5.何人たりともそれはゆずらぬ
「これって、レパードさんがしたの」
そうだとしたらその威力の強さに凍り付きそうだ。
レパードは怖くない。だって絶対にその力を、自分の大事な物に向けたりしないと知っているのだ。
でも、その力の強さだけは恐ろしい。
これだけの事をなしうるその力、門の向こうの存在との心の重なり合い方。
これがレパード一人でやってしまえる事だというのならば、彼の尋常ではないそれはもはや天才というほかなかったのだ。
「ん、どうだろな、油まいておいたし」
「油を?」
「そうそう、夜中にこっそり。めちゃくちゃこっそり、壁のタペストリーとかに油ぶちまけておいたんだよ」
それってやっていい事ではないだろう。
ちょっと考えなくとも、取り合えず肩書では彼女たちを庇護する存在である、領主さまの館のタペストリーなのだ。
油をまいて火をつけた、なんて大問題でしかない。
それに。
「こんな事して、逃げられるの?」
そこが気になった。これだけ派手な事をして逃げ出せる、なんてとても思えなかったのだ。
ジェムのまっとうな質問に、彼は首を傾けた。
「だってこれは、不幸な火災だぜ? おれたちだってこれから、這う這うの体で逃げ出すって事になってる」
「え?」
「ジェム、頭に被せとくから」
手を放すんじゃねえよ。
言ったレパードが、彼女の頭に自分の上着を被せて、彼女の手をしっかりと握りしめて走り出した。
「え、レパードさん!?」
「おれは、火から逃げ出して偶然、内側から爆発した塔に閉じ込められていたジェムを見つけて、一緒に逃げだした。……これで話を合わせろ」
最後の言葉は小さく、しかしそれが一番二人にとって有利な言い訳に違いなかった。
「それでこれから、火の中を逃げる。いいか、これからいろいろ見る事になるだろーけど、絶対にそれを人に言うんじゃねえ」
走るレパードの横顔はいつになく真剣で、ジェムはただ頷いた。
「いいこだ」
唇が吊り上がる。まさにそれは炎を従えそうな男の顔で、不覚にもジェムはどきりとした。
そして二人は、必死に炎の中を走り始めた。やはりぼうぼうと燃え盛る炎の建物の中だ、火の粉は浴びるので色々痛い。
だが二人は外に出るために、何とか走る。ジェムは何度か躓いたものの、絶対にレパードの手を放さなかった。
その時だったのだ。いくつかの炎を噴き上げる木の柱を通り抜けた時。
何かが目のすみで動いた。なんだろう、と思って少し目を凝らすと、それが何なのかはっきりとわかった。
「蝶」
炎で出来上がった蝶々が、ひらりひらりとレパードを先導してるのだ。
そして、ほかにも炎の中で蝶々が、まるで花畑にいるかのように飛び交っている。
そしてその蝶々たちが触れる物のいちいちが、燃え上がる。
何を見せられているのか。
混乱しそうなジェムは、レパードに問いかけたくなりながら、言えなかった。空腹が重なり、喉の渇きも重なり、そして暗闇の中で心が弱っていたからだろう。
そんな根性がどこにもなく、何とか足を動かすばかり。
そして何とか、レパードが城の出入り口を見つけて、そこから逃げ出す。
それはぎりぎりだったのだろう。
熱の膨張が重なった結果か、それとも柱があちこち炭となり、弱くなった結果か。
建物はがらがらと、崩れて行った。
「あー、運がよくて助かったな!」
レパードはにやりと笑い、ジェムのすすけた頬をぬぐった。
ぬぐっても炭まみれの手なので、ジェムの顔は一層すすけたのだが。
彼は笑い、ジェムは座り込んだ。
そこにいたのだ、自分たちは、倒壊する建物の中に。
逃げ出しきれたのが、とてつもない幸運だとしか思えなかった。
「うん……」
「さて、帰るぜ」
レパードはそう言い、ジェムの事を担ぎ上げる。
「わっ!?」
「昔は抱きかかえてどこまでだって歩いたんだぜ、これ位軽い軽い」
なんかずれている、と思いつつも、ジェムは本当にほっとして目を閉じた。
「……ついにか」
戻ってきた二人を待っていたらし、老年の尼僧は二人を見つめてそう言った。
「ついにって、戻って来るに決まってんだろ、尼僧様」
「ご迷惑をおかけしました、尼僧様」
「ジェムはさっさと風呂に入ってこい、あまりにも汚れている。レパード、一緒に入ろうなどと思う出ないぞ、お前には言わねばならない説教がある」
「なんだよー。おれ何もしてねえって。燃え盛るお城から逃げ出したと思ったら尼僧様の説教とかないぜー」
「レパード」
ぎろりと眼力のある視線を向けられたレパードが、うへえ、と首をすくめてからジェムを見る。
「はやく綺麗にしてこいよ、そうしたら膝枕してくれよ」
「はいはい」
尼僧様のお説教が、自分に回ってこなくてよかったと思いつつ、ジェムは自分のあまりにもあんまりな悪臭を落すべく、風呂場に向かった。
そしてふと、思った。
尼僧様は、一体レパードさんの何を説教するのだろう、と。
一番近くにいた自分ですら、レパードさんの炎の力を見たのはつい最近で、尼僧様だって見た事はなさそうだったというのに。
城を燃やしたのがレパードさんだなんて、絶対に尼僧様が分かるわけないのに、お説教なんて何なのだろう、と。
きっと聞いていい事ならレパードさんが話してくれるだろう。
それに、あの炎の中の蝶々はいったい何だったのだろう。
これも教えてくれるだろうか。
そんな事を考えて、ジェムは風呂に入った。
一方その頃。
「お前はとうとう世間に知られた。その精度と、その威力を人前にさらしたのじゃ。天災」
「おれはそんな物騒じゃねえよ」
「どこが。お前ほどの力を持つ門士は早々存在せぬ、いいや、神話の中にしかおらぬ。……お前の事は早々に、陛下に知られる。……お前はその覚悟があるか」
「あるもなにも」
レパードは不敵に笑う。
「おれはやりたい事をしたいようにするだけだぜ、尼僧様。おれの頭を下げさせるのは、おれが下げていいと思った相手にだけだって、知ってんだろ」
「それでいいのか」
「おれは人の意見だけで動きゃしねえの。おれはおれの心のあるままにあるだけだろ?」
「まったく、お前のその傲慢さとふてぶてしさ、そして気ままさと自由なさまは心底炎そのままじゃ」
苦笑いをした尼僧が続ける。
「私らはお前をかばえぬ。お前はそれを知っておれ」
「安心しろよ、尼僧様。もう十分庇ってもらってたし、守ってもらってた」
「……知っておったのか」
「そりゃあな。十年も隠れられたんだ。尼僧様たちがおれを入念に隠してくれてたのは、知ってんだ。……ジェムと一緒にいさせてくれて、心底ありがたいと思ってる。でも一個」
天災を称された青年が言い切る。
「ジェムだけは、誰が何と言おうとゆずらねえからな!」
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