二人の距離
俺に突然妹ができてから今日で一週間が経ったが、この一週間は決して平穏とは言えず、それはもう大変だった。明日香ちゃんが世間で言うところの普通と違うのは最初から分かっていたけど、その考えは俺の予想を遥かに上回っていた。
そしてそんな明日香ちゃんは相変らず俺にまだ慣れていないらしく、極端な接触は避けられていた。困った事ではあるけど、それは今のところ最優先すべき問題ではない、人ってのはいずれ環境に慣れていくものだから。それよりも危惧すべき問題は他にある。
「こ、これはいったい……」
日曜日の朝食後、庭に洗濯物を干しに来た俺の目前には不思議な光景が広がっていた。
目前にある物干し竿、そこにはお玉やお箸、茶碗などが絶妙なバランスで青色のビニール紐で括られて吊るされていたのだ。そしてその光景は、田舎に住むじいちゃんの家の庭で見た干し柿が吊るされている光景を思い起させる。
――確かに明日香ちゃんに『洗い物をしたあとはしっかりと乾かすんだよ?』と言ったけど、それはこういう意味ではないんだよなあ……。
「明日香ちゃーん、ちょっとおいで~」
「な、なに? おにい、ちゃん」
俺の呼び掛けにベランダへとやって来た明日香ちゃんが、困惑の表情で掃き出し窓に隠れてこちらを見ている。そんな明日香ちゃんの表情を俺が見るのは、これで何度目だろうか。
困った事に明日香ちゃんは、一般的な生活において人が普通に行っている事を満足に出来なかった。洗濯機をかけておいてと言った時には、粉洗剤全てを投入して洗濯機周辺を泡まみれにしてたし、洗濯物を干す間にお肉を焼いておいてと言えば、黒こげになるまで焼いてた。
こんな感じで明日香ちゃんは、小学校高学年くらいなら出来そうな事もまったく出来なかった。それに知識や行動もやたらとちぐはぐで、正直、どうしていいのか分からない時が多い。
「わたし、なにか、わるいこと、した? おにいちゃん、おこって、る?」
「いや、別に怒ってる訳じゃないよ?」
明日香ちゃんはよく、こうして怯え困惑した様な表情を見せる。
そんな明日香ちゃんとこの一週間を過ごして俺が感じた事は、小さな子供とあまり変わらない――という事だ。そしてそんな相手に間違っている行動を正しく教え伝えるというのは、思いのほか難しい。世の中の親が子供の躾に苦労すると言う話はよく聞くが、その苦労がなんとなく分かる気分だった。
「よしっ、これでOK! 洗い物をしたあとはこうするんだよ? 分かったかな?」
俺が真っ先に教えるべき事、それはまず、明日香ちゃんに普通の生活を教える事だ。これが出来ないとお互いに生活がままならないから。
「うん、わかっ、た、おにい、ちゃん」
色々と困ったところも多いけど、それでも明日香ちゃんは賢い子でもあった。一度しっかりと教えた事はちゃんと覚えているし、それに対する順応性も高い。
それに明日香ちゃんが何か失敗をする時は、だいたい俺の説明不足が原因な事が多い。でも言い訳をするようだけど、人に説明をして理解してもらうのって本当に難しいんだ。
× × × ×
「さあ! 昼食ができたぞ!」
数時間後のお昼、俺は慣れないながらも料理に挑戦した。
俺が学園に行って家に居ない間は、いつもカップ麺で我慢してもらっている。だから休みの時くらいは頑張って料理をしてみようと思ったからだ。いくら何でも、カップ麺ばかりは身体に悪いから。
「どう? 美味しいかな?」
「うん」
明日香ちゃんはお世辞にも上手とは言えないチャーハンを、リビングのソファーに座って黙々と食べている。そして俺はと言うと、明日香ちゃんから約二メートルくらい離れた位置で食事を摂っていた。
この距離が今の俺と明日香ちゃんの純然たる心の距離、いわゆる壁なんだと思う。なんて分厚い壁だろうか。まあ俺だって実際に明日香ちゃんとどう接していいのかよく分からないし、この距離感は当然と言えば当然なのかもしれない。
そんな事を思いながら食事をしている内に明日香ちゃんはチャーハンを綺麗に食べ終え、お皿を台所まで持って行ってからそのまま二階の割り振った自室へと戻って行った。
「やっほー♪ 調子はどう? 涼太君♪」
明日香ちゃんがリビングを出てしばらくした頃、脳天気な声と共にサクラが天井から突然現れた。いつもながら登場の仕方が心臓に悪い。
「サクラか、どうもこうも進展無しだよ」
「そっか、まあ気長に頑張ってよ」
「簡単に言うなよ、まあ見守りもいいけどさ、少しは協力してくれてもいいんじゃないか?」
「それは難しいかな、私がこの転生プロセスにおいて協力できるのは、現実的に実現不可能な事だけだから。だから涼太君が自力で解決可能な事については、基本的に手助けができない規則なんだよね」
このセリフを聞くのも何度目かになるが、少しくらいは融通を利かせてくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。
「やれやれ……」
「あくまでも私の役目は見守りだからね」
――まったく、何が見守り隊だよ、ずいぶんと気楽なもんだよな。
「あっ! これ、涼太君が作ったの?」
「そうだが?」
「どれどれ、ちょっと味見を」
サクラは突然小さなスプーンをどこからか取り出し、俺のチャーハンを一口食べた。
「うっ、あんまり美味しくない……」
凄まじく苦々しい表情をしながら、凄まじく直球な感想を述べるサクラ。確かに良い出来ではないと思うけど、あんな表情になるほど不味くはないと思う。
「悪かったな」
「こんなのを明日香に食べさせてるの? ダメだよ~? こんなんじゃ立派なお兄さんにはなれないよ?」
立派なお兄さんうんぬんはともかくとして、確かにこんな程度の低い料理をいつまでも食べさせるのは可哀想だと思う。
「まあそのあたりは頑張るさ、それはともかくとして、ちょっと聞きたい事があるんだけどさ」
「何かな? スリーサイズとエッチな質問以外には答えるよ?」
――何で俺がこんな妖精擬きのスリーサイズなんかを気にせにゃならんのだ、アホらしい。
サクラのアホな言葉をスルーしつつ、俺はさっそく本題へと入る事にした。
「明日香ちゃんの事なんだけどさ、何でいつもあんな感じなんだ?」
「あんな感じって?」
「明日香ちゃんがあんな風に怯えてる理由だよ。このままじゃコミュニケーションを図るどころじゃないんだよ」
「あー、その事か、うーん……」
「サクラは俺達の生活の見守りとサポートが役割なんだろ? だったら教えてくれよ」
「うーん……まだ時期が早い気はするけど、仕方がないのかなあ…………分かった、教えるよ。でも一つ約束してくれないかな? 今からする話を聞いたからって、明日香への接し方を変えたりしないって」
「ああ、分かったよ」
いつも能天気なサクラが、いつになく真剣な表情を見せた。コイツがここまで言うのを渋るんだから、相当話し辛い事なんだろう。
「幽天子がちょっと特別な事情で転生に臨んでいるのは、この前少しだけ話をしたよね?」
「ああ」
「明日香がああいう怯えた態度を見せるのも、生前の出来事に関係しているんだよ」
サクラはしばらくの間、明日香ちゃんの事について話をしてくれた。
その話によると、明日香ちゃんは生前、とある家族の三女として生まれたらしいが、小学校を卒業する前にこの世を去ったらしい。そしてその原因となったのは、家族からの虐待。
その虐待は明日香ちゃんが生まれて物心つく頃から始まっていたらしいが、その虐待理由を詳しくは聞けなかった。だけど原因の一つとして、母親の育児ストレスなどがあったのだと聞いた。
確かに育児の苦労というのは相当なものだと思うけど、だけどどんな理由があったとしても、子供への虐待話が胸糞悪い事に変わりはない。
「――それでね、幽天子の転生にはいくつか条件があって、その条件を満たしてないと転生できないの。もちろんこの転生プロセスを受けたからって、絶対に幽天子が転生までいけるわけじゃない。中には転生は無理と判断されて、途中で天界に連れ戻される事も多いの」
「そっか……それじゃあ、連れ戻された幽天子はどうなるんだ?」
「…………それは知らない方がいいと思う」
サクラは少し悲しそうな表情を浮かべて視線を逸らした。そんなサクラの表情からどんな事があるのかを想像するのは難しいけど、おそらくこの件は深く聞かない方がいいんだろうなとは思った。
「それに明日香は幽天子の中でもちょっと特殊な事例だからね」
「何だよ、特殊な事例って?」
「あっ、えっと、それは気にしないでいいから」
あからさまに何かを隠しているのが分かる。サクラはまだ全てを話してはいない、なんとなくだけど態度を見ているとそう思う。
でもとりあえず今聞きたい事はそれなりに聞けた。だから今はこれ以上の詮索をするのは止めておこう、どうせ聞いたところではぐらかされるのがオチだし。
「とりあえず理由は分かったよ」
「良かった、それじゃあ私はまたちょっと出掛けるね。あっ、そうだ、涼太君に一つ気を付けてほしい事があるの」
「何だ?」
「幽天子は基本的に生前の記憶を持ってないの、でも稀にだけど、何かの切っ掛けでそれを思い出す時もある。そうなると幽天子は自我を保っていられなくなるから、それだけは気を付けて。それじゃあ、またあとでねっ♪」
そう言うとサクラは部屋の壁を突き抜けてどこかへ行ってしまった。
サクラは気を付けてと言ってたけど、何をどう気を付ければいいんだろうか。俺は明日香ちゃんの生前をほとんど知らないんだから、はっきり言って気を付けるべき要点が分からない。
それにしても、幽天子が受けるこの転生プロセスとやらは結構理不尽だと思う。生前の記憶は失くしてるのに生前のトラウマの様なものは残っているなんて、それってつまり、明日香ちゃんは自分でも訳の分からない恐怖に苛まれている様なもんじゃないか。どうせやるならちゃんとそのトラウマも消しておいてやれよと思う。
サクラの話で明日香ちゃんの生前を少しだけだが知る事ができた。俺にはその生前がどれだけ苦しかったのか、想像も及ばない。だけどあの子は今、俺の妹として存在している、今はその事だけが重要だ。
「料理、ちゃんと作れる様にならないとな」
俺はリビングにある本棚に向かい、母さんが昔見ていた料理の本を手に取った。
「まず最初の目標は、明日香ちゃんの近くでご飯を食べれる様になる事かな」
そんな小さくも難しい目標を立て、俺は手にした料理本を開いた。