8.たったそれだけの理由でしかない。
ジェムのお兄さんってどんな人、と週に一度の休日に、彼女は料理人見習いに問いかけられた。
お兄さんってどんな人。
言われて答えに困る事だ。
何しろあんな人だから。
いいや、それ以上に、彼は兄貴分であり兄ではない。
血のつながりだってなにもないのだ。
ただ自分より年上みたいだから、兄の様である、それだけ。
「兄はいませんよ?」
彼女はそうやって否定した。
「でも、兄妹で働きに来たんだって聞いたんだけど」
見習いは首を傾げた。彼女はそう聞いたのだろう。それにジェムは答える。
「同じ孤児院にいた人が、一緒に王都に来たんですよ。彼はここよりも上の所に働き口を見つけたから、そこにずっといるけれど」
「会いに来たりしないの? 上の郭の人が、下に降りてくるのは、下の人が上がるよりも手続きが簡単なのに」
この言葉に対しての、正しい答えは見つからず、ジェムは間をおいてから答えた。
「と言われても……いそがしいから、なかなか休日が合わないんだと思いますよ、もしかしたら」
そう、もしかしたらレパードの方は、じれったくなってこちらを覗きに来ているかもしれない。
そして忙しいから、と彼にも若干存在する遠慮をして、気付かれないうちに立ち去っているかもしれないのだ。
そんな事をするならば、手紙を書く暇くらいはありそうだが。
「いいなあ」
彼女の顔を見て、何を思ったかリーナが言い出す。
「そんな風に、離れていてもつながっていられる相手がいるなんて羨ましい」
「リーナさん、あなたは旦那様の所に、食事を運んでいたんではないですか?」
料理人見習い、シスタが問いかける。リーナはえへへと笑ってから、上蓋のかけられたお皿を示す。
「旦那様が、今日はたくさん食べる気分じゃないから、私たちに御残しをくださったのよ、だから呼びに来たんだけれど」
「わー、いるいる」
料理人見習いが立ち上がる。旦那様の料理は豪華な物だから、その残したものを食べられるなんて運がいいのだ。
「ジェムも急いできなよ」
「うん」
返事をしたジェムだが、立ち上がったその時ぶつりと、靴紐が切れる音がした。
靴ひもだとわかったのは、足元が不安定になり、いきなり転びそうになったからだ。
「ごめん、先に行っていて、靴紐が切れたの」
言いながら、ジェムは前掛けの隠しに入れていた予備の革ひもを取り出す。
そして、きれた靴紐を交換し、手早く入れ替えていく。
だが、それが終わったあたりでもう、食べ盛りの見習いの多いこの屋敷ゆえに、お残りはなくなってしまっていた。
「残念だったね、ジェム」
肉の塊をもらったのだろうシスタが言いつつ、指を舐めている。
「そうですね」
こればかりは仕方がない。
少し未練がありつつも、仕方がないという言葉でジェムは終わらせる事にした。
「そうだ、戦争はまだ終わらないのかしら」
言い出したのは誰だろう。就寝前に、女の子が同じ寝台に入り、喋る事は日常だ。
ジェムは両手を組み祈りをささげていたが、耳だけは聞いていた。
「隣の国との戦争、本当に終わらないよね。向こうの方が強いのかしら」
「門士の数は互角だって聞いているわ。外の衛兵の人が言っていたもの」
「だったら、だから長引くのかしら」
「いろいろな物が高くなるし、不便よね、お休みの日に市場にも行けないんだから」
ふっと、ジェムはレパードから連絡がない事は、そのせいだろうかと思った。
彼は火の門を開く。
それは人殺しにとても強い効果を発揮する。
……今頃、戦地で眠れない夜を過ごしているのかもしれない。
そう思うと、不安になってくる。
ジェムはぎゅっと祈る手を組み替え、より上位の祈りをささげる。
レパードさんが無事に戻ってきてくれますように。
祈るのはそればかりになっていた。
「でも、やっぱり、向こうが王都まで来なかったら、私たちはそいつらが来ているなんてわからない物ね……」
誰が言ったか、不吉な言葉が彼女の耳にいつまでも、残ってしまっていた。
どこそこで戦争があった、と言われても、情報をもたらす人間がとても少ない場合、それはとても実感できない物になる。
ジェムの立ち位置はまさにそれで、ほかの娘たちも似たようなものだった。
いかんせん、伝書鳩なんてものは彼女たちの持ち物にはない。
そのため、故郷に手紙を送る場合は、そちらに向かう人に預けなければならないのだ。
普通の街の人間は、当事者になるまで何もわからないままの事も多い。
そう、その朝も平穏な形で始まったのだ。
鍋の叩かれる音の前に起きたジェムが、身支度を整えている間も、何処かで炊事の煙が上がっているくらいに、平穏だった。
それがいきなり破られたのは、町の門のあたりで、すさまじい轟音が響いたからだ。
大きすぎる音は雷かと思う位で、ジェムはしゃがみ込む。
音が続いて、がたがたと少女たちが起きる。
「なに?」
「今の音は何!?」
「みて、門の方が燃えているわ!」
「水使いが何かを凍らせたわ!」
少女たちが身支度を整える事も忘れて、窓に集中した時だ。
「お前たち、さっさと支度をして、隠れるんだ!」
いつもは嫌みな声で、がみがみと叱る老婆が飛び込み、そう叫んだ。
「え?」
「あれは敵国の門士が、門を破ったんだよ! おまえたち、まともな身なりになったらすぐに、地下室に隠れるんだ! あれだけの事ができるんだ、門士を相当な数使っているよ!」
少女たちの心の中に、一気に混乱と恐怖が襲い掛かってくるのが、自分も慌てているジェムにはわかった。
「急ぎな!」
老婆の声で少女たちが一斉に身支度をする、そして押し合いへし合いして、ジェムの事も突き飛ばし、老婆とともに地下へ降りて行った。
「いたたたたた……」
立ち上がろうとしたジェムは、自分の体が全く動かない事に気付いた。
正しくは、立ち上がろうとしても立ち上がれない事に。
派手に突き飛ばされた結果、思い切り腰を打ち付けたジェムは、運悪く開いていた衣装箱にはまってしまったらしい。
「抜けない、え、ぬけな、え、ぬけない!? 誰か、誰か手伝ってください!?」
いくら頑張っても動けないので、ジェムは助けを呼ぶが、皆下に降りて行ったのだろう。
答えはどこからも聞こえてこなかった。
「……」
ジェムは覚悟を決めた。そして何とか、箱の中に手を突っ込めたため、おそらく引っかかる原因になっていたオモニエールを外した。
その荷物袋の分、隙間が空いた。
「よ、し、っと!」
ジェムはそれのために何とか、衣装箱から脱出する事に成功した。
その間も、人々の悲鳴や大きなものの壊れる音が響いている。
「……でも変だ」
ジェムは小さくそう言った。違和感の正体を考えてから、はっとする。
「レパードさんが力を貸していれば、こうならない……じゃあ、レパードさんはどこにいるの?」
希少な、火の門を開く門士。彼は簡単に城一つを丸焼きにするのだ。
それだけの力を持っている人がいれば、こんな風に王都に攻め入られるわけがない。
というよりも、その前に情報が入って来るはずだ。
つまり、戦争にレパードは参加していない。
ならば、彼は今一体どこにいるのか。
「探さなきゃ」
この混乱の中でも、ジェムがそう決めるのは早かった。
「……」
多分目指さなければならないのは、上の郭だ。
「行かなきゃ」
何故かそれだけを、はっきりと思った。行かなくちゃ。
おそらく、あまりにも混乱の度合いがひどかったのだろう。
ジェムは後先を考えずに、危険を顧みずに、屋敷から外に飛び出した。
その時だ。
ふわり、と明るい色をした蝶々が、彼女の目の前に舞い降りてきたのだ。
それは炎の蝶であり、ジェムは見た事があった。
それも、レパードが城を燃やした時に。
「レパードさんの蝶々?」
問いかけても、答えは帰ってこなかったが、蝶はそのまま彼女を先導するように飛び始めた。
きっとこの蝶が、レパードさんの所に案内してくれる。
どうしてそんな確信ができたかわからないながら、ジェムは走り出した。