悪役令嬢の愚痴と恋③
「羨ましいわぁ」
その呟きに、僕は真剣に驚いた。
この法被姿の麗人が他人を羨むところを、僕は始めて見たかもしれない。
「羨ましい?」
「羨ましいじゃない。あんなにカクシャクとしてて元気で。みんなに必要とされてて。私なんかよりよっぽどハツラツとした日々生きてるわよ、あの婆ちゃん」
おっ、始まった。
姉さんの愚痴モードだ。
ということは、僕はこの愚痴が終わるまで帰れないということだ。
「そうかな? 婆さんを羨むほど姉さんの日常ってハツラツとしてないの?」
「してないわねぇ」
姉さんは番台に頬杖をつきながら言った。
「結局私ってここにずっと座ってるだけじゃない? 午前中に風呂場の掃除して、シャンプーだのリンスだの補充して、牛乳だのラムネだの注文して。んでも結局、よかったよって言われんのは私じゃなくてここの温泉じゃない。私はなにか人様の役に立つようなこと出来てんのかしらんって思うときがあんのよ」
「いやいや、それは自分を卑下しすぎだよ。ダニエラ姉さんと温泉はセットだ。だから《令嬢の湯》だろ? 姉さんはここにいるだけで人の役に立ってることじゃないか」
「アンタそれ本気で言ってんの?」
「言ってるよ。かなり本気だ」
「ほほう。正直ちょっと嬉しいかも」
ふふっ、とダニエラ姉さんが笑った。
うおっ、と僕はすんでのところで驚きの声を上げるところだった。
ダニエラ姉さんが笑う時は悲しいときか本当に嬉しいかのどちらかだ。
なおかつ、これは本当に喜んでいるらしい。
僕の本心は姉さんのかなりレアな反応を引き出したのである。
だが次の瞬間には、あああ、と悲痛な声を上げて姉さんは番台に突っ伏してしまった。
「あぁ、私終わったわ。一瞬でもタヌキに褒められて嬉しいと思ってしまった。もうダメだ、明日キツネに祟られて死ぬかも」
「ひどくない? 今の僕は人間だぞ。化けて出てきてるわけじゃないし尻尾もないし足もちゃんとある」
「わかってるわよ。でもアンタは近すぎんの。番台のすぐ側すぎるの。だからもっともっと会ったこともない、あの火山のてっぺんぐらいにいる人に感謝されたい。そう思うのって私がおかしい?」
「おかしくはないと思うけど遠いなぁ。感謝されるのに距離感とか大事なの?」
「乙女心は複雑なのよ」
「ふーん、そんな事考えてたんだね」
やっぱりダニエラ姉さんは不思議な人だ。
ぶっちゃけた話、僕は姉さんが姉さんであることに満足して生きているのだと思っていた。
日がな一日番台に座って、常連客相手に長々愚痴るだけで。
それだけで人生のほとんどが足りている人だと思っていた。
でも、そうではないらしい。
姉さんにもちゃんと職業的なやりがいを感じたいという欲求があるのだ。
僕は頭の中の辞書にある『ダニエラ姉さん』の項目をかなり上書きした。
「私も婆ちゃんに按摩習おうかしら。そしたら揉む度にみんなありがとうって言ってくれんのかね」
ダニエラ姉さんは冗談と本気の中間ぐらいの声で言った。
僕は即座に否定した。
「やめといたほうがいいんじゃない」
「なんでよ?」
「正直言って姉さんガサツだし。客の背骨折っちゃうかもよ?」
「人間の体には二百本以上骨があんのよ」
「一本ぐらいいいだろ、って?」
「そうそう」
「お願いだから按摩にはならないでくれ」
笑いながら釘を刺してから、僕はラムネを呷った。
ちなみに。
僕がダニエラ姉さんを止めたのは、姉さんがガサツだからではない。
姉さんが他の男の身体を撫でたり触ったりするところを想像したからだ。
そしてさっきの僕みたいに、男に嬌声を上げさせるところを想像したからだ。
この人にはそんなことをさせたくないし、その想像すらもしたくない。
本人のやる気に関わらず、僕がそう思うのは――僕の勝手なはずだった。
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