第36話「退治、亜怪 Ⅰ 」
彼が見た亜怪に抱く第一印象は、「異形」だった。
これは果たして生物と呼べるのだろうか。
どの生き物にも似つかない黒光りする皮膚に外から差し込む僅かな光が反射している。顔と胴体の区別がなく、真横の目らしき半球が二つ、正面に丸く開いた紫色の口が付着している。
目の下から生えている棒きれのように細い腕は地面に付くほど伸びており、そのくせ足は腕の何倍も短い。どうやって立っているのか疑問を抱くほど、その立ち姿はあまりに不自然であった。
未知に対する恐怖がチェリードを食らおうとするが、それを何とか振り切り金色のお守りを目の前に突き出した。そして、予想通り亜怪はそれに反応した。
『…………』
亜怪が何も言わぬままこちらに体を向けたと思いきや、窓の外に見える星をただボーっと眺めている。
お守りには、もう興味を示していないようだ。
「え!? 何も反応しねえじゃねえか!」
「どうしたチェリード!」
お守りが一切役に立っていないことに驚いていると、ドアの向こうから師匠が話しかけてきた。
「いやだって、さっき見せたあのお守りが効かなくて…………」
彼が師匠に事情を説明している最中、亜怪は突然部屋の隅から水平移動を始めた。体勢を変えず、地面の摩擦を感じさせない移動の仕方に、この世のものではない何かを感じる。
そして、ドアの真ん前で止まるとまた、窓から見える輝く星を眺め始めた。
「亜怪が移動した……これじゃあドア開けられねえなぁ……まずい」
不運なことに、チェリードの部屋のドアは内開きだ。亜怪はドアから数十センチのところに存在しているため、廊下側からドアを開けるのが困難になってしまった。
「チェリード、こっちはいつでもいけるよ!」
師匠は部屋内部の事情がわからないため、亜怪を倒そうと意気込んでいるが…………
「師匠は部屋ん外で待っててください。俺一人で頑張りますから!」
予測不可能なこの存在が何をするのか見当もつかない彼は、ひとまず師匠を廊下で待機させることにした。
すると次の瞬間、目の前にいたはずの亜怪が目の前から消えていなくなった。
「!? どこ行ったんだ!?」
だが、彼が亜怪の存在に気付くのはそう遅くない。
『………………』
「!」
気配に気づいた彼が真後ろを振り向いた時にはそこに亜怪はいなかった。不意に動き始めた敵に平常心を失いかけていると、背後にいたはずだった亜怪が、今度は目の先で静止し、彼の視界を塞いだ。
そして、今まで動くことのなかった丸い口が、ついに動く。その時、亜怪は紫がかった吐息を吐きながら、無機質な囁き声でこう言った。
『 ア ス ハ ナ イ 』
そして彼が恐怖に駆られる時間も無く、そこに佇んでいた亜怪は何の前動作もなく前方に直進、真っ直ぐ窓へ向かった。急速に動く亜怪は彼の体もろとも、埃かぶった窓をいとも容易く割り、星が瞬く夜空目掛けて飛び出した。
「うわあああ!!」
窓の外に投げ出された彼の体はそのまま落下し、庭の芝生に打ち付けられた。幸い致命的な怪我は負わなかったが、頭を地面にぶつけた影響で若干彼の意識が鈍っている。
「チェリード!」
彼を呼ぶ師匠の声が部屋の中からかろうじて聞こえてきた。チェリードはその声を聞いてハッとし、急いで立ち上がった。
――――亜怪は依然として、宙に浮きながら空に浮かぶ星をじっと見つめている。あの怪物にも、星を綺麗だと思う心があるのだろうか。
そんな星に見惚れた怪物に、窓から現れた一本の鉄の槍がそれの背中を勢い良く刺さった。
槍を放ったのは師匠だ。
「チェリード! 大丈夫かい!?」
そう言いながら、師匠は刺さった槍を取り戻すために、窓枠を踏み台に亜怪に飛び付いた。そして無理矢理に槍を引き抜くと、亜怪は体をゆらゆらと揺らしながら咆哮をあげた。まるで、星を見ることを邪魔されたことに怒っているかのように。
「お前は少し休んでな! アタシがやるよ!」
師匠は彼にそう告げると、空中に浮遊する亜怪に向かって槍を右手で構えた。そして残った左手には雷を纏わせ、槍の先端から持ち手にかけて指先を滑らせる。
雷を纏わせた槍を持つ師匠の姿は、なぜか安心感に満ち溢れていた。
そして間もなく、師匠と亜怪の戦闘が始まった。
叫ぶのを止めた亜怪が星を見るのを止め地上を見始めた瞬間、それが戦いの合図となった。師匠は脚力を強化する魔法〈脚強化〉をかけると、脚をバネのように曲げ飛び上がると、亜怪の体ど真ん中を貫くように鉄の槍を軽々と突き刺そうとした。
しかし、亜怪にとってそれを避けるのは容易く、チェリードの時と同じように、師匠の背後をあっという間に取ってしまう。
だが、師匠も負けていない。背後を取られるのを先読みしていた師匠は、突き刺しかけた槍で後方を薙ぎ払い、またも背後を取った亜怪が師匠の背中にいるのを確認した後、鉄の槍だと思わせないほどの軽々しさで亜怪を石突で突いた。
『………………』
無言のまま疼く動作をする亜怪は怒りに任せて細長い腕を鞭のように振り回すが、師匠の華麗な槍捌きによって攻撃が当たることは一度もない。
「はああああ……!」
(さっきと構えが違う……)
師匠は地面に着地するとたちまち腰を深く落とし何かの構えを始めた。槍を逆手に持ち、槍の穂が下の方に来るように斜めに構え、手に力を込めた。
それと同時に、師匠の周りに冷気が渦を巻きながら漂い始めた。冷気はやがて昇華し、師匠の足を凍らす。
チェリードはこれから何が行われるのか見当もつかなかった。ただ戦いを見守るしかできず、加勢しようという思いが微塵も沸いてこなかった。自分があまりに弱かったから……彼と師匠の強さには、歴然の差があったから。
「これでも食らいな!〈上級氷魔法〉!」
師匠がそう唱えると同時に、構えていた槍を真っ直ぐ地面に突き刺した。
すると、突き刺した槍の先端から氷の導線が凄い速さで引かれ始め、やがてそれらは氷の魔方陣を形成していった。
そして間もなく、亜怪の真下に現れた氷の魔方陣が光だし、轟音を響かせながら雹の舞う竜巻が生成された。
刃のように尖った雹は竜巻の旋風に煽られ、目にも止まらぬ閃光の速度で亜怪を攻撃した。雹は亜怪の滑らかな皮膚を抉り取っていく。
削られていく体に亜怪が悶えているが、攻撃はまだ終わってなどいない。まだ消えていなかった魔方陣は、更なる攻撃に備え力を貯めているかのようだった。
「へっ! これで終わりだと思ったかい?」
師匠が手を振り上げたのを合図に、魔方陣から巨大な氷山が現れた。ぐんぐんと高さを増していく氷山はやがて浮遊する亜怪の元まで到達し、亜怪を取り囲むように伸びた氷は全方位から真ん中に向かって伸びて、結果的に亜怪を氷の中に閉じ込める結界となった。
「おお…………!」
今まで見たことのない強力な魔法の前に、チェリードは思わず感嘆の声を漏らした。
「チェリード! もうそろそろいけるね? お前も手伝いな!」
感心している彼に師匠は手伝うよう声をかける。
「は、はい!」
チェリードはそれに気づくと慌てて立ち上がり師匠の元へ駆け寄った。
「アタシがあいつの心臓をやる。だからチェリードも手伝うんだよ」
「でも、どうやって……」
「お前の反射壁だよ。あれでアタシを高くまで飛ばしてくれ」
なんと師匠は、魔法を反射するための反射壁をジャンプ台にしろという無茶な要求を押し付けてきた。
「ええ!? そんなことできるんですか!?」
「アタシに聞いてどうする! とっととやるよ!」
一見無謀な賭けに出たように見えるが、師匠は自信があるのか、既に飛び上がるために彼から離れて助走の準備をしていた。
(ちくしょう、なんでこんなこと……師匠もなんかちょっと笑ってるし…………やるしかねえか!)
そしてまもなく師匠は走り出す。
だんだん近づいてくる師匠を見て彼は不安になりつつも、ここでやらなければあいつを倒せないと悟ったチェリードは、両頬を叩いて気合いを入れ、覚悟を決めた。
「いくよ!」
「うおおお! どうにかなれえええ!!」
そしてその瞬間、また彼の瞳はギラギラと燃え盛る。
彼の展開した反射壁はジャンプした師匠の足を受け止め、その直後に彼が真上に押し上げたことで、師匠の体はトランポリンのように高く上空へと跳ね上がった。
師匠の無茶を、彼は成し遂げてみせたのだ。
「やった!」
「よくやった!」
師匠は亜怪を優に越え上空おおよそ十メートルまで上昇し、氷の結界に閉じ込められた怪物の脳天を貫ける位置に来た。
「これならいける!」
勝ちを確信したチェリードは既にガッツポーズをしていた。が、もはや勝利は目前である。
「いくよ!」
ついに頂点にまで達した師匠は体がまっ逆さまになるように体の向きを変え、持っていた槍を真下に向けた。
そして、雷を纏わせ電流が迸る鋭い槍を、重力に任せながら自然落下する。
「『雷鳴落とし』!」
師匠の放った一閃は、亜怪の体を燃焼させながら貫く……
はずだった。
『………………!』
突如、氷の中で固まっていた亜怪の目が開眼した。
それと同時に、先程まで持っていたはずの師匠の鉄製の槍が目の前から消失した。
「「!?」」
そして彼が瞬きをすると同時に、あそこまで巨大な氷山は跡形も無く消え去り、彼の目に写ったのは……
亜怪に腕を切り落とされた無残に落ちていく師匠の姿だった。
「師匠……?」




