第56話「勝負が始まらない」
非常にまずい。
まさかこんな、よりによってこんな日に限ってこんなことが…………
「マジかよ……」
きっとマトマも今日を楽しみにしていたのだろう。そればっかりに、彼は悔しさで一杯だ。
「どうして、急にこんな……」
この時ばかりは神様を憎んだ。なぜこのタイミングでこのようなことが起きてしまうのか、理解に苦しむ。
「まさか……こんな時に俺は……!」
「うん、風邪だな。間違いなく」
魔法で作られた体温計の数字を見て、師匠はそう断言した。
「ああああ……よりによってなん――――ゴホッ! ゴホッ!」
「ほら、チェリード。動くんじゃないよ!」
咳が止まらないのに立ち上がろうとするチェリードを無理矢理抑え込み、師匠は持ってきた濡れタオルを彼の額に乗せる。
「とりあえず今日は安静にする。いいね?」
「はい、すみませ……ゴホッゴホッ」
不満げな顔をする彼に告げると、師匠はすぐ家事に取りかかった。
(あいつ、悲しんでるだろうな……)
風邪は寝れば治る。一刻も早く風邪を治すために、彼はそれを信じてまた眠りについた。
そして、また悪夢を見た。
それは本能的な恐怖をくすぐられるようなもので、一心不乱に彼は何かからずっと逃げているようだ。
「く、来るなぁぁぁ!!」
ドスン、ドスン、ドスン、ドスン
きっと自分など蟻のように見えているだろう。鉄の鎧を纏った巨人に追いかけられ、今にも足の裏で踏み潰されてしまいそうな彼は必死に逃げ続けた。
「いつまで逃げればいいんだ、俺はっ!」
そして、
「あっ」
「………………」
「やめ、やめろおおおおお!」
何かの拍子で躓いたところで、
「ハッッ!!」
寝始めてからわずか一時間後に彼は目覚めた。
「おや、早かったじゃないか」
「夢を見てた……最悪な夢だった……」
「ハーハッハ! そりゃあまた災難だったねえ…………」
汗だくになっていた彼を見て最初は笑っていた師匠だったが、ふと何かを思い出した様子で、しばらく「うーん……」と言いながら考え事をするようになった。
「し、師匠……? 急にどうしたんすか?」
そして、十分後。
師匠は突然確信を得た顔をしたかと思えば、
「ちょっと待ってな」
と言って自室へ戻ってしまい、しばらく帰ってこなかった。
(うーん……師匠、何をする気なんだ?)
そして更に十分後。
「よし、今から“お祓い”するよ!」
御札と一冊の魔導書のような物を持ち寄り、師匠は部屋に入って早々額に御札をペタッと貼り付ける。
「ちょちょちょっと!?」
突然すぎて理解できないチェリードだったが、有無も言わせずに師匠によるお祓いが始まった。
「ラブート・リブート。魔女の使いよ立ち去れ。ラブート・リブート。魔女の使いよ立ち去れ。ラブート・リブート。魔女の使いよ…………」
「ラブート・リブート」という謎の単語を繰り返す師匠に唖然としていたチェリードだったが、次の瞬間その意味がわかった。
「う゛っっ!」
突然胸の辺りが苦しくなったチェリード。
内に溜められた悪意が今にも飛び出そうで、反射で抑えつけようとするが、
(いや……抗おうとしちゃダメなやつだ!)
それが逆効果だと察したチェリードは拒むことを止め、成されるがままの体を師匠に委ねた。
すると、
『ババババババ!』
すり抜けるように黒く丸い幽霊のようなものが心臓部から出ていく。
「出たな……夢魔」
どうやらこの「夢魔」というものに取り憑かれていたらしいということがここで初めてわかった。
『バババババ!』
「どこで貰ったか知らないけど、消えてもらうよ!」
そして半狂乱の夢魔に師匠は力強く唱える。
「〈超浄化〉」
『ピギャアアアア!!』
夢魔は奇声を発しながら暴れまわり、まもなくその体は塵と化した。
「よし、これでお祓いは終わりだよ」
「はぁ……はぁ……はぁ~」
あっという間の三分間、終始委ねるままだったチェリードはやけに疲れてため息をつく。
「師匠、どーゆーことなんです? 『お祓い』とか『ムーマ』とかって」
「あぁ」
すると師匠は、片付けようとしていた御札と魔導書をチェリードに見せた。
「『夢魔』ってのは、所謂お化けみたいなものさ。そいつが取り憑いていたんだ。昔は魔女の使い魔だとか言われてたけど、今じゃ迷信に過ぎないよ」
「魔女の使い魔?」
唐突に出てきた「魔女の使い魔」という単語に反応すると、師匠は苦笑して
「100、いや200年くらい前だったかねえ。とある宗教の影響で、自らを魔女を名乗る人が一時期増えたんだ。その宗教を潰すためにね」
と語った。
「じゃあ、なんで俺の所にその魔女の使い魔が取り憑いて……!」
「そりゃあアタシにもわからないねぇ」
ただの風邪で終わるはずだったのに。
こんなに話が膨らむと思ってもみなかったチェリードは驚きを隠せなかった。
「夢魔に取り憑かれると、悪夢を見たり、熱を出したり、頭痛がしたり…………正に今さっきのお前だ」
「悪夢……」
朝、とんでもない恐怖から目覚めたということを何となく感じた。あれは悪夢を見ていたからなのかと、チェリードはふと思い返す。
「まあとりあえず、今日は寝てるんだよ。一応病人なんだからね」
「はぁ……」
そして部屋の扉を閉める音と共に、彼の部屋は風の流れる音だけになった。
「――――はぁ」
一人きりになって、ようやく彼は肩の荷が降りた気がした。
(変な奴が体を乗っ取られたかと思ったら、今度はお化けか……)
転生してからというもの、あまりにも出来事が多い気がする。いや、そういうものなのだろうか。
チェリードはそれらを経験してきたのことに疲れていた。
(まあいいや、こうして休めるんだ。休める時に休んでおこう)
だから彼は、こうして魔女の使い魔が自分に取り憑きに来たのは、自分を休ませようとしたのではないかと楽観的に考えることにした。
(…………でも)
しかし、彼には二つの疑念が浮かび上がっていた。
(なんで突然夢魔とかいう奴が俺の元に?)
「魔物」でも、「魔獣」でもない、それらとは違う「夢魔」という存在が突然彼の元に来たのはなぜか。
(絶対昨日何かあったはずなんだけど……クソッ、思い出せねえ)
彼は昨日の記憶をすっかりに失くしている。彼がその原因を知ることはできない。
そして、疑念はもう一つ。
マトマの違和感のある行動に、チェリードは前から疑問を抱いていた。
(あいつ……なんか無理してる感じだよな。元のあいつの性格じゃないみたいだし)
マトマのどの発言を切り取ってもそこに必ず違和感があった。
わざと強がっているような口調や声、物怖じしない立ち姿とは裏腹に震えた手、こちらから目を合わせた途端に剃らしてしまう目。
(なんであんなに強がる必要があるんだ……? 元々臆病だったからそれを隠すためとかか? いや、あるいは…………)
そんなことを考えているうちに、チェリードの視界は閉ざされていく。
(いや、今日はもう寝よう)
「ふぁぁ~。今日はやけに眠いな」
眠気が襲ってくる中で考えても無駄だ、とチェリードは布団を被って眠りについてしまった。
~そして翌日~
「な、なんで昨日来なかった! お前!」
当然、マトマは怒っていた。
「いやだって……普通に熱出してたし。てか眠い」
「ふざけんなっ! そんなの信じるわけがないだろう!? おれは昨日をずっと楽しみに待っていたんだ!」
どうやら本当のことを言っても許してはくれないらしい。それほど楽しみだったのだろう、二人の真剣勝負が。
「くっ! これでお前に勝てば父上と母上に認めてもらえるというのに……!」
「父上? 母上?」
強い口調から放たれる「父上と母上」という言葉にチェリードは何か推察せざるを得ない。
「なあ、なんでマトマは無理矢理口調を荒らげたりするんだ?」
「それは関係ないだろ!」
「じゃあこの勝負、俺が勝ったら教えてくれるな?」
「勝つのはおれだっ!」
(……やっぱ、何か理由があるんだな)
「じゃあやるか」
やり取りから得た僅かな確信を持ちチェリードはもう一つの勝負、固有能力対決を行うことにした。
「――――さて、とりあえず場所を変えようか」
「廊下じゃ自由に戦えないからな! 当然だ」
「それなら校庭でやろう」
「それでいい!」
そして、二人はそれ以降声を発することなく、早朝の静かな校庭に集合した。




