その日、世界から色が消えた
いつも通りの時間。アラームが鳴った。
今日もまた無言で止める。
布団の中でしばらく天井を見つめる。
あぁ、今日も始まるのか、とぼんやり思う。
今日も惰性で目を覚ました。
いつも通り食パンを焼き、インスタントコーヒーを淹れる。
テレビをつけると、今日もまた日本人メジャーリーガーの話題。だが、今日の試合は無安打だったようだ。調子の悪い日もある。そう思うと、少しだけ安堵した。彼も同じ人間なんだ、と。
「続いてのニュースです………」
どれも俺には関係ないニュースばかり。関係があるとすれば、天気予報。それだけ確認して、テレビを消した。
曇りのち晴れ。降水確率20パーセント。傘はいらないようだ。
身支度を整え、会社へと向かった。
いつも通りの仕事。
パソコンを立ち上げ、メールを確認。今日もまたデータ入力、資料のチェック。
特に面白くもないし、問題もない。
ただ、何も起きないだけの一日。
昼休み。
今日もコンビニで弁当とお茶を買ってきて、公園で済ませる。
スマホを開いたときだった。
「#不破エレナ」
SNSのタイムラインの上に見慣れた推しの名前があった。トレンド入りするのは珍しくもない。
だが、その下に流れる文字列が目に刺さる。
「#卒業発表」
指先が冷たくなる。
胸の奥で、何かがざわついた。
公式サイトのリンクを開くと、白い背景に淡いピンクの文字でタイトルがあった。
『応援してくれたみんなへ』
息が詰まる。
いつもの、エレーナのブログだ。絵文字は少なく、でも優しい文体。どこか控えめで、彼女らしい。
「今日はみんなに伝えたいことがあります。
私、不破エレナは、このシングルの活動をもって、Full Fleurを卒業します」
その一文を読んだ瞬間、心臓が止まった気がした。
周囲のざわめきが遠ざかり、世界から音が消えた。
「急な発表になってごめんなさい…。
この十年間、本当に幸せでした。
Full Fleurが16人でスタートした日から、もう十年も経ったんだな…。時が経ち、後輩が入ってきてくれて、フルフルは大きなグループになり、成長しました。
ステージから見える景色は、まるで光の海のようでした。
あの光に包まれているとき、私はいつも「ここに生きてる」と感じました。
本当はまだまだ叶えたい夢もあります。
フルフルとして成し遂げたかったこともありました。
………東京ドームでライブしたかったなぁ…。
ですが未来を考えたとき、私は新しい道を選ぶ時が来たのだと思いました。
そんな私に踏み出す勇気をくれたのは、後輩のみんなです。
後輩のみんなは、本当に素晴らしい才能を持っているし、どんどん成長しています。
だから、叶えられなかった夢は、託せばいいんだって思えたんです。
そして、私は芸能活動も引退します………」
スクロールする指が震える。
そして、画面が滲む。
光が滲んで、形がぼやけた。
「私にとって、ファンのみんなはずっとヒーローでした。
つらい時も苦しい時も、応援してくれるみんながいたからこそ、ここまでやってこれたんです。私を助けてくれたみんなに、少しでも恩返しできるように、これからは私自身が誰かのヒーローになれるような存在になりたいと思っています」
瑛慈は、スマホを持つ手をゆっくり下ろした。
世界が真っ白になった。
何も聞こえない。もう、何も考えられない。
昼休みが終わり、席に戻ってきた。
手元のスマホを再度開く。嘘であってほしい。見間違いであってほしい。だが、そんな期待をしても現実は変わらない。
「不破エレナ 卒業のお知らせ」
何度見返しても、たったその十数文字が胸を刺し続ける。
仕事を再開する。目の前にある仕事を淡々とこなしていく。
キーボードを叩く手だけが、機械のように動く。指示された通りに資料を整理する。目の前の仕事は、自分の体の動きに合わせて、誰かに指示されるまでもなく、自然に進んでいく。感情を切り離し、ただ手足だげが動いている。
すべては決められた通りに、決められた時間に、マニュアル通りに進んでいく。自分がその中で何を感じているのか、どうしたいのか…そんなことを考えないようにして、ただ、目の前にあることをこなしていく。
頭の中は卒業発表のことに支配されていた。
アイドルの世界では、卒業がどれほど当たり前のことでも、なぜか一度自分の推しがその場所を離れるとなると、急に実感が湧いてきてしまう。
周りの同僚達が顔を合わせて笑いながら話していても、それはまるで他人のことのように感じられる。話す内容は耳に入ってこない。
仕事の途中で、ふと目を覚ましたように、時計が目に入る。定時まであと少しだった。
定時18時。
パソコンをシャットダウンし、誰よりも早く席を立つ。
会社の扉を開け、外の冷たい風を感じながら歩き始める。周りの人々がそれぞれ帰路についているが、俺の中では、どこかが止まったままだ。
外の世界は色鮮やかに見えるのに、自分だけがその色を失っているような感覚が、胸の中で広がっていく…。
自宅のドアを開ける。靴を脱ぐ音が、妙に大きく響いた。
部屋の中は静かだ。リビングの明かりをつけると、部屋の隅に置いた棚の上で、アクリルスタンドの不破エレナが笑っていた。初めてのライブに参戦したときに買ったエレーナのアクスタ。微笑んでいる彼女の姿を見て、胸の奥がきゅっと縮む。
ほんの数時間前まで「存在していた未来」が、もうどこにもない。
手を伸ばしかけて、やめた。
テレビをつける気にもなれず、明かりだけを点けたまま、ただソファに沈み込む。
部屋の時計の針が動く音だけが、かすかに響いていた。
手元のスマホを見つめる。
SNSには、ファンたちが「卒業おめでとう」「今までありがとう」と言葉を並べていた。
スクロールしていくたびに、心のどこかが崩れていく。
「おめでとう」って、どういう気持ちで言えばいいんだろう。心から祝福したいのに、身体の奥が、拒絶している。
気づけば、涙は出なかった。悲しいという感情が、形を持たないまま霧になって、胸の中に溜まっている。呼吸をしても、それが肺の奥に張りついて、空気が重たい。
何かを考えようとするたびに、頭の中でエレーナの言葉がリフレインする。
冷蔵庫を開けてみても、何を食べたいのか分からない。
ビールの缶を一本だけ取り出して、テーブルの上に置く。プルタブを引く音が、やけに甲高く響いた。ひと口飲む。味がしない。
喉を通った液体が、ただ身体を通り抜けていく。
視界の端に、彼女の笑顔がちらつく。
ライブで手を振ってくれたときの光景。
初めて握手会で言葉を交わしたときの震え。
すべてが鮮明なのに、もう二度と触れられない。
その距離の現実感が、今になってようやく刺さってくる。
スマホを握りしめたまま、画面を見ずに目を閉じる。頭の中で何度も、ブログの一文が再生される。
「芸能活動も引退します………」
もう会えなくなる…。あの笑顔を見れなくなる…。
そのたびに、心の奥で鳴り響く。
――カチ、カチ。
小さな音をたてて、何かが壊れていく。
時間がどれほど過ぎたのか分からない。
気づけば深夜0時を回っていた。
電気を消しても、闇の中で彼女の笑顔だけが残る。
まぶたを閉じても、そこにいる。
夢にもならない、現実のままの残像。
ああ、もう、何も考えたくない。
それでも、頭の中ではずっと彼女の顔だけが浮かび続けていた。
エレーナ…。
どうして、卒業なんて言葉が、こんなにも重いんだろう…。




