赤黒い月の夜
今日もまたアラームが鳴る。
いつも通りの朝だ。
あれから、いったい何度目の朝になるのだろう。
カーテンを開けた窓の外は薄暗く、かすかに白く染まっていた。
季節はいつの間にか本格的な冬を迎えている。
冷えた床に足を下ろすと、その冷たさに思わず息が漏れる。もう少しだけ寝ていたいと思うが、それを許さない現実がある。
いつものように食パンを焼き、湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れる。
そしてテレビをつける。
「…続いてのニュースです。今夜は数十年ぶりにスーパームーンと皆既月食が重なります。日本各地で観測され…」
とニュースキャスターが笑顔で告げていた。
そういえば、エレーナも天体観測好きだっなぁ…と思い出した。
「今日はペルセウス座流星群が見れるんだって!…」
「みんなは流れ星に何を願う?…」
「今日はスーパームーンだよ!…」
「見て見て〜綺麗な天の川!…」
彼女の言葉の断片が、まだどこかに残っている。こんなところにも彼女の記憶があるなんて思いもしなかった。
俺はため息をつき、テレビを消す。
忘れられると思っていたのに…どうして、こんなにも簡単に思い出してしまうんだろう。
考えないように慌ただしく支度をして、家を出た。
会社に着くと、いつものようにパソコンの電源を入れる。
メールを確認し、依頼内容を整理し、数字を入力して、報告書を作る。
どの作業もミスはない。
けれど、どの作業にも何の手応えもない。
かつては、推し活の資金を稼ぐために仕事をしていた。
ライブ遠征、グッズ購入、握手会。
その一つひとつに、確かな目的があった。
だがいまは、どれも必要ない。
仕事をしても、何かが満たされる感覚がない。
けれど辞めようとも思わない。
生きていくには働くしかない――それだけの話だ。
何のために働いているのか分からなくても、体はちゃんと会社へ行く。
まるで惰性の歯車みたいに。
今日も定時に帰る。
パソコンをシャットダウンし、誰よりも早く席を立った。
職場の空気を気にしないのは、もう慣れた。
同僚達も上司もきっとそうだろう。
外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。くたびれた体を引きずりながら駅へ向かう途中、ふと人の流れが止まっているのに気づいた。
スーツ姿の男も、学生も、カップルも、皆一様に空を見上げている。
つられるように見上げた。
夜空には、異様なまでに大きな月が浮かんでいた。
街の灯りに負けないほど白く輝く、スーパームーン。
その輪郭の縁を、ゆっくりと影が侵していく。
スマホを構える人のざわめき。
「皆既月食だって」「今夜は特別なんだよ」――そんな声がどこかで聞こえる。
そういえば、朝のニュースで言ってたな…。
瑛慈も立ち止まり、しばらく眺めていた。
影が完全に月を覆い、空の光が一瞬だけ消えた。そして、赤黒く染まった。
「赤くなってきた!綺麗…!」
誰もが笑顔だった。
その赤銅色の光に、世界は酔いしれていた。
…その瞬間までは。
それは、天体のいたずらでも、ただの自然現象でもなかった。
辺りが静寂に包まれた。
風が止まり…音が消えた。
突如、地面が震え、人々が手に持つスマホ、遠くに見えるビルの電光掲示板が一斉にノイズを発した。
不気味な電子音が街中に響く。そして、声が聞こえてきた。
『…受肉完了……。長き封印より解かれ、今ここに蘇る…』
それは、人間の言葉でそう呟いた。
『……我は…魔王テネブル……。この地に再び、闇をもたらさん』
そして、次の瞬間。空が裂けた。
その裂け目から出てきたのは、人の形をしていながら、それは決して人ではない存在。影のように揺れ、禍々しい気を放つ姿は、見る者すべての心に畏怖の念を抱かせた。
その光景は、まるでファンタジー映画のワンシーンのよう。
裂け目は次第に広がり、そこから無数の黒い何かが出てきた。この世のものとは到底思えない異形の生物。
誰もがそれを、現実だとは思わなかった。
「え、なにこれ?映画の撮影?」
「うわ、CGすげえ!」
空が裂けたとき、誰もが一瞬、息を呑んだ。
だが、すぐにざわめきが笑いに変わる。
スマホを掲げ、笑いながら動画を撮る者。
友達同士でポーズをとり、赤黒く染まる月を背景に記念撮影をする者。
誰もが非現実の中に酔っていた。
けれど、翼を生やした獅子のような大きな生物が一体、地に降り立ったとき、その場の空気が一瞬で変わった。
その生物が近くにいた男の前に降り立つ。
次の瞬間、何かがはじけるような音がした。
視界の端で、男の体がくの字に折れ、その胸元から赤い霧が散った。
——それは、あまりに現実的な“血”だった。
歓声が止まる。
誰かが「え?リアルすぎでしょ…」と震えた声で言う。
だが、倒れた男は二度と動かない。
そして、もう一体の生物が群衆の中に飛び込みと腕のようなものを振るう。
その刹那、赤い飛沫が辺りに飛び散り、人々の顔や体、路面を赤く染めた。
誰もが凍りついた。
時間が止まったかのように、息を飲む音すら聞こえない。
そして、誰かが叫んだ。
「………逃げろッ!!」
悲鳴が、泣き声が、助けを呼ぶ声が、夜の街を覆い尽くす。
人々が雪崩のように逃げ出す。だが、魔物はその流れをなぞるように滑り込み、触れた瞬間、人の輪郭が音もなく崩れ、血が飛び散る。
次々と、次々と。
謎の生物たちは歓喜にも似た咆哮を上げながら、ビルの壁を駆け上がり、街の光を一つ、また一つと潰していく。
街のあちこちで、逃げ惑う人々の悲鳴が夜の闇に溶けていく中、遠くからサイレンの音が響き始めた。青と赤の光が交互に揺れ、数台の警察車両が駆けつけた。
警察官が降りてきたが、その異常な光景に皆が呆然としていた。
「なんだ……これは……」
破壊された街、路上に横たわる骸、目の前で人々を襲っている生物を見て、警察官の手は自然と拳銃に伸びていた。だが、撃つこともできずに立ち尽くす。
理解が追いつかない。目の前の出来事が、現実として処理できなかった。
その間にも、謎の生物たちは人々を襲う。
その中の一体が警察官に気付いた。狼男のような生物が近付いてきていた。
拳銃を構える警察官は足をすくませたまま後ずさっていた。
「…来るな……来るなッ!」
その生物が一歩、また一歩と近付く。
そして、追い詰められた警察官は、その生物が目前に迫った時、ついに引き金を引いた。
弾丸は確かに命中していた。
だがその生物に効くことはなく、咆哮を上げた。大きな爪を持つ腕で薙ぎ払う。
鈍い音とともに警察官の上半身だけが宙を舞い、車のボンネットに叩きつけられた。
その瞬間、警察官たちは一斉に発砲した。何発も、何発も、その狼男のような生物に。
「撃て!撃てぇッ!!」
叫びながら引き金を引き続けた。
薬莢がアスファルトを跳ね、硝煙の匂いが立ち込める。だが、その生物はわずかに肩を揺らすだけ。その大きな体が弾丸を受け止めるたび、まるで弾が吸い込まれるように沈み、消える。
その生物は何発も撃ち込まれる弾丸をものともせず、無慈悲に襲いかかる。
警察官たちはついには職務を放棄し、車両に乗り込み逃げようとした。しかし謎の生物たちはそれを許さない。車のドアが引き裂かれ、タイヤが潰れ、車体ごと投げ飛ばされていた。
警察官たちも必死に抵抗するが、まるで紙のように押し潰されていく。車両が光を放ち、鉄とガラスが散る中、街の希望の象徴だったはずの警察の力は、いとも簡単に無力化された。
誰かの悲鳴も、肉の裂ける音も、遠くで聞こえる花火のように現実味がなかった。
俺は立ち尽くしたまま、その光景をただ見つめていた。見つめることしかできなかった。
足はすくみ、声は出ない。身体はまるで自分の意思を失ったように立ちすくんでいた。
「なんで……動かないんだよ……」
心の中で自分に問いかけても、答えは戻ってこない。エレーナが卒業して生きる意味を失い、虚無に沈んでいた俺の心は、恐怖よりも先に諦めていたのかもしれない。
しかし、その時――瑛慈の目の前に、警察官を吹き飛ばした生物が迫ってきた…。
血で濡れた口から低いうなり声を漏らしている。
目が合った瞬間、胸の奥底で何かが弾けた。
「……嫌だ……死にたくないッ……!」
心の奥底に眠っていた、生への本能の叫び。これまでの諦めや無力感が、一気に逆流するように体を突き上げた。
俺は咄嗟に足を動かした。震える脚で地面を蹴り、叫び声を上げながら走る。
狼男のような生物の影が迫る――追いかけてくる音が、背後から心臓を叩く。しかし恐怖はもはや、逃げる力を奪うものではなくなっていた。胸の奥の「生きたい」という意思が、恐怖の嵐の中で光となり、前へ押し出す。
破壊された街を飛び越え、血塗られた道路を走り抜ける。背後で咆哮が響き、赤黒く染まる月が夜空に照りつける。走り出した俺はもう、止まらない。
生きたい――その一心だけで、暗闇の中を駆け抜けた。
だが、体力は無限ではない。あっという間に限界を迎えていた。
喉の奥が焼ける。肺が悲鳴を上げている。
街を駆け抜ける足が、もう自分のものではないみたいに重く感じた。喉の奥は血の味がして、呼吸をするたびに胸が軋んだ。
後ろでは、狼男のような生物が唸り声をあげ追ってくる。
確実に、近づいている。
――もう、走れない。
そう思った瞬間、足がもつれた。
身体が前のめりに倒れ、地面に叩きつけられる。アスファルトの冷たさが、頬を刺した。息が詰まり、目の前が一瞬白く霞む。
それでも、動かなきゃ。止まったら終わる。
震える腕に力を込め、地面を掻くようにして前へ進む。アスファルトのざらつきが皮膚を裂き、指先に血がにじむ。それでも這う。
背後から、重い足音が近づく。
狼男のような生物の息遣いが、もう耳元に迫っていた。
「……くそッ……くそッ……!」
喉の奥からかすれた声が漏れる。声にならない祈りのように。
それでも、這いずる。ほんの一寸でも、遠くへ。ほんの一瞬でも、生き延びるために。
だが、もう体が動かない。声も出ない。
逃げ場は………どこにもない。
振り返ると、その生物はすぐそこまで来ていた。街灯の明かりを飲み込みながら、狼男のような生物が身をかがめ、こちらを見下ろしていた。赤い光が二つ、ゆらりと瞬いた。
その生物が動く。
血に塗られた大きな腕が振り上げられた。
あぁ…ここまでか………。
胸の奥で、何かが折れた。
恐怖も不思議と薄れていく。ただ、夜の冷たい風が頬を撫で、心臓の鼓動が遠ざかっていくのを感じた。
死の気配は、意外なほど静かだった。
狼男のような生物の爪が振り下ろされる——。
——これで終わり………。
そう思った瞬間、世界が一瞬、白くはじけた。
空気が震えた。
夜空を裂いて、ひとすじの光が落ちる。
雷でも炎でもない、ただ真っ白な輝き。
まるで神が線を引いたかのように、一直線に狼男のような生物を貫いた。
轟音とともに、周囲の闇が吹き飛ぶ。
その生物の巨体は光に焼かれ、悲鳴をあげる間もなく崩れ落ちた。
塵が漂い、静寂が戻る。
瑛慈は、息を呑んだまま空を仰ぐ。
夜の闇の中に、何者かがいた。
赤黒く染まる月を背に、宙に浮かぶひとつの影。
杖を掲げ、長い髪が風に舞い、その輪郭だけがはっきりと見える。
「…止まるな。走れ」
表情は、わからない。
ただ、確かに“女性”だと分かる柔らかな声が聞こえた。
光の粒が降る中、彼女はゆっくりと杖を下ろした。
その仕草とともに、魔法のような残光が消えていく。
次の瞬間、風が吹き抜け、彼女の姿も夜空に溶けて消えた。
俺はしばらく動けなかった。
助かった、という実感すら追いつかない。
地面に崩れたまま、ただ空を見上げ、呟いた。
「……誰、だったんだ……?」
名前も、顔も分からない。
それなのに………。
なぜだか、その声だけは、どこかで聞いたことがある気がしていた。
安堵に胸を撫で下ろす間もなく、遠くから再び謎の生物たちの咆哮が聴こえてきた。
全身が鉛のように重い。もう、這うことしかできないような身体で起き上がろうとする。
その様子はまるで、生まれたばかりの子鹿のように思えた。
ふらつきながらも、どうにか足を踏みしめる。
震える足を無理やり動かし、一歩踏み出した。
生きるというただそれだけの衝動が、全身を突き動かしていた。
だが、逃げる場所なんてどこにもあるわけがない。逃げた先、至る所にあの生物たちはいるのだ。
体力の限界はとうに越えている。ここまで気力だけで動いていたが、足の感覚もない。息をするのも苦しい。
いっそ、もう死んだほうが楽になる………。
瑛慈は夜空を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じた…。




