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第2話  『誘惑』

「ねえ、私たちそういう関係でしょ?」


 つい先ほどアイラから発せられたその魅惑的な言葉は、18歳のリオンを悩ませるには充分だった。


 ―何だこれ、何だこれ、何だこれ!


 彼の脳内が、様々なよこしまな妄想で埋め尽くされる。

 その証拠に、さっきから何度もベッドから立ち上がっては座り、意味もなく部屋のなかをぐるぐる歩き回ったりしていた。

 しかし。


「あぁ、クソ!」


 肉体の年齢的には20歳そこそこの若者だろうが、彼の精神年齢はいまだ18歳。

 女性経験のないリオンにとっては、この状況はあまりにも非現実的だった。


「異世界転生なんかより、部屋に女性がいることのほうに動揺するなんて…」


 そんなことを呟きながら、リオンは自分の不甲斐なさに深くため息をついた。

 当のアイラはというと、家に入るなり身体を拭いてくると言って部屋の奥に消えていった。

 リオンの家にはリビングが一つと、その奥に小さな書室のような小部屋が設置されている。

 彼女はいま、まさしくその小部屋で()()()()()()()()()()()()を進めているのだった。

 そしてその事実が、彼をさらに動揺させた。


 ―しばらくして。


「お待たせしました」


 リオンが顔をあげると、小部屋の中からアイラが現れた。

 ランタンの明かりに照らされた彼女の頬は薄っすらと赤らんでいて、すこし恥ずかしそうに照れ笑いをした。


「隣、失礼しますね…」

「あ、ええ…」


 アイラはゆっくりと彼に近づき、ベッドに座る彼の横に腰かけた。

 彼女が動くたびに甘酸っぱい柑橘かんきつ系のような香りが、リオンの鼻孔を刺激した。

 しかしそんな彼女の姿も、リオンは直視できない。

 彼は思わず顔をそむけた。


「ふふ、どうしたんですか?」

「い、いや。別に…」


 リオンの目は宙を泳いだ。頬が硬直し、血液は全身をけたたましく循環した。

 喉が渇き、どうにか気の利いたことを言おうにも、言葉がつっかえてしまう。


「ふふ。リオンさん変なの。いつもはもっとスマートなくせに」

「な…!?」


 いつもはもっとスマートなのか!?

 いや、そもそもいつもこんなことをヤっているのか!?


 リオンはさらに赤面する。

 彼は思わず顔をそらし、逃げるようにベッドに横になった。

 しかし、アイラはそれを逃がさなかった。


「うふふ、じゃあ私も横になろうっと」


 ―なっ!


 逃避失敗。

 アイラの細く柔らかな腕が、リオンの引き締まった肉体にまとわりついた。


「相変わらずスゴい身体…」


 アイラは人差し指で彼の肉体をなぞりながら、耳元でそっと囁いた。


「ちょ、アイラさん…」


 彼女の吐息が、リオンの耳を撫でた。

 リオンは必死に抵抗しようとしたが、彼の意思に反して肉体は従順だった。

 もはや、気が抜けて全身に力が入らない。


「私のも触って…」


 アイラはリオンの腕をとり、自分の乳房に近づけた。

 リオンはそのはじめての感触に触れて、さらにドギマギする。

 彼の心臓の鼓動はいまや最高潮に達していた。


「ねえ、リオンさん…」


 アイラが耳元で囁く。


「今日のアナタ、いつもとどこか違うの」

「そ、そうかな…」


 リオンは曖昧な返事をしたが、もはや自分で何を言っているのかも覚束ない。

 それほどまでに彼は混乱していた。


「ふふ、そうよ。だって、まるで別の人みたい」

「いや、それは…」

「ふふ、隠さなくてもいいのよ。ねえ、もう一つ聞きたいんだけど…」

「な、何…」

「私たち、毎晩こうしてたわよね?」

「え…」


 その言葉の意味を、リオンは理解できなかった。

 なぜ今そんなことを?

 いや、そもそもどういう意図でそんな質問を…?


 しかし彼女の雰囲気に、あるいは男性としての本能に、リオンは抗うことができなかった。


「ああ、そうだよ…」

「そう、ありがとう。()()()()()()()()()()

「え…?」


 しかしリオンの返事も待たず、アイラは枕もとにあったランタンの明かりを消した。

 そして、こう言った。


「リオン、目を瞑って…」


 彼女の声が、部屋の暗闇の中へ吸い込まれていく。

 リオンはその言葉に促されるまま、ゆっくりと目を瞑った。

 ゴソゴソとアイラの動く気配がする。

 おそらく、彼女はいま自分の身体の上にいる。


「じゃあ、始めるわよ…」


 彼女が小さな声で呟いた。


 ―その時だった。


 ヌッ…


 音にならない音。

 リオンは、その音がどこから聞こえてきたのか分からなかった。

 彼の耳元で聞こえたような気もしたし、あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()


「え?」


 リオンは思わず目を開ける。

 すると、彼の視界に飛び込んできたのは思いもよらぬ光景だった。

 部屋の上部に備え付けられた小窓からは、僅かに月明かりが射し込んでいる。

 その月明りに照らされて、リオンの上にまたがって、刃物を振り上げたアイラの姿が彼の目に飛び込んできたのだった。


「ごめんね、知らない人」


 ザシュッ!


 音と共に鮮血が飛び散る。

 リオンは鈍い痛みと共に、腹部が熱くなるのを感じた。


 ―痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!


 彼はその時はじめて、自分が刃物で刺されていることに気が付いた。

 

「く、クソおぉォォ!」


 リオンは絶叫し、ありったけの力をこめて腹上にまたがるアイラを弾き飛ばした。


「きゃあっ!」


 アイラの悲鳴が室内に響き渡る。


 ―何だ、何が起こった! 


 しかし、頭が回らない。

 あまりの痛みに今にも気絶してしまいそうだ。

 彼が身もだえていると、床から起き上がったアイラがもう一度リオンめがけて刃物を突き立てた。


 ザシュッ!


 さらに鮮血が舞う。

 どうやら、今度は左肩を刺されたらしい。


「お前を殺して、私も…私もッッ!!」


 何を言っているのか定かじゃないが、アイラの激しい絶叫が聞こえた。


「こんの…、やろう!」


 リオンは刃物を突き立てるアイラを跳ねのける。


 ―何か、何か武器を…!


 リオンは倒れそうになりながら室内を見渡す。

 すると、彼の視界の端に壁に立てかけてあった農業用のクワが映った。

 これだ!

 彼はその鍬のもとへ走り寄り、そいつを手に取って思いっきりブンッ!っと振り回した。

 すると。


 ベゴッ…


 鈍い音が室内に響いた。リオンの手の感触が、()()()()()()ことを彼に伝えていた。


「ク…ソッ…」


 そしてその直後、アイラの低いうめき声が聞こえ、やがて室内は静かになった。


「やった…のか…?」


 リオンは鍬を放り出し、その場に倒れ込んだ。


 ―死、死、死。


 抗えぬ死の予感。

 その恐怖が、彼の目前にまで迫っている。

 しかし幸か不幸か、そんなことを考える余裕もないくらい、リオンの体力は底をつきようとしていた。


「クソッ…こんな…ところで…」


 リオンは腹をさすった。

 ドロッとした液体が彼の手にまとわりついた。


 ―ああ、俺は死ぬんだ…。


 ついにリオンの体力が底をつき、彼が目を瞑ろうとした、その時だった。


崩壊者ブレイカーによる転生者の死亡を確認』


 どこからともなく聞こえる、機械音声のような音。

 

 ―瞬間。


 バラバラバラッ…


 まるで画面を右から左にスクロールされているみたいに、リオンの部屋が突如として崩壊しはじめた。

 次いで真っ暗だったはずの視界が、突如として輝き始める。

 そして、またしても機械音声が鳴り響く。


『世界を再構成します』


「何だ、これ…」


 リオンは弱弱しく呟いた。

 しかし、崩壊は止まらない。

 ついにスクロールが終了し、彼の視界が真っ白に包まれた時、リオンは確かに声を聞いた。

 それは、例の『神』の声だった。


『さっそくやってくれたね、期待通りだ。その調子で頑張ってくれよ、崩壊者ブレイカーくん…』


 そしてリオンは、抗えぬ睡魔に引きずり込まれるように目を瞑った。



 チュン、チュン…。


 声が、聞こえる…。これは、鳥…?

 喧騒、足音、大勢の人間が無軌道に喋ってる音だ…これは…。


 ―その時。


「ッ!」


 リオンは目を開けた。


「どこだ、ここは…?」


 思わず辺りを見渡す。

 大通りを行きかう人々。

 商人みたいな人たちや、獣耳の人間やら、馬車やらが、所狭しと辺りを闊歩している。


「そうだ、腹…!」


 リオンは慌てて己の腹部に手を回した。

 しかし、傷跡はどこにも見当たらない。

 それどころか痛みも消え去っていて、おまけに眠気や疲労まで無くなっている。


「どういう、ことだよ…」


 リオンが茫然としていると、


「兄ちゃん、おい兄ちゃん!」


 突然、誰かから声をかけられた。

 慌てて声の方に目をやると、強面の爺さんが面倒くさそうな視線をこちらに投げかけていた。


「さっきから何一人でブツブツ言ってんだ。買わねえなら邪魔だからどっか行ってくれ」


 そういうと爺さんはシッシッ!と手を振った。


「お、おいアンタ。ここはどこだ!」

「ああ? どこって、王都に決まってんだろ」

「王都…、もしかして王都ビレイグのことか!?」

「だからそう言ってんだろ。いいからさっさと帰ってくれ!」

「そん、な…」


 王都ビレイグ、とは『勇者物語』の最初にして最大の街だ。

 本来のゲームではこの街を起点にして冒険を始めることになるのだが、どういうわけか、リオンはその都にいることになる。


「どういうことなんだ…」


 リオンは、またしても不可思議な状況に巻き込まれてしまった。

 彼は確かに、あの室内でアイラに殺されていたはずなのだ。

 しかしどういうわけか腹の傷は治り、気が付くと王都ビレイグにワープしていた。


 ―その時だった。


「すみません、ポーションを二つ…」


 リオンが声の主を見ると、眼鏡をかけた色白の男が、いつの間にかリオンの横に立っていた。髪は短めの紫色で、少し毛先がカールしている。

 どうやら、この商店で買い物をしたい様子らしい。

 それを察したリオンが場所を譲ろうとすると、


「セイル! 待ってよ!」


 と、どこからか聞き馴染みのある声が聞こえた。


 は? 聞き馴染み?



 その声を聞いた瞬間、リオンの頭は真っ白になった。

 おかしい。絶対におかしい。

 だって彼女は、()()()()()()()()()()()()


「ねえ、セイルってば!」

 

 そう言いながら、彼女が走り寄ってくる。

 美しい金髪に、紺碧の双眼。

 見間違うわけがない。

 聞き間違うわけがない。


 しかし、なぜ…


「なんでお前が生きている、アイラ!」

 

 リオンの絶叫が、大通りに響き渡った。

 

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