第10話 『転移』
「セイルッッ!」
リオンの慟哭が部屋に響き渡る。
忘れない、忘れられるわけがない。
窓際に氷で磔にされていた男ごと背後からセイルの腹を貫いた《《奴》》は、その長い舌をだらんと垂らしながら、叫んだ。
「遅いなあ、反応がア!」
ズアッ!
雄たけびと共に猛烈なスピードで二人の男から槍を引き抜き、態勢を整える。
「ゲエルッ!」
リオンは掌を構え、瞬時に魔力を溜めた。
「水球!」
リオンの掌から少しばかりの水があふれ出し、ゲエルに向かって放たれた。
しかし。
「何だァ、そのチャチな攻撃はァ!」
リオンの渾身の一撃は、無情にもゲエルの振り払った右手に軽くあしらわれてしまった。
「クハハ、死ねェ!」
槍を構えたゲエルは、今度はリオンにその鋭い槍の先端を向けた。
―その時。
「死ぬのはあなたです!」
ドシャアアァァァァッッッ!!
セイルから目を離したゲエルの一瞬の隙を、彼は見逃さなかった。
掌を構えたセイルが、強大な水魔法を発動したのだ。
突如として大量の水に満たされる室内。
「くっ!」
瞬時に魔法の発動を察知したリオンは構えるが、荒れ狂う水が彼の身体を押し流す。
その限界容量を越えた時、部屋は爆音を立てて崩壊した。
ゴシャアァァァァァア!
「きゃああ!」
全員の悲鳴が入り乱れた。
*
「ぐはっ!」
棍棒で殴られたような衝撃が身体中に走り、リオンは思わず吐血する。
その後状況を把握する暇もないまま、激しい砂嵐がリオンの濡れた身体に纏わりいた。
それによってリオンは、自分が宿の外に放り出されたことを察知した。
(クソ、みんなはどこに…)
全身に襲い掛かる激痛を必死でこらえながら、リオンは立ち上がった。
「何だよ、これ…」
リオンの見上げた先に、見慣れる光景。
自分がさっきまでそこにいたことなど、到底信じられない。
宿が、その原型をほとんど残さぬままに崩壊していた。
「セイル…、アイラッ…!」
顔面に纏わりつく砂を払いのけ、リオンは無我夢中で駆ける。
「みんなどこにいるッ!」
その時、微かにリオンを呼ぶ声がした。
「リオ…ン…」
その声は、砂嵐の向こうから聞こえた。
急いで声がした方に走り寄り、しゃがみこんで手を取る。
「セイル!」
声の主は、セイルだった。
腹には血が滲んでおり、ローブに血が染みわたっている。
顔はほとんど死を間近にした病人のように青ざめていた。
リオンの手を取ったセイルは、フラフラとよろめく足で立ち上がる。
「セイル、立ったら傷がっ…!」
「黙りなさいリオン、敵はまだどこかにいますッ!」
セイルは半狂乱になるリオンを牽制し、辺りを見渡す。
しかし。
「くッ…」
すぐに気を失いかけたのか、そのまま地面にしゃがみこんでしまった。
震える手で必死に腹の傷を押さえている。
その時。
「クハハ。魔力探知もできねえかァ」
絶望の声。
瀕死の二人に向けられたのは、あまりに絶望にすぎた悪夢の音だった。
「長旅で疲れただろ、もう休んだらどうだ」
砂嵐の向こうから現れたのは、槍を肩に構えたゲエル。
余裕の表情で地面に這いつくばる二人を嘲笑っている。
「ゲエル…!」
リオンは立ち上がって掌を構える。
だが、ゲエルには通じない。
それは当のリオンが一番よく分かっていた。
「おいおい、そんな水鉄砲で何する気だァ?」
ゲエルは構えようとすらしない。
しかし、やるしかない。
やらなければやられる。
「クハハ。そいつのお守りは疲れただろォ。おかげで魔力探知も解いちまうざまだ。まあ、おかげで助かったがなァ」
―クソ、クソ、クソ!
自分のせいでセイルは危機に瀕している。
そんなことは、自分でもよく分かっている。
分かってはいても、その事実がリオンの心に重くのしかかる。
「水球ッ!」
がむしゃらに放ったリオンの水球は、ゲエルの下へ届くことすらなく空中で霧散した。
「クハハ。せめて当ててくれよォ」
ゲエルが二人に歩み寄る。
「水球!」
もう一度放つ。
「ほらよっ」
ゲエルの右手がそれを弾く。
「水球!」
弾かれる。
「水球!」
また弾かれた。
「水球、水球、水球ッッッ―
「おい、もうその辺にしとけよォ」
気が付くと、目の前にゲエルが立っていた。
ゲエルはリオンの右手をガッチリと掴み、ニヤリと笑った。
「水遊びは終わりだァ」
ゲエルは左拳を後ろに引き、猛スピードでリオンの胴を殴り飛ばした。
リオンの全身に、重い衝撃が走る。
「グハッ!」
空中に押し飛ばされ、リオンは数メートル後ろに吹っ飛んだ。
「クハハ。いい眺めだなァ」
そのまま地面に倒れ込んだリオンを嘲笑い、ゲエルは槍を構えた。
さて、とゲエルはセイルに目をやる。
「目をかけてたやつがこんな死にざまたあ、キラも浮かばれねえなァ」
ゲエルは槍を後ろに引いた。
セイルは地面に這いつくばったまま動かない。
狙いはセイルの脳天、一突きで殺しきるつもりだ。
「あばよォ!」
セイルに向かって振り下ろされる槍。
「セイルッ!」
リオンは必死に叫んだ。
だが、声は届かない。身体が動かない。
(クソ…身体、動けよッ…!)
その時だった。
「はああぁぁぁぁ!」
暗い砂嵐の向こう側から、一刃の燃え盛る炎が立ち現れた。
《《彼女》》はゲエルの槍を瞬時に弾き、剣を翻してそのまま胴に向かって横に薙ぎ払った。
「うおっ!」
思わず身を引くゲエル。
槍を手に持ったまま、後ろに飛び下がった。
「危ねえなァ、魔力探知がなきゃ死んでたぜェ」
「今からそうなるのです」
アイラは剣を握ったままゲエルと対峙する。
距離は数メートル、互いにいつでも詰められる間合いだ。
「リオン、大丈夫ですか?」
アイラはゲエルに視線を向けたままリオンに問いかける。
「ああ、でもセイルが…」
リオンはセイルに視線を向けた。
だがセイルは動かない。
いや、動けないのだ。
肉眼でも分かるくらいに、セイルのローブの上には血が滲んでいた。
「クハハ。前に負けたこと忘れたのかァ」
「黙りなさい! リオン、セイルの治療を!」
「あ、ああ…!」
アイラがゲエルと対峙している間に、リオンは激痛の走り回る身体をなんとか叩き起こし、セイルに駆け寄った。
「セイル!」
だが、返事はない。
慌てて身体を揺さぶる。
しかし反応がない。
もうほとんど、呼吸すらしていないみたいだった。
「リオン…セイルは!?」
いつの間にかゲエルと激しい戦闘を開始していたアイラは、背中越しにリオンに叫ぶ。
「駄目だ、意識がっ…!」
「そんな…」
溜まらずに後ろを振り返ろうとしたアイラ。
その一瞬の隙を、ゲエルは見逃さなかった。
「クハハ、よそ見すんじゃねえよォ!」
動揺したアイラの剣を強烈な槍さばきで弾き飛ばす。
「しまっ…!」
「死ねェ!」
アイラに襲い掛かる槍。
(どうにか、どうにか出来ないのか!)
リオンは考える。
だが、どうにもできない。
無力なリオンには、打てる手はなかった。
「もう、やめてくれ…」
リオンは涙を流した。
情けなく、敵を前にして無様な涙を流した。
彼はもう、諦めたのだった。
―その時。
「言ったでしょう、諦めるなと」
立ち上がったセイルの放った水球が、猛スピードでゲエルに襲い掛かる。
「くッ!」
ゲエルが気を取られた隙を見て、セイルは駆けだす。
死にぞこないの身体で、震える足を無理やり動かして。
「うおおォォォォ!」
セイルは雄たけびをあげた。
「この死にぞこないがアァァァア!」
ゲエルは槍を構え、セイルに突き刺した。
「くっ!」
ゲエルの槍が、セイルの胴を貫く。
激しく飛び取る鮮血。
「これで死んだだろうがァ!」
「ええ、でもあなたも動けませんよ」
「なッ!」
ゲエルの槍と貫かれた肉体の間は、セイルの作り出した氷の膜で瞬時に覆われた。
その隙にセイルはアイラの手を取り、思いっきり背後に投げ飛ばした。
そして、叫んだ。
「逃げなさい、早く!」
アイラの手には、真っ黒い丸薬が握り込まれている。
それはセイルの最後の置き土産、転送玉だった。
薄く消え始める二人の身体。
「セイル、セイルッ…!」
リオンは、アイラは叫ぶ。
だが、彼らの叫びはセイルには届かない。
もう転移がはじまっていた。
「生きなさい、死んではいけない」
セイルは二人に向けて呟く。
しかし彼の最後の言葉はあまりにか細く、二人に届くことはなかった。
「ク…ソオオォォォォォ!」
最後の置き土産。
だがそれは、ゲエルも同じだった。
ゲエルはセイルに突き刺さっていた槍を無理やり引っこ抜き、強烈な肉体の旋回で二人に向かって投擲した。
ドヒュンッッ!
空を切り裂いて一直線に突き進む槍。
だがその槍が二人を貫くことはなかった。
槍が貫いたのは、転送玉だった。
槍に貫かれた転送玉は激しく発光し、二人の身体を包み込んだ。
二人を通過した槍はそのまま地面に突き刺さる。
ゲエルは、二人を仕留め損なったことを確信した。
「クソオオォォ!」
ゲエルの憤怒の絶叫が、夜の砂漠に響き渡った。




