第1話 『勇者物語』
竹田海斗はゆっくりと目を開けた。
それから辺りを見渡した。遥かなる青い空、遠くに見える雄大な木々。どこまでも続いていそうな地平線など、およそ彼の前世では見たこともないような景色が広がっていた。
彼はその時、長い道の真ん中に立っていて、道の両脇を沿うようにして木の柵が続いていた。柵の中には牛や馬といった動物たちが放たれている。どうやらここは牧場らしい。
彼がその景色に呆然としていると、背後から何者かに声をかけられた。
「あれ、リオンさん?」
彼が振り返ると、そこに立っていたのは美しい金髪の女性だった。真っ赤な太陽にさらされた肌は小麦色に焼けており、それが却って彼女の美しい紺碧の双眼をさらに際立たせていた。
彼女は手に持っていた果物かごを地面に置いて、不思議そうな様子で竹田海斗に近づいた。
「どうしたんですかリオンさん、こんなところで。もしかして暑さでボーッとしちゃいました?」
そう言いながら、彼女は上目遣いに彼を覗き込んだ。
「え、リオン…?」
彼ははじめ、その言葉の意味を理解できずに戸惑った。
「やだなあ、リオンさん。あなたのことですよ。一体どうしちゃったんです?」
その時彼は、呼ばれていたのが自分であることにようやく気が付いた。
それから、すぐに合点がいった。
ここは『勇者物語』の世界で、自分はもはや竹田海斗ではなく、リオンと呼ばれる人物に転生したのだ、と。
彼はすぐに作り笑いを浮かべ、彼女に話を合わせた。
「え、ええ。そうなんですよ。少しボーッとしちゃって。少し飲み物でもいただけませんか?」
「うふふ、いいですよ。じゃあ、このカゴを持つのを手伝ってください。いい時間なので私の家でご飯にしましょう」
「ありがとうございます…」
リオンは地面に置いてあった果物かごを持ち上げて、彼女の後についていこうとした、その時だった。
目線をあげたその先に、肩をすくめた彼女が、先ほどまでの柔らかな表情とは打って変わり、表情のない顔でジッとこちらを見つめていた。
それから、表情を変えずに静かにこう呟いた。
「リオンさん、今日何か変じゃないですか?」
「え、変って…だから暑さでボーッとしちゃって…」
「いいえ、そんなのじゃないわ」
そう言いながら、彼女は変わらずジッとこちらを見据えている。
マズいことになった、とリオンはすぐに悟った。
会話から察するに、目の前にいる彼女と、自分が転生する前のリオンと呼ばれていた人物は旧知の仲らしい。
しかし、それがマズかった。彼女は自分のことを明らかに怪しんでいる。
どうやって言い逃れをしようかと彼が考えていると、彼女はさらに追い打ちをかけるようにこう尋ねた。
「私の名前…、当然知ってるわよね?」
彼女の喋り方が変わった。明らかに、リオンに敵対心を抱いている。
―マズい。マズいマズいマズいマズい。
その時リオンの脳内を埋め尽くしていたのは、ただその言葉のみだった。
沈黙。静寂。
重く気まずい雰囲気が二人の間を通り過ぎた。
しかし、その時だった。
リオンの口を突いて出たのは、彼自身でさえも思いのよらぬ言葉だった。
「何を言ってるんです、あなたはアイラじゃないですか」
アイラ、アイラ!
リオンはそう呟いてから、はじめてその名前が彼女のものであることに気が付いた。
アイラ=スカーレット。
彼女は『勇者物語』内におけるユニークNPCの一人だ。
おぼろげな記憶だったが、『勇者物語』内で金髪の女性は一人しかいなかったはずだ。 ドット絵の記憶しかなかったのですぐには気が付かなかったが、確かに目の前にいる彼女の特徴はアイラと一致している。
―しかし、妙だな…。
確かゲームの記憶では、アイラは魔王討伐の勇者部隊の一人だったはずだが…。
リオンがそんなことを考えていると、彼女はホッと表情をやわらげ、ため息をついた。
「なぁんだ、いつものリオンさんじゃないですか。ごめんなさい、変な事聞いてしまって。あまりに様子がいつもと違うものだから、つい…」
よかった、彼女の名前はアイラで正解だったらしい。
と、今度はリオンが安堵する番だった。
「いや、こちらこそすみません。どうも頭が変みたいだ。はやく飲み物をいただけると助かるんですが…」
「そうですね。うふふ、はやくご飯にしましょう」
そういうとアイラはニッコリと笑い、振り返って歩いて行った。
リオンは果物かごをもって、彼女の後についていった。
何とか窮地は乗り越えたものの、彼女の後姿は、まだ何かこちらを疑っているように思えてならなかった。
しかし。
「まあいいか、何とかなるだろう」
リオンは静かにそう呟いて、道の先へと進んだ。
*
しばらく二人で歩いていると、遠くのほうに小さな町が見えた。
いや、町というよりは集落と言ったほうが適切かもしれない。近づけば近づくほど、それがリオンにはよく分かった。
ほとんどが平地で、家屋はすべて木造でできている。ログハウスのような見た目で、三角屋根に丸太を重ねただけの小屋。まさにゲームで作ったような家だ。
「やっと着きましたね~」
アイラは点々と並んだ中から、看板に『ISLA』と書かれた木造小屋の前で立ち止まった。
「ええ、結構歩きましたからね」
「うふふ、そうですね。さあ、早くお昼にしましょう」
そう言うと彼女は扉を開け、颯爽となかに入って行った。
リオンも続いて家のなかへ入り、ぐるっと室内を見渡した。
木造のテーブル、木造のイス。石積みの竈だが、ガラス窓から陽が射し込んでいて、室内は思ったより明るかった。
「お好きなところに座っていてください。私は果物を剝いてきますね」
リオンが適当な丸イスに腰かけたところで、彼女は部屋の最奥に位置している台所に移動し、果物を洗い始めた。
そんな彼女の背中を眺めながら、リオンは今の状況について思案した。
―まったく、何から何まで本当にゲームの世界みたいだ…。
彼はもう一度ぐるっと部屋のなかを見渡しながら、やはり同じ考えに行き当たった。
例えばこの部屋、町の景色、風景、どこをとってもゲームの世界そのものだ。
こんなに太い丸太を均等に積み重ねただけのログハウスなんて、元の世界じゃどこを探したって見つからない。
しかし、もちろんそうでない部分もある。
例えば、先ほどから台所で果物を剥いているアイラと言う女性。受け答えからも分かるように、明らかにゲームのNPCではなく、ちゃんと意思を持った人間だとしか思えない。
この時、リオンのなかである一つの仮説がうまれた。
(今俺がいるこの世界は、勇者物語を忠実に現実世界に置き換えて再現したようなものなのかもしれない…)
つまりリオンの推察では、ここはゲームの設定だけを引き継いだ現実世界、ということになる。
しかし、彼の推察にはもちろん穴がある。
彼の記憶する『勇者物語』ではアイラは勇者部隊の一員だったはずだ。
それがどういうわけか、普通の牧場娘、って感じになってしまっている。
さらに言えば、リオンという男性。
つまりは彼自身のことだが、彼が記憶する限り、リオンというNPCなど『勇者物語』には存在しなかったはずだ。
なのにアイラは彼のことを知っていて、旧知の仲として振舞っている。
(ユニークNPCではなく、モブNPCに転生したか? それとも、まったく新しい存在として転生した? いや、それならアイラが俺のことを知っているのはおかしい…)
そんなことを考えながら、リオンは自分の顔を確かめるために、テーブルの上に置いてあった花瓶に顔を近づけ、その反射でなんとか自分の顔を確かめようとした。
しかし…。
「ぐぬぬ…」
陽光が部屋の端まで届いていなかったので、薄暗くて何がなんだかわからなかった。
「さっきから何をしてるんですか?」
そうこうしていると、いつの間にか対面に座っていたアイラが頬杖をついてこちらに笑いかけていた。
「あ、いや…」
思わぬ痴態を見られたリオンは思わず赤面してしまう。
「うふふ、変なの。さあ召し上がってください。とれたての桃ですよ」
しかしアイラは特に気にする様子もなく、取り分けた桃を美味しそうに頬張り始めた。
「ん~美味しい~! ね、リオンさんも早く食べてくださいよ」
「え、ええ。いただきます」
リオンはそういうと、手元にあった桃をとって口に入れた。
「お、美味しい!」
「でしょう?」
食べ応えは普通の桃だ。味は少し甘い程度で、前世で食べたことのある桃と何の変わりもない。
リオンが夢中で桃を頬張っていると、先に食べ終えたらしいアイラがスッと席を立ち上がり、壁に掛けてあった麦藁帽を被った。
「どこかへ行くんですか?」
「うふふ、仕事に決まってるじゃないですか。じゃあ行ってきますね」
そういうと彼女は、リオンの返事も待たずに颯爽と扉を開けて出て行ってしまった。
「え、俺を置いて出て行くのか…?」
リオンはひとり呟いたが、返事をする相手はもうとっくにいなくなっている。
(いや、この世界ではそれが常識なのかもしれないな)
怪しんでみたところで何が変わるでもない。彼にとって、この世界は分からないことだらけなのだ。
リオンは気を取り直し、桃を食べ終えたところで少し町中を散歩してみることにした。
*
食後の散歩がてらリオンは町の様子をそれとなく探りつつ、自分の情報を仕入れた。
彼の家はすぐに見つかった。
看板に『LEON』と書かれていたので中に入り、色々と物色した。そのなかで本棚に挟まっていた書類から、リオン=アーネストという名前が見つかった。
どうやらそれがリオンの本名らしい。
あとは農業用の鍬やカマなんかが壁に立てかけてあったので、どうやら農民ではあるらしいのだが、他にはこれといってめぼしい情報は見つからなかった。
「まあ、こんなものか…」
思っていたほどの情報は手に入らなかったのでリオンはため息をついたが、ひとつの収穫はあった。
彼の記憶によれば、『勇者物語』にリオン=アーネストなどというユニークNPCは存在しなかった。
鏡で顔も確認した。身長は175㎝程度、細身で黒髪。筋肉質。地味ではないが、目立つほどでもない。典型的なモブ顔だ。
しかし、やはり見覚えはなかった。
―情報を整理すると、俺はモブNPCに転生した。アイラとは知り合いらしい。それ以外のことは分からない、以上だ。
それ以上のことは考えても仕方がないので、リオンは諦めて外に出ることにした。
気が付くと夕方になっていて、燃えるような緋色の夕日が辺り一面を照らしていた。
その時リオンは、ふと誰かの視線を感じた。
その先を見ると、木のベンチに腰かけた老人がひとり、ジッとこちらを見つめていた。
リオンが訝し気に様子を探っていると、老人は彼を手招きして招き寄せた。
「こんにちは…いや、こんばんはかな?」
その老人との関係性が分からない以上、当たり障りのない挨拶をするしかない。
リオンがそう言うと、老人は静かに微笑んでこんばんはと言った。
「隣、座っても?」
「ええ、もちろん」
老人はまたにこやかに答えた。
その様子を見たリオンは、これはチャンスだとばかりに老人に尋ねた。
「失礼ですが、この町の名前はなんでしょう?」
―随分と思い切った質問だ。
我ながら馬鹿げている、とリオンは内心嘲笑した。
場合によっては怪しまれるかもしれない。だが、老人ならそこまで不思議にも思わないだろう。これはチャンスだ。
そしてリオンの目論見通り、老人は朗らかに答えてくれた。
「ほっほっ。アザールの村じゃよ、若いの」
「アザール…!」
リオンはその名前に覚えがあった。
『アザールの村』
勇者物語内に登場する、たしかゲーム内マップの最南端に位置する小さな村だ。
半径わずか数十マスしかない小さな村だったはずだが、ここまで地形が広く大きく変わっているとなると覚えていないのも当然だ。
「失礼、そうでしたね。ところで、あなたのお名前は?」
ここぞとばかりにリオンはきわどい質問を続けた。
だが、老人の返事は彼にとって予想外のものだった。
「セミじゃよ。覚えとらんかのう。お主とは毎日顔を合わせとるじゃないか」
「え…」
―しまった!
さすがに怪しまれたか? と思ってリオンは老人の表情を探ったが、幸運にも特に怪しまれている様子はなかった。
リオンは気を取り直すために小さく咳ばらいをしてから、もう一度老人に尋ねた。
「オホン、そうでしたねセミさん。もう一つ質問してもよろしいですか?」
「かまわんよ」
「アイラ、という女性は知っていますか。もし知っていたら彼女について教えてほしいのですが…」
「うむ。もちろん知っておるよ。いい子じゃ、いい子じゃよ。数年前に村に来たかな。よく働く子じゃよ」
「そうですか…」
期待していた情報は得られなかったので、思わずリオンは肩を落とした。
「ほっほ、好いとるのか?」
「え、いやそんな…!」
「ほっほ、隠さんでもええ。しかし気をつけなされ、若いの。あの子はこう…、村のみんなとは違うものを感じるのでの」
「は?」
リオンは思わず顔をあげたが、老人はそれ以上アイラについて語る気はないらしかった。
尻をパンパンと叩いてベンチから立ち上がると、別れの挨拶をして去ろうとした。
リオンも見送るためにベンチから立ち上がると、彼は去り際にこんなことを言った。
「気をつけなされ、夜になると村の外には魔物が出るでの。まあ、勇者様の結界で村の中には入ってこんが、用心にこしたことはないでの」
*
その晩。リオンは自宅のベッドに横になりながら、一日に得た情報を整理していた。
セミ老人の最後の言葉。
あれは、いわゆるRPGにおける典型的なメタ発言だ。
ゲームの『勇者物語』では村や町のなかは安全地帯となっており、何かのイベントでも発生しない限りは魔物が侵入してくることはあり得ない。
「そこはゲームと一緒か…」
しかし気になるのはそこではない。問題は、その前の言葉だ。
『彼女は村のみんなとは違う』
あれはいったいどういう意味なのだろうか…。
しかし、考えてみても仕方がなかったし、それに頭も回らなかった。
一日中歩き回ったおかげで彼の疲労はピークに達していたからだ。
「まあ、そのうち様子を見て彼女に直接聞けばいいか…」
やがて睡魔が襲ってきた。
ゆるやかな疲労とともに彼が眠りに落ちようとした、その時だった。
―コンコンッ。
扉をノックする音。その音につられてリオンは目を覚ます。
(何だ?)
リオンはベッドから起き上がり、扉に近づいた。
「誰だ?」
返事はない。
もう一度彼は尋ねる。
「誰だ?」
途端に彼の心拍数が上がる。
心臓が鼓動を鳴らす。
強盗か? 前のリオンの知り合いか? それとも、魔物…。
あらゆる負の可能性が彼の脳内を駆け巡る。
―その時。
「アイラです…、開けてください…」
扉の向こうから聞こえてきたのは、確かに彼女の声だった。
リオンは一瞬迷ったが、すぐに扉を開けた。
何か情報を得られるチャンスかもしれないと判断したからだ。
「はい、何でしょ…」
しかしリオンの言葉は、そこで止まってしまった。
おそらく、この世界の寝巻のようなものだろう。
彼女は、薄いネグリジェのような着物を身にまとっている。
大胆に突き出した乳房が、思わずリオンの目を引いた。
彼女はいやらしく微笑みながらスルリと顔を近づけ、リオンの耳元で低く囁いた。
「ねえ、私たちそういう関係でしょ?」




