってない事を知った親が待ってるし、そもそも携帯電話には先生からの着信がある。しかし、どうしても私は学校に行きたくなかった。
ある日、それでもなお行くべきだと思って学校に向かい、途中でコンビニに寄ってスポーツドリンクを買ったら、いきなり凄まじい眩暈のようなものに襲われた。立っている事すら難しくなり、駐車場で座り込んだ。スポーツドリンクを少しずつ飲んでいると回復してきた。この突発的な体調不良はなんだったのか。
たまには相談室じゃなくて教室に行ってみようと突然言われて、登校するたくさんの生徒たちのいるほうへと歩くように促された。私は嫌だった。しかし拒否できず、近寄っていくと、全ての生徒が私を見て、私を馬鹿にしているように見えた。足が震えた。人間は本当に足が震えるのか、と思った。本当に、どうしても行きたくない場所に向かおうとすると、身体が震えるのだ。私はもう教室へも行けなくなった。
毎日死ぬ事ばかり考えていた。
しかし死ぬ事はできなかった。
どうしても学校に行かなければならない日、制服を着て、果物ナイフを喉に向けた。
血の一滴も流せないまま「どうしてやれないんだ…」と呟いていた。
相談室の窓の外から大きなざわめきが聞こえてきた。耳を澄まして分かった。今日は秋の運動イベントの日で、全校生徒が体育館や校庭でたっぷりとそれぞれの競技に励んでいた。その笑い声、応援する声。移動するときの複数人の足音。盛り上げるBGM。 この時、自分にはもうこの学校に居場所がないという事を理解した。 寂しかった。 どうして自分はここに、この相談室にいるのだろうと思った。 どこで間違えたのか。農業高校に進学すればよかったのか。ソフトテニス部は負担で苦痛ならさっさと辞めればよかったのか。ただの自意識過剰と被害妄想なのは分かっていた。全部自分が悪かった。もっと上手くやれたらよかったのに。しかし涙も出ず、ただ相談室の椅子に座って、生徒たちのざわめきを聞いていた。他人が怖くて怖くて仕方なかった。自分自身も含めて。
ある時、かつて私を殴った先輩が前から歩いてくるのが見えた。私はそそくさと階段の裏側に逃げた。しかし先輩はどんどんと私の方に向かってきた。もう観念して姿を現して「お久しぶりです」と言った。先輩は私の名前を呼んで抱きついてきた。驚いた。会話をして別れた。後で別の先輩に聞いたが、私が不登校になったのはあの時殴ったせいだからだろうか、と少し気にしていたらしい。私は全然違うと伝えたかったが、その機会はもうなかった。
クラスメイトや部活のメンバーとも廊下ですれ違う事もあったが、お互いに無視した。私はどう声をかければいいのか分からなかったし、向こうもそうかもしれない。とっくに忘れてしまっていたのかもしれない。その方がいいと思った。
そうして出席日数が足りず、留年する事が決まり、親も同伴する場が設けられる事になった。今後をどうするか決めろと。私はもう逃げ場はない、と思い、自殺を考えた。学校に行くべき時間は16時だったが、私は周りが田んぼしかない道の、その脇に立って携帯電話を見つめていた。16時を過ぎた。携帯の電源を切った。カバンの中には果物ナイフがあった。それで終わりにしよう。どこがいいか。私は公園で滝本竜彦「NHKにようこそ」を読んだ。美しい物語だった。それから海に行こうと、と思った。自転車を漕いで海に向かった。国道6号線を走った。
かつて何度も遊びにきた海を眺めていた。家族や友人たちと泳ぎにきたり、釣りをしたり、ただ歩いたりした浜辺。夕暮れの赤色は薄れていき、目の前すら見えなくなるほど暗くなっていく。私は果物ナイフを見つめていた。ぎゅっと柄を握りしめて、刃の先端を喉に近づけていく。触れた。ちくりとした痛み。もっと力を込めれば、刃を体の中に押し込めば、全てから逃げられる。自分の人生に未来があるなんて全く信じられなかった。学校に行けず、他人と上手に関われず、どうやって生きていけばいいのか分からなかった。働いている自分も想像できなかった。できる事もなく、やりたい事もなかった。家族は私を持て余していた。消えてしまいたかった。どこか遠くへと、私を知るものが誰もいない場所へと。
月が昇る。
星が瞬く。
黒い海面は絶えず揺れる。
音を響かせている。
町の光が辺りを照らす。
海の向こうには船の光が浮かんでいる。
秋の冷たい風が吹いている。
死ねなかった。
そんなの最初から分かっていた。
死にたい逃げたい消えたいと思いながらも、本当の本当は死にたくないと思っている自分がいる事を。自殺なんて大仕事は自分にはできない。学校に通う事すらできないお前なんかには。ただ、親と先生たちを交えた話し合いから、逃げたかっただけなのだ。甘えと怠け。自己嫌悪と自己愛。涙すら流れない。流れるはずもない。自分の立場を真剣に考えていないのだから。どうせ何とかなると思っている自分をこそ私は殺してしまいたかった。しかし私は結局ナイフを鞄に仕舞うと、立ち上がって自転車に跨り、走り出した。どこへ行こうか。制服姿で、金もなく、家に帰る事もできない。ふらふらと走っていると昔から通っている古本屋を見つけて、客に混ざって本を読んでいた。 しばらく経って名前を呼ばれた。
肩を叩かれた。
振り返った。
先生が立っていた。
「よかった…」と先生は言った。
古本屋の駐輪場に自転車を置かせてもらい、先生の車で家へと送ってもらった。途中でファミレスでごちそうになってしまった。「何か食べた?」「いえ」「じゃあよろうか」と。食べた料理は覚えていない。私を探してあちこち見て回ったと言われた。申し訳なかった。恥ずかしかった。家に帰ると父親がいて、叱られた。私は「もう放っておいてくれ」と言った。これからどうするんだ、と聞かれて答えられなかった。何も答えられなかった。色んな人に迷惑をかけてしまったのは確かで、それは心から申し訳なかった。先生は私と父親の言い合いの近くで正座をして凄く困った顔をしていた。本当に申し訳ない。
別の日に改めて話し合いの場が設けられた。私はそこで学校を辞めます、と伝えた。留年はしないと。先生と学年主任は、残念です、というような事を言った。最後にまだ机の中に残っているという私物を取りに向かった。誰もいない教室、私の机の上には何故かトイレットペーパーのロールが置いてあった。誰が何のために置いたのか分からない。なんだったんだろうか?
私と父親は校舎を出て駐車場に向かった。
11月の午後だった。
先生がやってきて私に「頑張ってね」と言った。
私は「はい」と答えた。
車に乗った。
走り出した車の中から振り返ると、先生が学校の敷地から道路に出て、こちらを見つめているのが見えた。
私は先生を見た。
車が曲がり角に差し掛かった。
校舎も先生も視界から消えた。
先生とはもうそれっきり会う事はなかった。
13年後、私は再び学校にやってきた。震災で福島の浜通りを離れて中通りに引っ越していたが、父親に頼まれて市役所に書類を取りに来たのだった。震災以降、学校は近くの別の高校と合併し、この校舎はもう使われなくなっていた。車で数時間かけてやってきた校舎には人気がなかった。閉ざされた門の上から覗くと敷地のいたるところに雑草が生えていた。いつも生徒の栄誉を称える垂れ幕が下がっていた正面玄関には何もない。窓の向こうの廊下、教室。校庭や体育館。全てが静かだった。
もし中退しなければどうなっていったか、それはあれからずっと考えている。学歴の問題もある。高校中退と高卒の間には大きな差がある。私は学歴不問の会社にしか応募した事がない。正社員として働いたのは数年で、後は派遣会社に登録して工場で労働に従事している。無職の時期も長い。本を読むか、散歩をするか、ネット掲示板に入り浸るか。金がなくなれば働き、また苦しくなれば辞める。高校を中退して以降の私の人生はどん底で横たわってそれを安定と呼んでいるか、もしくは人並みになろうとして崖に張り付いて精神が不安定になっているかのどちらかでしかない。
いくつかの選択肢を私は自らの手で取り除いてしまった。
その感覚が常に付き纏っている。
青春を失敗したという気持ち。
青春とはなんだろう。10代の輝かしい体験。友人との交流、恋人との触れ合い、部活動の熱気、季節の催し、勉学の悩み、進学か就職かの選択。喜び、悲しみ、あらゆる感情の揺らめき。
生から死までの記憶の中で煌めく不滅の黄金。
実際に青春を過ごし、味わった人間には大げさに聞こえるかもしれない。しかしろくに味わう事ができないまま取りこぼし、そしてもう二度と取り戻せない者には、永遠の憧れなのである。
私の人生はここで躓き、そして今でも躓いたままなのだろう。
高校中退なんてしなければよかった。
もっと頑張ればよかった。
しかし頑張れなかった。
当時の私にはそれは無理だったのだ。
だからもう、終わった事なのだ。
私は車を走らせて曲がり角を曲がった。
今度は振り返らなかった。
何もないと分かっているから。




