されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る④
「人間はなんで婚約したりするのかしらねぇ」
「アライグマと婚約したって仕方がないからね」
「私の場合、アライグマと婚約してた方がマシだったわよ」
「アイツ顔は可愛いけど結構気性荒いらしいよ」
「やだ、そうなの?」
「そうらしいよ」
「じゃあネズミでもいいわ」
「猫に食われるよ」
「鳥」
「空の上の空気は寒くて薄くて汚れてる」
「象」
「蓄膿症になったら地獄だ」
「結局何に生まれてたら婚約して幸せになれんのよ」
「なんだかんだ人間じゃない?」
私はそうじゃないけど?
姉さんはジロリと僕を見た。
すまんすまん、と僕は首を振った。
濡れた頭をタオルで拭きながら、僕は番台に座る姉さんの愚痴に付き合っていた。
もう温泉を閉める頃合いなのもあるだろうが、姉さんは珍しいことにハッピを脱ぎ、黒い簡素なドレスだけの姿で、番台の手すりに突っ伏したまま、延々と愚痴を吐いていた。
「でも姉さん、よく我慢したね。僕が聞いててもあの使者とかいう奴の言葉、相当頭にきたけど」
「あんなんまだマシな方よ。あの脳みそチンカス男に投げつけられた言葉に比べりゃね」
姉さんはすました顔で言った。
本当に慣れているからそういう顔をしているのか、慣れたふりに慣れたからそういう顔なのかは、残念ながら僕にはわからなかった。
「具体的にはどんな事言われたの?」
「もっと女らしく振る舞え、何だその顔は僕を小馬鹿にしてるのか、少しは男を立てることを覚えろ、おはよう、おやすみ、こんにちは、さようなら――そんなところよ」
ダニエラ姉さんの愚痴はとどまることがなかった。
そこで姉さんは番台の側からフルーツ牛乳を2本取り出し、一本を僕に、もう一本を自分の目の前に置いた。
行動から察するにこれは自動的におごりということだろう。
僕は遠慮なく蓋を開けた。
「ホント私、なんで公爵令嬢なんかに生まれちゃったのかしらね」
「タヌキに生まれても仕方がないだろ?」
「私の場合、タヌキに生まれた方がマシだったわよ」
「穴の中は狭くて汚くて散らかってても?」
「狭くて汚くて散らかってるのは今も一緒でしょ」
「言えてる。けど僕は姉さんがタヌキだったら嫌だな」
「喜ばす発言のつもり?」
「かなり本気のね」
「なるほど、アンタ、モテないわけね」
「な――なんだよそれ」
「喜ばしてくれるつもりなら……そんな言葉よりももっといい働き口があるって言ってんのよ」
僕は口に持っていきかけたフルーツ牛乳を止めた。
姉さんは僕の顔を覗き込むように見た。
「ねぇ――明日私に付き合う気、ない?」
しばらくその言葉の意味を考えてから、僕は言った。
「どういった意味の付き合う?」
「とにかく一日付き合ってくれりゃいいのよ。私を満足させるようにね」
「温泉はどうするの?」
「そんなの、適当に誰かが管理すりゃいいでしょ。ヤエレクのおっさんの前で入湯料誤魔化すような馬鹿はここにはいないわ」
「ちなみに訊くけど――俺に拒否権は?」
「拒否してもいいけど」姉さんは視線を僕の手元に落とした。
「そのフルーツ牛乳代は払ってもらうからね。一本3万G、分割なしの即金で」
なんだよ、おごりじゃなくてトラバサミじゃないか。
そう言おうと思ったけれど、ダニエラ姉さんは『お願い』の表情を浮かべていた。
僕は嘆息した。
「今日、親方になんて言おうかな」
「そんなのアンタの方で考えなさい。それじゃ明日七時、ここに集合ね」
ダニエラ姉さんはそう言ったっきり、番台の奥に引っ込んでいってしまった。
ちょっと待ってみても、姉さんが出てくる気配はなかった。
ダニエラ姉さんが寝起きする番台の奥の部屋は、不用心にもここからドア一枚隔てた部屋だ。
耳を澄ましてみても、姉さんがそこにいる気配はない。
もう休むつもりなら、わざわざ遠くの部屋に行く理由はないはずだった。
ふと――僕は壁の衣紋掛けに掛けられたハッピを見た。
『令嬢の湯』と、至るところにどでかく描かれた、ダサいにも程があるハッピである。
これは先代の湯守の爺さんが生前、彼女のために誂えた形見だった。
ダサい、格好悪い、可愛くない――などと毎度毎度愚痴っているものの、ダニエラ姉さんはこのハッピを基本的にいつも着ている。
その事実そのものが、姉さんの、先代の湯守に対する敬意と感謝の気持ちそのものであると僕は思っている。
僕はそっと番台に這い上がり、そのハッピを見た。
しわくちゃになった右腕のところに、はっきりとなにかに濡れた跡があった。
僕は姉さんが泣いている姿を見たことがない。
そもそも泣けるのだろうか、と何度か考えたことはある。
二親や、少なからずいただろう友人から強制的に切り離されて。
信じていただろう人間に裏切られて。
それでもわんわん泣きわめくことができる人間がいるとは――僕には思えない。
きっと、泣いたり嘆いたりするより先に、心が壊れてしまうだろう。
ダニエラ姉さんは、そんな絶望的な悲しみや怒りと、どう折り合って生きてきたのだろう。
考えるとたまらなくて、僕は逃げるように温泉を後にした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
【VS】
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『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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