蛇の道は兎
仏教用語で『入滅』とは『生死を超越した境地に入ること』を意味するのだが、シノビ用語で分身世界へ赴くこともまた入滅と呼んだ。
なぜなら、分身世界がこの世とあの世の境界にある生身では訪れることができない『幽絶の世界』だからだ。そのため肉体を魂魄体へと変換する必要がある。
ここまでは俺も知っている。
しかし、肉体を魂魄体へと変換する具体的な手段はシノビの機密事項であるため塾生には教えられていなかった。
「術なのか、装置なのか、はたまた薬か道具か……」
実質、隠密塾中退の俺には見当もつかない。
蛇の道は蛇。餅は餅屋。分身世界のことはシノビに尋ねるのが一番である。
しかし、正規のシノビがおいそれと非公式の入滅――『密行』に手を貸してくれるはずがない。特にドラフト会議であれだけ目立つことをした要注意人物の俺に。
だが、ここは人口1000万に迫る首都東京。探せばいるはずだ。交渉次第で手を貸してくれる酔狂な人物が。
屈辱のドラフト会議から一週間。
分身世界に行く方法はないか――血眼になって探し続ける俺がようやくたどり着いたのが『情報屋の兎角』と呼ばれるヌケニンだった。
ヌケニンとはさまざまな事情で辞めることを余儀なくされた元シノビである。当然、分身世界に入滅した経験があり、その具体的な手段も知っているはずだ。
ところが、当初、ネットの片隅で拾ったその噂は、
『特別な忍宝を探しているヌケニンが、分身世界への同行者を募っているらしい』
というまことしやかなものだった。
塾講師が講義の合間に余談として語っていた。『忍宝』とは分身世界にランダムで現れる『玉手箱』のことだと。そう、あの浦島太郎でお馴染みのあれである。
その玉手箱の中身には巻物が収められているらしく、その巻物には『禁術』と呼ばれるほどの強力な忍術が封印されているらしい。
もっとも、この数百年、『忍宝』が発見されたという報告はないそうで、あくまで笑い話だった。
だから、『忍宝』と聞いてあからさまに胡散臭いと感じた。餌に釣られるバカを一網打尽にするための隠密庁の内偵調査かもしれないとも疑った。
だが、そうだとしても俺は止まるわけにはいかなかった。俺に選べる手段は多くはないからだ。
「毒を食らわば皿まで、だ」
リスクを承知でその謎の人物に接触することにする。
◆◇◆
熱の失せた新宿駅構内。人もまばらな早朝5時。指定された公衆電話が鳴り響く。
俺は受話器を取る。通話口の向こう側から『やあ、兎角だ』と二十代と思しき青年の男の声がする。
マスクでもしているのか兎角はくぐもった声で笑う。
『ふふ、君さ――霧崎友星くんだろ?』
情報屋の名に偽りなしということか。とぼけても意味はないだろう。
「俺もずいぶんと有名になったもんだ」
『そりゃね。あのドラフト会議の一件で君は一躍、時の人さ。今やシノビ界隈で霧崎友星を知らない者はいないだろうね』
「ちっ、テレビ中継されてたんだったか。どうせいい笑いものだろ?」
『んー、半々ってとこかな』
「意外だ。あんな失態を曝した俺に肯定的な人間がいるとは……いや、意外でもないのか。シノビになろうなんて人間にまともなヤツがいるはずがない」
『ふふふ、違いない』
兎角がくぐもった笑い声を響かせる。
『ちなみに僕はまともだけど君を面白い人間だと思ってるよ?』
「自分で言うのかよ」
『お偉いさんたちの前で、あのカリスマ服部雪乃と堂々と渡り合う無鉄砲さ! まったく君のメンタルはどうなってるんだい?』
「無鉄砲とは心外だな。あれは計算ずくだ。持たざる人間が、超のつくエリート様に対抗するのに恥や外聞を気にしてどうする?」
『へー、君の強気な態度は自覚的だということか。うん、実にいいね。ますます僕は君のこと気に入っちゃったよ』
災い転じてなんとやら。
『君のシノビとしての実力は同行者として申し分ない。魂魄量の少なさは把握しているが、僕の目的は必ずしもザンニンを狩ることではないからね』
皮肉なことに、あの屈辱のドラフト会議のお蔭で交渉が驚くほどスムーズに進む。
(……どうにか分身世界へ行けそうだ)
そう思った矢先だ。兎角が唐突に口にする。
『僕は相手の行動原理を知ってから手を組むかどうかを決める主義でね』
「つまり、俺の動機次第で交渉が決裂する可能性もあるということか」
『まあね。イデオロギーのかけ離れた相手と時間を共有するのは苦痛だろ? 得てしてそういう相手との共闘も上手くいない』
「それは言えてるな」
『では尋ねよう。友星くんは密行というリスクを負ってまでなぜ分身世界に行きたいんだい?』
駆け引きはいらない。俺は率直に答える。
「母さんの魂魄を取り戻すためだ」
『もしかして君のお母さんは【虚無症候群】なのかい?』
俺は「そうだ」と頷く。
『なるほど、だから分身世界に……』
虚無症候群とはザンニンに『現世』で魂魄を奪われた人間が陥る症状だ。
虚無症候群の人間は虚空をぼんやりと見つめるだけで、どれだけ話しかけてもなにも応えてはくれない。
それは死んではいないが、生きてもいない抜け殻の状態だ。
「失われた魂魄を見つけ出して、もう一度、元気な母さんを取り戻したいんだ。ただそれだけだ。わかりやすい行動原理だろ?」
本来の母さんは太陽のように明るく豪快な人なのだ。あの人に曇ったガラス玉のような虚ろな瞳は似合わない。
『不運だね。ザンニンが現世に顕現することはまずない。そうさせないためのシノビであり分身世界だからね』
「だが、なにごとにも例外はある」
『ああ、そうだね。『歪』と呼ばれる分身世界に稀に発生する隙間から現世へと迷い込んだザンニンが生身の人間を襲うことが例外的にある――』
――途端、友星の脳裏に『五年前の絶望の記憶』が否応なく蘇る。
それは夏休みのよく晴れた暑い日。母さんと俺と妹の三人で新宿に買い物に行った夕暮れの帰り道――逢魔ヶ刻――。
突然、時が止まったかのような無音に辺りが支配される。
目の前の空間が蜃気楼のように揺らぎ、ひび割れるように生じる黒い亀裂。その深淵から現れたのが――忍び装束に身を包んだザンニンだった。
母さんはザンニンが振るう二刀の小太刀から俺たち兄妹を守るために身体を投げ出して――――。
俺は奥歯をきつく噛みしめる。
「俺は母さんの魂魄を奪ったザンニンを分身世界で見つけ出して……この手で必ず始末するんだ」
虚無症候群の人間を救う唯一の方法。それは魂魄を奪ったザンニンを見つけ出して始末すること。そうすることでザンニンの内部に囚われている魂魄が解き放たれ、本来の持ち主の肉体へと戻るのだ。
『気に入ったよ。君の愚直なまでの真っ直ぐさ。それと目的のためなら手段を選ばない潔さ。うん、君を同行者に指名しよう』
兎角がくぐもった声で告げる。だから、俺は期待に応えて強気に応じる
「賢明な判断だ。後悔はさせない」
次回の約束を取り付けて俺は受話器を下ろす。
気づけば通勤通学の人々で構内が混雑し始めている。俺は身を隠すようにフードを目深に被ると行き交う人波に紛れた。