夫婦喧嘩はもともとしてない
「ただいまぁっ……と」
靴を脱いで框をあがる。
玄関の三和土の靴は相変わらず少なくて、住人の数がまだ戻ってないことを知らせていた。
「父さーん」
呼ばわりながら奥へ行くと、いびきが聞こえてきた。
廊下にまで聞こえてくるってどういう。
境の障子はぴったりしまっている。
鶴の恩返しならここを開けたらいかんのだろうが、中にいるのはきれいな女房ではなくて僕の親父。
なので容赦なく開ける。びしっ。
……まったく。見下ろす先の父親は、机にしている座卓の上の原稿用紙に突っ伏したまま眠りこけてた。
雨戸も開けちゃいない。
母さんがまた実家に帰っちゃったから、とことんだらけてるのだ。
夫婦喧嘩したわけじゃない。
僕の爺ちゃんの具合がよろしくないと風の便りがあったのだ。
自分の父親が気弱になって娘に会いたいと言ってると知り、はいはいと母さんが実家に帰ってすでに十日がたっている。
母さん大好きな父さんがしびれを切らして拗ねてしまうには十分すぎる時間だった。
問答無用で雨戸を開ける。
日が差し込んで――とはいかない。もう午後だけど。
お彼岸も過ぎたから、日差しが秋のものになってきて、目にも柔らかい気がする。
うん、金木犀の匂いがするぞ。良いね、秋だね。
香りを楽しんでいたら、うぐぐと唸る声が背後でして、それから人の動く気配がした。
「……帰ってきたのか、正明」
「帰ってきたよ。母さんじゃなくて悪かったね」
「悪いなんて言わん。お前じゃないと母さんの連絡受け取れんだろ」
そっちかよ。まったく。
「ちゃんと昼飯食べた?」
「ああ」
「何食べたの」
納豆ご飯、などという嫌がらせかと思う答えが返ってきた。
「他には?」
「野菜炒め。昨日の残り」
……それだけ食べれば上等か。
「どこまで行ってきたんだ?」
何の話だと思って訊くと、親は目を据わらせた。
「何だ、母さんの様子見に行ったわけじゃなかったのか」
「学校だよ! もうじき試験!」
どこまで子供のことを頭からほっぽっているのだ。
声に驚いたのか、親父はむにゃむにゃと言い訳をつぶやいた。
朝起きたらもういないからどこへ行ったのかと思って、だって。
普通なら聞こえないくらいの声だけど、僕の耳を侮るな。
「僕に聞こえてるの知ってるよね?」
「……はい」
すみません、と蚊の鳴くような声が言った。
ていうか、僕は呼ばれてもないのにあっちに行ったりしません。そんな気軽に行けるか。
母さんの実家はなかなか足を踏み入れられない。一人じゃ。
それに、行くには間が大事なんだよね。あそこ。
門の開く時間が決まってるってだけなんだけど。
でもそれが厳しい。
厳しすぎて、身内だからフリーパスってわけにはいかないのが、はっきり言って面倒だといつも思う。
息子であり孫である僕には直通で連絡がくるけど、できることなんてそのくらいだ。
いや、身内なんだから、連絡取りたいときに取るなんてあたりまえじゃないか。それが普通だと思うんだけど、そう口にすることさえはばかられる空気があそこには漂っている。
何言ってるの、事情を知られても親子で暮らせるようになっただけ昔よりはましになったわ、と母さんは笑うんだけど、不便さは半端ない。
母さんの実家には、電話がない。
ネットもない、スマートフォンなんか当然ない。
それどころか、世間のように電気が通ってない。
だから、生活もアナログ。
目いっぱいアナログ。どこまで遡ればいいんだってくらい。
時代錯誤もいいとこで、ここと同じように暮らそうとしたら目の前真っ暗だ。この家だって十分古いんだけど、ネットと電気とガスくらいはあるぞと父さんは胸を張る。
そんなことを聞かされる時は、対抗心でもあるのかと思う。
父さんは、母さんの実家は好きじゃないのだ。
はじめは、はっきり言うなあと思った。
世間一般そんなのは珍しくないっていう話も他で聞いた。
けど、うちの事情に限ると義理の両親に気兼ねをしてるだけじゃないことくらいはわかる齢になってしまった。
『それでなくても、あそこはなあ』
『行くと何かこう、……落ち着かないというか気持ちがざわざわするというか』
どうしてそんなに避けるのかと聞いたのはいつだろう。
母さんには内緒にしてくれよと前置きしてから、父さんは言った。
『……身の置き所がないんだよ』
僕が生まれる前、里帰りにも反対して、行かないでくれと引き留め続けたら、とうとう母さんは怒ってしまったそうだ。
そりゃ怒るだろう、とその時僕は思った。口にも出した。
『だって、行ったままかもしれないって思うじゃないか』
だから、行ったままなんてそんなことは――と言おうとして、その時僕は固まった。
気づいたからだ。
母さんとは住む世界が違うのだと、父さんはある時期まで本気で思っていたのではないかと。
もしかしたら、僕が生まれてからも。
いや、まさかと思うけど、この瞬間も。
皓々とした月の光を浴びながら、夜空を見上げて佇む父さんは、本当に寂しそうだった。
特殊なとこだってのはわかる。
母さんも認めてる。
その間に横たわるものを超えるのは、普通の人間には大変なのだってことを。
まあ、そういうことだとやっと僕を見た父さんは普段の顔になっていた。
背中を丸めていた父さんは、ようやくのことで立ち上がった。
伸びをする。
欠伸もする。
なぜか屈伸までした。
「父さん?」
うん、と生返事が返ってきた。
そして、のそのそ部屋を出て行ってしまった。
部屋に風を入れた後に、僕は自分の部屋へ行った。普段着に着替えてやることやって、鞄と机の上を片付けたら、いつの間にか手紙が置いてあった。
差出人を確認して、それから僕は台所に行くことにした。
何をするって、家事である。
母さんがいないと家のことはある程度二人で分担するしかないわけで、帰ってきた時に散らかり放題だとやっぱり叱られるのだ。
せめて自分のことだけでもちゃんとしないといけない。
実をいうと、僕もそろそろ帰ってきてほしいころではある。
ご飯が寂しいし。
父さんに任せると、毎日鍋とかうどんになる。野菜も肉もとってるだろ、何の文句があるというけど、たまにはハンバーグだって食べたい。カレーも唐揚げも。
白菜と豚肉、たまに人参ときのこの入る鍋ばかりじゃ飽きるよ。
台所を覗く。父さんの姿はなかった。
その代わり、夕飯の買い物に行く、と書き置きがあった。
一時間後、父さんは、あけびのつるで作った古風な買い物かごをいっぱいにして帰ってきた。
入ってたのは大量の正方形の油揚げだ。
近所の稲荷のお供えにでもするのかと見ていたら「煮るぞ」と声がかかった。
……油揚げ炊いたのが夕飯のおかずですか。
げんなりしたところに、ざざざという音が聞こえた。
何だと目をやると、お米計って、ざるに空けてた。今日はご飯を炊くらしい。
聞けば、稲荷寿司を作るのだと言う。
ならまあいいか、とほっとした。
それで炊飯の傍ら、せっせと油揚げを煮ている。
「これ、稲荷寿司には小さくない?」
それともこれを袋にして、一つ大きいのを作るのだろうか。小さいながら、座布団みたいなのができそうだ。
だけど父さんは首を振った。
「あとで半分に切ってくれ。対角線にな」
「三角にするの?」
うん、と親がこっちも見ずにうなずく。
「探してやっと見つけてきたんだ。母さんの実家の地方はそういう形なんだよ」
へえ、と言いながら煮えた油揚げを口に入れる。
甘辛い。当たり前か。
「つまみ食いはやめなさい。足りなくなったら買いに行かせるからな」
それはごめんだ。
僕は二枚目に行こうとしてた手を止めた。
硬めに炊いたご飯に、寿司用に合わせた酢をまぶす。
団扇であおげばいいのかと思ったら、杓文字でご飯を混ぜる方をやらされた。
あとは、手で触れられるほどに冷めた油揚げを開いて、すし飯を詰め続ける。
「いくつあるの、これ」
「さあなあ」
さあな、って。買ってきたのは父さんなのに。
まさか数えないでかごに入れたんだろうか。
ここに食べ盛りの息子がいるとしても、ふつうは食べ飽きる量だ。
「他のお惣菜は? 肉、ないの?」
「精進だ」
何でだ。
なんで僕の嘆願は無視なんだろう。なら、これならどうだ。
「……母さんは肉も魚も好きじゃないか。鮎とか」
「ああ、川魚は好きだな。虹鱒なんて飛び上がって喜んでたもんな」
ほんとかな。
そういう場面を見たことはない。
ちらと顔を盗み見ると、滅多に見ない優しい目になっていた。
やれやれ。ごちそうさま。
それでも少しは考えたのか、野菜だけのはずだった煮物に、鶏肉くらいは入れてくれることになった。
まさかと思うけど、知ってたのだろうか。
さっきの手紙は母さんからで、帰ってくると書いてあったのだ。
それも、今日。
「ただいまあ」
という声が聞こえた時には、座卓の上に、稲荷寿司が山と盛られた大皿が二枚並んでいた。
コンロの上の鍋の中には、根菜の煮物とけんちん汁。
「お帰り、母さん」
玄関に出ると母さんは細い腕に抱えていた紙袋をよっこらしょと上がり框に置いたところだった。
「ただいま、せいちゃん」
「どうしたの、その袋」
「ああ、お米よ。新米。お土産」
「爺ちゃんから?」
違う、と母さんが手を振る。
「ほら、新米の時期になると送ってくれるおじさん、覚えてない? 帰ろうとしたときにちょうど来たのよ、で、もってけって小分けにしてくれてね。せいちゃんに、遊びにおいでって言ってたわ」
「遊びにって、あそこ遠いよ」
「そうねえ」
重たかったのか、母さんは腕をさすっていた。
細面につり気味の切れ長の目、それに色白の肌。
ほっそりした体は動きがしなやかで、今もするりと横を通って奥へと行った。
「母さん」
「悪いけどそれ運んできて」
声が飛んできた。
足元を見ると、十キロ以上入ってそうな米袋。
それと、一升瓶。お酒だ。
両方抱えてきたのか。そりゃ重かろう。
一度で何とかしようという愚は犯さずに僕はまず米袋を抱えた。
台所に行くと、父さんはいなかった。
母さんは続きの和室で体を伸ばしている。
「父さんは?」
「お庭。ぶどう取ってくるって」
「ああ、成ってたね」
父さんは、果樹を育てるのが好きだ。
おかげで年中果物には事欠かない。
桃もある。売ってるものより美味しい、お金出してもいいからほしいという人がいて、仕方ないなと数本手入れして育ててる。
最近は、手のかからないものはつまらないなんて言い始めて、熱帯植物まで育て始めた。ただの趣味のはずなんだけど。
「せいちゃん、ドラゴンフルーツ食べちゃった?」
「熟れてたから食べたよ」
「そうなんだ……」
心なしか落胆してるようだったので、食べたかった?と聞こうとして僕は口を開きかけた。
ら。
「何だこりゃあ!」
父さんの大声が聞こえて、僕らは同時に庭を見たのだった。
どうしたのかと慌てて窓を開けたら、父さんと同じ言葉を僕も叫びたくなった。
その後ろから、母さんののんびりした声が聞こえた。
「あらまあ、おじさんからだわ」
「え?」
振り向く。
すると、母さんはすっと庭に向かって指をさした。
「あそこ。見えない?」
もう一度、母さんが示す辺りを見る。
「せいちゃんには見えるはずよ。父さんには無理だわね」
目を凝らす。
庭にあるのは、米俵だ。
どかんと三俵、縁起物のように三角に積んである。
その上に――
白狐がいた。
その向こうに目を見開いている父さん。
母さんが「配達ご苦労さま」と声をかける。
一声、返事をするように白狐が鳴いて、姿を消した。
贈り物か。
母さんの、遠い親戚のおじさんからの。
……やだなあ。
遊びに来いってそういうことか。
普通なら新米が来て嬉しいですむ。でも、僕には別の意味が感じ取れる。
母さんがそっと隣に立った。
「せいちゃんの力が必要なのかもね」
「うん」
お役に立ってらっしゃい、と母さんが僕を見て笑う。
いつもの笑い方じゃない。
父さんをとろかした、艶やかな笑みだった。