23.くびきから解き放たれた野の獣は
ちょっと書き直しました。
二人で同じ時間に眠るのも久しぶりで、一つしかない寝台で寝るのに変な話だと、ジェムは内心で思った。
約束したとたんに、眠いから寝ようぜ、と言い出した男は彼女を腕の中に収めて、ご満悦で寝息を立てている。
「……」
ジェムはその腕の感触を二度と忘れないと心に決めて、瞳を閉ざした。
ゆるせと啼く獣の声がする。
ゆるせ、ゆるせ、ゆるせ。
それが鳴き声なのだろうか、ただただそれが、繰り返される。延々と延々と。
酷い赤色、どす黒くていやになるくらい鮮烈だ。
その赤色の中で獣が、ゆるせゆるせと啼いている。
ジェムはそれを知っているような気がした。
その獣が何者かも、ちゃんと知っているそんな、気がした。
獣が振り返る、ほら、やっぱり知っている。
だって見知った、蒼穹の色をした目をしているのだから。
「うお、きれいな上着じゃねえの、ジェムさっそく作ったのかよ」
仕事早いな、と感心しているレパードにジェムは笑った。
「だってあんなの、もう着られませんよ」
血染めの衣装はさぞ異質で、余計に悪意の対象になるだろうから。
彼女の気遣いが分かっただろうか、きっとわからなかっただろう。
レパードは頭からその、新しい衣類を被って具合を確かめている。
「どうです?」
「すげえ、具合のいい奴。気分がいいぜ」
爆ぜるように笑った男が眩しくて、ジェムはもう一つの決意を固める事にした。
この笑顔を守れるのならばなんだって、出来る気がしたのだ。
心臓だけ、預けられるのならばこの人に、預けたいのにそれもできない、そんな自分が口惜しいとどこかでやはり思った。
「それはよかった」
笑顔を何度も、繰り返す。
この顔だけを彼に、刻みたかった。
そして彼の、笑顔を心に刻みたかったのだ。
ねえ、お願い、お願い。
こんな願いに気付かないでいて。
彼女のぐるぐるとした感覚など気付かないまま、レパードは肩を回したりして、ようやく具合を確認し終えた。
「さて、今日も面倒くせえな、学校」
へらりと言ったその言葉、レパードがこれから受けるのだろう悪意の数々。
それらの重さをジェムは知りながら、たった一度だけ、こう言った。
「本当に、わたしもなんで行かなければならないのか、皆目見当が尽きませんよ」
教室に入れば一気に、注目された。おそらく昨日のレパードの来訪が、ここの令嬢たちの何かに引っかかったのだろう。
それはおそらく、嫉妬に似たものに違いなかった。
彼女たちはたぶん、焔の君と呼ぶように、レパードを偶像化していた。
それも彼女たちの理想像として。
そんな手の届かない相手の様な、夢見る恋の相手にしたい相手が、こんな平凡な女と親しかったら。
まず間違いなく、何か動きがあるだろうと予想するのは、簡単だった。
「ねえあなた」
近付いてきたのはどこかの、令嬢だ。確か結構な身分の令嬢と彼女の記憶が囁く。
名前までは、憶えていない。引っかかる記憶の中の姓はドレストフ。ドレストフと言えば伯爵だったか。
王族の姻戚だという話も聞いた気がする。
それは目の前の少女が自慢していたから、だ。
「何でしょうか?」
席に座ろうとして止められて、ジェムは彼女を見上げた。
令嬢は栄養が足りているのだろう。見事なまでにすらりと背丈が高く、堂々として見えた。
対するジェムは、子供の頃の栄養不足や食事不足が影響したのか、それとも小さい方が食べ物を食べなくて済むからと、体が意識したからか。
小柄だ。
見上げた事も、ドレストフ令嬢の気に障ったらしい。
眉がやや吊り上がったのが、見上げた世界でよく分かった。
「焔の君とどういった関係なのかしら」
「兄貴分ですよ、孤児院にいた時からの」
本当はそれ以上に、彼が自分を抱えて歩いた年数もある。
しかしそれを言ってもドレストフ令嬢には、理解しがたい世界だろう。
追手を逃れて、食べ物を探し、安住の地を探して逃げまわる子供の暮らしなど。
衣食住に関しては、間違いなく満ち足りているはずの少女にわかるわけもない。
「孤児院にいた時からの? 焔の君は異国の王族だと、もっぱらの噂ですけれど」
「……」
そんな噂になっていたのか、と驚いてしまう部分はあった。押し付けられた宿題に、集中しすぎたから噂も、聞こえなかったのかもしれない。
「あなた、馴れ馴れしいわ。いくらあの方の召使で、あの方が気さくだからと言って」
恐ろしい勘違い、だがレパードがどんな環境でも堂々とふるまえば、そう言った勘違いもされるだろう、と想定は出来た。
レパードは信じられないほど、そう言った部分が突き抜けている。
とげのある言葉を言われて、一瞬縮こまってしまうジェムとは、大きく違うのだ。
身分社会という場所で、相手の身分を考えずに行動できるのは相当な上級の身分、そして親も知れない孤児などその底辺、力関係と身の安全を考えれば、ジェムの反応の方が正しいのだ。
これが、レパードの通訳という大義名分でもあればジェムは、堂々と立ち振る舞えるのだが、自分だけになると駄目だった。
虎の威を借る狐、とどこかで自分に対して笑いたくもなろうものだ。
「ですが、兄貴分ですから……それもいつも、突拍子のない事をする人にもなると」
困った顔で、かろうじて言い訳を口にする、この後の事は大体、読めている。
ぴしゃり、とドレストフ令嬢が持っていた扇子で頬をはられた。
流石良い所の令嬢だけあって、扇子は角なんてない位なめらかだ。
叩かれたところは痛むものの、皮膚が切れたりはしていないだろう。
「黙りなさい、あなた、ご自分の身分を考えなさいな」
「……はい」
ジェムがそれ以上何も言わずに、うつむいた事に気をよくしたのだろう。
ドレストフ令嬢からすれば、身分を考えない愚か者に言い聞かせただけの事なのだから。
これからジェムが、苦労しないようにという配慮も、彼女は持っていたかもしれない。
下の身分の相手を、自分と同じ視線と身分の存在として扱うなど、想定外なのだ。
それがよい事だとは思わない、だがそれが貴族がある世界だとジェムはわかっていた。
もしかしたら、レパードはそれも考えて、尼僧ばかりの孤児院という、身分という概念すら考えられない世界に、逃げたのかもしれなかった。
尼僧は身分社会から、切り離された存在なのだから。
ジェムが一抱えもある宿題を広げれば、令嬢たちが自分の物を抜き取っていく。
「本当に、あなたはお針子にでもなればよかったのだわ、こんな身分違いの場所に来るのではなくって」
誰かが言った。
そうですね、わたしもその方がよかった、とジェムは同意する事もなくうつむいた。
視線を合わせれば、それだけで無礼だと言われる事も、この数十日で経験済みだったので。
授業中は私語厳禁と言うのは、どこでもある話だ。そしてジェムがいる組も同じであり、そして手話が少し混じる。
どこかの修道院は食事中、言葉ではなく手話が飛び交う、といった話も聞く通りに、やはりどこもかしこも、沈黙には耐えられないのだろう。
そういう風に、ジェムは、思っていた。
授業は知っていることをさらうばかり、面白みも欠片もない。
当たり前だ、と彼女としては思う。
そうして時間が過ぎていく。ジェムがふと窓の向こうに目をやると、そこに一匹の蝶が迷い込んできていた。
其れは美しい、赤色の蝶。
何となく其れを、視線で追っていたその矢先だった。
轟音とともに、火柱が上がったのは。
その火柱は間違いなく、人間が作り出せる範疇を越えていた。
つまり、門を開いた誰かが、生み出した炎だった。
レパードさんだ、と少女には直感的にわかった。
そして彼が、選択をしたこともわかったし、それでも彼女がやめるわけにはいかない事が決定づけられたのも、その瞬間だったのだ。
彼女は火柱とともに吹き付けてきた、恐ろしいまでの熱波に悲鳴を上げる少女たちを後目に、立ち上がる。
迷うことなど何もない。
いいや、本当は迷ったあげくに実行できない方が、にんげんてきにはただしいのかもしれなかったけれども、ジェムはその選択を選ばなかった。
彼女は走る。元々体力は普通の少女よりはあるのだ。
レパードと一緒にいると言う事は、彼の無茶ぶりについて行くこと、彼の無茶ぶりを止めることでもあったのだから。
走って走って、廊下をいくつも駆け抜けていく。
途中、避難しているのだろう数人が言う言葉が聞こえてきた。
「人間がやる事じゃない、あれ!」
「普通、今までの反撃にしたってあんなものやらないだろ!?」
「いくらなんでも、むごすぎる」
それらの言葉が門士の棟に行くほど増えていく。
つまり誰かが、反撃としてとんでも無いことをしているのだろう。
でも、大丈夫。
ジェムには確信があった。たとえどんなにむごい事と言われても、彼が最後の一線を越えないことを、一番知っていたのだから。
今もなお、彼女のレパードならば、その一線は越えない。
いろいろ理解できない部分が、最近増えたし、やっぱり彼の言う事についていけなくなりつつあった。
だがそれでも、ジェムはそこだけは信じていたかった。
そして、今からあの人すら手を出さなかった事に手を染めるであろう自分に、あきれ果てたくもなった。
だが彼女は迷わない。
迷うことを選ばなかったのだから。
走って走ってとうとう、演習場だろうそこに到着する。
おそらく名のある門士たちが、群がっている。
彼らはここの奥で行われていることを、阻止しにきたのだろう。
「近づけるか」
「だめだ、熱すぎる!」
そんな声がいくつも聞こえているが、ジェムは小柄な体を利用して、人の群をすり抜けて、そこに到着した。
複数の青年が地面に転がり、うめいている。
誰もが痛みにのたうち回った後なのだろう。
そして、彼らの全員に焼け焦げがある。
その時点で、彼らがいったい何をしたのかが、明白だった。
こんな大人数で、レパード一人に。
そう知ると怒りで、目がくらみそうになる。
だが目的は違うのだ。
彼女は熱波に顔をゆがめながら、そこに近づいた。
そこは何人かの少年を盾にしている男が、わめいている場所だった。
結界が張られているのだろうか。
薄く白いものが、彼らの周囲を覆っている。
近づけないだろうか。ジェムは試しにそれにふれる。
そうすると、彼女を拒絶する結界ではなかったらしく、するりと中に潜り込めた。
そこまでしてから彼女は、その男の背後で問いかけた。
「どうして多勢に無勢で、一人を襲った」
声は低く意識したからか、普段の少女とはずいぶん違った声になる。
「どうして、だって? あんなうっとうしい男は、さっさと戦場に行かせるべきだからだ。だってどの門士よりも戦争に特化した力を持っているくせに、この学園にあの年齢で来るなんて頭がおかしいのだから!」
「戦場に行かせるためだけに、多勢に無勢で」
「そうさ、この学園にいられないと思えばその分、門士は軍に入るのが早くなる! そしてすぐに戦場に行きたがると言うのが普通だからだ!」
「……あなたたちは、自分で手を下せないくせに、あの人の命を握った気分でいるのか」
彼女のとても小さな声は、男には聞こえなかった。
結界をたわませる、軋ませる炎の剣が撃ち込まれたからだ。
みしみしりと軋む。
結界はそう持たないだろう。
一目瞭然のそれだが、男がまた命じる。
「第三結界と第四結界を重複展開させろ!」
「だめです、四重の重複展開は危険です!」
「皆まる焼けだぞ!」
青年の脅しに、少年たちが身をすくませた。
「お前たちだってあの化け物をいたぶっていたくせに、ここで逃げて自分たちは助かると思っているのか!? 馬鹿め、あの化け物の息の根を止めなければ、助かるわけが」
「いいえ」
ジェムは小さな声で、その青年の背後で囁いた。
「あなたはここで死ぬのです」
「大事なひとを痛めつけられて、泣き寝入りする事しかできない女ばかりとは、限らないんですよ」
彼女は一番近くにいた一人目に、刃物を突き出した。




