青春18切符
窓際で本を静かに読む誉と、おしゃべり好きな紗耶香の人生が交差したのは、高校3年の夏休みが明けてすぐのこと。大学入試を控え、張り詰めていくクラスの空気と対照的な紗耶香の声。それを耳障りに思った誰かが呟く。
「紗耶香ってさ、お気楽だよね」
その言葉を合図に、紗耶香への仕打ちは始まった。紗耶香がいつも通り友人に声をかける。しかし、誰も参考書から顔を上げない。その状況で話し続けられる程、紗耶香は強くなかった。
「紗耶香さん」
お弁当を食べる以外、口を開くことなく1日を終えた紗耶香を誉が呼び止めた。紗耶香が何か返事をする間も与えず、誉は早口で続ける。
「青春18きっぷが期限内に使い切れそうにないから、一緒に乗ってくれる?明日、土曜日だし。青春18きっぷっていうのは、1日電車乗り放題のチケットで、それが5回分あるの。俺、電車の中で本を読むのが好きだから買ったんだよね。それは良いんだけど、タイミングを逃してるうちにこうなっちゃって」
言い終えた誉が紗耶香に差し出したきっぷには”有効期限9月10日まで”と書かれていた。
「あんま、話したことないよね? 何で私?」
チケットの文言をチラリと見て視線を誉に戻した紗耶香が、強張った声を出す。いきなり始まった無視に紗耶香は戸惑い、次はどんな手段で傷つけられるのだろうかと疑心暗鬼になっていた。
「んと、期限を思い出して最初に目に付いたのが紗耶香さんだったから」
頭をポリポリと掻きながら誉はへらりと笑う。
翌日、2人は最寄り駅から出発した電車に乗っていた。誉は誘ったときの宣言通り一言も喋らず、ただ本を読んでいる。紗耶香も家から適当に持ってきておいた文庫本を開いて、それに習った。
タタン、タタン、タタンと、一定のリズムで電車が進む。
2人は電車の座席に並んで座り、その揺れに身を任せてページをめくっていく。適当に手にしたその本は紗耶香が思っていたよりずっと面白く、時間を忘れて読み耽った。
誉の腹の虫が鳴き、適当な場所で電車を降りた。スマホで時間を確認すると13時を少し超えたあたりだった。降りた駅名と昼食で検索し、ヒットした店で適当に食事を取る。
「そろそろ帰り方面に乗らなきゃね」
店を出るなり誉がそう宣言し、紗耶香の返事も待たずに駅のホームに向かって歩き始めた。その背中を追いかけようと一歩踏み出した紗耶香はふと、今日1日全くしゃべっていない事に気づく。「悪くないな」小さな声で紗耶香は呟き、誉に並ぼうと足を早めた。
車掌が出発の笛を吹くのを聞きながら、紗耶香は続きを読もうと鞄から本を出す。その時、隣に座っていた誉の腕に肘が当たった。
「あ、ごめんね」
紗耶香は慌てて誉を見、いつのまにか教室で隣り合う以上の近さで座っていたことに気づき赤面する。
「別に大丈夫」
先に本を読みはじめていた誉はそれに気づく様子も、ページから顔を上げる事も無く答えた。
その日から年に1度電車に乗るだけの関係を2人は続けている。4年制大学を卒業し、社会人になるほどの時間が過ぎた。
刺繍道具を大きめのショルダーバックに準備しながら、誉が迎えに来るのを紗耶香は待っていた。本だとお互いの読み終わるタイミングが合わず、昼ご飯を食べのがす事があった。それから、紗耶香はいつでも区切りをつけられる刺繍に切り替えたのだ。準備を終えたタイミングでインターフォンが鳴る。
「お疲れ様」
手慣れた調子で紗耶香が言いながら玄関ドアを開ける。紗耶香の想像通り、誉がドアの外に立っていた。小振りなボディーバック1つを身につけ、頬には大きな湿布を貼っている。
「準備は良い?」
紗耶香は返事の代わりに刺繍道具を入れたショルダーバックを持ち上げて見せた。
「じゃあ、行こう」
誉の言葉で2人は歩き出す。目指すのは5分ほど歩いた先にある古びた駅。
誉の手には、真新しい青春18きっぷ。駅員に2人分のハンコを押してもらうと、連れたって改札をくぐった。
電車到着のアナウンスが駅構内に流れ、耳をつんざくようなブレーキ音がして電車が止まる。誉が一歩後ろに下がり、紗耶香を先に乗せる。2人が乗り込んだ背中で電車のドアが閉まった。車掌がお決まりの言葉を電車内に響かせ、ゆっくりと電車が動き出す。
タタン、タタン、タタン……あの日から変わらぬリズムで各駅停車の鈍行が進む。
「それ、どうしたの?」
ボディーバックから文庫本を取りだそうとしている誉に、紗耶香が問い掛けた。誉の頬に貼られた湿布を指差しながら。
「ん……痛み分け?みたいな」
誉が鞄に入れていた手を出して、湿布を手の平で撫でる。
「誰との?」
紗耶香は目を細め、誉を気遣うように言った。
「俺を好きだった子」
誉は告白され、断ったのだと説明を始めた。相手に付き合えない理由を問われ、口ごもった際に、「私を好きじゃないなら、あの時に手を差しのべて欲しくなかった」と言われたと。
「その言葉にさ、人の弱みに付け込むのが好きだと言ったら、平手が飛んできた」
おどけるような調子で誉は言い、肩をすくめた。
「馬鹿じゃないの」
紗耶香は呆れた声を出した。誉は自分本意な人間で、賢い。どういう状態の時にどう声をかければ、自分の望む結果を得られるのかを計算できるのだ。誉の打算に塗れた言動を自分だけに向けられた優しさだと思う人間は少なくない。紗耶香もまた、その内の1人だった。それを理解してはいても、ついつい誉の思い通りに振る舞ってしまう紗耶香にはその恐ろしさが身に染みていた。
「恋愛感情を持たれたらそこで関係は終わりじゃん?俺はただ、感謝されて気持ち良くなりたいだけだし。ただまぁ、今回は失敗したなぁ」
古びた吊り革に視線をやりながら、悪びれもせず誉は言った。その言葉に紗耶香は、抱く淡い恋心への牽制を読み取る。同時に牽制を振り切ってまで気持ちを伝えた女性の強さに嫉妬した。誉を打った女性は、友人としてただ側にいることをどうして選択しなかったのだろう。それを、誉が望んでいることぐらいわかるだろうに……紗耶香はそう思考を続け、想いを伝えずにいる自分を慰めた。それでも、溢れ出した想いが言葉になった。
「終わらないかもよ?」
紗耶香は、友人としての普通の返しの範疇におさまっているだろうかと誉の様子を伺った。
「……そう思って、付き合ってみたこともあったんだけどね。恋愛なんてしないほうがよほど長く付き合えるよ」
誉は窓の外を流れていく緑に視線を移し、ため息を吐いた。ややあって、紗耶香の目を見据える。
「心地良い関係を継続するのって、難しいね」
小首を傾げた拍子に誉の前髪がサラリと流れた。跳ねた心臓を宥めるように紗耶香は目を閉じ、「難しいね」と返す。
「振るにしたって、いつもの誉ならもっと上手く言葉を使えたでしょ?実は惚れてたとか?」
紗耶香は精一杯友人として振る舞うように茶化し、目を開けて誉を見た。
「ない。恋愛なんて関係性の終息を始める合図だよ……何でわざわざそれを始めようとするのか理解に苦しむね」
誉は首を振ってつめたく言い切り、ボディーバックからさっさと文庫本を取りだして開いた。お喋りはおしまいの合図だ。人間関係を計算し尽くして構築している誉は、恋愛感情を持たれたり、持つといったイレギュラーを嫌う。不必要に感情をぶつけ合うような関係は本の中だけで十分だと。本であれば予定された美しい終わりがある。しかし、現実世界での終わりは、自分の行動選択の失敗を意味する醜いものだ。ずっと続けたい関係がほんの僅かなすれ違いで保てなくなる。
いつかは忘れたが、電車内で誉は紗耶香にそう語ったことがあった。
誉が本の世界に没頭したのを確認した紗耶香は、小さく息を吐いた。そのまま手を滑らせてピンと張られた青い布を鞄から取り出す。刺繍針には光の加減で色合いが変化する糸がすでに通してある。それが、車窓から入ってきた太陽光を受けてキラリと輝く。布に下書きされた鳥へ鋭い針を差し入れ、布の数目先で顔を出した針を引き抜く。シュルシュルと控えめな音を立て、糸が後に続いた。
タタン、タタン、タタン。線路を行く電車の音に時折ページをめくる音と糸が通りすぎる音が混ざり、永遠に続けたいと願う時間が流れる。
休日の電車はガラガラに空いていて。まるで世界に二人だけしか存在しないみたい。……なんてどこかで聞いたような言葉が紗耶香の頭に浮かび、それをすぐに否定した。
紗耶香は誉の口から吐き出される意図を、針で掬って心に縫い止めるようにしてこの関係を保ってきた。刺繍は力加減一つで全体の雰囲気が変わってしまう程繊細なものだ。細心の注意を持って取り扱わなくてはならない。誉の変わらぬ関係を続けたいという願いは、紗耶香にとっても大切なものであった。
「……あ」
電車がトンネルに差し掛かった頃、小さく声を上げた紗耶香。その視線の先には絡まりぐちゃぐちゃになった糸がある。鞄に入れたときに絡まってしまったのだろうか。
糸を切って捨ててしまっても良いけれど……。考えながら絡まった糸に手を伸ばした紗耶香は、ずっと同じ姿勢でいたせいで体が強張っているのに気づいた。
軽く肩や首を回しながら誉に視線をやる。誉の手にした文庫本は、数ページを残すばかりだった。
紗耶香は糸の絡まった刺繍セットをそれ以上乱れてしまわないように細心の注意を持って仕舞った。そろそろお昼時だ。昼食を取った後、帰りの電車で絡まった糸を解いてみようかと考えながら。
タタン、タタン、タタン。流れていく緑の風景に眠くなって紗耶香は目を閉じる。
こんなにも静かで、お互いの心の隣に座るような時間を過ごすのに、”魔”なんて差しようもない電車の中。紗耶香の閉じた目からひと雫。玉のような水滴が頬を伝った。びくりと体を跳ねさせて紗耶香が目を開く。誉は変わらず本に視線を落としていた。紗耶香は顎の先で落ちる準備をしていた雫を指先で拭う。来年も同じ時間を過ごせたら十分だとごまかすのも限界のようだった。諦めたような息を吐いて、紗耶香は再び目を閉じる。
「そろそろお昼食べて帰る方向に乗り換えようか?」
次の駅を告げる車掌のアナウンスに誉が腰を浮かせて、紗耶香を促した。誉は紗耶香の肩を軽くトントンと叩く。
紗耶香は目を閉じたままそれを無視した。
「おい、何の真似だ」
怒ったような、焦ったような声を誉が出す。
紗耶香は知っていた。次の駅をやり過ごせば電車では日帰りできなくなることを。もちろん誉がそれを知らないはずが無かった。
誉がそのまま電車を降りてしまうならそれも良いと紗耶香は思っていた。どの道、来年同じ電車に乗るのはもう無理だろう。
「……ドアが閉まります」
車掌の変わらないアナウンスが、逃げ道を閉じたかのように感じられる。恐る恐る開いた紗耶香の目に頭を抱えた誉の姿が映った。
日が落ちた頃、誉と紗耶香は無言で電車を降りた。昼間よりずっと冷たく感じる風は、季節のせいばかりではないのだろうなと紗耶香は思う。この寒さに身を寄せ合うような関係を2人が構築していない事がどうしようもなく切ない。
「……1部屋しかありませんか?」
宿を探して電話していた誉が落胆の声を出した。電車を降りてから誉は紗耶香に声をかけていない。誉は何とか別々に部屋を取ろうと苦心していたが結局、飛び込みで手にした部屋に2人で泊まることになった。
”魔”の差せる環境を手に入れた紗耶香は破れかぶれだった。今日この瞬間で2人の関係が終わる。どうせ綺麗な最後にならないなら何年も何年も誉が苦い顔をして思い出すような時間にしてやろう。紗耶香の頭の中はそんな想いでいっぱいだった。
「俺はそんないい人じゃないよ」
誉が説得するように言葉を紡ぐ。
「知ってる」
誉の心を気にかけずに紗耶香が答える。
「君のために行動したことなんて一つもないんだよ」
誉の言葉に、紗耶香は答えない。自分を打った女性からの痛みを、痛み分けだと言い切る誉。自分の痛みよりも人の痛みを気にして、傷ついたと表現するよりも傷つけたと表現する方を選ぶ人だと、紗耶香は知っている。
「なにもしなければ、心地好い関係が続くんだよ?」
誉の最後の言葉は涙声だった。
「知ってる」
紗耶香は、噛み締めるように言った。だけれど、もう。自分の気持ちをごまかせそうにも無かった。来年も誰かに想いを寄せられたと聞くぐらいなら。ここで終わらせる。誉が何年も痛がるような傷を残してやろうと思った。それが、イジメから救ってくれた誉に、恩を仇で返すような事に違いないと分かっていても。
「どうせ終わる関係なら、最後に気持ち良くなっても良いんじゃない?」
覚悟を決めた紗耶香は、林檎のように艶やかな唇をなまめかしく動かす。同時に誉の腕を取り、胸に押し当てる。誉が望んでいないと分かっているのに、そう行動する自分を紗耶香は内心で吐きそうになりながら精一杯振る舞う。
誉の喉が鳴り、戸惑いと欲望の混じった表情が一瞬現れた。しかし、すぐに首を振ってそれを消す。
「こんな形では手を出したくない」
仕掛けているのは明らかに紗耶香の方なのに、誉はまるで自分が悪いかのように言う。
「据え膳食わぬは?」
思わず離れそうになった体をギュッと力強く押し付けて紗耶香が問う。
「俺の恥で、紗耶香さんの恥の痛み分けにしよう」
誉がきっぱりといった。
「誉の気持ちは分かった」
泣かないように上を向いて紗耶香はその身を誉から離した。
「じゃあ、これでさようならだね」
どこかすっきりした気分で、紗耶香は誉に微笑みかけた。
「いいや、来年もスケジュールは空けておいて」
そう返してきた誉に紗耶香は目を見開いた。
「どこまで身勝手なの」
「分かってるでしょう?」
「……うん」
紗耶香は小さく息を吐く。この魅力的なお誘いを突っぱねられる強さはどこにも残っていなかった。
「一つ提案があるんだけれど」
誉が会話を続けるように言葉を紡いだ。
「恋人はすぐに別れるイメージしかないからそんな関係にはどうしてもなりたくない」
「うん」
紗耶香は、どう足掻いても恋人になれない理由をこれから聞かされるのだと覚悟して目を閉じた。
「末永く幸せに暮らしましたって、エンドマークを紗耶香さんとなら、つけても良い」
「は?」
想像と違う言葉が耳に届いて紗耶香は目を開いた。
「考えたんだけど。俺の人生から紗耶香さんが居なくなるのはどうしても嫌なんだよね」
「……」
返す言葉を探している紗耶香に誉が畳みかける。
「人生は小説よりも奇妙なものらしいしさ……最も。俺が読者なら何だこの展開はって、本を投げるぐらいひどい話だけれど」
紗耶香は吹き出し、誉は複雑な表情でそれを見守った。
人間関係を計算し尽くしてきた誉にもこの先の最適解はなかなか出せそうにないらしいと紗耶香はそんな誉の頭を撫でる。
急にコオロギが五月蝿く鳴き出した。それはまるで、2人の友情物語、その幕引きに拍手を送っているようにも聞こえた。




