第7話 『旅立ち』
彼はそれを、治療魔法と呼んでいた。
セイルの掌から薄緑色の光が放たれ、その光に触れたアイラの傷口がみるみるうちに塞がっていく。
ゲエルとの戦闘で消耗していたアイラだったが、傷が治るにつれ彼女の表情にも安堵の色が見え始めた。
「アイラの治療を終わらせたらすぐに王都を出ます」
セイルは傷口に目を向けたまま、こともなげにそう言った。
「出るって…どこへ?」
「ロムルス大峡谷を越えてランブルクを目指します。なるべく大通りは避けますが、街道も整備されています。急げば三か月ほどで着くでしょう」
ランブルク、たしか西部の最大都市だったはずだ。
リオンはかつて彼がプレイした『勇者物語』から、必死に地図の記憶を引っ張り出してきた。
しかし、王都からランブルクへ向かうにはとんでもなく険しい道のりだったはずだ。
「何だってそんなところへ行くんだ?」
「かつての私の仲間たちがいます。あなたを匿ってもらうように彼らにお願いするつもりです」
匿うって…と、リオンは言いかけたが、途中でその言葉を飲んだ。
今しがた命が狙われたばかりのリオンにとっては、その言葉は何よりも実感を伴ってリオンに重くのしかかった。
「…あんたは守ってくれないのかい、セイル」
「ええ。敵がゲエル程度ならどうにでもなりますが、キラ・アサヒなら話は別です。奴は強い、私一人ではまず守り切れない」
ゲエル程度?
奴の槍は速かった。彼の攻撃は恐ろしかった。
セイルが程度と言い切った男に、リオンは殺されかけたのだ。
しかし、もしあれを程度と言ってしまうのなら、吉良朝日は一体どれほどの…。
「そんなに強いのか、吉良朝日は」
「ええ…それはもう」
セイルはそう言いながら、遠い目をした。
どこか昔を懐かしんでいるようでもあり、悲しいようでもあり、あるいは何かを恨んでいるようだった。
その目の正体を、リオンは知らなかった。
「もう大丈夫です、セイル」
虚ろになっていたセイルの掌を、アイラは制止した。
傷だらけになっていたはずの彼女の身体は、治療魔法のおかげでほとんど元の白く綺麗な肌に戻っていた。
「あ、ああ。すみません」
そう言うとセイルは慌てて魔法の発動を中止した。
「ありがとうございます、おかげで元気になりました」
「それはよかった」
さて、と言ってセイルは立ち上がった。
「空が白んできました。日が昇る前に王都を出ましょう」
三人は王都を後にした。
白亜の城壁に囲まれた王都は、地平線の彼方に吸い込まれてやがて見えなくなった。
やがて太陽がのぼり、道行く三人を明るく照らし出した。
リオンとっては異世界にきて、はじめての旅と呼べる旅だった。しかしそれが長い旅の序章であることを、リオンはまだ知らなかった。
*
「あっちい…」
リオンは纏っていたローブを肩にかけて、パタパタと手で顔を扇いだ。
季節は夏。
太陽の熱気が大地を赤く染めあげているようだった。
「こんなところでヘバっていてはやっていけませんよ。西大陸はほとんどが砂漠ですからね」
うなだれるリオンを、セイルは涼し気な表情で叱咤する。
「二人は熱くないのかよ」
「ええ、鍛えてますから」
「鍛えてどうこうなるもんなのか? それは」
「なるものですよ。要は慣れです」
と言ってセイルは笑った。
見れば、アイラも涼し気な表情だ。
とても甲冑の上からローブを身にまとっているとは思えない。
「ふふ、リオンさんも鍛えていけばこうなりますよ」
「へーえ。そりゃいつになることやら」
セイルは驚いた様子で二人を見つめた。
「おや、いつの間にそんなに仲良くなったのですか?」
「ふふっ、さっきのホテルの中でです」
「ほーう。いやはや、若さとは素晴らしいものですね」
セイルは感慨深そうにうんうんと頷いた。
おい、その言い方だと何か勘違いしてるんじゃないのか? とリオンは思う。
しかし、セイルの見た目も充分若々しい。
おそらく三十代くらいだろうか。
「何言ってんだ、あんたも若いだろ」
「若くあろうとは思っていますよ。しかしもう六十です、歳はとりたくないものですね」
「ろ、六十!?」
リオンは驚嘆の声をあげた。
六十歳と言えば還暦、とっくに老いがきていてもおかしくない年齢だ。
しかし肌や姿勢、話し方など、あらゆる点においてセイルは若々しさを保っていた。
「実年齢で言えば七十になりますかねえ。まあ、幸運な方でしたよ。転生前より若いNPCに転生できたのですからね」
「そういえば、確かセイルってユニークNPCは子供だったような…。NPCも歳をとるもんなのか」
「そりゃあそうですよ。転生時は10歳の少年でしたが、今はもうヨボヨボの老人です」
この老人ジョーク、とでも呼ぼうか。
セイルは気に入っているのかやたらと老人ジョークを口にする。
どこがだよ、とリオンはツッコもうとしたが、もはや言う気にもならなかった。
「そういや、転生するNPCはランダムなのか?」
「いや、一応男女の区別はあるみたいですよ。男は男に、女性は女性にってね。ただ年齢はバラバラですね。老人のユニークNPCに子供が転生した…なんてこともありましたよ。あれは可愛そうでしたねえ」
と言いながらセイルは遠い目をした。
話からも察するに、随分とこの世界での経験が豊富らしい。
話が途切れてしまったので、リオンはまた会話を再開する。
「実年齢が七十ってことは、転生する前は二十歳くらいだったってことか」
「ええ。学生としてケンブリッジで物理学を専攻していました。もう当時の記憶はほとんど残っていませんがね」
ケンブリッジ大学…、イギリスの超名門だ。
ほとんど勉学に興味のないリオンでも聞いたことがある。
もしかするとこのセイル、転生前は超優秀な人物だったのだろうか。
「へ、へえ…。アイラはどうなんだ。転生前はどんな人だったんだ?」
何気ない会話のつもりだった。
しかしアイラは先ほどの楽し気な様子とは打って変わって、そっと俯いてしまった。まるで、その話はしたくないとでも言うみたいに。
「ふっ、リオンさん。レディにあれこれ詮索するのは禁物ですよ」
しかしリオンがアイラの様子に気が付く前に、セイルはさっと話を遮った。
そんなものなのか? とリオンは思ったが、注意された以上詮索することはできない。
すると。
「リオンさんはどうなんです。以前はどんなお人でしたか?」
と、セイルはリオンに尋ねた。
「俺もあんたと同じで学生だったよ。十八歳だった」
「おや、見た目の割に意外とお若いのですね」
「そりゃこのNPCの見た目だろ…」
「ふふっ、失礼。そうでしたね」
セイルはそう言って穏やかに笑った。
十八歳と言った時、アイラが一瞬リオンを見つめたのだが、リオンがその視線に気が付くことはなかった。
「学生と言うと…何を学んでいたのですか?」
「いやあ、大したことないよ。数学とかは好きだったけど」
「ほう!」
と言ってセイルは珍しく目を輝かせた。
「それは素晴らしい! 私も数学は大好きでした、よろしければ今度語り合いませんか?」
「いや、多分あんたの好きと俺の好きはレベルが違うと思うけど…」
その時だった。
「見てください、綺麗な草原ですよ!」
少し先を歩いていたアイラが、二人を招き寄せつつうれしそうな声をあげた。
走り寄ると、森の小道を抜けた先に、広大な草原が広がっていた。
彼方まで続くその草原は、風にたなびきながら穏やかな調子を醸し出していた。
「おお、こりゃすごいな」
後からついてきたセイルも、その草原を見て驚いた様子だった。
「いやあ、素晴らしい景色ですね」
そして、二人を見ながらこう言った。
「ここらで少し休憩にしましょう」
*
セイルが取り出したパンを、アイラが器用な手つきで三人分に切り分ける。
王都で買ってきたというバターをパンの上に塗り、そいつに思いっきり齧りつく。
「うんまァい!」
パンを齧りながら、リオンは感涙した。
パンにバターを塗っただけ。
前世では簡素な朝食。見向きすらしなかったそんな料理も、今ではとびきりの御馳走に思える。
リオンが疲れていたのもあるだろうが、何より、この雄大な景色がスパイスとなって彼の食欲をさらに掻き立てた。
「慌てなくてもパンは逃げませんよ」
必死にパンに食らいつくリオンの様子を見て、セイルは笑った。
「しかし、こんな見晴らしのいい場所で休憩なんかしてて大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ」
そう言いつつも、セイルはちらと周囲の景色を一瞥した。
「逆に言えばこちらからも見通せるということです。敵もそう易々とは近づけないでしょう」
「いや、でも。あの転送玉とかでワープして、背後からザクッ!みたいな」
そう言いながら、リオンは右手で首を斬られるポーズをした。
その姿を見たアイラはクスクス笑う。
「何がおかしいんだ?」
「ふふっ、リオン。転送玉はそれほど便利なものではないのですよ」
「そうなのか?」
「ええ、簡単に説明しましょうか」
とセイルはパンを齧りながらそう言った。
「そもそもこの世界には様々な魔法があります。その中でも場所から場所へ、モノや人を転移させる魔法は転移魔法と呼ばれています。ゲエルが使用していた転送玉もそこから派生した魔道具ですね。そして転移魔法の原則ですが、転移する距離と正確性は反比例します。遠ければ遠いほど、場所はランダムになるのですよ。高位の転移魔法は例外として、転送玉みたいな魔道具はほとんど正確性は皆無です。なのであなたの言う…」
セイルはニヤリと笑って右手で首を斬るポーズをした。
「背後からいきなりザクッ! みたいなことは起こらないのですよ」
アイラは我慢しきれなかったようで、今度は声を出して笑った。
それを見たリオンは思わず赤面する。
「なんだよ、知らないんだからしょうがないだろ…」
「ふふっ、ごめんなさい。でもおかしくって…」
とアイラは笑い続けた。
「確かに、知らないことは罪ではありません」
いつの間にかパンを食べ終えていたセイルは、膝を叩いて立ちあがった。
笑いの止まらないアイラの頭をコンと小突き、リオンのほうへ振り向いて言った。
「せっかく魔法の話が出ましたし、いい機会です。少し練習をしていきましょう」




