悪役令嬢の愚痴と恋⑤
「おうっ、ニーベル、今日は仕事サボってやがったな! ウチの若ぇのが見てたってよ!」
湯船に浸かったヤエレクのおやっさんが、物凄く大きな声で笑った。
正直、そういうことはもう少し小声で言ってほしいものだ。
一応、僕も言い訳めいた声を、少し大声で言った。
「サボってたんじゃない。注文を取って歩くのも鍛冶師の仕事だよ、おやっさん」
「なぁにを抜かしやがんでぇ、屋台街は街の中心だろ! そんな垢抜けたところのどこに客がいるもんかよ!」
「販路拡大ってのも営業の仕事だよ」
「おいおい、誤魔化すなぁ見栄が悪いぜ。いいんだぜ若ぇ奴はいくらサボったってな。ただしコソコソするな、サボるなら男らしく堂々とサボれ、なぁ!」
ぐわはは、と、ヤエレクのおやっさんは牙を剥き出しにしながら僕の背中をばんばんと叩いた。
おやっさんは怪力のオークであるからこれをやられると結構痛いのだ。
僕は微妙に身を捩りながら言った。
「あだだっ! ちょ、おやっさん! 手加減手加減!」
「おう、すまねぇすまねぇ。俺はどうしても力加減ってやつができなくてよ」
「それにあんまりサボりサボり言わないでくれ。今日は立派に人助けもしたんだからさ。トントンだよトントン」
スン、と鼻を鳴らして僕は言った。
ヤエレクのおやっさんが湯船の中で身を乗り出して訊いてきた。
「人助け? いいねぇ訊いてやろうじゃねぇか。ゴロツキに絡まれてた娘っこでも助けたか?」
「道で乙女を助けたのさ。目が視えない、齢百五十歳の乙女をだ」
僕がそう言うと、えっ? とヤエレクのおやっさんが驚きの声を上げた。
ん? と僕がおやっさんを見ると、おやっさんは少し声を潜めて訊いてきた。
「するってぇとおめぇ、今日あのエレノアの婆に会ったのか? どこで?」
「え? 温泉の近くでなにか探してたところに声をかけたんだけど」
さっきまでの大声はどこに行ったんだろう。
そう思うほどに、ヤエレクのおやっさんが萎んだ。
落ち着いたとか、驚いたとかではなく。
とにかく、おやっさんが萎んだように、僕には見えた。
「えっ、なに?」
「あ――いやな。ちょいと驚いちまったんだよ」
「驚くって何を」
「あー、そいつなんだがなぁ。一応あの因業婆にも口止めされててな」
おやっさんは牙だらけの口をもごもごと動かし、そして訴える目で僕を見た。
「訊きてぇか?」
「いや、そんなには別に」
「訊きてぇんだな?」
「そうだね。訊きたい」
このまま否定し続けると、おそらく「訊きてぇって言いやがれ!」となるに違いない。
ヤエレクのおやっさんは短気だし一本気なのである。
口止めされていたことをバラすのだから、どうしても僕がしつこく問い詰めたことにしておきたいのだ。
僕が言うと、ヤエレクのおやっさんが人差し指をクイッと曲げた。
耳を貸せ、ということらしい。
僕がヤエレクのおやっさんの逞しい肩にしなだれかかるようにして耳を寄せると、おやっさんが言った。
「岡惚れ」
「は?」
「逢引だ」
「何よ合い挽きって? 肉?」
「まぁ要するに――あの婆さん、レコができたんだよ、レコ。ホの字」
おやっさんがぶっとい小指を立てた。
僕は仰天して動揺して、おやっさんを見た。
「嘘だぁ!」
「しっ、声がでっけぇ!!」
僕の「嘘だぁ!」よりも何倍もデカいその声が風呂場に響き渡った。
その声に驚いたように、洗い場や別の湯船にいた客が一斉にこっちを向いた。
いかつい顔を歪め、気まずそうに愛想笑いをしてから、おやっさんは言った。
「昨日の晩に、俺も会ったんだよ。あの婆に」
「えっ、どこで?」
「まぁ妙な話なんだがな――昨日の晩、俺はちょいと寝酒を引っ掛けすぎてよ。汗かいちまったんで、ちょっくら夜風にでも当たろうと散歩に出たと、そう思いねェな」
うんうん、と僕は頷いた。
おやっさんの口調がこうであるから、まるで講談師の講釈を聞いている気分だ。
「すると向こうから誰かがパタパタ走ってくるじゃねぇか。なんだろうって見るってえと、あの婆なんだよ。よくもああやって歩けるもんだぜ、杖一本であんな真っ暗い中をよ」
「まぁ、元から本人の世界は真っ暗だろうからね」
「どうした婆、女の性分でも落っことしたか、って冷やかしたらよ、ヤエレクかいっ、ってアイツが大声で怒鳴るんだ」
なんだか、今日の僕と似たような話だった。
おやっさんは続けた。
「俺がその声の大きさにおったまげたところでよ、婆がサッと紙を差し出してきやがる。何だよこれって言ったら、あたしのかわりに読んでくれと来たもんだ」
ほうほうそれで? と、今や僕も身を乗り出して聞いていた。
「なんて書いてあったの?」
「まぁ俺の方もだ、文字の方とは生まれてこの方あんまり付き合いがねぇもんでよ、拾い読みぐれぇが関の山なんだ。だけど色々読んでったらよ、書いてあんの」
「何が」
「これからも頑張ってください、好きです、みてぇな文言がだよ」
僕は絶句してしまった。
もちろん、それは個人の趣味嗜好を否定する行為なので、褒められたものではない。
だが、それはあまりにも斜め上な展開だと思った。
あの皺くちゃの、どこからどう見ても婆さん、と見える婆さんに、恋?
それも情熱的な文言をしたためた手紙で? まるで中学生じゃないか。
正直、想像もしにくいことだった。
「俺がその通りのことを言ったらよ、あの婆、なんだかしょげ返っちまってよ。そうかい、手紙を返しとくれ、って言ってそれっきり」
「それで?」
「それでもヘチマもねぇよ。それだけだ」
そして婆さんは夜道を帰っていった。
たった一人で。
僕は肩を落とし、トボトボと闇に消えてゆくエレノア婆さんを想像した。
とても似合わない――というより、想像だに出来ない光景のように思えた。
おやっさんの話が終わったようだった。
「なぁニーベル、どう思うよ」
「どうって」
おやっさんがそう訊いてきて、僕は半笑いで言った。
「いいんじゃないの。いつになっても女は女だし男は男だ。そして趣味嗜好は千差万別だ」
「それだけか」
「それだけかって」
僕はヤエレクのおやっさんを見た。
「それ以上、どう言おうってのよ。あの婆さんを好きになった人がいたなら仕方ないだろう。僕らが何を言えるんだよ」
僕は更に言った。
「確かにあの人は僕から見ても婆さんだ。でも、それでも好きになったなら仕方ないよ。後は婆さんの心持ちとノリ次第だ。僕らが口出すことじゃない」
「そうさなぁ――そうだよなぁ」
ヤエレクのおやっさんはそう言い、瞬時視線を下に落とした。
何故だか、おやっさんはますます萎んだように見える。
禿頭をかくんと揺らし、おやっさんは野太くて長いため息をついた。
それはまるで緑色の風船から空気が抜けるかのようだった。
それきりおやっさんは何も言わず、ざぶざぶと湯船から上がった。
「えっ、おやっさん?」
ヤエレクのおやっさんは長風呂である。
そして風呂を上る前はだいたい他人に対して愛想良く上がる。
だからこういう風に、急に風呂を上がることは珍しいことだった。
僕が引き止めるように言っても、ヤエレクのおやっさんは振り返らなかった。
それきり、なんだか不機嫌そうな雰囲気をまといながら、おやっさんはそそくさと風呂を上がって行ってしまった。
しばらく、僕は何も考えられなかった。
ヤエレクのおやっさんは短気だ。
だけども変わりに一本気だ。
だから、この人がこういう風な行動を取ることは、まずありえないことだった。
なんだろう、何がそんなに面白くなかったんだろう。
僕はおやっさんが消えていった脱衣所のドアを見ながら考え込んでいた。
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