兄として
明日香ちゃんという実体のある幽霊が妹になってから二週間、小さな子供とあまり変わらない明日香ちゃんとの生活は大変だけど、俺はなんとなく楽しく思いながら日々を送っていた。
そして今日、朝早くに起きた俺は明日香ちゃんの朝食を準備し、自室で寝ている明日香ちゃんを起こさずに少し遠くにあるデパートへと向かった。
今日の買い物の目的は、明日香ちゃんの着替えなどを買出しに行く事だ。さすがにいつまでもコンビニで買った下着や俺の服じゃ可愛そうだから。
本当なら明日香ちゃんと一緒に買いに行けばいいんだろうけど、明日香ちゃんは外に出るのを極端に恐がるので、俺が一人で買いに行く事にしたわけだ。
――これはハードルが高いな……。
たかだか買い物と軽く考えて来たんだけど、デパートに着いて訪れた女性用下着の専門店前で、俺は中に入れず立ち往生をしていた。
しかしそれは当然だと思う。そもそもこんな場所に男一人で平気で入れるわけがない、言ってみればそこは、男の侵入を拒まんばかりの雰囲気に満ちた秘境なのだから。
「はあっ、困ったな……」
さっきから店に入店できず、俺はチラチラと店内の様子を外から窺いながら店の前を行ったり来たりしている。
そしてさすがにいつまでも店外をうろうろしていたせいか、店員さんには不審者を見る様な目で見られていた。
「あれ? もしかして涼君?」
「えっ?」
振り向いた先に居たのは、幼稚園からの幼馴染である姫野琴美だった。
頭の左右にある赤いリボンが特徴的で、昔から自慢だと言っていた艶やかな黒髪のロングヘアーが綺麗な女の子だ。ちなみに小学生の時からのクラスメイトでもある。
そんな琴美とは小さな頃こそよく一緒に遊んでいたけど、いつからかそんな事もなくなった。なぜ一緒に遊ばなくなったのかと言えば、その理由は簡単だ。俺は琴美の事が好きで、一緒に居たいと思いつつも、思春期特有の反応ってやつで琴美を避けてしまっていたからだ。
「どうしたの? こんな所で?」
「あ、いや、これはだな……」
この状況をどう説明すればいいんだろうかと、俺はちょっと焦っていた。だってこのままでは、下着屋の前をうろちょろしていた変態男子になってしまうから。
「あっ、もしかして明日香ちゃんの為の買い物?」
「えっ!?」
どうして琴美が明日香ちゃんの事を知っているんだろうかと、俺はとても驚いていた。明日香ちゃんの事は誰にも話してないし、俺以外は知らないはずだからだ。
「琴美、どうして明日香ちゃんの事を知ってるんだ?」
「えっ? どうしてって、昔は一緒に遊んだりしたじゃない。身体が弱くてあまり外には出られなかったけど」
――明日香ちゃんと琴美が一緒に遊んだ事がある? 身体が弱くてあまり外に出られない? どういう事だ?
『明日香についての情報は、私が涼太君の知り合い、関係者に別の記憶を刷り込んであるんだよ』
「サクラ!?」
突然サクラが目の前に現れ、それに驚いて思わず大きな声で名前を言ってしまった。
「えっ? さくら?」
突然大きな声を上げた俺に、琴美がきょとんとした表情を見せる。
『シーッ! 落ち着いて涼太君、私の姿は他の人には見えてないの。だから私と普通に会話をしようとしないで』
「あっ、悪い悪い、あの桜色の下着、明日香ちゃんに似合うかなと思ってさ」
サクラにそう言われ、俺は慌てて店の前にあるマネキンが着けていた下着を指差した。誤魔化し方としては最悪かもしれないけど、他に誤魔化し方を思いつかなかったんだから仕方ない。
「ああー、そういう事か、確かにいい色だよね、明日香ちゃんに似合うかも。そうだ! せっかくだから私が何かいいのを見繕ってあげるよ♪」
そう言うと琴美はなんだか楽しそうにしながら店の中へと入って行った。
「普通に会話をするなって、どうしろって言うんだよ?」
琴美が店の中へ入るのを確認したあと、俺は近くに人が居ないのを確かめてから小声で目の前に居るサクラへと話し掛けた。
『人前で私と話をしたい時は、私に向かって心の中で言葉を発してくれればいいから』
「それでちゃんと伝わるのか?」
『もちろん!』
そう言われた俺は、サクラの言う通りに心の中で言葉を発してみる事にした。
『それじゃあ聞くけど、記憶を刷り込んだってどういう事だ?』
『そのままの意味だよ、明日香は涼太君の妹として、十一年間を一緒に暮らしてきたって記憶を刷り込んでるの。そうじゃないと、明日香が突然家族として増えてたらおかしいでしょ?』
どうやら心の中で喋った内容はしっかりとサクラに伝わっているらしい。
『つまりこれが、俺達が生活を送る上で支障が無い様にする為の処置の一つって事か?』
『そういう事だね』
「涼くーん! ちょっと来てー!」
そう言いながら琴美は店内から手招きをする。正直こんな所で琴美と出会ったのはビックリしたけど、この場は感謝するべきだろう。さすがに男一人で女性下着の買い物はきつかったから。
それから琴美が明日香ちゃんの下着を選ぶのを見守る中、俺は琴美から明日香ちゃんの下着のサイズなんかを聞かれたわけだが、当然そんなものを俺が知るわけがない。というわけで、琴美は俺の主観からもたらされる情報を元にいくつかの下着をチョイスしてくれた。
こうして琴美に選んでもらったいくつかの下着を買ったあと、俺は琴美に頼んで明日香ちゃんに似合いそうな服もチョイスしてもらった。
「――ありがとう琴美、凄く助かったよ」
「ううん、明日香ちゃんの為だもん、気にしないで」
最後に行った洋服屋さんを出たところで、俺は改めて琴美にお礼を言った。
こうして目的の物を買い終えた俺が家に帰る事を告げると、琴美は『一緒に帰ろうよ』と申し出てきた。想いを寄せる琴美と一緒に帰るなんて凄く緊張するけど、俺は勇気を振り絞って一緒に帰る事にした。
そして隣に居る琴美に緊張しながらもデパートの出入口へ向かっていると、たまたま視界に映った店にとある物があるのが見え、俺は思わずその店の前へと駆け寄ってしまった。
――これは間違いない! ずっと探していたシスターメモリアルの限定版じゃないかっ!
駆け寄ったゲームショップのショーウインドウに展示されていた品を前に、俺は一気にテンションが上がっていた。そして欲しかった品を前についつい琴美が居るのを忘れ、俺はそのゲームショップに入ってからその限定版を即買いして来てしまった。
こうして買い物を済ませて店を出たところで待っていた琴美を見て俺は冷静になり、俺は恐る恐る琴美に近付いて頭を下げた。
「あ、あの……ごめんな、琴美……」
「大丈夫だよ、涼君は昔からゲームが好きだったもんね」
店の外でちゃんと待ってくれていた上に、にこやかに微笑みながら優しくそう言ってくれる琴美。
正直、美少女ゲームオタクってのは女子に敬遠されやすい。だから少なくとも、琴美にだけはこういったところを見せたくはなかった。それだけにこの状況は非常に気まずい、よりにもよって好きな子の前でこの状況とは死にたくなる。
「……あのさ、琴美はこういうゲームをしてる奴は嫌だよな?」
「ん? どうして?」
「だって、気持ち悪いとか思うんじゃないのか? 他の女子なんかはそうだしさ……」
気まずさで琴美を見る事ができないまま、俺はそんな質問をした。しかしそんな質問をする意味はほとんどない、だってその答えは決まりきっているんだから。
「確かにそう言う子も居るけど、私は別に気にしないよ?」
「えっ!? 何で!?」
琴美の口から出た言葉は俺の予想する答えとは全く違い、ついついそう聞き返してしまった。
「だって、涼君は好きなんでしょ?」
「う、うん……」
「だったらそれでいいじゃない、好きな物は好き――誰にも迷惑をかけているわけじゃないんだから。それに私だって、可愛い女の子のキャラクターは好きだし」
そう言って琴美はにこやかに微笑んだ。
琴美は昔から本当に優しい子だ、こういったところも昔と全然変わっていない。
「それに私、涼君がそういうゲームに夢中になった理由も分かるつもりだから……」
優しい微笑から一変、琴美は途端に悲しそうな表情を浮かべてそう言った。
そしてそんな琴美の言葉を聞いた俺は、ふと疑問に思ってしまった。俺がこういったゲームにはまり始めた切っ掛けって、いったい何だっただろうか――と。
「なあ琴美、その理由って何だ?」
「えっ? 何ってあれだよ、ほら、えっと……あれっ?」
琴美は困惑した様な表情を浮かべながら、必死に何かを思い出そうとしている様子だった。
「おかしいなあ……思い出せない、大事な事だったはずだったのに……」
それは俺も同じだった。
何かとても大事な事が、とても嬉しくて、とても悲しい事があった様な気がする。しかし俺達は結局、その何かを思い出す事はできなかった。
× × × ×
「それじゃあ私はこっちだから」
「あっ、うん、きょ、今日はありがとう、琴美のおかげで助かったよ」
「うん、また何かあったら遠慮無く言ってね? いつでも協力するから」
「ありがとう、助かるよ」
「それじゃあまたねっ!」
琴美はこちらを振り返りながら何度か手を振り、自宅への道を歩いて行く。そしてその姿が見えなくなったあと、俺はようやく緊張から解放されて大きく息を吐いた。
「はあっー、久々だったぜこの緊張感は……」
人間てのは不便な生き物だ、好きな人が近くに居るだけでこんな風になってしまうんだから。
未だドキドキと高鳴る胸を手で押さえながら、自宅への道を歩く。
琴美と別れた場所から自宅まではそれほど距離は離れてないので、俺は五分もしない内に自宅前へと着いた。
「ただいまー」
「おにいちゃ――――んっ!」
ポケットから取り出した鍵で玄関のロックを解除し、いつもの様にちょっと雑に取っ手を回してから扉を開けてそう言うと、明日香ちゃんが泣きながら走って来て俺に飛び付いて来た。
「ど、どうしたの!? 何かあったの!?」
明日香ちゃんがこんなに泣いているのを俺は初めて見た。ましてや何があっても俺にここまで近付いて来た事はなかったのに、こうやって抱き付いて来るなんてただ事ではない。
何やらただならぬ事があったのだと思い、俺は泣きじゃくる明日香ちゃんをしっかりと抱き締めた。
「落ち着いて明日香ちゃん、何があったの?」
まずは泣いている理由を知らないといけない。だから俺は泣きじゃくる明日香ちゃんの頭を優しく撫でながらその理由を尋ねた。
「ごめん、なさい……」
「えっ?」
「ごめん、なさい、おにいちゃん、よいこに、するから、あすかを、すて、ないで……」
「ど、どういう事?」
とりあえず俺に抱き付いたまま泣きじゃくる明日香ちゃんを宥めながら、俺は時間をかけて明日香ちゃんに泣いている理由を聞いてみた。するとどうやら、その原因は俺にあったみたいだった。
俺はいつも出掛ける時は明日香ちゃんに言ってから出掛けるんだけど、今日は遠くのデパートへ行く為に起きるのが早かったから、寝ている明日香ちゃんを起こすのは可哀想だと思って何も言って行かなかった。どうやらそれがまずかったらしい。
目が覚めた明日香ちゃんは俺が家に居ない事に気付き、自分が見捨てられたんだと思って俺を捜し回っていたらしいのだ。こんな事になるとは思ってもいなかったけど、明日香ちゃんには悪い事をしてしまった。
「ごめんね明日香ちゃん、俺――いや、お兄ちゃんは明日香ちゃんの洋服とかを買う為にお出掛けをしてたんだよ」
「あすかの、およう、ふくを?」
「うん、凄く可愛い服を沢山買って来たんだよ」
「あすかの、ために、おにいちゃんが?」
明日香ちゃんが安心する様にと、俺は笑顔で何度も頷いた。
「おにいちゃんは、あすかを、みすて、ない?」
「そんな事はしないよ」
「ほん、とう、に?」
「うん、本当だよ」
そう言って再び明日香ちゃんの頭を優しく撫でると、明日香ちゃんは安心した様な表情を浮かべて俺の胸に顔を埋めた。
これは推測だけど、明日香ちゃんは別に俺を嫌って避けていたわけではないのだと思った。多分、俺と同じでどう接していいのか分からなかっただけだと思う。明日香ちゃんには可哀相な事をしたけど、今回の件はお互いの距離を縮める良い切っ掛けになった気がする。
「そうだ、明日香ちゃ――」
――そういえば、いつまでも妹をちゃん付けで呼ぶってのもおかしいよな。これは切っ掛けなんだ、一歩先へ進む為の。
「明日香、この紙袋にお洋服が入ってるから、上の部屋で見ておいで」
「うん!」
今までに見た事が無い満面の笑顔を浮かべて紙袋を受け取り、明日香は自室へと向かって階段を上って行った。そしてそんな明日香の笑顔と姿を見た俺は、自然と笑みがこぼれていた。
こうして初めて明るい笑顔を見せてくれた明日香を見送ったあと、飲み物を飲む為に台所へ行った俺は、その惨状を見て驚愕した。
「こ、これはいったい!?」
俺が訪れた台所は、なぜか食器や食材があちらこちらに散乱している散々たる状態になっていた。
「あ、明日香ー! いったい何をしたんだー!?」
その声に台所まで来た明日香に話を聞いたところ、俺の為に料理を作って待っていようと思っていたと聞かされた。その思いと行為は健気で可愛らしいもんだが、これじゃあ料理を作ろうとしていたと言うより、泥棒が凄まじい家探しをしていた様にしか見えない。
しかし今回は俺に責任があるんだから、仕方のない事だと思っておこう。
とりあえずこの惨状をどうにかしなければと思った俺は、明日香と一緒になって片付けを始めた。そして二人で一緒に片付けをしながら、俺は明日香との距離が少し縮まったのを感じていた。