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戻れない一歩

二次試験当日。


瑛慈は、無事に一次試験を突破していた。

再び訪れた校舎施設には、同じく合格した受験者たちが集まっている。


屈強な肉体を誇示する者。

不安そうに肩をすぼめる者。

一次試験で見かけた者もいれば、小柄な女性や、腰の曲がった老人の姿もあった。

誰もがそれぞれの理由を胸に、ここに立っている。


「二次試験は、体力試験および面接試験となります。受付を済ませた方から、試験官の指示に従い、各会場へ移動してください」


無機質なアナウンスが響き、空気が一段と張りつめた。



受付を終え、誘導に従ってグラウンドへ向かう。

一週間前に見た時とは様子が違い、そこには陸上競技用のトラックが整えられていた。

瑛慈は身体を軽くほぐしながら、試験が始まるのを待った。

しばらくすると、試験官が受験者たちの前に立ち、短く告げた。

「まずは持久走から始めます。レーンについて準備を」

心臓の鼓動が、耳の奥で重く響く。


一瞬の静寂。


「…では――スタート!」


号令と同時に、一斉に走り出す。

靴底が地面を叩く音と、荒い呼吸が波のように広がる。

序盤、周囲の受験者たちが次々と加速し、瑛慈を追い抜いていく。


……置いていかれる。


胸が焼けるように痛む。息が苦しい。

だが、頭の奥に浮かんだのは、あの日の叫び声と、鉄の匂いだった。


瑛慈は歯を食いしばり、速度を上げた。

視界の端で、試験官の視線がこちらを向くのを感じる。

脚が自然に前へ伸び、風を切った。

だが、先頭集団には追いつけず、順位は中ほどでゴールした。

それでも、確かに最後まで走り切った。


続く跳躍力、反応速度、筋力テスト………。

どれも平均点の数値。

特別な記録も、目を疑うような記録も出ない。

こんなところでも平凡か…。


周囲では驚異的な数値に歓声が上がり、途中で力尽きた者の悔しげな声も聞こえてきた。

瑛慈はただ静かに、自分の結果を受け止めていた。

俺は、平凡な人間だ。

それでも、胸の奥には微かな熱が残っていた。

それが何なのかは、まだ分からない



体力試験を終えた受験者から、順に面接室へ案内される。

白い壁の、無機質な小さな部屋。

中央の机の向こうには、三人の面接官が静かに座っていた。

黒スーツ、胸元の紋章——特事室の人間だ。


中央に座る、屈強な体躯の男。

その目だけが、異様なほど鋭い。


「天満瑛慈さん。どうぞ座ってください」


瑛慈は深く息を吸い、椅子に腰を下ろした。

室内に満ちる息苦しいほどの圧力は、まるで戦場の空気を閉じ込めたようだった。


「まずは聞こう。君には入学の推薦資格が与えられていたはずだ。なぜ一般入試で受けた?」


逃げ場はない。

瑛慈は、正直に口を開いた。


「…私には何も無いと思っていました。

だから、勇者なんて無理だって。

昔からスポーツも勉強も、何をやっても平均点で…。

器用貧乏だから、あの人には敵わないとか、才能がないとか、向いてないとか…そんな理由をつけて逃げてきたんです」


詰まりそうになるが、止めなかった。


「社会に出てからは、逃げ場もなくて……。

心が削られていく毎日に、意味があるのか分からなくなっていました」


一瞬、視線を伏せる。


「そんな時、私を救ってくれた人がいました。

その人は、私を"ヒーロー"と言ってくれたんです」


不破エレナの笑顔が脳裏に浮かぶ。


「今、どこにいるのかは分かりません…。

…でもきっと生きている。その人の幸せを、笑顔を、守りたいと思ったんです」


気づいたら、言葉が自然と溢れていた。


「……もう逃げたくないんです。

言い訳をして生きるのも終わりにしたいんです。

…こんな歳でヒーローになるなんて言ったら笑われるかもしれないけど………力があるのなら戦わなきゃいけないと思ったんです。

だから、私は勇者を目指します…!」


数秒の沈黙。

中央の男が、低い声で言った。


「戦うということは、死ぬ可能性を受け入れるということだ。魔物は容赦しない。誰かのために、自分の命を差し出す覚悟が要る。

逃げることは許されない。

それでも命を懸けられるのか?」


胃の奥が締め付けられる。

簡単に答えられる問いではない。

しかし、逃げた先に何もなかったことを、瑛慈は知っていた。


「……覚悟は、あります」


声は震えなかった。


「あの日、私は死んでいたかもしれない。

生かされたこの命に、意味があるなら—— 変わるなら、今しかない。 後悔しないために、逃げる人生を終わらせます」


男の目が、ほんの一瞬、わずかに和らいだ。


「……以上だ。退室して構わん」


瑛慈は立ち上がり、深く一礼して部屋を出た。

廊下の空気は、冷たく、肺に刺さった。


(守る、か……。その重さを、本当に分かっているのか俺は)


胸の奥で、熱が、確かに燃えている。


試験会場を出ると、日が傾き始め、空が血のように赤く染まっていた。


合否は一週間後。

結果はわからない。

だが、もう迷いはない。


進むべき道は、一つしかない。

瑛慈は静かに拳を握った。




合否発表までの一週間は、驚くほど長かった。


朝、目が覚めるたびに、胸の奥がざわつく。

合格する気で挑んだが、手応えは無く、落ちているのではないかと不安になる。

期待しすぎないようにしながら、だが考えないようにすることもできなかった。


瑛慈は毎朝、走った。

二次試験の持久走で感じた、あの苦しさを思い出しながら。

肺が焼ける感覚も、脚の重さも、嫌いではなかった。

——生きている、という実感があったから。

夜は簡単な筋トレをし、ニュースを流し見する。

テレビでは相変わらず、魔王災害の復興状況が報じられていた。

しかし、あれ以来魔物による被害を聞かない。

それが逆に不気味に思えた。

だが、“終わった”とは、誰も言わない。


「……世界はこれから、どうなるんだろう」


独り言のように呟いた言葉が、平凡な一人暮らしの部屋に木霊する。

それでも、もう以前の「何も起きない日常」ではなかった。


---


通知が届いたのは、試験から一週間後のことだった。


スマートフォンの画面に表示された、見慣れない差出人。

件名を見た瞬間、心臓が跳ねる。


《国家対魔戦術学校 二次試験結果通知》


指先が、わずかに震えた。

深く息を吸い、ゆっくりと画面をタップする。


——合格。


簡潔すぎるほどの一文。

だが、望んでいた文字が、確かにそこにあった。


「……は……」


声にならない息が漏れる。

しばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。


合格…?

俺が…?


胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる。

同時に、ずっと抑え込んでいたものが、じわじわと湧き上がってきた。


「……やった、のか……?」


誰に言うでもなく、呟く。

実感はない。

だが、不思議と否定する気にもならなかった。

もう、あの日々には戻れない。

勇者を目指すと言葉にした瞬間から、覚悟は始まっていた。


---


数日後、正式な書類が自宅に届いた。


分厚い封筒。

国家対魔戦術学校・入学許可証。

入学日、持ち物、生活規則……現実を突きつける文字が並ぶ。


そして、一枚の紙が目に留まった。


《特別注意事項》


・入学後は人との接触を制限する

・身辺の安全確保のため、個人情報は秘匿される

・必要に応じて、特異事象対策室が行動を監視する


守られているのか、見張られているのか。

どちらにせよ、もう一般人ではないのだと理解させられる。


封筒の底に、もう一つ小さな包みが入っていた。

見覚えのある、藍色の布。


——いつか貰ったあのお守りだ。


「……これ、何なんだろう…」


"護"と刻まれた文字を指でなぞる。

胸ポケットに入れると、不思議と落ち着いた。


---


入学前夜。


最低限の荷物をまとめ、部屋を見回す。

狭い1Kのアパート。

特別な思い出は多くないはずなのに、やけに名残惜しい。


テレビをつけると、アイドルグループのMVが流れていた。

エレーナのいないFull Fleur(フル・フルール)

魔王災害の混乱で一時活動休止状態だったが、再び活動を再開したようだ。


「……ああ」


瑛慈は、ソファに腰を下ろす。

世界は、まだ美しい。

守る価値のあるものは、確かにここにある。


「……守れるかな、俺に」


問いかけても、答えは返らない。

だが、不思議と不安よりも、静かな決意が勝っていた。


平凡で、器用貧乏で、何の取り柄もない。

それでも——


「…行くしかないんだ」


立ち上がり、電気を消す。

布団に潜り込むと、闇の中で胸の鼓動がやけに大きく響いた。


明日からは、勇者候補としての生活が始まる。

命を賭ける世界。

逃げることの許されない道。


それでも。


(……覚悟を決めたんだ…。だから、もう迷わない)


瑛慈は目を閉じた。

胸の奥の熱は、消えることなく、静かに燃え続けていた。


——俺の物語は、ここから本当に動き出すんだ。


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