第1話「最初の惨状」
「――――――ハッ…!」
気づいたら、俺はこの地面の上で仰向けになっていた。
透き通った青い空、そよ風に揺れる木々、近くに咲いている見たこともない花。青い鳥も気持ち良さそうに羽ばたいている。
「ここは……どこ……?」
少年は、気づいたらこの木々に囲まれた見知らぬ土地に立っていた。
地面を見てみると、自分がいた場所にはファンタジーに出てくるような魔方陣が描かれていた。赤色が少し混じった紫色で描かれており、その中心には鳳凰を彷彿とさせる模様が入った、半径2m程の大きさの魔法陣が、地面に刻み込まれていた。
これは一体何だろうか、そしてここは一体どこなのだろうか………突如としてこの地で目覚めた少年は、まるで何も理解していない脳をフル回転させ、今の状況を整理しようと試みた。
そういえば…………と、ふと疑問に思ったことがポロリ……と口から溢れた。
「――――俺って、名前……なんだっけ?」
おかしい。思い出せない。自分の名前ってなんだっけ?
そうして今、やっと気づいた。自分の記憶を無くしてしまったことに。
記憶で満たされた彼の脳は、不自然にぽっかりと空いてしまった。自分の名前と、ここに来る寸前の記憶。これだけが思い出せない。
無意識の内にかいている冷や汗が、少年の焦燥感を更に煽る。
(――――とりあえず、深呼吸しよう)
スー、ハー、スー、ハー。
(よし、落ち着いてきた)
自分を落ち着かせようと、胸に手を当て、ゆっくり深呼吸をした。
(とりあえず、落ち着こう。落ち着いて、辺りを見渡そう)
少年はぐるりと回りながら辺りを見渡した。
木。木。そして、木。ここはどうやら森の中らしいと、少年は理解した。
だが、何かが変だ。木の葉は歪な形をしており、一度も見たことがない花がそこら一帯に咲いている。
(まるで現実じゃないみたいな景色だ)
――――でも、
「すごい……落ち着くなぁ……」
近くにあった大きい切り株に腰を下ろし、風に体を揺らし少年はそう呟いた。
この場所は少年にとって、とても居心地の良い場所だった。
見知らぬ土地だというのに、自分のことでさえもわかっていないというのに。それなのに、まるで実家にいるような安堵すら感じるほどに…………まるで最初からここが自分の家だったかような気持ちにさせるこの森は、少年の焦燥感を和らげ、リラックスしてくれた。
ガサッ!
その時、どこからか草木が揺れる音がした。嫌な予感がすると思った少年は咄嗟に身構えた。
つかの間の平穏を乱しに来たのは誰か。狐か、兎か、あるいは…………そう考える暇もなく、草むらからその魔獣は現れた…………
『ギャアアオオォォォォンンン!!!』
一瞬自分の目を疑った。その生き物は、明らか地球上の生物ではなかった。
「うわあああああ!!!??」
草むらから出てきた生き物は想像していたものと遥かに違った。いや、そんな言葉じゃ言い表せない。その生き物の姿を見るなり顔面蒼白なった少年
は、一目散に逃げ出した。
「ハッ! ハッ! ハッ!! ハッ!!」
(なんだ!? なんだなんだなんだこいつ!? なんでこんなモンスターみたいのがいるんだよ!!)
青い皮膚に捻れ曲がった角、紫色のどす黒い瞳、口の隙間から見えるのは無数の牙。馬にも鹿にも見えるその魔獣は、地球上の生物ではないことは既にわかっていた。
少年は全力で逃げていた。逃げたつもりだった。
だが、所詮は人間。追い付かれるまで1分ももたなかった。
『ギャオオンッッ!!』
「かうがぁっ!!」
魔獣はその無数の牙でガブリと足首を噛み、少年はバランスを崩して転んでしまった。
(やばい! 早く……早く逃げないと…………!!)
頭ではそう思ってても、体は言うことを聞かなかった。徐々に痛みが増す足とジリジリと詰め寄る魔獣を前に、ただただ少年は固まることしかできなかった。
――――死が、迫っている。
(どうして……!! まだ何も知らないのに……!! まだ何も知ることができていないのに……!!)
「現実はいつだって非情だ」という言葉が頭の中に浮かんできた。必死になって辺りを見渡しても、そこに誰かがいるわけではなかった。
魔獣の口元をよく見てみたら、涎が口から地面にかけて垂れていた。そしてその獰猛さと言ったら、今にも喰いかかりそうな勢いだった。
そして、少年は抵抗するのをやめた。死から免れないと悟った。そして同時に、飢えた魔獣が咆哮をあげながら襲いかかった。
そして、しばらくの間魔獣による捕食が続いた。
「あ……」
目が覚めると、そこにあの生き物はいなかった。ただ、そこにはさっきと変わらない木々の景色が広がっていた。
「あ……ああぁ………!!」
そう、少年は死んでいなかった。
「アアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
痛い!!!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!
気づいてしまったことがトリガーとなり、捕食された際の痛みが突如雪崩のように押し寄せてきた。
ただ叫ぶことしかできない。いや、もはや声は出ていないのかもしれない。
足が、腕が、腹が、なかった。
(足が……!! 腕が……!! 内臓も見えて……! ぐっ……! でもこんなことって……!! うぐぅっ!!!)
辺り一面血の海だった。その血の海で見つけた足と腕らしきものは残骸しか残っていなかった。腹の肉もほんの少ししか残っておらず、自分の内臓が見えているのがあまりにも恐ろしかった。
その代わり、と言わんばかりに、臓器はひとつ残らず綺麗なままだった。心臓も、胃腸も、肝臓も、腎臓も。何もかもが残っていた。
残虐な痛みに耐えることで精一杯だった彼の脳は、ますます混乱に惑わされた。
(痛すぎてもう頭がおかしくなりそうだ……!!)
「うぐっ!! くっ……!! あああ!!」
少年は、生き地獄を味わっていた。
死にたくても死ねない。助けを呼びたくても呼べない。動きたくても、手足が無いから動けない。
何もわからずにこの場所に来て、早々惨状に見舞われた少年の精神はもう崩壊寸前だった。
こうしている間にも血の海は広がり続ける。次第に意識も消えつつあった。もう、限界だった。
「もしかしたら出血多量で死ねるかも」と思った。でも、「まだここじゃ死ねない気がする」とも思った。
意識が朦朧としているなか、二つの予感を感じながら、少年はゆっくりと目を閉じた。
――――血の海と化した地とは反対に、晴れ渡る空は憎たらしいほどの青だった。