マルクとマリー
木と木の間から木漏れ日が溢れ出しキラキラと光る湖。大合唱を起こす小鳥の囀り。岩の間から顔をだすウサギやリス。
マルクはその中を鼻歌交じりに駆け回る。オーバーオールの肩にかける部分の片方がダラーンとぶら下がる姿がいかにも田舎臭い。帽子を手元でくるくる回す。
マルクはこの森に住む小さな家の一人息子。
祖父と父は猟師で、小さい頃から狩りに連れられていたが責任感やら勇気やらに欠けるマルクは12歳になった今も、狩りの手伝いをほっぽり出して森の中を探検していた。
「たまげたぁ! こんなとこにこんなお屋敷があったんかぁ」
いつもより遠くまで来たからか、マルクは森が開かれて建てられた屋敷の前まで来ていた。
屋敷は二階建てで、白がメインで青い屋根が際立つ素晴らしいものだ。
マルクは、数キロ行った先にあるバリック夫妻の家と自分の家しか見たことがないため、こんなに窓がたくさんある家を見たのは初めてだった。
「あ、あなたは?」
マルクが家を呆然として眺めていると、その屋敷の窓の一つが開きそこから声をかけられた。
その声の主は、自分と同い年ぐらいの少女だろうか。
長い綺麗な金の髪を風でなびかないように抑えていて、服は部屋着なのだろうがマルクには見たことのないような綺麗なものだった。
「おお! びっくりした! へへ、俺はマルク。お前は?」
そうその少女に返答すると、その少女は目を丸くして答えた。
「お、お前…。こほん、私はマリーヌエンド・トゥ・モルモンドです」
「え? マリー…なんだって?」
「だからマリーヌエンド・トゥ・モルモンドです!」
「お前なっげぇ名前だなぁ…俺頭悪いから覚えられねーから、マリーって呼ぶな」
マリーはまたも驚愕した表情をして、固まっている。マルクは続けた。
「それよりもマリー、お前すっげぇお屋敷に住んでるんだな! いいなぁ!」
それを聞くとマリーは少し悲しそうな顔をして口を開いた。
「いいことなんて、ありませんよ。私は生まれてから、数えるほどしかこの屋敷の外には出たことがありません。私にはこの屋敷がどうすごいのかも、それを作ったお父様がどれだけすごいかも、外の世界がどうなってるのかも何も知らないのです」
マルクはよくわからず、また聞く。
「牛もウサギもリスも? みんな知らないのか?」
「いいえ! 牛もウサギもリスもみんな本の中で見たことがあります!」
マリーがそう言うと一瞬考えてマルクは返答した。
「それじゃ見たって言わねぇよ。だって、牛は毎日美味しいミルクを出してくれるし、ウサギやリスは岩の間に隠れるかくれんぼの天才だ。そんなの本には書いてねぇだろ?」
マルクは牛やウサギやリスのモノマネをしながら、草っ原を駆け回った。
「マ、マルクはウサギやリスとかくれんぼしたことあるんですか?」
「おうよ! 他にもいろいろあるんだぜ」
「すごい! 私にもっといろんなこと聞かせてください!」
それからマルクは雨の日も風がすごい日もマルクの足では何時間も掛かるマリーの屋敷に毎日のように行って、動物たちのことや家族のこと、森の木々の話、いろんなことを話した。マリーからも色々な話を聞き、マリーのことも知っていった。
赤色が好きなこと…。鳥が好きなこと…。そんなある日のことだった。
「よーし、今日は湖で釣ったでっけぇ魚の話を聞かせてやるぞ〜」
マルクはいつもより、早く足を走らせ屋敷に向かっていた。屋敷の近くまで来ると遠くの方に変な煙が立っているのに気づいた。
(こんなとこで焚き火?)
マルクは疑問に思ってるといろんな人の話し声も聞こえてきた。
マリーの屋敷はもう何回も何十回も来ているが、使用人と言われるお手伝いさんとマリーのお医者さんは見たことがあったが、そんなに大勢の人を見たことがない。
そもそもマリーは外の者と話すのも、変な影響を受けるという理由で禁止されていた。
だからマルクが来ていた時も窓越しでの話だったし、誰にも見つからないように気をつけていた。
マルクはそんな大勢の話し声に嫌な感じがして、走って向かう。
「なんだ…これ」
マルクが見たのはマリーの屋敷が赤く燃え上がる姿だった。
白色ベースの青い屋根が際立つあの素晴らしい姿はどこにも見当たらなかった。
「マリーヌエンド! マリーヌエンド!」
マリーの両親だろうか? マルクの見知らぬ人たちが止められながら屋敷に向かって叫んでいる。それを聞いてマルクはマリーの部屋の窓に顔を向けた。
(マリーがまだこの中に…?!)
マルクは一瞬燃える屋敷を見て、その中に取り残されたマリーの姿を想像して、吐き気を覚える。その感覚をマルクは知っていた。
「マルク。狩りは生きていくために必要なことだ」
「やだよ! 動物たちを殺すなんて僕にはできない!」
「お前は優しい。けどその勇気を持たないと人は死ぬんだぞ」
マルクの頭には父に言われた言葉が浮かんできた。
マルクは動物を殺せなかった。殺す想像をするだけで吐き気に襲われる。そして今、燃える屋敷を見て同じ感覚を感じていた。
(マリーが…死ぬ?)
マルクの足は頭で考えるより早く地面を蹴りだしていた。
「マリーーーー!」
人混みを抜け、マルクを止めようとする手を掻い潜り、炎の中に飛び込んでいった。
「げほげほ」
火は一階に回っているらしく、まだ階段の方までは回ってなかった。
しかし煙がすごく、一度吸い込んだら動けなくなってしまうかもしれない。
(くそぉ…マリー…どこなんだ…)
階段を上がるが、一度も入ったことのない、しかもこんな大きな屋敷の中からマリーのいる部屋なんてのを見つけるのは簡単なことではない。しかも階段は螺旋になっていて自分がどっちを向いているかもわからない。
「ゲホッゲホゲホ!」
(やばい、少し吸い込んだ)
マルクは自分の限界が近いことを悟り、煙によって涙が流れ出す目を極限まで開けて、集中する。
「狩りをするなら目を鍛えろ。どんな遠くの獲物の些細な動作も見逃すな」
父がよく口にすること。こんなところでその言葉を実行するとは思わなかったが、マルクは目に全神経を集中し、煙で数メートル先も見えない廊下を見つめる。
すると遠くの方で何かが動くのを感じた。
(見えた!)
マルクが一心不乱に駆け出した先にはマリーが倒れていた。マリーをマルクは抱き上げる。
(マリー…!)
マルクは初めて触れるその女の子にまだ温もりがあるのを確認し、すぐに来た道を戻る。
「!?」
(くそぉ…!)
火は瞬きするうちに階段を駆け上がってきた
。マルクは、その部屋の主に逃げ出したまま開けっぱなしにされていた、階段近くの部屋に入り扉を締める。
扉の向こうを炎が駆け抜ける振動が嫌なほどマルクの体の芯まで鈍く響いた。
ほとんど空気を吸っていなかったマルクの目はすでにかすれ、マリーを抱き上げていた両手は鉛のように重い。
少し煙を吸ってしまったのか胸が燃えるように熱く苦しい。
「私の部屋がどんなのかって? なに、マルクってばエッチねー。女の子の部屋のこと聞くなんて」
マリーがクスクスと言うと、マルクは「?」という表情を見せる。
「何が?」
マルクの言葉にマリーは逆に少し恥ずかしくなり、一つ咳払いをして話を続けた。
「私の部屋は、ぬいぐるみと本がたくさんあるの。だって友達はマルクだけだし、部屋の中で過ごすことが大半なんだもの」
マリーは一つ一つぬいぐるみや本を見せてくる。
「すごいいっぱいあるんだなー! 俺は文字とか読めないから本なんて読んだことないぞ」
「えー! 外の子達は文字の読み書きは学校で習うって聞いたんだけどな…? 私は家に先生が来てくれるけど…」
「お前は猟師になるんだからいらんってさ。マリーは本をいっぱい読んでるからいろんなこと知ってんだな」
そう言うとマリーは思い出したように手をパチンと合わせた。
「私のお父様の部屋にはもっとたくさんの本があるのよっ。難しい本ばっかりだけど、遊び場所がない私はよくお父様の部屋に行ったわ」
「マリーより本読むなんてすげぇな」
マルクは単純に驚きの表情をする。なんせ、父も祖父も文字の読み書きはできるものの、時間のほとんどを狩りやらに費やす。男は動いてなんぼと育てられたマルクには新鮮であった。
「それでね、これは誰にも言っちゃダメな秘密なんだけど…言わないって約束できる?」
「? 俺はマリーと会ってるのも言ってないし、そもそも言う人がいない」
「それもそうね」
マリーは秘密の共有に少しワクワクしていた。
使用人はほとんど事務的な話しかしないし、唯一普通の話ができる先生も、この話をしようとした時「お嬢様、私に秘密を喋ったら、秘密の意味がないじゃないですか。そういうのはお嬢様が大きくなって友達ができたら話すと良いですよ」と言われて、話すことができなかった。
やっと、友達ができて話せるのでマリーは嬉しかった。
「実はお父様の部屋に隠れて行って、本を読んでたけど、机の奥のある本を引っ張り出した時すごいことが起こったのっ」
「ほえー…すごいことなぁ。何があったんだ?」
「えへへへ、ないしょー」
マリーはクスクス笑う。
「なんでだよー! そこまで言ったなら教えてくれよ〜」
マルクが両手を挙げて文句を言うが、マリーは「だめー」と言って焦らした。
「そんなこと言うと今度から外のすごいこと教えてやんねーぞ」
「わー! それはずるいわ。私が話せること少ないんだもの。今度教えてあげるから、マルクも明日もまた話しにきてね」
「うー、わかったよ。また今度な」
炎が燃え盛る。マルクはマリーを抱きかかえ、今にも倒れる寸前だった。
(マリー…)
マルクはどうにかしたかったが、廊下も炎に包まれて戻れない。マルクは倒れそうになりながら、ふと顔を上げるとかすかに部屋の内装が見えた。
(これは…)
マルクは体を引きずり壁の方に近づくと、そこには一面の本の壁があった。
(もしかしてここはマリーの父ちゃんの…)
以前話していたマリーの秘密の話を思い出す。
マルクはあの後、その秘密を聞かずにいた。
それを聞いちゃったら、会いに行けなくなるような気がしたからだ。マルクは記憶を頼りに、机の近くの本を引っ張っていく。
(秘密の内容聞いとくんだったかな…)
マルクは少し微笑む。
(探せ…。探せ…。マリーが選びそうな本を…!)
マルクの目には周りの視界はほとんど見えなかったが、確かにその本だけ赤色に光って見えた。
(マリーは赤色が…好きだった…)
マルクは力を振り絞りそれを引っ張り抜いた。すると壁が動き壁の向こう側に空洞が現れた。マルクは鉛のように重い体を動かし、マリーを抱きかかえその空洞に体を投げ出す。強い衝撃と共に一階のある部分に落ちたようだった。
(…やった…ぞ…)
火は回っているようだが、そこは螺旋階段の裏だった。マルクは最後の力を振り絞って、入り口の扉へ体を引きずった。
「これは?」
「えーと、A…P…P…L…、あぁ! わかったパイナップル!」
「もー! バカマルク! それはりんごだってば!」
「わかんねーよこんなの!」
マルクとマリーはあの後火の中で倒れたが、外にいた大人たちの手により救出された。火災の原因はマリーの父親の成功を妬んだ者の犯行だった。マリーの父親はあの時すぐにマリーの部屋に助けに行ったが、その時マリーは部屋にいなかった。マリーは勉強部屋にいたのだ。普段家を空けている父親は勉強部屋にいるという考えすらおきず、マリーは逃げたものと思っていた。このことをきっかけにマリーの父も積極的にマリーと話すようになり、少しずつ外出することも許された。まぁ、もちろん使用人付きであるが。
「なんでわかんないのよ!」
「あーもうやだ! 俺は狩りに行かなきゃいけないんだ」
ドヤ顔でマルクが言う。マルクの方もあの事件以来、狩りの仕事を頑張るようになり、少しずつであるが父たちの手伝いをしている。もう吐き気は感じなくなった。
「もう〜…すぐ逃げるからいつまでもできないのよ」
「べー」
マルクはくしゃっとした笑顔を見せると、森を駆け抜けていった。