水が旨い。
「ほら、大丈夫か?」
ニメートルを越える大男が優しく背中を擦ってくれている。
ボクは四つん這いになって、胃液とヨダレを垂れ流していた。
前髪から滴り落ちる液体は赤い。きっと、ボクの全身がこの色に染まっているのだろう。
死体の山の中心で嘔吐いているのだ。血の海が広がって、ボクの手や膝や、嘔吐物を飲み込んだ。
周囲には原形をとどめない死体の山が転がっていて、遠くからは平和そうな小鳥の鳴く声が聞こえていた。
まったく持って、現実感の無い世界だった。
震えながら嘔吐く事しか出来ないボクにむかって、男が一方的に話し掛けてくる。
そう言えば初めましてだな。
オレの名前はディアンだ。姓はとっくに捨てた。
職業はたぶん学者だ。
残念ながら医者じゃねぇ。
医者じゃねぇが安心しろ。今、お前が吐いてるのは病気の所為じゃない。
神経的なもんだな。死にはしねぇよ。
全部、吐いちまえ。そしたらスッキリだ。その後は薔薇色の人生が待ってるぞ。たぶんな。
身体的にはむしろ健康そのものだ。マナに満ち溢れてる。
なかなかのモンだぞ?
全部、吐いてスッキリしたら、旨いもん食おうぜ?
その前に服を着なきゃだな。
てか、なんでお前ネクタイとかしてんの? どういう趣味だ?
お、これ、神具じゃねぇか。
神具持ちの転生者かよ。やるじゃん、お前。
我慢するなよ? 吐けるだけ、吐いておけ。
いっそ、盛大に行こうぜ?
いくらでも待っててやるから、遠慮するなよ?
いくらでも待っててくれるはずの男が、すぐに飽きてしまったらしい。
優しく背中を擦ってくれながら、まだか~? と、ぼやき始めた。
あー、どうせ触るなら男の背中なんかじゃなくて、女の背中が良かったなぁー。
背中じゃねぇーなー。
おっぱいだなー。
おっぱいがいいなぁー。
デカい方がいいなー。
お前もそう思うだろ?
おっぱいはデカい方がいいよなぁ?
命の恩人なんだと思う…。
でも、こちらはそれどころでは無い…。
黙っててよと思った…。
───
しばらくして落ち着きを取り戻したボクに、男、ディアンが確認をとる。
「吐き切ったか?」
喉が張り付いて、うまく言葉が出せないと感じて、ボクは頷くだけにした。
「よし。じゃあ今からオレの家に帰るぞ。すげぇー遠いから転移するしか方法が無ぇ。悪いが、それでいいよな?」
質問の意図が掴めなかったが、早くこの場から離れたくて、なにも考えずに頷いた。
よし、じゃあこんな所ともおさらばだ、と。ディアンが血で汚れるのも気にせずにボクを肩に担ぎ上げる。
軽々と持ち上げられて、視界がくるんと反転した。
自分の胃液と共にあったはず地面が、赤く遠くに見えていた。
「転移ぃー」
ディアンが投げやりな声で唱えると、途轍もない浮遊感に襲われた。
それはたぶん、一瞬の事だ。
それはだけど、言葉では上手く言い表せない、一瞬の事だった。
気が付くと地べたに這いつくばっていた。
這いつくばって、のたうち回っていた。
這いつくばって、のたうち回って、悲鳴を上げていた。
あ、頭が痛い。
の、脳みそが痛い。
め、目眩がする。
め、目が回る。
せ、世界が回る。
い、色が消える。
お、音が五月蝿いくらい。
は、吐き気がする。
でも、もう吐くものがない。
脳ミソを直接、スープみたいに掻き回されていると思った。
生きたまま脳ミソを掻き回されたら、どんな世界が見えると思う?
きっと鮮明な地獄なんじゃないかな?
そう。
それは自分の身体の内側がめくれあがる感覚だった。
何かがボクの口を無理やりに伸ばして、広げた。
千切れてもおかしくないほど広がった唇が、ボクの身体を包み込んだ。
ボクの口がボクの身体を食べようとしているのだから、ボクの身体は裏返った。
手に張り付いたゴム手袋を引き剥がすように、ボクの身体は裏と表が逆になった。
自分の身体が裏返って、別のモノになった。
皮膚が身体の内側で食い千切られていた。
内臓が身体の外側で全部はみ出していた。
ヌメった内臓が土にまみれて汚れながら、それでも脈を打っていた。
五感が過敏になり過ぎて、頭が処理仕切れないでいた。
ボクは生きた粗びき肉で、あるいは引き裂かれた腸詰め肉だった。
死ぬのかな、と思った。
死ぬな。と思った。
殺してくれ。と思った。
殺してくれと思うくらいに苦しんだ。
───
「いわゆる、転移酔いだな」
ディアンが説明する。
彼は木の棒みたいなものを口に咥えていた。棒の先端からは煙が上がっている。この世界のタバコみたいなものなのだろう。
「転移酔いはどんな奴でも、一回は襲われる」
数をこなせば慣れるけどな、と煙を吐いた。
「だかその一回で、死ぬ奴が多い。単純に身体が耐えきれない場合も多いが、自分の吐いたゲロで窒息するパターンもよくある」
笑えるだろと、ディアンは言った。
「お前の胃は空っぽだったし、転移に耐えられないほど柔な存在でもない。見れば分かる。俺にはな」
ボクが凄いんじゃなくて、ボクが凄いことが分かってしまえる俺か凄いんだぜと、彼の顔が語っていた。
気が付くと森の中に居た。
今度は林ではなくて、森だった。
樹齢の読めない、太い樹木が乱立している。
目の前の、見上げるほどの大きな男が、小さく見えるほどの高い木々だ。
天に向かって大きく手を伸ばした枝葉のあいだから、神々しく木漏れ日が輝いていた。
その大自然の隙間を縫うようにして、一軒のコテージが建てられていた。
入り口にはテラスがあり、木製のテーブルとベンチが備え付けてあった。
ボクはその長椅子にぐったりと横たわって、ディアンの言い訳みたいな話を聞いていた。
「悪いとは思ったけどよ。他に方法が無かったんだよ」
口から煙を吐きながら、一応、お前にも確認は取ったろ? 説明は省いたけどな。と、ディアンは悪びれることもなく笑った。
他に方法が無かったかどうかは分からないが、むしろボクがこの姿になってから、一度もなにも分からない状況が続いているが、自分が今、とても喉が渇いている事は分かった。
自分でも情けないほどのかすれた声で、水が飲みたいと要望した。
「おう、待ってろ。そうだよな。お前、丸一日のたうち回ってたもんな」
そりゃ、喉も渇くよなー。と、遠ざかるディアンの後ろ姿を眺めながら、日付をまたいで苦しんだことを知った。
差し出されたのは木をくりぬいて作られた、原始的なコップだった。
中には瑞々(みずみず)しい水が、なみなみと注がれていた。
ゆっくり飲めよ。胃がビックリするからな。
ディアンに言われて、コップを両手で受け取った。
いつまでも眺めていたくなるような、澄んだ美しい水だった。
少し震えた手でコップに口をつける。
水を口に含んだ瞬間、ボクの頭の中に文字が浮かび上がった。
-嗚呼、これは、命の水だ、と。
衝撃が走った。
様々な想いが駆け巡った。
色々な記憶が蘇った。
なぜか突然、知らない世界にやって来た自分。
その姿は明らかに子供で、裸で、ネクタイで…。
林の中をさ迷った。
見たこともない化け物に襲われた。
たぶん、人生ではじめて死を覚悟した。
でも死なずにすんだ。
でも助けられた相手から、あの時に死ねば良かったと思う目に遭わされた。
でも、生きてる……。
ボクは…。
生きているッ!!
言われた通り、与えられた水を、命の水を、一気に飲み干したい衝動を押さえて、ゆっくりと、ゆっくりと嚥下した。
その味は甘く、甘くて、甘かった。
とても素晴らしい体験だった。
甘くて…、おいしいなぁ……。
これが生きてるって事なんだなぁ……。
生を実感した。
涙が溢れた。
万感の想いが去来した。
世界が輝いて見えた。
生きているって、それだけで素晴らしいと思った。
「生きているって、それだけで素晴らしいね」とも言ってみた。
「お、おおぅ……。そうだな」
薄汚れた裸にネクタイな子供野郎に、涙して生きる喜びを訴えられたのだ。
ディアンもちょっと引いていた。
それから取り繕うようにして、剣と魔法の世界へようこそと、言われた。