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政略結婚の私達ですがこの度恋愛結婚いたします

作者: 蔵前

貴族の令嬢ならば政略結婚は当たり前、そうメレディスは考えている。

女学院の卒業日に、父親がお祝いの言葉とそのプレゼントのように嫁ぎ先が決まった、と言って来ても、彼女は反発せずに簡単に受け入れた。


それはよくある家庭内不和があるからではない。

その反対だ。


政略結婚の両親は家格も価値観も釣り合っているからこそ仲睦まじく、彼女は生まれてから今まで愛情の不足も無く、令嬢としての贅沢だってさせて貰っているのである。なので彼女こそ、親が決めた相手に嫁ぐことこそ幸せだと信じている。


彼女の父親も、この結婚はメレディスの為を思ってのもので、メレディスからの感謝と称賛を浴びられるものだと疑わない目をしているのだ。

彼女の家庭教師達も進学先の女学院も、彼女の結婚に対する考えを後押しするばかりであった。彼女が受けて来た教えは、良妻賢母に内助の功、それである。


「お父様、ありがとうございます。悲しいのはお父様とお母様と離れねばならない事だけですわ」


「メレディス。安心しなさい。婚約期間は一年あるし、結婚後だって君は私達の大事な娘だ。婿殿が君の笑顔を曇らせるようなことをしたら、私がしっかりと婿殿を叱ってあげるからね」


「わたくし、お父様の子供に生まれて幸せですわ」



        ――――――――



「あなたはこの結婚を何とも思わないのですか?」


メレディスは自分に語りかけた男性へと視線を動かす。

紳士にしては短すぎる焦げ茶色の髪に、真っ直ぐな鼻梁にしっかりした顎など、柔らかさなど無い顔立ちの人だ。メレディスは視線と彼の瞳がかち合った時、彼の瞳がきれいな黄褐色で猫の瞳みたいだと思った。


彼女の婚約者の名は、レン・アーロン。陸軍大佐である。


年齢は三十近く、けれど聞いていた経歴では軍部出身で遠方にずっといたらしいので、結婚が遅いのも珍しくは無い事だとメレディスは受け入れている。

しかし、軍人という者は荒々しく賭け事が好きな生活破綻者も多いと聞く。


けれど父親が選んだ人ならば人格者のはずだからと自分に言い聞かせ、メレディスは自分の目でちゃんとアーロン大佐という人物を見ようと思っていた。

それで本日の初顔合わせだが、彼女はいい意味で裏切られた、と感じている。


アーロンの軍人らしさは短い髪といかつい顔に筋肉質の体だけである。その体も大柄過ぎず背筋が真っ直ぐなだけで、実は夜会などに出席している貴族子弟の弛んだ風船みたいな体よりもずっと好ましい。

好ましいと言えば、いかつく見える顔こそ石膏像みたいに整っているのだ。


メレディスのアーロン大佐に対する第一印象は好ましい、それだけであった。


ここまで考えて、メレディスは外見からしかアーロン大佐を判断していないと、気付いて慌てた。


殿方を外見しか見ない女性と同じことをしていたわ、と。


そこで改めて、出会ってから今まで、まだほんの十数分のアーロン大佐の人柄を思い返す。結果、口数が少ないが威圧的どころかメレディスを気遣うばかりと思い出し、アーロン大佐の好感度がさらに増した。


アーロン大佐の問いかけに対して、メレディスの中で答えは出た。

この縁組を結んでくれた父親に、彼女は感謝するばかりである。


「よい縁組だと思いますわ。アーロン大佐こそ私との縁談に思う事がありまして? 母もおば様達も幼な妻は殿方に喜ばれると申しておりましたけれど、もしかして、十八は幼な妻とは言えないのでしょうか」


「ぐふっ」


メレディスが答えるとアーロン大佐は何故か咽た。

彼女はこてんと首を傾げる。


「アーロン大佐? お身体の具合が悪いのですか?」


「い、いえ。元気です」


「まあ。良かったわ。旦那様は元気が一番だと、ミーナ小母様が」


「ぐふ、おふぉ、ごほ」


「アーロン大佐?」


「だい、大丈夫です。デネブ嬢」


「その呼び方は嫌ですわ」


「いや、ですか? 馴れ馴れしかったで」


「メレディスと呼んでください。私は美しくないからと、従兄やその学友にわざとデネブのブの音を伸ばしたりしてデネブ嬢と呼ばれましたの」


「従兄様は君よりも年上で成人なさっているのに? いまだにそんな馬鹿な事をなさるのですか?」


「いいえ。寄宿舎に行く前の話です。卒業後は従兄にまだ会っていないので、あなたが仰るような事はされておりません。でも」


「幼い頃に傷ついた事は大人になっても残りますからね」


「その通りですわ。それに結婚したら私もアーロンですわ。アーロン夫人とアーロン大佐が妻になった私に呼びかけるのもおかしな話です」


「わかりました。メレディス。あなたも私のことはレンとお呼びください」


「かしこまりました。レン、さま」


「ん、んん」


「やっぱりお身体の具合が悪いのですか?」


「いいえ。あなたが可愛らしすぎるので。……本当によろしいのですか? 私は私との結婚についてあなたが心配です」


「確かに私は優秀ではございませんね」


「ちがいます。こんなオジサンでいいのですか? 私に嫁いだらあなたは王都の洒落た屋敷ではなく、僻地の兵舎に住むことになるかもしれないのですよ。あなたは若い。そんな寂しい人生は辛くないですか?」


「レン様はお若くてよ。王都でも気軽に外には出られませんでしたし、先日まで私は寄宿舎でした。兵舎でも平気です。レン様こそ、私に寂しい思いをさせるおつもりなんですか?」


「そうなるかもと言っています」


「愛人がいらっしゃって、私は名ばかりの正妻で、毎日家に一人ぼっちになると仰られたいのでしょうか」


「私に愛人はいません。妻にそんな不名誉など与えませんよ」


「では大丈夫ですわ。母も父も恋愛結婚ではなく、家同士が決めた結婚ですわ。そのお陰で互に素晴らしい人と出会えたと申しております。だから私は父が選んでくださったレン様には間違いなど無いと思いますの」


「うぐ」


「胸を押えられて、お病気ですか?」


「いいえ。大丈夫です。あなたの純粋さが私の胸を打っただけです」


「うふふ。レン様は楽しい方ですのね。婚約者があなたで嬉しいですわ」


「私こそ夢のようですよ」



        ――――――――



婚約者との顔見せの翌日、アーロン大佐は同僚に浮かない顔だと揶揄われた。


「初顔合わせは失敗したのか」

「結婚が遅すぎて女の扱いを忘れたか」


なんていう軍部らしき下世話な揶揄いに対しても怒るどころか、彼は大きな溜息を吐くばかり。終には、触れちゃならない最悪な婚約だったのかもと同僚たちは考え、アーロンが自分の執務室近くの廊下を歩く頃には、彼の周囲には誰も彼もが消えていた。


「俺が不幸じゃなく、俺が彼女の不幸って、さいあく」


「何が最悪だ?」


落ち込みきっている彼の肩に腕を回して来たのは、彼の同期で親友で戦友のフィッツ・ベイグランド中佐である。アーロンは自分と同じ年齢のフィッツの輝ける金髪が煩く感じ、今も若々しく甘い顔立ちのイケメンで気さくな所全部が急に忌々しくなった。

自分は焦げ茶色で年相応なおっさんだというのに、と。


「金髪は白髪にならなくて良いな」


「急に何を言いがかり付けてくるかな、君は。その不貞腐れっぷりは、相手が物凄い醜女(しこめ)だったのか?」


「デネブ嬢を侮辱するな」


「お、おお」


「彼女は上等この上なかった。柔らかな月の光のような色合いの金髪に、長い長い睫毛に飾られた瞳はキレイな水色。天使か妖精みたいな美人だ」


「おお。なのに溜息とは素行が悪そうなのか?」


「天使だと言ってるだろうが!」


「うぉ」


「純粋無垢で、こんなオジサンが汚していいのかと思う程の可愛い子だ」


「ああ、理解。俺も聖女や天使よりも、美人じゃなくても気のいい女の方が気楽でいいな」


「それで毎回男を作られてフラれるんだよな」


「心配してやっている俺にお前は酷いな」


「すまない。情緒が不安定なんだ。一人にしてくれ」


「朝から元気だな。ちゃんと鍵は掛けてやれ(・・)よ」


丁度アーロンの執務室前で、フィッツはアーロンを執務室内に突き飛ばし、笑い声を立てながら扉を大きく閉じた。フィッツによって自分の執務室に閉じ込められたアーロンは、まず鍵をかけるどころか、片足の靴を脱いでドアに投げつけた。


ドオン!


ドアの前にいたフィッツが、ドアが立てた大音に大笑いして去っていく。


「ばかやろうが。そういう事も考えたらいけない程に彼女は幼いんだぞ」


彼は体中の空気を絞りだす勢いで、溜息を吐く。

俺には大事に育てられた深窓のお嬢様は荷が勝ち過ぎる、と。


アーロンは商家の三男坊である。

それも後妻の子だ。

自分には商才は無いとわかっていた彼は、父親が死んだ後はさっさと兄達と袂を分かって陸軍学校に入学した。陸軍学校は学費も寮費も無料な上、わずかだが給料も出る。家も金もなく成人前の子供にはそれしか道が無かったのだ。


子供心に、戦争のない平和な国ならば、軍人でも気楽でいけると打算もあった。

しかし彼が学校を卒業するや隣国との戦争が始まり、彼は前線に派兵されたのである。完全なる目論見外れだ。だが死にたくはない。


今や彼は救国の英雄の一人にされているが、彼は生き抜こうと必死だっただけで、英雄なんて良いものじゃないと考えている。

彼は自分に友人同僚、階級が上がるごとに出来る部下をどう動かせば死なずに済むのか、と、常に敵に打ち勝つよりも生き残ることだけ考えていたからだ。そんな浅ましさで生き残った自分に対し、臆病な卑怯者とさえ思っているのだ。


その程度の男なのに、彼は無意味に持ち上げられ、名家のお姫様との婚姻というご褒美まで賜ることになってしまった。


「そのせいで、メレディス様は貧乏くじだ」


貴族女性は物語に出てくる騎士に憧れるが、本物の兵士は暴力的だと忌避される。

その上、英雄と持て囃されようが所詮は平民。

彼の数か月後の赴任地は、隣国との国境を接する辺境である。


そのため、実はアーロンの婚姻話は、今までいくつもいくつも令嬢達から断られる形で流れてきていた。英雄だろうが下賤な男に嫁いでも、王都で面白楽しく過ごせるどころか焼け野原になったばかりの辺境行きだ。


そうしてとうとう、メレディス・デネブ嬢に白羽が立った。

彼女は結婚市場の残り物どころか、これから出荷予定の最高級である。

幻の果実だ。

それなのに彼女はアーロンとの婚約について、「嬉しいですわ」である。


婚姻話が纏まったことは嬉しいと思いながらも、アーロンは相手女性の純粋さや幼さがわかるからこそ騙しているような罪悪感を抱えているのである。



        ――――――――



メレディスは侍女と連れ立って町に来ている。

目的は人気店らしい雑貨店と菓子店を体験しに、である。

買い物は家に業者を招けば良いのだが、小間使いから平民に人気のあるお店を聞いたら、どうしても行きたいと思ってしまったのだ。


だって、私の夫になる人は元平民だったと聞きますもの。


メレディスがそんな行動をとったのは。数日前の招待されたお茶会での出来事が理由である。

メレディスは友人や知り合いのご婦人達から婚約をお祝いされるのかと思ったが、なぜかお茶会の参加者達から可哀想と涙ぐまれて憐れまれるばかりである。


「英雄でも元は平民の方よ。価値観が違う結婚は辛いのよ」

「アーロン大佐は辺境の基地の司令官に任命されるそうよ。王都から遠く離れた場所だなんて。あの地に赴任する軍人の妻達はさぞ寂しい思いをなさることね」

「平民の妻になったら夜会の参加なんてできないの。キレイなドレスは諦めなければいけないのよ」

「子供が生まれたら、いえ、お医者様はいるのかしら? 辺境の地で一人で出産なんて、考えるだけでも恐ろしすぎて気を失ってしまいますわ」

「生まれた後も大変よ。大事な我が子にちゃんとした教育が施せないなんて。辺境じゃ家庭教師もいないでしょう。ぞっとするわ」


「まあああ。私はそこまで考えていませんでしたわ。皆さま、重要なご意見をありがとうございます。私、レン様との婚姻について深く考え直してみますわ」


「「「「そうなさりなさいな!!」」」」

「「「メレディス様が正しいご判断をされることを祈ってますわ!!」」」


実は、メレディスの友人はメレディスが平民と結婚する事への拒否感で婚約破棄をする事を願い、メレディスを妬んでいた者はメレディスを嘲笑う機会だと、アーロンとの婚姻についてあげつらっただけである。


けれどメレディスは単なる親切なアドバイスとしか受け取らなかった。

なので、まず、平民の価値観を知るべきだと町に出て来たと、そういうわけだ。


そしてメレディスは、自分の判断を心から褒めた。

水色の壁に窓や木枠を黄色に飾った店の外見が可愛いと感激し、一歩踏み入れれば小さな店舗ながら沢山の商品が色とりどりに飾られている様子に、まるでドールハウスのようだと感激しているのである。


「お人形さんの世界だわ。夢の世界に入り込んだみたい」


「まあ、お嬢様。嬉しいことをおっしゃって下さる。本日はどんなご用命でしょうか」


豊かな茶色を大きな玉ねぎのように結った年配の女性の笑顔は温かく、メレディスも自然な笑みが顔に浮かぶ。


「婚約者への贈り物を考えておりますの。ご相談してもいいかしら」


「ええ、ええ。光栄ですわ、お嬢様。婚約者様への贈り物として、ハンカチに刺繍は定番ですわね。それから、お嬢様の目の色のお色の万年筆、または、お揃いのペーパーウェイトも面白いかもしれませんわよ」


「勿論ハンカチの刺繍は自分でするのよね」


「ええ。刺繍が苦手な方のために、イニシャルが刺繍してあるものもご用意しておりますわよ」


「まああ、素敵。では、まずハンカチと、いいえ、まず万年筆を見せて頂ける? 私は彼の瞳の色のペンが欲しいわ」


「はいはい。ではこちらに。婚約者様は何色の瞳でいらっしゃいますか?」


「猫のような黄褐色ですの」


「まああ。それはさぞ素敵な方でいらっしゃいますね」


「ええ。素晴らしい外見の方よ」


その時、メレディスの後ろで侍女が侍女にあるまじき、げ、と呻いた事をメレディスは知らない。

メレディスはアーロンを好ましいとしか見ていないが、メレディス以外の貴族社会しか知らない女性や男性には、アーロンの外見は強面そのものであり、黄褐色の瞳が輝くところなんかは魔獣か魔物でしかないのである。


そして、可憐なメレディスが「猫みたいな人」と言った事で、雑貨屋の店主がメレディスの婚約者を貴族のひょろっとした華やかな男性と誤解した事も、メレディスにはわからない事だったのである。


そのせいでメレディスに勧められた刺繍用の男性用ハンカチは、寄宿舎を出たばかりの青年が持っていそうな明るい水色のものだった。さらに、お揃いの万年筆として店主がメレディスの為に出した品は、どれも可愛らしさがあり大人の男性が持つには相応しくないものばかりだった。


そんな事は知らないメレディスは、自分の好みのまま、水色には金色の小花が、琥珀色のものには金色の猫が描かれているというものを選んだ。


ここでメレディスに助言できるのはアーロンを知っている侍女の役目だったが、侍女こそメレディスとアーロンの結婚を阻止したいと考えているので口を閉じたままだった。彼女は僻地の辺境など、いくら敬愛するお嬢様の為でもついて行きたくなかったのである。



        ――――――――



アーロンは婚約破棄をメレディスにしてもらう方法を思いつかないまま、二度目のメレディスとのお茶会に参加していた。

けれど彼はこのまま結婚話を勧めても良いのかも、と考えていた。


メレディスとの婚約期間は一年だ。

自分自身は三か月後には辺境の基地に赴任する。

ならば、自分が不在の間に婚姻話は立ち消えて、辺境の自分宛に婚約破棄を願う、あるいはすでに破棄された知らせの書類が届くのではないか、そう思ったのだ。


ならば、敢えてメレディスを悲しませたり傷つけたりせずに、彼女を楽しませてあげた方が自分も彼女も痛みが少ないだろう。その方がきっと別れる時には、良い年上のおじさまでしたと、彼女も悩まず自分を捨てられるだろうと、そんな思いだ。親友のフィッツに聞かせたら脆弱すぎると罵られるなと自覚しながらも、アーロンは「メレディスのいいおじさん」を目指そうと決めた。


彼女に嫌われたくないだけだろ、と自分の一部が囁くが、彼の心にはもう傷つく場所が残っていないのだからと自分を慰める。


「二週間ぶりですわね」

「二週間ぶりですね」


アーロンは目の前のメレディスに微笑みを受け、自分の顎のあたりがきゅっと痛んだ。こんなにも自然に微笑めたのはいつぶりだろう、なんて彼はメレディスを見つめる。

メレディスは今日も可愛らしかった。

沢山のつぼみが次々ほころんだような、ふわっとした微笑ましい彼女。


「うふ、うふふ」


「何か楽しいことがありましたか?」


「はい。私、小間使いと話しましてね、今はやりのお店に参りましたの。そのお店はドールハウスみたいに夢があって、とても素敵なお買い物ができましたのよ」


「それは良かったです――お持ちに?」


真っ赤なリボンが飾られている細長い箱をメレディスは侍女から受け取り、それをアーロンに向かって差し出したのだ。アーロンはぼんやりだ。え? と。


「どうぞ。だってレン様へのプレゼントが目的でしたの」


「私への?」


「はい。婚約したお祝い? いいえ。婚約者は婚約者にプレゼントをするものだから、何も無いけれど贈りたい贈り物ね!」


「ふふ。素敵ですね。何でしょう」


アーロンは心が沸き立つ嬉しさがこそばゆいと感じながらリボンを解く。それから小箱の蓋を開けるところで、彼の視界の広い瞳はメレディスの侍女の底意地悪そうな笑みを捕らえていた。


メレディスが嫌がらせをするとは思えないが、この箱の中身は俺の気分を害するもの、ということか。


アーロンは笑みを崩さず小箱を開けた。


「わたくしと思って使って下さいな!」


「嬉しさで……爆発しそうです」


小箱の中にあるペンは、メレディスの瞳のような透明感のある水色のボディにメレディスの美しい髪色の金で可愛らしい小花が散っていた。十代の少女が持つようなペンだが、このペンのデザインはメレディスそのものだ。

それを、使え、と。


侍女は俺がこれに対して侮辱と怒り出すと期待したのだろうが、怒るどころかメレディスの可愛さに身悶えるばかりだよ、俺はね。


「レン様には幼過ぎるかしら?」


「君だと思って眺めるよ。何て綺麗で可愛いペンだろう」


「まあ、嬉しいわ。実はね、私のペンもあるのよ」


メレディスが手を差し出せば、侍女が同じ様な小箱をメレディスに手渡す。

メレディスはいそいそと小箱を開ける。


アーロンは涙が出そうだった。


箱の中のペンはアーロンの色合いだ。ただしこちらも十代の少年か青年に相応しいデザインのものだ。けれどアーロンの青春は、戦争で塗りつぶされていた。

だから、戦争が無く、兵学校ではなく兄達が行ったような学校に進めたならば、好きな子とこんな可愛い品物を贈り合っていただろうと想像したのだ。


だから、嬉しい、と純粋に彼は感じた。

彼の中の飢えていた心が、得られなかったものを得られたと喜んでいる。


「素敵でしょう。それでね、ここを見て。猫さん。あなたの瞳は猫のようで素敵だから、猫を選んだの」


「素敵ですか、俺が」


「ええ。初顔合わせの時、あなたのお顔が好きなお顔で良かったわって思ったの。それに黄褐色の瞳が猫さんみたいだわって」


「あなたは本当に天使ですね」


「まああ、何をおっしゃるの」


「私も初顔合わせの時思いました。こんなにきれいで天使か妖精のような方が婚約者様? 何かの間違いか、もう死んで自分は天国にいるのかもねって」


「ま、まあああ」


アーロンは思った。

自分は傷ついても彼女は絶対に傷つけまいと。

自分の褒め言葉に両手を頬に当て、顔を真っ赤にして俯く彼女が、なんと可愛く尊いのだろうか。

彼は自分がメレディスに恋をしてしまったと、自分に認めた。



        ――――――――



メレディスは次の課題だと勢い勇んでいた。


平民の人気店で購入した贈り物をアーロンは喜んでくれた。

私こそあのお店は大変お気に入りになったのだから、私達の価値観は同じよ。


そんな彼女が次の課題と考えるのは、「辺境の地の軍人の妻は寂しい。子供を産むときは不安で一杯」という問題だ。アーロンの妻になれば司令官の妻であり、アーロンの部下の妻達の不安を聞いてあげる立場だと自負している。


でも、その時じゃなくて、今から準備しておけばそもそも不安にならないかもですわ。相談された時に辺境からじゃ何もできないと困りますもの。


「いらっしゃい。メレディス。可愛い子が遊びに来てくれて嬉しいわ」


メレディスの到来を喜んで出迎えてくれたのは、現在陸軍の元帥であるドラローシュ閣下の奥方であるジーン・ドラローシュである。メレディスの親戚の一人でもあるので同じような金髪に水色の瞳をしているが、孫までいる彼女の髪色はメレディスよりも儚い月光色をしていた。


しかし美貌で有名だったジーンは、年を重ねても美貌が衰えるどころか、ふくよかになったことで聖母のような神々しさまで備えている。


「寄宿舎はどうでした? 一等だったなんて頑張りましたね」


「戦争で大変だったというのに、申し訳ないほどの環境でしたわ。私に出来る皆さまへのお返しは、必死に学ぶことだけでしたもの」


「なんて素晴らしい子。あなたを手放さなくちゃいけないのは辛いわね」


大伯母(ジーン)様。私はいつまでも家族だとお父様は仰りましたわ。そして、私の婚約者のアーロン様は息子であると」


「そうね。でもあなたが遠い所に行ってしまうのは悲しいわ。でも、ごめんなさいね。まだ火種の残る隣国との国境線は、アーロン以外の方に任せられないの」


「ええ、レン様は素晴らしい方。わかっておりますわ。妻となる私にできることは、レン様の憂いを晴らすことだけですわ」


「まあ、まあ、アーロンに何か問題が?」


「いいえ。先日のお茶会でお友達に教えられましたのよ。辺境の地に赴任する軍人の妻達が抱くであろう、子供を産む事の不安や心配や遠い地での寂しさを。私は王都にいる間に、少しでもその問題を解決出来たらと思いまして、まず軍人の妻として大先輩のジーン様にお話を伺えたらと思いましたの」


「まあ、まあ、なんて素晴らしい子。そうね。私もジャッセと外国のエランバに赴任した時は不安で一杯だった。それから彼が遠征で不在の時は本当に心細いものだったわ」


「ジーン様はどうやって不安を乗り越えられましたの?」


「それはね――」


メレディスはドラローシュ邸を出る時には、これからの手ごたえを感じて幸せいっぱいであった。

これならば、年若い私でもレン様を支えられる良き妻になれますわ。



        ――――――――



アーロンは初めて来た場所に尻込みをしていた。

どんな戦地でも、どんな戦況下でも、彼は諦めずに進んでいけた。

だが、貴族ご用達の高級専門店が並び立つ場所は、自分が分不相応なネズミにしか思えず「撤退」の文字しか頭に浮かばないのである。


「だが、俺は征くべきだ。メレディスにお返しの品を買わねば!」


先日のメレディスからの贈り物は、アーロンの宝物となっている。

仕事の合間にペンケースを開けては贈り物の水色のペンを眺めているので、補佐やフィッツに見下げ果てた目で見られている。


かなりのにやけ顔を晒しているらしいが、あんな素敵な贈り物を俺は貰った事が無いんだ。彼女は俺が可愛い猫に見えるらしいぞ。


「早く歩け」


アーロンは親友へと振り返る。

なぜ親友がいるのかと考え、考える迄も無いとがっくり肩を落とす。

お返しの品をどこで買えばよいのか、アーロンこそフィッツに相談していたのだ。


「結局買えなかったと嘆くより、俺に一生揶揄われる方が良いだろ」


「究極の選択だな。だが、まあ、お前の言う通りだ」


「じゃ、女が喜ぶ宝石店へと行きましょう」


「俺が買える品は、彼女にとってはくず石だろうけどな」


「いいじゃない。くず石でも。ここはお揃いを贈るって奴でしょうが。彼女には小さなペンダント。お前はネクタイピン?」


「むかつく」


「どうした? 今は揶揄ってないだろ?」


「お前の提案が良いなって思った。それでメレディスが喜んだとしても、それはお前が喜ばせたのと一緒じゃないか」


「やばいわ。お前完全に落ちてるな」


「何とでも言え。彼女に落ちない男はこの世にいない」


「はいはい。ほら日が暮れる前に行こう。明日は演習だ」


「そうだな。早起きして、貴族子弟ばかりの第一連隊との演習に備えねばな」


「気を付けろよ」


「何がだ」


「君の姫君との婚約を貴族連中は嬉しく思っていない。お前が大怪我したり命を失う事が起きても、演習中の事故で片付けられる」


「そんな馬鹿をしてどうする」


「馬鹿な事か?」


「馬鹿この上ない。俺は三か月後には王都から遠い遠いキーアの司令官になる。王都に残る彼女は、俺の不在後にいくらでも恋もできれば婚約破棄もできる」


「君のお姫様は、そんな恥知らずな真似ができる人か?」


「そうだな。じゃあやっぱり馬鹿な事じゃないのかもな。俺を亡き者にすれば彼女は自由になれる」


「お前は本気で馬鹿になったな」


「平和ボケだ。仕方がない。俺達が作った平和だ。堪能しているのさ」


アーロンは宝石屋で自分用のネクタイピンを購入し、同じデザインのヘアピンをメレディス用に購入した。

アーロンはショップから品物を手渡されて、その時にようやく気が付いた。


自分がメレディスの為に購入したヘアピンが、メレディスに似合うものかどうかを考えていなかった、と。自分が気に入ったネクタイピンと揃いにできるからという理由だけで購入してしまった、と。


けれど彼には分っていた。

ネクタイピンについていた宝石が、メレディスの瞳を思わせる美しい水色だったのだ。彼はその宝石を見つめた時、メレディスの瞳に見つめられたような錯覚を起こしたのである。


だから彼はそのネクタイピンが欲しかった。

どうしても欲しかった、のだ。


だからせめて、メレディスへ贈るヘアピンを飾る宝石は奮発した。

ブラウンダイヤなんて知らなかったが、彼女に贈るにはダイヤ以外ありえないと彼は悩まずそれを購入した。

フィッツにはやはり馬鹿だと罵られたが、アーロンは彼女に捧げられるものをそれなりなものに出来て良かったと思うばかりだった。



        ――――――――



軍事演習は実際の戦場に見立てねば意味が無い。

しかし味方同士で本当に殺し合うものではない。

それでも時々事故は起こり、誰かが命を落とす事もある。



        ――――――――



メレディスは充実を感じていた。

今までは自分は単なるお人形さんだった、そう感じる程に今は楽しい。

それは、アーロンとの結婚をより良きものにするには何をすべきかと考え、困難を見つければそれに打ち勝つにはどうするべきかと、模索して解決していくことが楽しくて堪らないのである。


そしてどうしてそこまでするのかと考えれば、自分がアーロンとの結婚を待ち望んでいるに他ならないのだ。

だから、三度目のお茶会に彼の欠席を聞いた時、目の前が真っ暗になった。


「営倉入りってなんですの?」


アーロンの代りにメレディスの前に現れた金髪の人は、メレディスの質問には答えずに宝石店の包みだけをメレディスに手渡した。


「あいつからの最初で最後の贈り物です。どうぞ罪深き自分との婚約を破棄し、幸せな人生を送られますように。それがあいつからの伝言です」


「なぜで、ございましょう」


「申し訳ありません。機密です」


「でも、あの方が営倉入りなんて、私は誰からも聞いておりませんわ」


「機密です」


「あ、あなたは、レン様とお話できますの?」


「あと一度ぐらいは」


「では、では。お待ちしておりますと」


「あいつの希望はあなたに婚約破棄していただいて、あなたには自由になって頂く事です」


「どうして自由になれましょう。私の心はレン様に捧げております。この恋心を無理矢理消すには長い年月がかかりましょう。ならば、レン様をしつこく待ち続ける方が楽ですわ、きっと」


はあっ。


メレディスはアーロンの親友だという人が息を大きく吐き出した音にビクッと震えたが、彼が両手を顔に当ててしゃがみこんでいる姿に、一番考えてはいけない事実がそこにあるようで目の前が暗くなった。


「レン様は本当に牢屋の中ですの?」


「第二王子を傷つけた咎で、明日の正午に処刑されます」



        ――――――――



演習は散々だったと、アーロンは閉じ込められている部屋の小さな窓から外を眺めていた。軍の営倉入りとは、別に牢屋に入れられる事ではない。小さな個室に閉じ込められるだけである。そして軍人として刑が言い渡されることを待つ。


けれど彼は軍服も私物も奪われ、粗末な囚人服姿である。

ネクタイピンも奪われてしまっているので、ネクタイピンの水色の宝石を眺めて愛する人を思う事も出来ない。だからせめてと彼女の瞳の色に似た空を眺めていたが、どんどんと日は暮れて今や彼女の色など失った真っ赤な世界だ。


「持ち物を何も持たせてもらえないのは辛いな」


アーロンは奪われたネクタイピンのことを思う。

彼は嘲りは許せたが、ネクタイピンを奪おうとする行為に対しては許せなかった。

嘲りながら自分からそれを奪おうとする青年の手首を、反射的に掴んだどころか、ぽっきりと捩じり折ってしまったのである。


これは誰が見てもアーロンには非が無く、手首を折られた若者こそアーロンに謝罪せねばならない事案であった。若者がこの国の第二王子でなければ。


結果、アーロンは身分剥奪の上、三日後の処刑宣告を受けた。


彼が唯一出来たことは、面会に来た親友にメレディスへの贈り物を届け、彼女に婚約破棄をしてもらうように伝言して欲しいと頼む事だけだった。


「このまま死ぬつもりか?」


「もうどうにもならない。けどね、女の子へ贈り物なんて生まれて初めてだからさ、それだけでも渡してくれないか?」


フィッツは最後まで悪友でいてくれなかった。

彼は普通の親友がするみたいにアーロンを抱き締め、辛いと泣いてくれたのだ。


「俺もすぐに行くよ」


「何を馬鹿なことを」


「お前が馬鹿だよ。お前は英雄なのに、そんなお前が消えるんだ」


フィッツはそう言い残してアーロンの前から去って行った。

その後は、何もすることが無いアーロンは、小さな窓から空を眺めるばかりの日々である。


「あの時、どうすれば良かったのだろうな」


演習で顔を合わせた時から、第二王子はアーロンに対しての態度が辛辣で差別的であった。アーロンは自分が平民でしか無いからと、王子の失礼な態度は流し、演習にだけ集中するようにした。


けれど彼は気が付くべきであった。


どうして相手が第二王子が率いる小隊であろうと、司令官に抜擢されたアーロンが小隊を率いて対抗戦などしなければいけないのか。大佐であるアーロンは、演習に参加せず、椅子にふんぞり返って観戦していれば良いだけの立場であるのだ。


二度目の朝。

アーロンは今日がメレディスとの三回目の茶会だったと、空を見つめる。

彼女は少しでも自分を思ってくれただろうか。

婚約破棄ができると、ほっとしてくれただろうか。

けれど彼はその日の太陽が沈みゆくそこで、自分の浅ましさに気が付いた。


「なんてことを」


彼は愕然と呟く。

彼が自分の死をすんなりと受け入れたのは、自分の死によってメレディスに捨てられる未来が消えたからである。彼は彼女に恋をしていた。彼女に婚約破棄してもらおうとしていたのは、妻として迎えたその後に彼女に去られる未来を絶対に受け入れられそうも無いからである。


彼は彼女のいない世界に耐えられなくなっていたのである。


しかし、アーロンは自分の感情に振り回されていたことで、大事なことを失念していた。彼は英雄で好戦的な隣国の抑止力の存在なのだ。

そんな彼が処刑されたと隣国が知ればどうなるか。


好色で有名な男が国王を名乗り、軍事力だけは大陸随一のあの隣国が、自分がいない世界でこの国にもう一度宣戦布告してきたらどうなるのか。


「ああ、俺はなんて浅はかなんだ!!」


アーロンは沈みゆく太陽へと膝を付き、ただただ祈った。

どうか、彼女にだけは幸せな未来を、と。



        ――――――――



メレディスは久しぶりに夜会に出席した。

怒りに満ちていると分かるように、彼女は真っ赤なドレスを着た。

けれど髪に飾るのは小さなヘアピン一本だ。


愛した人の瞳と同じ色の宝石が飾られている、小さいけれど何よりも大事になった愛した人からの贈り物だ。


彼女が夜会の扉の前に立つと、彼女の到来を告げる声が会場に響いた。


「メレディス・マクリエーネ五世・デネブ公爵令嬢のご来場!」


ドアが開けば、彼女はまっすぐに彼女の敵へと向かって行った。

三角布で負傷した右手を吊っている、彼女の従兄の第二王子の元へ、と。

彼はメレディスの姿を目にするや、獲物を飼い主に見せびらかす猟犬のように両目を輝かせた。


「喜んでくれ。君の不幸な結婚はこれで」

バシンッ。


大きな破裂音が会場中に響き、会場はしんと静まる。

驚きに目を見開き、頬を押えた王子に対し、メレディスは大声を上げた。


「この恥知らず! 考え無しの浅はかな国賊! 二度と顔を見たくない」


「め、メレディス」


「さあ、私こそあなたを侮辱し、傷つけました。明日、私を私の婚約者の隣で吊るしなさい」


「何を馬鹿な事を」


「何が馬鹿ですか。英雄を殺せば、また隣国がこの国を侵略しようとするでしょう。国を守る英雄がいないこの国は、ただ蹂躙されて沢山の人が死ぬでしょう。そして好色と名高いあの王は、この国の女性達を奴隷として国に連れて行くわ。彼がいないこの世界でそんな屈辱に生きねばならないならば、私は彼と一緒にこの世を去ります!!」


「いや、でも。あいつは平民の、それで君よりも十も年上の男じゃないか!」


「王子であるあなたは、彼よりも素晴らしい所があるの? 彼と同じような境遇になった時、あなたは彼と同じ事ができて? 出来ないでしょう!!」


「メレ、メレディス!!ぼ、僕は大事な君のことを思って」


「誰も頼んでいません」


「君とあいつの結婚は、軍部で力をつけすぎたあいつをとりこむための、ただの政略結婚じゃないか!!貴族家の娘の誰も奴と結婚したくないと逃げるから、王族の血を引く君にお鉢が回って来たという最悪な縁組だ!!」


「あら、政略結婚のどこが悪いの? 父も母も政略結婚ですが、とても愛し合っておりますわ。そして私も、レン・アーロン大佐にひと目で恋に落ちました。彼を選び、婚約を整えてくれた父と母には感謝してもしきれませんわ!」


「平民落ちをすると――」


「もうやめよ。ベルフォード。父も私もお前の今回の所業には頭が痛い。王族として、己の間違いを恥じ、アーロンの名誉回復に努めよ」


「兄上!」


「ああそれから、大事な従妹の平民落ちなど心配不要だ。アーロンには三か月後にキーアに赴任する際の式典にて、伯爵位が与えられる。それから、ドラローシュ閣下によれば、彼は大佐ではなく少将に昇進するそうだ」


「そん、そんな!!いや、私は王子だ。メレディス。あんな辺境に行きたくないと今言えば何とかなる。私の妃にしてやるから、メレディス、強情を張るな!」


「はあ。どうしてお前はそうなのか。お前を傷つけるからと黙っていたが、政略結婚を望むメレディスだが、お前だけは嫌だと言っているのだ。いい加減に嫌われていると理解しろ」


「あ、ああ、あ」



        ――――――――



営倉から引き出されたアーロンだが、彼は三日ぶりに自分の軍服を羽織っていた。

処刑される人間への最後の情けなのかと思ったが、彼は本当に情けならば第二王子に奪われ踏みつけられて壊されたネクタイピンを持ってきてほしいと思った。

ピンはもう歪んで使い物にならないだろうが、あの水色の石さえ付いていればそれでよい。メレディスの瞳を思い出せる。


「お身体は大丈夫でした?」


アーロンは頭が真っ白になった。

たった今聞こえた声は幻聴か?

彼が聞きたいと望んだ最愛の人の声が聞こえたのは、これで最期となる彼への神の恩寵なのか。


「もしかして、拷問で鼓膜を破られたりしましたの? 頭に針を刺されて、脳みそを弄られたりなさりましたの?」


アーロンが望んだ声だが、アーロンが想像もした事無いほどに残虐性を帯びた台詞なのはなぜだろう、と、彼はようやく声の方へと顔を向けた。

月の光でしかない髪は既婚女性のように上品に結い上げられ、黄褐色のパイピングのある焦げ茶色の旅用ドレスに身を包んでいる美しき人がそこにいた。


「俺の処刑はもう済んでいたのか。愛する人がこれ以上ない美しさで立っている」


「あなた色のドレスがなくて。でも、貴方と一緒にキーアに行くためのスーツは出来上がっていたから。どうかしら?」


「似合っているよ。夢のように美しい。最期の風景としては最高だ」


「ええ。こんな場所にいるのは最後にしましょう。さあ、いらっしゃって。あなたのお部屋は馬鹿王子に台無しにされていたから、三か月後の出立まで我が家にいらっしゃって。父もあなたと過ごすのを楽しみにしているの」


「ハハ。本当に夢かな」


「夢じゃないわ。私のペンも、ネクタイピンもあの馬鹿に壊されただなんて、本当に許せない。あなたも辛いでしょう。だから、一緒に過ごしてくださる? 失った水色の代りに、私の瞳を見つめて下さるとうれしいわ」


アーロンはメレディスの前に跪いた。

彼女にはちゃんと思いを伝えねばと思ったからだ。

政略結婚だろうが、愛してしまったのだからプロポーズして彼女の心が欲しいと乞うべきなのである。


「すべて失った俺ですが、あなたを愛す心だけは絶対に失いません。どうぞ、こんなしょぼくれた男ですが、俺と一緒に人生を歩んで頂けないでしょうか」


アーロンが差し出した手に、柔らかな指先が乗った。

アーロンは自分の手を取ってくれたメレディスから言葉がなくても気にはならなかった。なぜならば、彼女と同じく、彼だって言葉が出ないぐらいに、幸福で涙が止まらないのだから。


        ――――――――


キーアの砦を守る司令官は、悪魔のような男だと言われている。

金色に光る瞳が恐ろしい悪魔を連想させるわけではない。

天使か月の女神のような妻に憂いが少しでも見えるのであれば、権謀術数を行使して妻の憂いを払ってしまうという恐ろしい男だからである。


隣国の好色で戦争狂の王が司令官の妻を誘拐しようとした時には、それを防いだ一月後に王城に籠っていたはずの好色王の首が国境にて晒されたという。

そしてそんな男に愛される妻は、夫の部下の妻達にも愛され女神と呼ばれている。


公爵令嬢として国に掛け合い、医師が常駐している病院と、生まれた子供達の為の教育施設なども基地内に作り、辺境に住まう事になった妻達の悩みを解消してくれたからである。


「何度も言うが、君と結婚できたことは最高の幸せだ」


「私も何度でも言うわ。あなたと結婚できて幸せだって」


「最高って言ってくれないのか?」


「あと数か月後に子供が生まれてから言うわ」


ばたっとアーロンが胸を押えた。

メレディスが慌てれば、胸を押えているアーロンは感極まって泣いているだけだった。


「あなた」


「幸せって際限が無いのな」

お忙しい中お読みいただき、また、誤字脱字報告もしていただきありがとうございます。

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ヒロインが純粋なだけでなく、言いたいことをハッキリ言えるメチャクチャしっかりしたお嬢さんでした!カッコイ~♪ ご両親からちゃんとした愛情と教育を与えられていたんだなぁ~と思いました。 途中ハラハラしま…
一途なふたりが素敵❣️ 純粋過ぎて、悪意を駆逐してしまいましたね。 第二王子ざまぁ♫♪♫♪
途中ウルウルしながら読み進めて、ラストで完全に泣いてしまいました。 幸せがこれからもどんどん増えていくの、いいですね。 わざとデネブのブの音を伸ばしたりしてデネブ嬢と呼んでいた従兄は、やはり好きな子…
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