されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る①
『いで湯 令嬢の湯』
そう描かれた暖簾をくぐると、鈴を転がすような声が飛んできた。
「いらっしゃい」
僕は声の主を探した。
いた。彼女は番台に頬杖をつきながら、半分寝ているような目つきで分厚い本を読んでいた。
入ってきたのが僕だとわかると、暇そうにしていた女性は、僕を目だけで見た。
「なんだ、またタヌキかい」
彼女は美しい人だ。
光沢があって軽くウェーブした黒い髪。
日光を知らないような白い肌。
憂愁を含んだ翡翠色の瞳。
簡素だけど品のある黒いドレス。
その上に着ているのが『令嬢の湯』と書かれたハッピでなければ。
そのまま王都の舞踏会に出ても許される美貌である。
「タヌキとは。お客に対して随分ご挨拶ッスね、ダニエラ姉さん」
僕がへらへら笑いながら言うと、姉さんはめんどくさそうに言った。
「これは愛想ってのよ。私だって常連に軽口叩くぐらいはするわ」
「この東の辺境ではそれを確かに愛想と言うのかもしれないが、はるか西にある人間の世界ではそれを毒舌とも言う」
僕がやり返すと、ダニエラ姉さんはニコリともせずに鼻を鳴らした。
「言うじゃないの。毎日毎日、石炭相手に顔真っ黒にしてきて穴蔵みたいな鍛冶屋に住み込みしてる汗だくタヌキめ。汚いままの手でそこら触って汚さないでよね」
「タヌキは綺麗好きなんだよ。するものも山の中に一箇所にまとめてする。知らなかった?」
「四の五の言い訳すんな。ここで汚いもん丸出しでひっくり返らないよう水分だけはちゃんと摂るのよ?」
「はいはい。乙女に汚いもの見せないように気をつけますから」
「わかりゃよろしい、5Gね」
僕は一枚1Gの銀貨を五枚手渡した。
まいど、と手慣れた声で彼女が言った。
僕は脱衣所で素っ裸になると、前を隠しながら浴場に入った。
「おう、ニーベル! 今日は遅かったじゃねぇかよ!」
僕が入るなり、湯船に浮かんでいた緑色の禿頭が大声で言った。
この温泉の客名主を自称するオーク、ヤエレクのおやっさんだ。
「やぁヤエレクのおやっさん。我慢比べはしてるかい?」
「いんや、今日は誰も挑戦者がいねぇ。――どうだ、久しぶりにやるか、えぇ?」
おやっさんはガハハと笑った。
ヤエレクのおやっさんはこの近所にある製材所の親方である。
オークの怪力でなければ切り倒せない、樹齢何千年とかの雑木を切り、それを王都向けに加工するギルドを経営している。
筋骨隆々の強面で、頭に一本も毛が生えていないのが、如何にも頑固親父のそれらしい。
彼が言う『我慢比べ』の詳細はこうだ。
この『令嬢の湯』には、山からの源泉を直接引き込んだ、摂氏47℃にもなる熱い湯の湯船がある。
挑戦者が現れると、ヤエレクのおやっさんと挑戦者はここに浸かる。
この熱い湯により長く浸かっていられたほうが勝ち。
負けたほうが、番台で売っている一本2Gのフルーツ牛乳を奢る、という他愛もないゲームだった。
人間やエルフの皮膚は弱い。
この源泉の湯に浸かっただけで皮膚が真っ赤になるほどだ。
だからオークのおやっさんの方が絶対的に有利なのである。
それは半ば『勝負』という名目で、おやっさんが新参者にフルーツ牛乳を奢らせるための方便なのだ。
だが僕はそういう結果が見える勝負が嫌いだった。
初めての勝負の時、僕は死ぬ気で熱さを我慢し、結果僕が勝った。
以来、おやっさんと僕の勝負は12対11で僕が勝ち越していた。
ヤエレクのおやっさんはそれが悔しいのである。
「よっしゃ、久しぶりにその勝負、受けて立つよ」
僕は手桶でかけ湯を身体にかけながら宣言した。
宣言した僕に、湯船に浸かったり、身体を洗ったりしていた客が色めき立った。
「おっ、ニーベルとおやっさんが勝負するってよ!」
「マジかよ! 人間のくせによくやるぜ!」
「みんな、賭けやろうぜ! 俺はおやっさんにフルーツ牛乳1本!」
「俺はニーベルに2本賭けるぜ!」
ゴブリンだのコボルトだのエルフだの。
ギャラリーは前を隠すこともなく集まって口々に騒ぎ出した。
粗方の掛け額が決まったところで、おやっさんが自信満々に腕を組んだ。
「今日という今日はお前にオークのしぶとさってのを見せてやるぜ」
「またまた。おやっさんには悪いけど、僕が勝つよ」
僕たちは同時に湯船に入った。
そして十分後――僕らは両方とも湯当たりして失神し、ゲームはノーゲームとなった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ただただ温泉に行きたい。
頭から浸かりたい。
そう思っていたらこの話を妊娠していました。
短編の方は半日で生みました。
続きは夜中に投稿予定です。
もしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。
【VS】
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『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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