彼女のクイズ
枕元で鳴ったスマホを手に取ると9時05分だった。飛び起きた僕は気を失うかと思った。
1月の冷たく寒い朝。久々のお休み。5時に一度目を覚ました時は窓の外が暗かったから、そのままぬくぬくと温かな布団に戻り、最高の二度寝。
(やってしまった)
9時に迎えに行くと彼女と約束をしていた。彼女の誕生日は朝から出かけようと誘ったのは俺なのに。
布団の上で青ざめていると、彼女からメッセージが来た。
ーー何かあった?
心配している。何せ僕は遅刻をしないたことがない。付き合って3年目にもなれば彼女もわかっているはずだ。僕が時間に厳しくて、他人の遅刻は許せても、自分が遅れることは許さない。だから、そんな僕が時間になってもこないことに不安になったのだろう。
ーーごめん、寝坊した
急いで返信すると、彼女からすぐに返ってきた。
ーー無事で良かった
怒っただろうか。文字からはわからない。でも、とにかく彼女の顔を見て、一秒でも早く謝りたい。
そして出かけなくては。今日のお出かけ計画は、ひと月前から練りに練っていたのだ。
急いで身支度をしていると、スマホが鳴った。再び彼女からメッセージが届いている。
ーーヒント①、night
(night?)
突然送られてきた謎のヒントに僕は顔をしかめた。
(ヒント? nightって夜?)
わけも分からず、彼女の家へ急いだ。 1月の冷たい風の中、一人暮らしの彼女の家へと車を走らせた。インターホンを鳴らすと玄関の扉が開く。
「おはよう」
彼女はすぐに出てきた。会うのは久しぶりだった。少し痩せたような気がする。声に元気がない気もする。
今、僕の仕事が繁忙期でひと月近く会えていない。とにかく忙しい。朝から忙しさの嵐にもみくちゃにされ、帰れば気絶するように寝るだけの日々が続く。そんな中、二人で遠出をするためにどうにか休みを勝ち取った。
それを寝坊で台無しにしてしまった。
「ゴメン!」
玄関先で頭を下げる。
「大丈夫だよ」
至って穏やかな彼女の声に僕は胸をなでおろす。
「じゃあ出発しよう」
さっきのメッセージについては車で聞こう。僕はそう思っていた。
しかし、彼女は微笑んだ後、だまってスマホを操作し始めた。まもなく僕のスマホが音を立てる。
ーーヒント②、薬
彼女からの謎メッセージの2通目だ。
「これは何?」
「ヒント」
「だからヒントって何?」
「クイズのヒント」
彼女はニッコリ笑った。
「ヒントから導かれるものを当ててほしいの」
そんなことをしていたら出発できない。僕は苛立ちを隠しつつ訊ねる。
「怒ってる?」
怒っているからこんなことをするのだろうか。
「少しだけ」
彼女は含み笑いだ。
「ごめん。誕生日に寝坊なんかして」
「寝坊では怒らないよ。忙しいの知ってるから」
「じゃあ何で?」
「クイズを解けばわかる」
彼女は僕の手をそっとつかんで部屋へとひっぱりこんだ。
「でも、早く出かけないと」
「じゃあ早くクイズを解いてね」
本当は無理にでも出発したいけれど、彼女は瞳をキラキラさせている。
(さっさと解けばいいか)
遅刻した手前あまり強引なこともできず、僕はヒントを思い出していた。
ヒント①、night。
ヒント②、薬。
(nightと薬。夜と薬)
夜と薬で思い浮かぶのは、急な夜中の発熱時に母親に飲まされた……
「解熱剤?」
「ブーッ」
彼女はニヤリと笑った。
「違います」
「なんか腹立つな」
「寝坊した分、付き合ってください」
やっぱり寝坊のこと怒っているじゃないか。ちょっとムッとしていると、またスマホが鳴った。
ーーヒント③、麦茶
「麦茶?」
「麦茶です」
「night、薬、麦茶?」
またスマホが鳴る。
ーーヒント④、ラグビー
「ラグビーって、スポーツの?」
「そうそう。でも、昔のラグビーかな」
昔のラグビー。麦茶。この2つの共通するイメージがパッと浮かんだ。
麦茶を沸かすアレ。
昔のラグビー部で使われていた、今時から考えられない魔法のアレ。倒れた選手に水をかけていたアレ。
「もしかして……ヤカン?」
「正解!」
「でも、nightと薬は何なの?」
「薬は、ヤカンを漢字で書くときに薬の字を使うから。nightは、夜→夜間→ヤカン」
「ダジャレかい」
「ダジャレです」
彼女は照れ笑いしつつ、キッチンを指さした。
「それでは、ヤカンを開けてみてください」
僕はコンロの上の、小さなヤカンの蓋を開けた。空っぽのヤカンの中には小さな袋に入った煎り大豆が入っていた。丸い底で静かに佇んでいる。
「煎り大豆?」
1月も半ば。そろそろ節分も近い。もうスーパーでは売っているのかもしれない。
「煎り大豆が答え?」
「いいえ。これもヒント」
「続くのかよ」
苦笑いをしつつ、ヤカンから煎り大豆の袋を取り上げると、その下に小さなチョコレートの包みが二粒隠れていた。
「チョコ?」
透明なフィルムに包まれたチョコレートがヤカンの底に残されている。
「煎り大豆とチョコで思い出されることはなんでしょう?」
今度はすぐにひらめいた。煎り大豆は豆まきに使う。チョコレートはバレンタインデー。
「2月!」
「正解」
あっさりと正解が出た。でも意味がわからない。
「それで、2月がどうしたの?」
「2月なの」
彼女は説明もせず、きまり悪そうに笑った。
「2月が何?」
「2月なんだって」
「だから、2月が何なの?」
「私の誕生日は2月なの」
僕は愕然とした。
「今は何月?」
「1月」
「2月はいつ?」
彼女はぷっと吹き出した。
「来月だよ」
僕は最低だ。誕生日を間違えるなんて。思わずため息を吐き出す。
「ごめん」
彼氏としてアウトではないだろうか。
「何で教えてくれなかったの?」
「言ったよ。言ったけど、計画を立てることに夢中で全然聞いていなかった」
僕は少しも覚えていなかった。
「だからクイズを作ったの。そうでもしないと立ち止まらない気がして」
「立ち止まらない?」
「うん。猪突猛進。話を聞いてくれない」
「僕が?」
彼女がコクリと頷いた。
もう言葉もない。自分では慎重で冷静で聞き上手なタイプだと信じていたのに。
彼女はヤカンの中からチョコレートを取り出し、僕に手渡す。
「それに、もし私が直球で『出掛けたくない』って言ったら嫌な気持ちになるでしょ?」
「行きたくなかったの?」
「うん」
「それなら言ってよ」
「言ったよ」
誕生日を間違えたときと同じ答えが帰ってきた。
「旅行、嫌いなの?」
「旅行は嫌いじゃない」
「じゃあ、誕生日にはちゃんと出かけよう」
二人で遠くへいこう。日常から離れて、計画を立てて。今度こそ、彼女の誕生日を祝おう。
でも、彼女は首を振った。
「今日は考えたくない。部屋の掃除して、洗濯物をして、布団も乾したい。すごく天気がいいから」
彼女の部屋はすでに片付けられ、洗濯物はベランダに乾されていた。
「もう終わっているじゃないか」
「ここじゃないよ」
彼女がじっと僕の顔を見た。
「まさか、うち?」
「うん」
確かに、洗濯物が溜まりに溜まっていた。部屋もかなり雑然としていた。
「洗濯して、その後二人でコーヒーを飲みたい。それだけでいい。今日は計画しないでほしい。寝坊するくらい疲れているなら、休んでほしい」
「僕は出かけたかった」
「出かけるのは楽しいし、計画立ててくれるのも嬉しいけど、今日は掃除と洗濯したい」
ふと彼女が首を傾げる。
「他人に洗濯されたくない?」
改めて訊かれると不思議だ。彼女ならいいと思う。
「いいよ」
僕が答えると彼女はコートを羽織った。
「車、下に停めたままだよね?」
それからカバンとヤカンを持って、僕の手を引いた。
「行こう」
★
僕の部屋に着くと、彼女はカーテンを開けた。日差しが差し込んで、長いことカーテンを開けていなかったことに気づく。
洗濯機を回して、彼女は洗い物が溜まったシンクをやっつけると言い出した。僕はその隙にコソコソと部屋を片付け、布団を干した。
彼女は台所をあっという間にきれいにしてしまうと、持ってきたヤカンでお湯を沸かし始める。僕の家にはヤカンもポットもないから。
気づくと洗濯機の表示には、終了まで残り10分。
片付け終えた僕はスッキリとした気分だ。
「終わるまで少し休もうか」
「じゃあ飲む?」
キッチンにいた彼女がカバンから取り出したのは、スティックタイプのインスタントのコーヒーだった。
「飲む」
僕の答えに、彼女は弾けるように笑った。それからマグカップにコポコポと音を立ててお湯を注ぎ、くるくるとスプーンで混ぜてコーヒーを完成させる。
「はい」
マグカップを渡され、僕は「ありがとう」と言って受け取る。
「何に怒っていたかわかったよ」
彼女の話を聞いていなかった。自分がしたいことを押し付けていたんだ。
「もう怒ってない」
彼女はうつむく。
「私は甘えている。クイズに付き合ってくれるって知ってて付き合わせた」
コーヒーを一口飲むと、彼女は僕から目をそらした。
「仕事で嫌なことがあって、ここ最近この世の全てが敵に見えてて」
「何があったの?」
「後輩を強く叱っちゃって。そしたら全人類にモラハラ女って責められている気がしている」
「飛躍し過ぎだよ」
「職場の人には避けらている。叱った後輩とは今まで通りだけど、不安で。ーーでも、ちゃんと味方がいた」
「誰?」
「二人で出かけようって。9時にむかえにいくって。連絡をくれたでしょ?」
「僕なの?」
誕生日を間違えるような僕が?
「味方がいるって奇跡だね。ありがとう」
彼女の柔らかな笑顔に僕はまた心を奪われた。
「チョコ食べる?」
誤魔化すように訊ねる。さっきヤカンに入っていたチョコレートだ。
「食べる」
彼女は嬉しそうに受け取った。
洗濯が終わるまでの10分間。僕は気づく。ただ、彼女のそばにいたい。それは燃えるような恋じゃない。でも、もう一度恋に落ちた。穏やかで、在り来りで、かけがいのない恋だ。
窓から射し込む光に包まれて、僕らは片付いた部屋でコーヒーを飲み、チョコレートを食べた。
冬の日差しは透明で高潔な気がする。温かさの中にある芯強さは、彼女に似ている。
「そろそろ洗濯が終わるね」
立ち上がって窓を開けると、冷たい空気が流れ込み、甘い香りと混じり合う。それは彼女みたいに凛として、優しい冬の匂いだった。