序章 妖怪飛脚
これは、今の時代から何百年も前、「天冥年間」と呼ばれる時代、ジパングと呼ばれた頃の日本の話である。
「天冥年間」。ジパングの頃の日本は、日本の歴史上、最大の暗黒時代であった。
「天冥年間」の歴史は、現代の日本においては、語られることのほとんどない。それは日本人は、忘れてしまいたい不幸の歴史だからである。
「天冥年間」は、実際、歴史研究でも滅多に取り上げられることのない、振り返ることが苦しくなるほどの無価値な暗黒時代であった。
この話は、そういう「天冥年間」という暗黒時代を反映しているため、今日に生きる人からみれば、とても奇妙な、不思議な話である。
人に話しても、説明してみても、今の世の中では、信じてもらえそうになく、もちろん理解する人もいないような話である。そんな話でも、見るべき価値や教訓や感動が含まれていたりするのは不思議なことである。
ところで、この話はこの不幸な日本を「黄金郷、ジパング」と呼んだ人々、紅毛人にまつわる話でもある。
* *
「天冥年間」
ジパングは、「侍」が本来物事の中心となった国であった。そのためジパングでは、今の日本とは全く違った、法律や約束事が人々の暮らしを支配した。
「天冥年間」、ジパングは、「侍」の時代がどこか行き詰まった時代であった。
「天冥年間」のジパングは、それは不幸な時代でもあったが、面白い時代でもあった。そのように言う楽観論者も存在する。
しかし、そのようなことをいうのは、実際に不幸と関わらなかった、あるいは現実の不幸から目を背けようとする部外者である。
われわれは、大多数の真摯な歴史家の意見を聞くべきだ。
この侍の時代、「天冥年間」のジパング。それをよく見てみよう。
何もかもが悪に染まった時代であったと、歴史家でなくとも断言するはずだ。
不作による飢餓と、地震、風水害は、「天冥年間」のジパングの人々を苦しめた。
そして、お腹を空かした赤ん坊が街のあちこちで食べ物を求めて泣いていた。このためか、人々の哀しみは止むことがなかった。
さらに、「天冥年間」のジパングは、立て続けの疫病に人々が苦しんだ時代でもあった。
「天冥年間」のイメージ。それは、何かの取り返しのつかない行き違いが、幾重にも重なってしまったため、例えようもなく歪んでしまい、ひん曲ってしまったようなイメージに見える時代である。
ジパングの住人にとっては「地獄」のようなイメージの時代であったに違いない。
「天冥年間」。ジパングの人々は、絶えず飢えに苦しみ、病に苦しみ、絶えず諍いが起こり、理由もなく、人々は、苦しみ死んでいった。
「天冥年間」。ジパングに住む住人にとって、彼らの住む世界について、彼らの過ごしていく世界の印象というものは、そこに長居したいとは思えないような、むしろ死の方が好ましいような「地獄」の世界であったのだ。
ジパングの人々は、とんでもなく性悪で、邪で、強靭な神というか、超越者に、自分たちも気付かぬうちに喧嘩を売ってしまったのかも知れない。
その邪な超越者は、人々の間違った行いのせいなのだろうか、とにかく敵意をむき出しにして、この「天冥年間」ジパングの人々を責め立てた。
それに対して、人々は邪な超越者を宥めようと、自分たちの一番大切なもの、生贄として邪な超越者に捧げたが、それは全く効果がなかった。
邪な超越者を鎮めるためジパング全土で、巨大な巡礼が数知れず計画された。
それぞれが信ずる仏様や八百万の神々に向きあい、職を捨て、私財の全てを投じ、巡礼の旅に出た。
ジパングの多くの人がこれらの巡礼の列に加わり、彼らが信じる聖地を目指した。
しかし、それらの巡礼にも効果はなかった。邪な超越者に対してご利益というものはなかった。
それどころか、なにが気に食わないのかわからないが、邪な超越者は、さらに腹立ち、イライラ、ムカついたようで、ジパングの人々をさらに攻撃してきた。
結果、ジパングの人々の不幸は、全然収まるような様子はなく、邪な超越者が、この世界の住人に向ける邪険さの度合いといえば、ますますひどくなっているように見えた。
ジパングのその時代の住人は、うつ手を無くして、そろって地団駄を踏み、泣き喚き、疲れ果て茫然として立ち尽くした。
何をやろうと自分たちの努力に対し、ジパングは鐚一文、今風に言えば一円分も、つまりほんの少しも良くなってはいないのだ。
「天冥年間」に暮らすジパングの各々の人々にとって、あきれるほどの生き地獄が、最悪の日々が、来る日も来る日も、果てしなく続くように思えた。
「天冥年間」、ジパングの人々を取り巻く環境というか、ジパングの人々が日々呼吸する空気が、不幸の原因ではないかと考えてみるものもいた。
たしかに、人々が暮らすその世界において、人々を取り巻く大気は、血生臭さや濃厚な死臭を含む、どんよりとした大気の悪臭に満ち溢れ、少々の風では、吹き払われることはないように思われた。
「天冥年間」。この邪悪な大気が原因なのだろう、全国津々浦々、疫病がいよいよ勢いがおさまるところなく、人々を苦しめていた。
* *
「天冥年間」。この邪悪な大気のせいもあるのだろう、魑魅魍魎たちを鎮めていた封印は解かれてしまい、そのために多くの死霊たちが、また妖怪たちがこの世界を跋扈しはじめていた。
ところで、妖怪といえば、……。
ところで、あなた方は「妖怪飛脚」というものの話をきいたことがあるだろうか?
「飛脚」というのなら、侍の時代の郵便配達。郵便屋のことである。
「天冥年間」、離れた土地に住むもの同士が連絡を取るには、今日の郵便のシステムに相当する飛脚というシステムを利用した。飛脚というシステムは、文書の受け渡しを人力で仲介するシステムで、郵便と比べ、多くの労力と手間がかかり、利用のためには、それなりの金が必要であった。
ところで、「天冥年間」のジパングには、「妖怪飛脚」というものが実際に存在していたという説がある。
これは、俄かには信じられないことであるが、「妖怪飛脚」というものを利用すれば、天界、冥府、異界との通信も可能であったという。
たしかに、そのためには、大金を叩いて、「妖怪飛脚」の力を借りる必要があったともという。
この話の時代、「侍」の時代、「天冥時代」に生きたものたちにとっては、この「妖怪飛脚」というものは、非常に馴染みのあるものであったのかも知れない。
というのも、「天冥年間」において、これまでに見られなかった「妖怪飛脚」の活動が俄かに観察、目撃、報告されるようになっていたからだ。
ところで「妖怪飛脚」というものの情報は、本拠地であるはずのジパングの古文書、歴史的文献においては、本来見かけないものであった。
ジパングの住人は、いつの時代も「妖怪飛脚」について公に語ることをしていないのだ。
それは、「天冥年間」のジパングにおいてもそうであった。
この「妖怪飛脚」について、歴史に記録し、大っぴらに語るのは、また、この「妖怪飛脚」を世界に知らしめたのは、ジパングの日本人ではなかった。
確かに、そうではない。
驚くべきことに、「妖怪飛脚」について、歴史に記録、報告を残したのは、日本人ではなく、EDOのYOSIWARA近辺に滞在していた紅毛人などの異国人であったのだ。
YOSIWARA近辺の紅毛人たちは、この「妖怪飛脚」についての古来からの伝承について強い関心を抱き、「妖怪飛脚」の研究を積み重ねてきていたのだ。
確かに、紅毛人は、鎖国をしていた西欧列強の中における、ジパングの唯一の貿易国として、ジパングに暮らしていた。
しかし、紅毛人の活動は、商業活動に限られ、紅毛人の活動は、NAGASAKIの出島に制限されていたはずであるのだが。
実は、「天冥年間」ともなると、NAGASAKIの出島以外の地でも紅毛人を目撃した。
例えば、YOSIWARA近辺では、紅毛人の集落が存在していたという。
紅毛人の出島以外での居住は、鎖国の命令が出されているはずの、「侍」の国、ジパングでは、御法度であって、そのようなことはあってはならないことであるには違いないのだが。
「天冥年間」。少ないながら、NAGASAKI以外の地でも、例えば、EDOにおいても紅毛人を始めとする西欧人たちが少ないながら暮らしていたというのはどういうことだろう。
これは、一体、どういうふうに説明がつくのだろうか?
「天冥年間」の時代から100年前、ジパングとの交易を紅毛人たちが独占した時代に始まり、紅毛人たちは、ジパングの支配者代表、SHOGUNに謁見するために、年に一度、EDOを訪れていた。
そして、このEDOで行われた、紅毛人のSHOGUN謁見という毎年の行事が、非合法であるが紅毛人の何人かのEDO定住につながって行ったのだ。
紅毛人は、何かのきっかけで、鎖国を破り、EDO定住したのであるが、紅毛人は、当時EDOにおける最大の賑わいの地であり、遊興の中心地であったYOSIWARAとその近辺の地を自分たちの定住の他として選んだ。
YOSIWARAの人々は、紅毛人の存在を自然なことと考えていた。「天冥年間」においては、YOSIWARAの人々と紅毛人との付き合いはすでに100年以上続いていたからである。そういう訳で、YOSIWARAにおける紅毛人の存在が、もちろん、御法度、つまり法律に背くこととは考えなかった。
ところで、YOSIWARA近辺に定住した紅毛人は、SHOGUNに謁見を果たすためEDOを毎年訪れた紅毛人に由来するものだけではなく、それ以外に、数は多くはないのだが、たしかに、何人かの出自か不明の異国人らもYOSIWARA近辺で暮らしていた。
先にも少し述べたように、YOSIWARAに暮らす紅毛人の誰もが、本来ジパングというスペイン語や、「黄金郷伝説」に強い関心を持っていた。それゆえに彼らはジパングに居残ることを求めたのである。
その紅毛人のジパングに対する関心の強さの背景には、南蛮人、つまり、スペイン人やポルトガル人が記録に残していたジパングの「黄金郷伝説」というものがあった。
この「黄金郷伝説」は、紅毛人より先に日本において活動していた西欧人の先輩に当たる南蛮人が残した私的な記録、南蛮人の派遣主である、教会組織への報告書のなかに散見されるものである。「黄金郷伝説」とは、ある種、「理想郷伝説」である。
紅毛人たちが、ジパングで暮らすようになった理由の一つには、もちろんジパングのどこかにあるという南蛮人が記録の中で語った「黄金郷伝説」への憧れがあった。
紅毛人は、南蛮人が残した記録や報告をさらに掘り下げようとした。
このような紅毛人の好奇心が最初のきっかけとなったのか、われわれの祖先であるジパングの住人と紅毛人との交流が始まった。
紅毛人は、ジパングの自然科学者ともいうべき、本草学者、博物学者なるものなどと交流を持ち、さらに、紅毛人たちは妖怪たちと妖怪たちが暮らす世界の世界観についても関心を広げて熱心に研究を行っていった。
「天冥年間」にジパングの「黄金郷伝説」に心を奪われた紅毛人は、やがて、ジパングの妖怪たちに興味を持ったのだが、紅毛人たちは、ジパングの妖怪たちの中でも特に「妖怪飛脚」に関心を示した。
面白いことに、南蛮人はもちろん紅毛人たちも、自分たちの信じるバテレン教という宗教の教義に基づいて、この「妖怪飛脚」のことを理解しようとした。
紅毛人は、「妖怪飛脚」について語るとき、南蛮人の何某という神父が残した有名なジパングの妖怪研究の著書について語ることを好んだ。この何某神父の妖怪研究の著者には、何某神父の宗教観、黒魔術への嗜好が反映されていた。
紅毛人も、自分たちの信仰と絡めて、「妖怪飛脚」のことを考えていたためか、「妖怪飛脚」のことに取り組む姿勢は、真剣そのものであった。もちろん、紅毛人たちは、全員が、例外なく何某神父の著作の写しを所有していた。
この著作には、この神父が収集した多くの民衆の口伝などの伝承情報を元に、「妖怪飛脚」の妖怪というか、妖怪事象というものが、大きく、詳しく取り上げられていたが、紅毛人たちは、自分たちの手に入れた妖怪や「妖怪飛脚」についての新しい情報を何某神父の著作の写しに書き込んでいった。
ところで、「天冥年間」のジパングに、「妖怪飛脚」というものを巡るひとつの騒動が勃発した。この騒動には、游里YOSIWARA近辺に暮らす紅毛人らが大きく関与していた。
この騒動は、紅毛人の妖怪や「妖怪飛脚」についての異常なまでの没頭ぶりから、起きることが懸念されていた通りのものであった。