されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る⑤
翌日。
僕らは街の坂道を二人並んで歩いていた。
日差しがきつくて、蝉の煩い日だった。
この火山地帯は高原にあるためか日差しがキツい。
一日外にいれば肌の弱い人などは真っ赤に皮膚が灼けてしまうほどだ。
けれど、そんな中にあっても、ダニエラ姉さんは日傘さえさしていなかった。
姉さんは普段から番台に座り通しで、あまり外にいるところを見たことがない。
文字通り陽の光を知らないのに、姉さんはその日差しさえも全身で取り込もうとしているかのようだった。
ダニエラ姉さんが坂の途中で振り返り、両手を庇にして街を見下ろした。
僕も隣で同じように街を見下ろした。
眼下に見える、白煙をもくもく上げているのは『令嬢の湯』だった。
ダニエラ姉さんは遠い目をしながら街を眺めた。
「ここも変わったわね」
「あぁ、全部姉さんが来てからだよ」
嘘でも誇張でもなかった。
この街の湯守になって三年、姉さんはあれこれとこの寂れた街を改造し始めた。
それも自分が手を下さずに、である。
温泉に入りに来た客に、あそこの木陰にはベンチがあればいいわね、とか、あの宿屋はもっとこうすれば素敵よね、と、世間話のような口調で話すのだ。
そうすると遅くとも半年後にはこの街は姉さんの言った通りに改造され、うら寂しかった通りでさえ、見違えるように活気を取り戻す。
僕ら辺境の街の人間はダニエラ姉さんが大好きだったのだ。
「あそこなんて、元は寂しいところだったのに、今や立派な公園だ」
「そうね」
「そこの宿屋も随分客が入るようになった」
「うん」
「あっちの方の商店街だって、みんな姉さんの愚痴が発端でしょ?」
姉さんはちょっと笑って言った。
「私はただ愚痴っただけよ。この街がよくなったのはみんなの努力の結果よ」
「おっ」
「なによそれ」
「姉さんが人を褒めるところ、初めて聞いたかも」
ダニエラ姉さんは僕の脇腹を拳でどついた。
それから僕らは、特に何をするでもなくぶらぶらと街を散策した。
まるで猫が縄張りを見回るように、姉さんは街の隅々にまで目を凝らしていた。
あそこも変わった、ここも変わった。
まるで自分がこの街に存在したことを確認するように。
朝と言える時間が終わって、ぼちぼち昼になった。
特定の飯屋には入らず、温泉に繋がる道に出た屋台のものをあれこれ食べて歩いた。
ここも美味しくなった、この店も凄く華やかになった。
姉さんはまるで熱に浮かされたように街を歩き回った。
昼も過ぎて、ようやく日も暮れてきた。
僕らは小高い丘の上に来て、夜景になりつつある街をぼんやりと見ていた。
「疲れたね」
「えぇ、疲れたわ」
会話が続かなかった。
僕は思い切って口を開いた。
「それで、姉さんはこれからもっと疲れるところに行くつもりで、最後にこの街を見て回ったってわけか」
姉さんは答えず、代わりにこういった。
「あのチンカスのことだもの。私が言うこと聞かないならどえらい癇癪起こすに違いないわ。この街に火ィつけられたらたまったもんじゃないもの」
はっ、と姉さんは鼻で笑った。
「あの小娘、死んでたのね。人のもの奪るなら最後まで責任持って飼えっつーの」
「王太子妃様が死んだからって、なんで姉さんが王都に戻らないといけないんだ?」
「アンタが一人暮らししてて、飼ってたタヌキが死んで、孤独に耐えきれなくなったらどうする?」
「そうだな……猫でも飼うかな。そんでタヌキとして育てる。子供をたくさん産ませて部屋の中を自分はタヌキだと思ってる猫だらけにして賑やかにする」
「その猫が私よ」
僕は必死に言い張った。
「ダニエラ姉さんはタヌキじゃない」
「その通りね」
「猫は結局タヌキにはなれないしその逆もない」
「そうね」
「猫は狭くて汚くて散らかってる穴蔵で暮らしたりしない。広い世界でみんなに可愛がられて、撫でられて、日向ですやすや眠るもんだ」
「アンタは、どうなの」
姉さんが鋭く訊いてきた。
僕は思わず言葉を飲み込んだ。
「あれからもう三年になるのに、アンタは暗い穴から這い出して、日向ですやすや眠る猫になれたの?」
僕は口を噤んだ。
姉さんは僕の顔を見ながら、僕ではない、僕の心の奥底にある何かを見ていた。
僕は――僕には、そんな資格はない。
僕はあまりにも血で汚れているから。
あまりに多くを犠牲にしたから。
僕は――日向で眠る猫にはなれない。
そういうことよ。
ダニエラ姉さんは無言でいる僕から視線を外し、遠くの風景を見た。
「なるほどね」
僕は複数の意味を込めて「なるほど」と言った。
本当に胸がムカついた。
ディートリッヒ王子は人間を何だと思ってるのだ――などとは言うまい。
王子は――腐っているのだ。
僕はちら、と、ぼんやり街を眺める姉さんを見た。
この美しい人が、かつてはそんな男の婚約者だった事実。
きっとこの街のすべてを愛しているだろう人が。
そんな人間と夫婦になる約束を交わしたという事実が、どうにも一致しなかった。
「姉さんは結局、ディートリッヒ王子を好きだったことあるの?」
ぽつり、僕が訊くと、姉さんは少し迷った後に言った。
「人が人を好きになるのは仕方ないことだ」
「そうだね」
「人が人を嫌いになるのも仕方ないことだ」
「そうだね」
「愛別離苦、遠離穢土、国破れて山河あり」
「わかんないよ」
「私にだってわかるもんかよ」
それきり、ダニエラ姉さんは膝を抱えた腕に顎を埋めて黙ってしまった。
今度はアンタの番だぞ、という威圧感を言外に感じて、僕は口を開いた。
「ここに僕を呼んだのはなんで?」
「アンタに釘刺すためよ」
わかんなかったの? というように、姉さんは僕を睨んだ。
わかんなかったわ、と僕は肩をすくめた。
ダニエラ姉さんは僕の目を見た。
こんなに近くにいるのに。
もう太陽は沈みかけていて、翡翠色の瞳が今どんな色をしているのか、僕にすらわからなかった。
「アンタ程の人間なら、あのチンカスを討ち取るぐらい朝飯前なんでしょうけどね、私は絶対に許さないから。それをきつく言っておくために連れてきたのよ」
「僕は誰かの言うこと訊くような人間だったのか。他人に指摘されて今初めて知ったよ、驚いたな」
「真面目に聞け」
ぐい、と姉さんは僕の前髪を引っ張った。
僕らは数秒間、真正面から見つめ合った。
「アンタ、それだけは絶対やめて。近いうちにあのバカが得意顔で私を取り返しに来るでしょうけど、そしたら私は何も言わずにここを離れるつもり。だからアンタは絶対出てこないで、絶対よ」
「なんで」
「ニーベル、アンタの仕事は三年前に終わった」
姉さんが言い聞かせるような口調で言った。
「アンタは私たちに対してもう十分すぎることをした。この町の人間だけでなく、あのチンカスの家族以外は間違いなく全員そう思ってる。だからアンタにはもうこの国に関わってほしくない。今のアンタは自由なのよ、今の生活を捨てるの?」
「自由とか生活とかは捨てるとか手に入れるとか、そういうもんじゃないよ」
僕は苦笑しながら言った。
「幸運は転がり込んでくるもんだ、あっちからね。僕は今、鍛冶屋の弟子として穏やかな生活してるけど、転がり込んできたからには転がって出ていくのも普通のこと、そうだろ?」
そう言うと、姉さんは一瞬だけ、凄く苦しそうな顔をした。
そして僕の目を見つめて、怖い顔と声で言った。
「私、アンタがアイツに手を出したら、アンタを一生許さないから」
「うん」
「温泉には出入り禁止にする」
「うん」
「フルーツ牛乳も飲ませない」
「うん」
「二度と口も利かない」
「――うん」
「――お願いよ、手を出さないって約束して」
「それはできない」
僕は姉さんと同じぐらい真剣な口調で言った。
僕たちはかなりの至近距離で、しばらく睨み合った。
突然、ダニエラ姉さんが立ち上がった。
そのまま、絶対に振り返らないぞ、という意思を全身から立ち上らせて、一人で坂道を降りていった。
ぐずっ、と洟をすする音が聞こえたのは、きっと僕の空耳だっただろう。
既に日はとっぷりと暮れていた。
高山地帯のここは、日が暮れると薄着ではいられないくらい寒くなる。
びゅう、と冷たい風が吹いて、僕は身震いした。
その寒さに、今まで風上にいた姉さんが僕を守ってくれていたことを、なんとなく思い知った。
ふと――風が足元に一枚の枯れ葉が飛んできた。
その枯れ葉を見て、ふと思い出した話があった。
ここよりももっと東、海を越えた先の国では、タヌキが変身して人を化かすという。
頭に木の葉を乗せて。
よいしょ、とタヌキはトンボを切る。
するとドロンとばかりにタヌキの姿形は消えて、タヌキは恐ろしい化け物や、とんでもない美女に化けたりできるのだ。
僕は枯れ葉を拾って、頭の上に乗せた。
ドロン、と口で言ってみた。
その瞬間、僕の身体が一瞬だけ、強く青白く光った。
変身が、完了した。
僕は恐ろしい化け物になるだろう。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本日夜に第一話の残りのものは全てアップしてしまいます。
遅れながら、まだ数話しか投稿していない時点でのこのブックマークと点数、
非常に驚いております。
ダニエラ姉さんやタヌキは本当に愛されていると思いました。
頑張って続きを書きます。
【VS】
こちらの作品も強力によろしく↓
『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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