黒衣
その黒猫、撫でられることは、苦手だった。
優しく構ってもらえるのは嬉しいけれど、近付かれ過ぎると、離れてしまいたくなる。
うっとり見惚れて目映く、眉間を寄せたくなる程の艶めく毛並み、そして身のこなしをどんなに褒められても、心には、届かなかった。
ずっと、孤独に生きてきた。
餌をくれる、自分を好いてくれる人間にさえ、頼るなんてもちろん、擦り寄ることすら満足にできなかった。
黒猫は一つ、伸びをする。
慶応四年五月。
もうじき、東京とその名を変える、江戸は千駄ヶ谷。
小川が、緩やかにせせらぐ場所だった。
植木屋の離れ、高い石塀を、危なげなく渡る。
細い躰をくねらせて、若葉がきらめいて地に影を落とす、桜の大木に飛び移った。
小さく小さく、身を丸める。
丸い、黒い瞳の中に映るのは、日当たりの良い縁側が付いた部屋。
中には、布団に入った青年が居た。
歳は、二十三・四に見える……植木屋の、倅だろうか。
こんな天気の良い日、あるのかないのか、わからないが、仕事にも行かずのんびり昼寝……ではないようだ。
眼をうっすら開けて、ぼんやりと天井を眺めている。
不意にゆっくりと空中に手を伸ばすが、その腕は青白く痩せ細っていた。
手の平を閉じたり開いたり、ひっくり返したりしている。
また、パタッと無気力に腕を落として、庭が見える方、黒猫が丸まっている方に寝返りをうった。
黒猫は、動きもせずにジッとその青年を見ていたので、すぐに、視線が合った。
青年は驚いたろうに、少しだけ眼を見開いてまた戻しただけで、あまり表情を変えない。
実年齢より若く見られそうな、というより幼げな容姿の割に、無表情な青年だ。
互いにピクリとも動かず、そのまま見詰め合った。
しばらくすると、青年の方から、向こう側に寝返りをうってしまった。
黒猫も身軽に、音も立てず向こう側に飛び降りた。
翌日の夕方、また、黒猫は植木屋に姿を現した。
同じように塀に上り、桜の大木で丸まった。
この日は、青年は既に庭の方を向いて、眠っていた。
しかし、黒猫がまたも見詰めて数秒、青年はパチリと、寝惚ける素振りは全く無く、眼を開けた。
黒猫の気配を感じた……わけでは流石にないだろう。
部屋の向こうの廊下を、人が渡って来る気配に眼を覚ましたのだ。
「また、来ている」
黒猫のことだ。
睨み付けるように見据えて、小さく低く呟いてから身を起こした。
スルリと覗く躰は肉付き薄く、静かな呼吸なのに、合わせて肩が上下する。
青年は、病んでいるらしい。
「宗次郎さん……」
襖の向こうで、ゆったりと柔らかな声が響く。
「はい」
宗次郎と呼ばれた青年は、先程の押し殺した低音からは想像もできないような、明るく若々しい声で答える。
ソロソロと襖を開けて入ってきたのは、腰の曲がった老婆だ。
皺いっぱいの顔でニコニコして、声もちっとも嗄れていない、可愛らしいおばあちゃん、といった感じだ。
夕飯の乗ったお盆を両手に抱えているので、この老婆が、宗次郎の世話をしているのだろう。
実の祖母なのかもしれない。
「あらあら、小さな猫ちゃん……入ってきてしまったの?」
「えっ?」
宗次郎は、ビクッと縁側の方を振り返る。
しかし黒猫は、もう部屋の隅、縁側との境目辺りにちょこんと丸まっていた。
ついさっきまで木の上に居た癖に、大きな瞳を瞑っている。
明らかに、狸寝入りだ。
「……あっ本当ですね! かわいいなぁ」
当然の反応なので気持ちはわかるが、一瞬、化け物にでも遭遇したかのような顔色をした癖に、パッと屈託の無い笑顔を作る宗次郎も、相当のタヌキである。
「宗次郎さん、ご存知? 黒猫を斬ると、労咳平癒のおまじないになるのですよ」
労咳……肺結核だ。
後に幕末と呼ばれる当時は、特効薬が無く、できる治療といえば滋養を付け、よく休養を取ることぐらいであった。
しかも、空気を介して感染する為、患者はこのように隔離された。
死病と、怖れられていた。
「ダメですよ、そんなの」
容貌に似合わないことを、にこやかに言ってのける老婆に内心ゾッとしたろうに、冗談をからかうように宗次郎は笑った。
「ふふ……三毛猫ですものねぇ、そのコは」
三毛猫……?
黒猫ではないから、効き目がないですものね、と言いたいらしい。
病気になる前からのようだが、食の細い宗次郎に「しっかり召し上がってくださいね」と言い残し、夕飯を置いて、老婆はまたゆっくりとした所作で部屋を出た。
「……ボケちゃったのかなぁ」
宗次郎は、肉親を心配するような声音で溜め息した。
今更だが、宗次郎の枕元には大小の刀二本が、刀掛けに鎮座している。
大刀は、名刀・加州金澤住藤原清光……通称・非人清光。
宗次郎は、武士だったのだ。
つまり、植木屋の倅ではない。
本当の家族、親にすら引き取られず、他人の家に預けられているらしい。
もう一度“黒猫”の方を見ると、姿勢を変えないまま、上目遣いになっている。
「斬られたいの?」
黒猫は、ウトウトと瞬いた。
「逃げない……」
殺気を、放ったつもりだった。
宗次郎は力が抜けたように布団に倒れ、ギュッと、目頭を固くした。
シトシトと小雨が降り注ぐ中、縁側付きの部屋から、渇いた咳だけ篭もって聞こえる。
なかなか、止まらない。
黒猫はまた、塀を伝って現れた。
段々と本降りになってきても構わず、布団の中、ずっと口元に手をやったまま背中を屈める宗次郎を見詰める。
息を荒くして、黒猫を睨む。
以前から、よくそうしていたのだろう……無理矢理、咳を抑え付けて飲み込んで、飾りのようになっていた非人清光を引き寄せると、僅かにもふらつかず、立ち上がり様に木瓜形の鐔に親指を掛け、鯉口を切った。
ここまでの動作が、手馴れ過ぎている素早さだ。
もしかすると宗次郎は、剣士であったのかもしれない。
「逃げないなぁ……」
煩い程に響く雨音に掻き消される声で呟き、一瞬で抜刀した。
手入れの行き届いた美しい刀身が、薄暗い闇で、鈍く光る。
「……宗次郎さん」
咳が止まった機に……だとしたら厭な話だが、老婆が部屋に入ってきた。
咄嗟に刀を納めた。
「まぁ、起き上がったりして……」
老婆はゆったりと、刀など持ってどうしたのかと首を傾げる。
「黒猫、やっぱり斬れないです」
宗次郎がふわりと笑うと、背後で、黒猫は去っていった。
まさかその気配を感じたのか、宗次郎が振り返る。
同じ場所には三毛猫が、既に土砂降り状態の雨に濡れて、悲しげに、消え入りそうな高音で鳴いていた。
後に老婆が語る、青年がよく口にした“印象深い言葉”は、二つ。
一つは、
「先生からのお便りは来ませんか?」
そして、
「今日も、あの黒猫は来ていますか?」
「不思議なお方でした……黒い猫なんて、わたしは知りませんでしたよ」
了