静かな午後のひと時
琴美に勉強を教えると約束をした翌日、俺は陽の昇り始めた頃から――いや、正確には昨日帰って来てからずっと落ち着かない気分でいた。
無意味に家の中をウロウロしたり、テレビをつけて見たりトイレに何度も行ったりと、我ながら情けなくなるほどの落ち着きのなさだ。それでも何かをしてないと、今にもっと奇怪な行動を起こしそうで怖かった。琴美が我が家へやって来るというのは、今の俺にとってそれだけ一大事なわけだ。
「あー! くそーっ! 落ちつかねえー!」
気が付けば俺は準備していた勉強用のノートにヒエログリフ的なものを書き込んでいた。恐らく無意識の内に宇宙の意思的なものでも受信してたんだろう。
こうやって落ち着きをなくしている理由は琴美が来るからだけど、その落ち着かない気分を増長させている原因はもう一つある。それは琴美が今日の何時にやって来るのかが分からない――という事だ。
俺は昨日の夜にその事に気付いてソワソワしているわけだが、このまま家の中をうろついていても仕方がないので部屋に戻って本でも読もうかと思い、ふとリビングにある壁掛け時計へ視線を向けると、時刻は午前十一時を迎えようとしていた。確か前に時計を見た時には八時くらいだったから、ずいぶん長い間家の中をウロウロとしていたらしい。
三時間くらい落ち着きなく無駄に家の中を徘徊していた自分に驚きつつ、リビングを出て自分の部屋へ向かおうとしたその時、玄関のチャイムがピンポーンという音を立てて鳴り響いた。
――つ、ついに来たか!?
緊張で一気に強張る手足を精一杯動かしながら、俺は玄関へと向かって行く。そしてこの時の俺は、柄にもなく思いっきり緊張をしていた。
――この扉の向こうに琴美が居るんだ……。
扉の前に立って大きく息を吸い込んでから少しずつ吐き出し、俺はゆっくりと運命の扉を開けた。
「こんにちは! 宅配便です!」
明るく元気の良い男性の声で一気に膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
――宅配便だったのかよっ!? 緊張して損した!
とりあえず俺はサインを済ませ、宅配のお兄さんから荷物を受け取った。俺が受け取った荷物は小さなダンボール箱で、差出人は海外に居る両親からだった。
俺の親は揃って海外赴任をしていて、滅多に家へは帰って来ない。本来なら一緒に海外へ住むのが筋かもしれないけど、俺が極度の外国恐怖症で、泣いて海外へ行くのを拒み、こうして独り暮らしをさせてもらっている。まあ外国恐怖症とは言っても、単純に外国の治安の悪さが怖いだけだ。
「何だこりゃ?」
受け取った荷物をリビングまで持って行き、俺はさっそく箱を開けてみた。すると箱の中には手作り感漂う木彫りのペンダントが二つ入っていて、その下には添えられる様にして一つの封筒が入っていた。
そして俺はその封筒を箱から取り出し、その内容を見た。
「……二人揃って相変わらずみたいだな」
手紙に書いてあった内容はなんとも平凡なもので、『元気にしてるか?』とか、『学校はどう?』とか、いつもとそんなに変わらない内容だった。
しかしそんな手紙の内容で今までと明らかに違う所を上げるとすれば、明日香についての事が書かれてある事だろうか。木彫りのアクセサリーも明日香の分を含めて二つだし、これを考えればサクラがちゃんと仕事をしているという一応の証明にはなるだろう。
そんな事を考えながら再び手紙へ目を向けると、また玄関のチャイムが鳴らされた。俺はその音を聞いて再び激しい緊張をし、ぎこちない動きで玄関へと向かって行った。
× × × ×
「今日はいったい何だってんだ!?」
二回目に玄関のチャイムが鳴らされてから三十分後、最初の宅配便が来たのを含めて四回、我が家の玄関チャイムは鳴り響いた。しかもその全てが宅配便で、全部海外に居る両親からというオチだった。
――まったく、物を送るなら全部まとめて送って来いってんだ。
こんな具合でちょっと苛ついていると、本日五回目になる玄関のチャイムが家の中に鳴り響いた。
――どうせまた宅配便だろ……。
二度ある事は三度あると言うが、三度どころか四度もあった俺はもはや完全にやさぐれていた。
「はいはーい、今開けますよー」
小さく息を吐き出したあと、俺は適当感溢れる言葉を発しながら玄関の扉を開けた。
「こんにちは、涼君」
開けた扉の先に立って居たのは宅配便の従業員ではなく、俺が来るのを待ち望んでいた琴美だった。
「あああああのそそそその、いいいいらっしゃい!」
「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」
「だだだ大丈夫! ととととりあえずリビングへどうぞっ!」
「う、うん、それじゃあお邪魔します」
突然の事に動揺しまくりだった俺は、間接部分の油が切れたロボットの様なぎこちない動きをしながら琴美をリビングへと案内した。
「わあー、なんだか懐かしいなあ……」
案内したリビングに入った琴美は、遠い昔を見るかの様にして部屋の中を見回していた。
――そういえば琴美が最後にウチに来たのっていつ頃だったっけ?
「本当に懐かしいなあ……最後に涼君の家に来たのって、確か小学二年生くらいの時だったから」
そんな事を考えていた俺の隣で、偶然にも琴美がその答えを出してくれた。
――小学二年生か……そんなに昔の事なんだな。
「とりあえずそこに座ってよ」
俺は少し懐かしい過去を思い出しながら心を落ち着け、用意していた座布団がある場所を指差した。
「うん、ありがとう」
琴美は俺が指し示した場所に座り、持って来ていた鞄からノートなどを取り出して目の前にある木製テーブルの上へと置いていく。そして俺は琴美の向かい側へ座布団を置き、そこへ静かに腰を下ろした。
「それじゃあ始めよっか」
「うん、よろしくお願いします」
そろそろお昼を迎えようかという頃、俺と琴美の二人っきりの勉強会は始まり、そこからしばらくの間は心地良い静けさの中での勉強が続いた。
「――ふうっ……琴美、ちょっと休憩しよっか?」
「そうだね」
勉強開始から二時間ほどが経った頃、俺は座布団から立ち上がり、冷蔵庫に用意していた飲み物を取りに行った。すると俺が冷蔵庫の中に用意していた飲み物はキンキンに冷えていて、勉強で火照った頭をクールダウンさせるにはもってこいの状態になっていた。
「はい、どうぞ」
俺はグラスに注いだオレンジスカッシュを持って琴美の前へと戻って来た。
「ありがとう、いただきまーす! あ~♪ 冷たくて美味し~い♪」
琴美は可愛らしく微笑みながらこちらを見る。当然の事ながら俺はそれを直視できないので、不自然にならない程度に視線を逸らした。
「それにしてもさ、琴美は本当に数学が苦手なのか?」
「ん? 苦手だよ?」
「そうなのか? 宿題の問題も結構スラスラ解いてたじゃないか」
「そうかな?」
琴美はこう言ってるけど、この二時間くらいの間で俺が教えた事など数えるほどしかなかった。なぜあそこまで出来て数学の成績があまり良くないのか、俺にはそれが不思議でしょうがない。
「まあいいや、ちゃんと解けてるから問題はなさそうだし」
「それは涼君のおかげだよ」
「そ、そうかな?」
「ふふっ、そうだよ」
こうして持って来たオレンジスカッシュを飲みながら軽くリフレッシュをしたあと、俺達は再び勉強を再開した。
部屋で静かに勉強をしていると、お互いがノートにペンを走らせる音、エアコンの音、壁時計の秒針が刻まれる音くらいしか聞こえてこない。勉強をする環境としては申し分ないだろう。
それからしばらくは琴美も特に行き詰まる事もなく、順調に数学の宿題を消化していった。
「――そういえば今日は明日香ちゃんは居ないの?」
あれから更に時間が経ち、やっていた国語の宿題が終わりに差しかかった頃、琴美が唐突に明日香の事を聞いてきた。
「ああ、明日香は昨日から友達の家に泊まりに行ってるんだよ」
「そっか、明日香ちゃん元気になったみたいで良かったね」
「ありがとう、最近は結構調子がいいみたいでさ、俺も安心してるんだよ」
「涼君は昔から『妹が欲しい』って言ってたから、本当に可愛がってるんだね」
――俺ってそんな事を琴美に言ってたんだな。でもおかしいな……俺にはそんな事を琴美に言った記憶が無い。
「……なあ琴美、俺がそういう話をしたのって、いつの頃だっけ?」
「えっ? そう言われるといつだったかな……んー、ちょっと思い出せないけど、確かにそんな事を涼君が言ってたのは覚えてるよ」
なぜだろう、最近過去の出来事がやたらと曖昧にしか思い出せない。確かずいぶん前に琴美と話をした時にも、こんな感じで記憶の齟齬があった気がする。
俺は再び過去の記憶を探ってみたけど、まるでその時の思い出が丸ごと深い霧に包まれた様になっていた。
「涼君、大丈夫?」
「えっ? あ、ああ、大丈夫だよ」
昔の事を思い出そうとするあまりぼーっとしていたからか、琴美が心配そうな視線を向けていた。そんな琴美を見た俺はとりあえず深く考えるのを止めにし、琴美に『ごめんな』と謝ってから勉強を再開した。
× × × ×
「今日はありがとう、涼君」
時が経つのは早いもので、時刻は既に十八時を過ぎていた。
そして俺は宿題を終えて自宅に帰ろうとしている琴美を玄関先で見送ろうとしていた。
「少しは勉強が捗った?」
「もちろん! やっぱり涼君に教えてもらうと解りやすいよ」
正直、琴美にお礼を言われるほど大した事は教えていない。それにもかかわらず、琴美はにこやかな笑顔を浮かべてお礼を言う。
「それなら良かったよ、気を付けて帰ってな?」
「ありがとう……あの、帰る前に一つ涼君にお願いがあるんだけど、いいかな?」
突然かしこまった様子で俺を見据える琴美。そのあまりにも真っ直ぐな視線に、思わず緊張で後退りそうになる。
「な、何?」
「あのね……またいつか勉強を教えてくれないかな?」
いったいどんな事をお願いされるのかと内心かなりビクついていたけど、大したお願いじゃない事に俺は安堵した。
「あ、ああ、琴美がいいなら俺はいつでもいいけど」
「良かった……ありがとう涼君、それじゃあまたね!」
琴美は安心した様な表情を浮かべると、そのまま手を振りながら帰って行った。
「――お兄ちゃん、ただいま」
帰って行く琴美の姿が見えなくなった頃、入れ代わる様にして明日香が帰って来た。
そして帰って来た明日香は俺へ挨拶を済ませると、琴美が去って行った方を見た。
「お兄ちゃん、さっきの人が琴美さん?」
――そっか、明日香はまだ琴美と直接会った事は無かったな。
「そうだよ」
「お兄ちゃんの幼馴染なんだよね?」
「そう、幼馴染だよ」
「いいな、お兄ちゃんと小さな頃からずっと一緒に居る事ができて……」
「明日香?」
そう言った明日香の表情はどことなく寂しげだった。
「ん? どうしたの? お兄ちゃん?」
しかし次の瞬間にはさっきまでの寂しげな表情は消えていて、明日香はぱーっと明るい笑顔を見せていた。そんな明日香の様子はちょっと気になったけど、俺は明るい笑顔を見せる明日香に手を引かれ、そのまま家の中へと入った。
そしてこの日の夜、夕食とお風呂を済ませたあと、俺は自室で明日香から由梨ちゃんの家にお泊りをした時の楽しい外泊体験談を深夜になるまで聞いていたわけだが、明日香はいつの間にか俺のベッドの上で小さな寝息を立てて眠ってしまった。
俺はそんな明日香の頭を撫でながら穏やかな寝顔を見ていたが、昨日からまともに寝てなかったせいか、俺はいつの間にか明日香の隣で横になって眠ってしまった。
× × × ×
夢――俺は夢を見ていた。
この時の俺は小さな身体をしていて、現在の俺は意識だけがこの小さな身体の片隅で存在している様な感じだった。
そして今の俺はこの小さな身体の俺と一方的に意識は繋がっているものの、出来る事はただ考える事だけ。身体を自由に動かすとか、小さな俺に話し掛けるとか、そういった事は全く出来ない。今の俺は小さな俺からもたらされる感覚を、ただ一方的に受けているだけだ。
『ねえお母さん、もうすぐだよね?』
小さな俺が目の前に居る母さんに話し掛けている。その問い掛けに対し、母さんは優しい笑顔を浮かべて頷いた。
『もうすぐ会える!』
小さな俺が感じているであろう気持ちが今の俺に流れ込んで来る。それはまるで春のとても暖かい日に日向ぼっこをしている様な、そんな心地の良い感覚、期待と希望に満ちた思いだった。とても懐かしく、それでいて嬉しい思いを感じる。
そして今の俺がそんな心地良い感覚を味わっていたその時、急にテレビのチャンネルが変わった様にして目前の状況が変化した。
『うわあぁぁぁ――――ん!!』
目の前に広がった光景は惨事、そして今の俺が感じているのは、とてつもない恐怖。小さな俺は母さんに抱き包まれながら泣いていた。
そして小さな俺から一方的に気持ちが流れ込んで来ていた今の俺は、その激しい苦痛と恐怖に耐えられなくなり、小さな自分から無理やりに意識を離し始めた。そして今の俺の意識が抜け出た次の瞬間に見た最後の場面は、病院のベッドで横たわる母親に泣き付いている小さな自分の姿だった。