学ぶ楽しさ
明日香との兄妹生活が始まってから三週間、俺と明日香との間にあった壁は徐々にではあるけど、確実になくなってきていると感じていた。
「おにいちゃん、なに、してるの?」
遥か彼方で夕陽が沈み、黒の暗幕が空を覆い尽くした頃、自室でパソコンを扱っている俺の所へ明日香がやって来た。相変らず話し方はたどたどしいけど、それでも最初に比べたらかなり流暢に話せる様になってきている。
「ちょっと日記を書いてたんだよ」
「にっき?」
日記を書き始めたのはなんとなくだけど、俺は明日香が来てからの事をパソコンに日記として書き残していた。
こうして日記を書く事を面倒に思う人は多いだろうけど、俺は昔からゲーム攻略記録なんかもちょくちょく書いてたし、日記を書く事に対して特に面倒を感じたりはしなかった。
「見てみるか?」
「うん」
少し照れくさくはあるけど、俺は明日香に自分の日記を見せた。すると明日香は興味津々と言った感じで身体を乗り出し、日記の書かれた画面を見始めた。
しかしその様子をしばらく見ていると、ちょっとおかしな感じがした。なぜなら明日香は、画面を見てはしきりに首を傾げていたからだ。
「どうかしたか?」
「おにいちゃん、これ、なんて、よむの?」
「えっ?」
明日香が画面上の文字を指差す。
そこに書かれていたのは日記の出だしの文字で、『今日』という漢字だった。
「もしかして、漢字が読めないのか?」
「かんじ?」
この反応を見ると漢字が読めないと言うより、漢字そのものを知らないと言った感じに見えた。そう思った俺はもしかしてと思い、別の文字を指差してみた。
「これは何て読むか分かるか?」
俺が指差したのは平仮名の『は』だ。小学一年生はおろか、幼稚園の子でも読める文字だ。
「わからない」
この言葉を聞いて俺は確信した、どうやら俺の考えは間違ってはいないみたいだ。前から明日香の知識についてはどこかちぐはぐなところがあったけど、それは言語という面においてもそうだったらしい。
それにしても不思議なもんだ、文字が読めないのに会話はできるし、その意味もある程度理解している。
――いや、待てよ? よくよく考えると、赤ちゃんも文字の読み書きの前に言葉を覚えるもんな。そう考えると、これは自然な事なのか?
「……明日香、読み書きの勉強をしてみるか?」
「うん!」
「よし、それじゃあまずは平仮名から覚えような。新品のノートと鉛筆を明日香にあげるから、しっかりと練習するんだぞ?」
「わかった!」
嬉しそうに返事をする明日香を俺が座っていた椅子に座らせ、俺はさっそく明日香に平仮名を教え始めた。
――こういうのっていいよな、なんか兄妹っぽくて。
そんな事を思って微笑みながら、俺は明日香に丁寧に平仮名を教えた。
× × × ×
「お兄ちゃん! 全部終わったよっ!」
明日香に勉強を教え始めてから一週間後、この日の夜も元気に俺の部屋へと入って来た明日香が、満面の笑みを浮かべながらノートを差し出して来た。
「もう出来たのか?」
勉強を教え始めてからまだ一週間だというのに、明日香は既に小学一年生レベルの読み書きをマスターしていた。それは平仮名、カタカナ、漢字を含めてだ。しかも平行して教えていた計算も、既に小学一年生レベルを習得している。
俺はあれから毎日少しずつ課題を出し、その問題を一生懸命に解いた明日香の答え合わせを毎晩やっていた。
「ほらっ! 見て見て!」
急かす様にしてノートを俺の前へと差し出す明日香。出会った頃とはまるで別人みたいに話し方のたどたどしさも消え、今ではもう、すっかり普通に会話ができる様になっていた。
これに関してはおそらく、読み書きの勉強に加えて読書をしていた影響が大きいと思う。
俺は明日香が平仮名とカタカナをマスターした際に、絵本や童話の本をいくつか買ってあげていた。それは明日香の勉強と復習にもなるし、何より音読をする事によってそれだけ言葉も覚えるからだ。
そしてそれを証明するかの様に明日香の言葉の表現方法は増えていって、前よりも遥かに分かりやすくコミュニケーションがとれる様になった。
「よし、それじゃあ採点するぞ」
「うん!」
明日香はこの採点タイムがとてもお気に入りらしく、正解の赤丸がついていくのが嬉しいらしいのだが、その気持ちはよく分かる。俺も幼い頃、解けなかった問題が解ける様になった時には、無性に嬉しくなって親に言ったりしてたから。
楽しそうに採点を見守る明日香をたまに横目で見ながら、俺は軽やかに赤ペンを進める。
「――凄いぞ明日香! 百点満点だ!」
「やったー!」
元気にその場で飛び跳ねて喜ぶ明日香。そんな嬉しそうに喜ぶ明日香を見て、俺は本当に凄いと思った。
一週間という短い期間で、この成長ぶりは普通ではない。だけどそれは、本人の頑張りの結果だ。俺は明日香がどれだけ努力をしていたのかを知っている。だから今は沢山褒めてあげよう。
「凄いぞ明日香、これならすぐに他の勉強もできる様になるぞ」
「えへへっ♪」
「やっほー♪ ちょっと仕事でしばらく来れなかったけど、涼太君も明日香も元気にしてる~?」
頑張った明日香の頭を撫でて褒めていると、いつもの呑気な声と共にサクラが俺達の前に現れた。毎度の事ながら唐突な登場をする奴だ。
「あっ! サクラ見て見て!」
明日香は採点が終わった算数のノートを持ち、それをサクラへと見せ始めた。
「何々? おーっ! これ明日香がやったの? 凄いじゃない!」
「明日香ね、漢字も覚えたんだよ! ほらっ!」
明日香は机に置いていたもう一冊のノートを手に取り、そのページを開いてテンション高くそれをサクラに見せた。
「へえー、こんな事もできる様になったんだね、凄いよ明日香」
「お兄ちゃんがね、いっぱいいーっぱい明日香にお勉強を教えてくれたの!」
「そっかそっかあ、明日香はいっぱい頑張ったんだね、偉いぞ~」
「えへへっ♪」
サクラはまるで自分の娘でも褒めるかの様に、満面の笑顔で明日香の頭を撫でていた。
そして明日香はそれにご満悦らしく、とてもにこにことしている。
「ねえお兄ちゃん、これで明日香も学校に行けるかな?」
「えっ? 明日香は学校に行きたいのか?」
「うん!」
初めて聞いた明日香の望みに対してその理由を聞くと、前にテレビで見た小学校でのイベント行事を見てから興味が湧いたらしく、ぜひ通ってみたいと話をしてくれた。
――学校か……。
それを聞いた俺はかなり悩んだ。できれば明日香の願い通りに学校へ通わせてあげたいけど、それをするにはちょっと問題があった。
その一つは、明日香が学校に居る不特定多数の人とコミュニケーションがとれるか――という事、そしてもう一つが、今の明日香の学力を考慮すると、小学五年生レベルの勉強について行くのは難しい――という問題だ。
「……お兄ちゃん、ダメ? 明日香、学校に行けない?」
色々と考え込んでいるのをダメだと受け取られたらしく、明日香は元気無くそう言いながら顔を俯かせてしまった。
「あ、いや、ダメってわけじゃないんだ。でもな明日香、今のままじゃ無理なんだよ」
「そっか……」
「でも心配するな、お兄ちゃんがちゃんと明日香が学校に行ける様にしてやるからさ」
「本当?」
「ああ! お兄ちゃんに任せとけ!」
「うん! 分かった!」
――本当に学校へ行きたいんだな、こりゃあ俺もしっかり覚悟を決めないと。
「ねえ涼太君、そんな約束して大丈夫なの?」
「大丈夫さ、でも今回はサクラの手助けも必要なんだ」
「私が手を出せる範囲の事ならいいけど」
「心配ないさ、サクラにしか出来ない事だから」
明日香とサクラには俺が考えていた事を詳しく説明し、お互いに疑問を残さない様にしっかりと話し合いをした。
「――なるほどね、確かにそれなら私がどうにかしないと無理だね」
「だろ? よろしく頼むぞ?」
「分かった!」
「明日香も頑張れるよな?」
「うん! 頑張る!」
――よしよし、いい返事だ。
こうして俺達三人でやる初めての協力プレイ、学校へ行こう計画が始まった。