悪役令嬢の愚痴と恋⑨
僕が風呂から上がると、本を読むダニエラ姉さんが鼻歌を歌っていた。
僕はタオルで頭を拭きながら、何喰わぬ顔を装って言った。
「姉さん、なんかご機嫌じゃない?」
僕が当てこするように言うと、姉さんは「さぁ」と気のない返事をした。
「別に普通だけど?」
いや、絶対そうじゃない。
僕にはわかる。
今の姉さんは絶対に機嫌がいい。
僕は今まで姉さんが鼻歌なんか歌っているところを見たことがない。
たぶん、あの手紙を読んだからだ。
ぐぬぬ……と歯ぎしりしたい気分で僕は番台の横に座り込んだ。
ぎしっ、と、歯ぎしりの代わりに、椅子が大きな音を立てた。
「反対にアンタはなんだか機嫌悪そうね」
姉さんに言われて、僕は思いっきり動揺した。
「――別に、普通だよ」
「嘘つけ。身体めちゃくちゃ光ってるし」
あっ! と僕は自分の身体を見た。
内に眠る勇者の血のせいで、僕の身体は気分が高揚するとすぐに光り出す。
こういうときは身体が口ほどに物を言う。
馬鹿野郎、と自分の中の勇者を恨んで、僕は努めて冷静な声を装った。
「――姉さん、何かあったの?」
「そっくりそのままアンタに返す。何かあったの?」
「あぁ、めちゃくちゃ面白くないことがあったよ。めっちゃくちゃね」
「何が、とは訊いてほしくなさそうね」
「わかってるね。訊いてほしくない」
「ふーん。なら訊かないわ」
ダニエラ姉さんはそう言って、本を読むのに戻ってしまった。
クソックソッ、なんだかダニエラ姉さんに凄くからかわれ、はぐらかされている気がする。
正直、僕は気が気ではなかった。
と、そのとき。
ガラガラと脱衣所から出てきた人がいた。
ふとそっちの方を見た僕は、息を呑んだ。
見ると、昨日のあの獣人の男の子だった。
いつもはお母さんと一緒に来るのに、今日は一人だった。
彼を目にした途端、僕の身体が遠慮なく青白く光り始めた。
番台の横で青白く光り輝きながら、こちらを睨んでむすくれている男。
五歳ぐらいの彼にとっては恐怖の光景だっただろう。
もう僕は彼への嫉妬を隠す事を諦め、舐めるようにしてラムネをチビチビ飲み続けて注意深く様子を伺った。
ちらちらと、男の子は姉さんを見ていた。
姉さんは男の子の視線に気づいてないのか、本から顔を上げない。
しばらく待ってから、男の子の耳が、シュン、と落胆したように垂れた。
反対に、僕の身体が一層強く光り輝いた。
男の子は不思議そうに僕を見てから、もう一度姉さんを見て、それからとぼとぼと玄関に向かった。
「ちょい待ち」
その声は、雷鳴のように鋭く響き渡った気がした。
男の子だけでなく、僕の方もビクッとダニエラ姉さんを見た。
姉さんは顔を上げ、男の子に手招きした。
そして番台から首だけを出して、意地悪く微笑みながら男の子の顔を見た。
「アンタでしょ、昨日の手紙」
びっくぅ! と、男の子の耳が緊張した。
あ、あ、と、男の子の顔は気の毒なぐらい蒼白になり、姉さんを見ながら硬直してしまった。
ダニエラ姉さんはそれを見て、にっこりと笑った。
「そんな緊張しなくてもいいわよ。ありがとうね、三ヶ月前に王都から悪いやつが来た時、私の変わりにアンタが蹴っ飛ばしてくれたのよね?」
え? と僕は男の子を見た。
戸惑っている僕の横で、男の子の顔がパッと笑顔になった。
「私もちゃんと見てたわ。えいやっ、って、アンタがあの悪いやつのスネを蹴っ飛ばしたの。あの時のアンタ、勇者みたいでカッコよかったわよ」
ダニエラ姉さんがニコニコと言うと、男の子はぐっと胸を張った。
やっと言いたいことが言えた、というように、男の子は目を輝かせて言った。
「僕はお姉さんがいるこのお風呂屋さんが好きだもん! またあいつらが来てひどいことを言ったら、また僕がやっつけてお風呂屋さんを守ってやるんだ! だからお姉さんは安心していいよ!」
「あはは、ありがとう。これはその御礼よ、持っていって」
姉さんは番台の横からラムネを取り出すと、男の子に向かって差し出した。
うん! と全身で頷いて、男の子は玄関に向かって走っていった。
そしてもう一度だけ、ダニエラ姉さんを誇らしげに振り返ると、勢いよくトコトコと駆けていった。
「――なんかあったの?」
僕はやっと、やっとのことで、とぼける一声を発することができた。
姉さんは思わせぶりに「別に」と言ったきり、本に視線を戻し、実に機嫌よく鼻歌を歌いだした。
あああ、と、僕は心の中で、とんでもなく長く大きくため息をついた。
恋文ではなかった。
恋文ではなかった。
恋文ではなかったようだ。
王都から使者が来て、ダニエラ姉さんを好き勝手なじったのが三ヶ月前。
おそらく彼はその時のことを言っているのだ。
あの男の子は、あの使者とかいう男を、どさくさに紛れて思いっきり蹴飛ばしていたのだ。
それを知ってほしくて、ダニエラ姉さんに安心してほしくて、あの手紙を出したのだ。
結局、その使者は怒り狂ったヤエレクのおやっさんにボッコボコにされたのだが、彼もその「ボッコボコ」に一役買っていたのだと、彼は言いたかった。
そして彼が「好き」なのは――どうやらこの温泉のことだったらしい。
安堵と、そして一人で勝手に盛り上がっていた自分への恥ずかしさで頭の中はぐちゃぐちゃだった。
今や僕の身体は本物のホタルイカのように、美しいグラデーションを描きながら光り輝いていた。
「あ、もしかしてアンタ、私が機嫌いいのが今の話のせいだと思ってる?」
と、突然――。
ダニエラ姉さんが言い、僕ははっと姉さんを振り返った。
「え?」
「え、って何よ?」
「え――違うの?」
「なるほどね」
ダニエラ姉さんは笑みを深くして僕を見た。
「やっぱりアンタ、モテないでしょうね」
ダニエラ姉さんはさも面白いものを見るように、番台に頬杖をついて僕を見た。
その翡翠色の瞳が、僕をまっすぐに見た。
声も、心も、魂でさえも。
一瞬だけ、僕のすべてがその瞳に魅了され、吸い込まれてしまったように感じた。
しゅるるる……と、音が聞こえそうな感じで、僕の身体の発光が治まった。
姉さんはそれを見て、あははは、と大笑いに笑った。
「それでいい、タヌキ。年端もゆかぬ少年に嫉妬は醜いぞ」
ダニエラ姉さんはそう言ったきり、ご機嫌な表情で本を読むのに戻ってしまった。
分厚い本には、あの一重に結ばれた手紙がしおり代わりに挟まれていた。
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