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当たり前だったはずの一日

初投稿です。

よろしくお願いします。

「星食の夜…再び訪れる……」


最近、目を覚ますたびに、この言葉が頭の中に浮かぶ。

まるで誰かが囁いたような、何かの合言葉のような響きがある。

しかし、どうして自分の中にあるのかは思い出せない。夢だったのか、幻覚だったのか、それすら曖昧だ。ただその言葉だけが、深い記憶の底に沈殿しているように、意識に重く残っていた。


「またか…」


寝転んだまま無意識に繰り返す。しかし、口にした途端、その意味を追おうとしても、すぐに靄の向こうへと逃げていく。

何も掴めないまま、再び眠りに落ちた…。


天満瑛慈の一日は、だいたい決まっている。


電子音と共に始まる朝。

1Kの安アパートに、アラームの甲高い音が響く。手を伸ばし、無言でそれを止めた。

少しの間だけ天井を見上げ、深呼吸をしてから起き上がる。

布団を整え、カーテンを開けると、窓の外はまだ薄暗く、秋の朝の空気が肌寒い。

今日も惰性で目を覚ます。


朝食は食パンとインスタントのコーヒー。いつもの組み合わせ。

テレビをつけると、日本人メジャーリーガーのニュースが流れていた。どうやら今日もホームランを打ったらしい。凄まじい打球音、歓声、雄叫び――世界の中心で輝く同世代のスーパースター。

瑛慈は食パンを咀嚼し、まだ湯気の立つインスタントコーヒーで流し込む。画面をぼんやりと眺めていると、心の奥に冷たいものが沈むのを感じた。

「同じ時間を十年積み上げても、行き着く場所ってこんなに違うんだな…」

彼が毎日積み上げてきた努力と才能、それは分かっているつもりだ。

悔しいわけでも、妬ましいわけでもない。

ただ、自分の平坦な日々とをどうしても比較してしまう。

「……はぁ。ま、比べても意味ないか………」

独り言のように呟き、ため息をひとつ。

少しして、ニュースはエンタメコーナーに切り替わった。

「今をときめくアイドルグループ『Full Fleur(フル・フルール)』が新曲を発表です」

解禁されたMVが流れ、黒いドレスを身を包んだ大人びた少女たちがふわりと舞う。

透明感のある歌声と、揺れるスカート、光をまとったような笑顔。

瑛慈の表情が、ほんのわずかに緩んだ。

「こういう光も、ちゃんとこの世界にある…」

政治の汚職事件。どこかで起きた事故や事件。

世界はいつも"他人の話"で動いている。

だが、こんな輝きだってたしかに存在しているのだ。

コーヒーの香りとともに、心の冷たさが少しだけ溶けていく。

気づけばただの平凡な会社員になって、特別な才能もなく、代わりの利く仕事をこなし、彩りもない日々を繰り返すだけ。

けれど、この数十秒だけでも、心が生き返る。

瑛慈にとって「推し活」は逃避ではなく、唯一の光なっていた。


彼女たちもデビューして十年が経つ。

もう"知る人ぞ知るグループ"ではない。

Full Fleur(フル・フルール)は、ついに“みんなのアイドル”になったのだ。

長い苦労を知っているからこそ、ようやく花開いた彼女たちを誇らしく思う。と同時に、彼女たちが積み重ねてきた努力の軌跡と、自分が積み重ねてきた現実。その差が、今になって急に重くのしかかる。

「俺の10年って、なんだったんだろうな…」

別に不幸ではない。仕事も生活も、どうにか回っている。だけど、テレビの中で輝く彼女たちの10年と、自分の10年を比べてしまう。比較しても仕方がないと分かっているのに…。

誇らしさとみじめさがないまぜになって、喉の奥で言葉にならずに溶けていく。

だが、どこかで思う。

自分の日常の向こうにも、まだ知らない扉があるのではないか…と。

小さく息を吐き、リモコンを置いた。

今日もまた、いつもの一日が始まる。

瑛慈はスーツに袖を通し、会社へ向かった。


通勤風景はいつも通り。

イヤホンを耳に差し、Full Fleur(フル・フルール)の曲を再生する。軽やかなサウンドが、まだ眠い頭の奥を優しく撫でる。

メッセージ性を秘めた歌詞は、なぜだか自分に向けられたもののように感じられた。

そんな錯覚が、毎朝の小さな救いだ。


会社に着いたのは八時五十分頃だった。

始業は九時。ギリギリでもなく、早すぎるわけでもない。

扉を開けると、乾いた暖房の風が頬を撫でた。

眠そうな社員たちの雑談を横目に、自分の席に向かう。

「おはようございます…」

形式的な挨拶。返事を期待するでもない。

向かいの席の新人がパソコンの画面から顔を上げ、軽く会釈を返す。それで終わり。

電話が一つ、二つ鳴り始める。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。特に急ぎの仕事はない。いつものルーティンだ。

終わらせるべきタスクは、データ入力と、資料のチェックだけ。

誰に頼られるわけでもなく、誰かに怒られることもない。

瑛慈の業務は淡々としていて、目立たない。それが役割であり、日常だ。


「瑛慈さん、この資料、今週中でいいので確認してもらっていいですか?」

後輩の一人が、軽い口調でファイルを持ってくる。後輩といっても俺よりも一回りも年上だ。

「了解です。明日までには見ときます」

断るほど忙しくもないし、押しつけられているとも思わない。

ただ、そういう役回りなのだと、受け入れている。

目立たず、波風を立てず、最低限をこなして、今日も時間は過ぎていく。


気づけば昼。

コンビニで弁当とお茶を買い、会社近くの公園のベンチで昼食を済ませる。

スマホでFull Fleur(フル・フルール)のSNSをぼんやりとチェックする。

結成から10年を迎えた、今をときめく女性アイドルグループ「Full Fleur(フル・フルール)」その愛称は"フルフル"。

フルフルの最新情報を確認するだけで、口元が緩む。

それが昼休みの小さなご褒美で、仕事を頑張れる理由になる。


午後も静かに仕事を続ける。淡々とタスクをこなすだけ。

眠気と戦いながら資料を整え、時折上司に話しかけられるが、短いやり取りで終わらせる。

「瑛慈くん、最近どう?困ってることない?」 「いえ、特には…。大丈夫です」

社交辞令のような会話、愛想笑いを浮かべていると時間が過ぎていく。


「お先に失礼します…」

定時の18時には退社。

周囲に軽く会釈して、デスクを離れる。

「お疲れ様…」「お疲れ様でした~…」

顔を上げずに言う人もいれば、軽く会釈だけ返す人もいる。

キーボードを叩く音は止まらず、それが当たり前みたいに自然に交わされる音のひとつ。

特に誰を見るでもなく出口の方へと向かった。

ただ口から出しただけの言葉が、空気の中で小さく消えていった…。


ポケットからイヤホンを取り出し耳に差す。再生ボタンを押すと、流れてきたのは、フルフルの新曲「黒蝶のパラディ」。

空はもう薄暗く、月が少しずつ丸みを帯びていた。


近所のスーパーで割引になっていた惣菜と缶ビールを買い、いつものように1Kの安アパートへ帰ってくる。

ガチャ、とドアの鍵を開ける音が、静まり返った廊下に微かに反響する。

「……ただいま」

返事があるはずもない。誰かが待っているわけもない。けれど、言葉が空気に溶けていくその瞬間、ほんの僅かに部屋が柔らかくなった気がした。

リビングの照明をつけると、白い蛍光灯が静かに点る。途端に、部屋の無機質さが際立った。

ネクタイを緩め、スーツという重い鎧を脱ぎ捨て、ゆるい部屋着へと着替える。

この瞬間、解放される。


夕食を済ませると、スマホを手に取りFull Fleur(フル・フルール)の公式ファンサイトを開いた。

瑛慈の推しメン、エレーナなこと"不破エレナ"がブログを更新していた。


<新曲「黒蝶のパラディ」MV公開!>

ついにMVが解禁になったね〜!

私たちの新曲「黒蝶のパラディ」はもうチェックしてくれた?

今回はちょっとダークで幻想的な世界観。

撮影中、黒いドレスで森の奥で撮ったシーンが寒くて…!

でも、ああいう静けさ…嫌いじゃないんだよね。

みんなもたくさん観て感想を教えてね♪


最近は、リリースイベントや撮影でちょっと忙しい日々だけど、SNSやファンレターも全部見てるから!


そして…!

今日この後、20時からMVのメイキングも公式チャンネルで公開されます!

ぜひ観てね〜!


ちょっと寒くなってきたから、風邪ひかないようにね。


エレーナ。


瑛慈は「もちろん見たよ!メイキングも楽しみです!」そんな届かない言葉をコメントに残す。パソコンを立ち上げると、動画配信サイトを開きMVを再び観る。


他の誰にも興味はない。

仕事も出世も、正直どうでもいい。

周りの友達も結婚しているが、俺には縁遠いものだ。

Full Fleur(フル・フルール)のライブに行けて、グッズが買えて、エレーナを応援できる——

それが今の俺にとって、人生のすべて。


20時になった。

「Full Fleur(フル・フルール)公式チャンネル」を開くと、ホームのトップに『Full Fleur−黒蝶のパラディ−メイキング』というタイトルが公開されていた。

それは、選抜発表の様子から始まった。

涙している子。嬉しそうにしている子。俯いている子。ただ等しく、みんなの瞳には涙が浮かんでいた…。

努力を知っているから、胸が痛む。フルフルに努力家じゃないメンバーなんていないから。

そして、メンバーが次々に意気込みを語っていき、最後はセンターの不破エレナが想いを語る。

その後、振り入れ、衣装のフィッティング、撮影本番と流れていき、三十分の動画はあっという間終わった。


余韻に浸りながら、テレビをなんとなくつけてみた。しかし、面白そうな番組はなく、過去のライブ映像を流すことにした。

ベッドに寝転びながら観ていると、しだいにまぶたが重くなっていく。

寝落ちする前に歯を磨き、テレビを消す。

最後にスマホをチェック。

明日の予定は特になし。

明日も、きっと同じような一日が来る。

それが悪いことでも、良いことでもないまま、眠りに落ちる。

それが瑛慈の当たり前の日常。


けれど、その"当たり前"は、あの夜を境に静かに崩れ始めた…。

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