7.開く世界と離れる指先
何処かで祈りの声を聞く。許せと泣く声を聞く。
そのこえをききながら自分は、無力感にさいなまれるのだ。
そんな夢をジェムはどこかで見ていた。
何処かと言ってしまうのは、自分の事なのに客観的にしか見えていないからだ。
聞こえていないのだ。
どこか遠い世界の自分の事、のような感覚。
これはお伽噺に聞いた事がある、異郷にいるというもう一人の自分の事なのだろうか。
……聞いた事があるのだ。誰が話したか。
門の向こうにはもう一人の自分がいるのだ、と。
その門の向こうの自分は、ここの自分と違う姿をしているけれども、自分と魂を分けたものなのだと。
そのお伽噺を聞かせてくれたのは、誰だっただろう……
そんな事を思いつつ、ジェムは起き上がった。彼女が身なりを整えていると、鍋を持った女性が現れて、それをけたたましく鳴らした。
「お前たち、起きる時間だよ! ご主人様がお目ざめになる前に、朝食の用意が整わなかったら飯抜きだからね!」
だいたいその音を想定していた、もはや慣れっこのジェムとは裏腹に、まだ温かい眠りについていた同じベッドの娘たちが、もそもそと動き始める。
「はあい……」
女性が足早に去っていくと、娘たちがのろのろと立ち上がり、ぶつぶつという。
「あの婆さん、ほんっとうにいや! 朝ごはん抜くなんて信じられない!」
彼女たちの言葉をしり目に、急がなければ本当にご飯が抜かれてしまうため、ジェムは一足先に部屋を出る。
「先に行きますね、皆さん」
「本当に、ジェムって朝に強いのね、孤児院だから朝に強いなんて、聞いた事ないんだけど」
「森の奥の方にある孤児院だと、朝早くから色々しなかったら、一日にやるべきことが終わらないんですよ」
さらりと当たり前のことを言った彼女は、ぱたぱたと足音を立てて廊下に出る。
そして通って行く同じような使用人たちに会釈をして、厨房に入った。
「ジェム、ちょうどよかった、窯の火を熾しておいてくれ!」
「はい」
「しかし火を熾すのがこんなにうまい女の子、何て滅多にいないよな」
誰かが言いつつ、ジェムを見ながら、鍋をかき回す。おそらくこの家の主のための、高級な卵料理を作っているのだ。
ジェムは窯に入るや否や、見事な動きで小脇に抱えた薪を組み上げる。
そして木くずに火打石で火を点け、しっかり燃えているのを確認してから窯を抜け出す。
「いつ見てもジェムの手際の良さは驚きだ!」
言いながら男が、豆の筋を取るように指示を出す。
これも慣れているので、本日の朝に食べる分を手早くとっていく。
そうして色々な下ごしらえの事をしているうちに、ご主人様とその家族様のための朝食の用意が整う。
「リーナ、運んでいけ! そろそろベルが鳴る時間だ!」
「はあい」
リーナと呼ばれた、見目麗しい少女がそれらを運ぼうと動かすと、本当にベルが鳴る。
そのベルの呼び出し先は朝食用の部屋である。
「おもーい!」
一つの料理の重さに悲鳴を上げたリーナが、ジェムを見やる。
「お願い、持って、ジェム!」
「はいはい」
これで手伝わず、もたもたしていた方が怒られる。
そのため迷いもなくワゴンに運んでやり、彼女のために扉を開けてやったジェム。
「いつもありがとう!」
リーナがにこにことして去っていく。
そこでようやく、ジェムは灰にまみれた顔をぬぐい、息を吐きだした。
「食べられるうちに食べておけ、お前たち!」
料理長の号令がかかり、一瞬の空白の時間である今、手が離せない人間以外が一斉に朝の食事を始める。
ハッシュと温野菜のスープと、保存のきくパンだ。
それらを皆急いで食べていく。
ジェムはそれらの中で、一度心の中で祈りの言葉を唱えてから、やはり急いで食べていく。
この、孤児院の近くの領主の城よりも、はるかに立派な家が、今のジェムの働き先だった。
ここは王都、あらゆる豪華なものが集う場所だ。
働き先として紹介してもらったのが、ここなのだ。
ここは紹介状がよほどしっかりしていないと、入れない場所だそうで、いろいろな待遇の良さで知られているらしかった。
レパードの無茶ぶりに、出来るだけこたえた形が、ここへの就職だったのだ。
騎士たちは、レパードの言うところの、ジェムが幸せになる就職先、という物のためにかなり無茶をしてくれたのだ。
全く持って、あの兄貴分の無茶苦茶に申し訳なくなるものの、あまり後悔ばかりはしていられない。
毎日を一生懸命に生きなければならず、そうでなければ城に行く事で別れた男に顔向けができないのだ。
馬が二手に分かれた時、レパードはそっと笑った。
その笑顔は見た事が無いほど、柔らかな悲しみがにじんでいた。
「じゃあな、休みの日が合えば、色々話そうぜ」
会う事は当然、という声で言いきったあたりでもう、その柔らかな悲しみは消え去り、いつも通りの不敵な人の笑顔だった。
「ええ、手紙を書きましょう」
「じぇーむ、おれが文字をろくに読めないの知ってていうのかお前」
「わたしに会うためだったら、覚えるでしょう?」
「まあそうだけどよー」
二人のからかうやり取りも、いつも通りだった。
そして二人は、違う場所で働いている。
そして一か月ほどたつが、なかなか休みの日日が合わず、ジェムは彼に喋りたい事が溜まっていく一方だった。
7.開く世界と離れる指先