2 別れの匂いは近付いてくる
「やれ、焦げ臭いにおいをまとわりつかせおって」
孤児院が見えてきたと思えば、その門のあたりで一番年かさの尼僧が立っていた。
杖を片手に眼光鋭く、と言った雰囲気か。
ただならない雰囲気ではないのだが、何かが違う気配だ。
ジェムの困惑とは裏腹に、レパードは肩をすくめているばかり。
「その歳でそれだけ焦げ臭いと知られれば、もう隠し通す事は出来ぬぞ」
「わかってら。しょうがねえんだもん。軟泥動物が広がっちまったから」
「それでも目立つ事をとりわけ厭うていたというのに。おまえはやはりジェムがらみだとそういう事を迷わないのじゃのう」
「尼僧様良く分かったな」
「え?」
レパードは感心していたが、ジェムは良く分からない会話でしかない。
だがレパードは頷いてからこう言ったのだ。
「おれはジェムが悲しむ顔なんて見たくねえんだ。それにおれだって餓鬼どもが飲み込まれるなんて嫌だし。おれもいや、ジェムも嫌、なら使うべきだったと思うぜ」
「お前はそれでいいかもしれないが、それで今度は大騒ぎになるとわかっているのじゃな」
「騒ぎになるのは大体わかっけど、そんな大ごとかよ」
「大ごとも大ごとじゃ。火の門をひらく門士は数えられる程度、その中の殆どが、お主を超える力を持たぬ」
「ガキの頃から使えてっからいまいちわからねえんだよなあそれ」
餓鬼の頃から? 日の門をひらく?
ジェムは何とか会話を理解したいのだが、あまりにも予想外過ぎてついていけないのだ。
だってそれを認めたら、レパードが遠くに行ってしまう気がしたのだ。
「……おぬし、道中ジェムに説明をしなかったのか」
彼女の困惑を読み取ったらしい尼僧が、呆れたように溜息を吐いた。
「おぬしが自ら説明しない限り、わたしは説明などせぬぞ、レパード」
「おー」
分かっているのか、分かっていないのか。このなんとも言えない調子はいつも通りのそれで、レパードを見ているジェムに彼は、言ったのだ。
「おれが知ってる限りの事だったら話すから、飯食おうぜ。林檎のパイ焼けるだろうから」
確かにとてもいい香りがしていた。
香辛料とそれから、リンゴの甘い香りだ。飛び切りのおやつである。
それとも夕飯の後の立派なデザートか。
きっと今日の夕飯は香草のサラダと肉の欠片、そしてパンという物なのだろう。
そこまでの贅沢を許さない尼僧の戒律があるので、豪華な物は一つきりにはずだからだ。
「あ、ジェム姉ちゃんもレパード兄ちゃんも帰ってきた! おかえり!」
視線を向ければ、子供たちが駆け寄ってきた。
彼ら彼女らを見ているうちに、レパードに抱く不安が少し消えたような気がした。
そんな物は気のせいだったと後から知らされるのだが。
「ん、おれはガキの頃から、もう覚えてねえくらい前から火は勝手に使えんだよ」
子供たちがじゃれつく夕飯の後。皆眠ってしまってからジェムは、レパードに手を引かれて外に出ていた。
そこで門の柵に座りながら、レパードが何から話すかな、と切り出して言ったのはそれだった。
「火が勝手に使えるってそれって」
普通ではないだろう。とにかく。火は勝手に使えるなどと言っていい代物ではない。
だがレパードはそう言うのだ。
「いつから、なんて覚えてない。気付いたらつかえたし、好き勝手出来た」
「好き勝手って……いくらなんでもそれは、言い過ぎのような」
「ん、そうか? 尼僧様はおれが使ったのを見て、これこそ自由自在、平穏な生活が欲しいなら隠しておけって言ったぜ」
尼僧様が言ったのならそうなのだろう。
たしかに、と今日の昼の事を思い出せば、自由自在と言ってもいいかもしれない。
炎はまるで、レパードが命じる全てが当たり前の事だと言いたげに従った。
それにしても。
「普通、火の門をひらく門士は、滅多にいないから、こんな場所にいるわけがないって」
「大体、おれ門士なんてもの知らねえし」
そうだった。
ジェムはこの男が、あまりにも馬鹿すぎて学校に行かせる金も惜しい、とあきらめられた男だと思い出した。
森の中で暮らしていけるだけの知識で、レパードは生きているのだ。
孤児院のお金はぎりぎりであり、年に何度も子供がやってくるため貧乏寸前だった。
そのためこの男の常識はずれがあるのだ、一度もそれで困った事はなかったけれども。
「門士ってなに?」
あけっぴろげな笑顔で言うレパードに、ジェムは言う。
「大体お貴族様で、戦争で殺し合いをする人たち。特別な力を使うの。異界の門を開いて、その向こう側の住人の力を借り受けて奇術を使う人たち」
「だったらおれ全然違うだろ」
「でも、レパードさんはきっと門士だと思います」
「なんで? 貴族でも戦争で殺し合いをする人間でもないぜ」
「あれだけ炎が使えたら、きっと門士何だと思います」
「よくわからねえ理屈だな。ん、で、話戻そうぜ。おれは気付いたらあれが使えた。んで、ジェムを拾ってそれからずーっとジェムと生きてきた。おれが知ってんのはそれだけ」
「もっと詳しい事とか、その力をどれくらい使えるのかとか」
「しらね。でもたぶん……この森一つ焦がすのは出来るぜ」
それはありえないほどの力だ、とジェムは察する。とても普通の門士の力でもないだろうと思った。
そしてこののちに起きるであろう大騒ぎを思って、溜息を吐きそうにもなる。
火の門士は、国王が血眼になって探している人間なのだ。
戦争の局面を一気に変えられるのだし、なにより珍しい。王様という種族は珍しい物が大好きで、そしてその下にいる領主さまたちは王様に珍しい物をささげて、自分を優遇してもらう事を考える。
その点から見れば確実に、レパードは奉げるに値する存在だった。
そして、ジュエリーが目撃しているのだから、領主さまがレパードを知らないでいる事などありえないのだ。
ちかいうちに、レパードは。
いなくなる。
王様が探すか、領主さまが探すかして。彼らの利益のために、連れて行かれる。
だってあれだけの炎を操る門士は、滅多にいないのだから。
そう気が付いたとたんに、ジェムは鼻の奥が痛くなった。
彼がいないのが嫌だった。いなくなるのがとても恐ろしく思えたのだ。
彼女の生活の中で、レパードがいない事などないのだから。
日常が変わる事は、誰でも恐ろしい部分があり、変わる事を頭から歓迎できる人間も少ないのだ。
「え、どうしたんだよ、ジェム」
彼女がうつむいて涙を隠したことを、相手はすぐに察したらしい。
柵から下りて顔を覗き込み、問いかけてくる。
「なんか怖いのか? でもおれ、絶対に神様に誓えるけど、ジェムを燃やしたりなんてしないぜ」
彼女はふるふると首を振った。そしていつの間にか、行っちゃいやだと鳴き声をこらえている自分に気付きながら、それを懸命に隠して言った。
「レパードさんがどこか遠くに行くのが、いやなの」
それを聞いたレパードは目を瞬かせた。
そののちにこう断言した。
「大丈夫だって、ジェムが俺から離れようと思う事はあっても、おれがジェムを放そうって思うのは天地がひっくり返ったって有得ねえから」
「でも、きっと近いうちにあなたは、どっか行っちゃいますよ」
「そんときはジェムだけ持ってそこにいくさ」
餓鬼の頃みたいに、と彼は当たり前だというように告げてきた。
「え?」
顔をあげれば、月明かりにきらきらと反射する銀の髪が、まるで光を放つような彼がにやりと笑って言うのだ。
「餓鬼の頃おれは、片手にジェム、それだけでずっと歩いたんだぜ。それでここについて二人とも楽しくやってきただろ? 次だってそうなだけだ。ジェムが泣いて嫌がってもおれはジェムをどこか遠くにやっちまうなんて考え付かねえよ」
な、と顔を覗き込み、彼女の手を大事そうに包み込むレパードは真剣であり、自分からどこかに行くなどありえないと感じているようだった。
彼が思っているならそうなるかもしれない、とジェムは思う。
それに。
「あなたの言っている事を、他の人もわかるように言う通訳がいないなんて、恐ろしい事できませんからね」
「だろー。おれとジェムが離れるわけがねえの。おれの宝物」
手を離したレパードが両腕を広げる。
ジェムは吸い込まれるように、その胸の中に入った。
彼女の耳は彼の心臓のあたりなのだ。
そこで心臓の音を聞き、彼女の癖のある髪を梳く彼の指を感じながら、眼を閉じた。
「お前は、ずっとおれと一緒なんだ」
レパードが当然のように言う。
「お前がちいちゃい頃に、おれに抱っこされた時からずっと、決まってんの」
覚えていないなんて、とても言えなかった。それでも胸の温かさと柔らかな心の感覚と、それから何にも代えがたい安心感に、ジェムは頷いた。
馬鹿だし能天気だし、楽天家だし、色々不安のある人だが、それでもジェムはレパードが一番好きなのだ。
多分永遠に変わらない順番だ。
頬に当たる手を感じ、ジェムは顔を上げた。レパードが自分を見下ろしている。そのまま顔が近付いたと思えば、唇同士が触れる。ただそれだけの接触だ。
それが本当は、接吻という特別な意味を持つ物で、年頃の男女が行えばとんでもない意味合いを持つと知っているジェムだったが。
おそらく深く考えていないレパード相手に、懇切丁寧に言う事は出来ず、これで何度目か数えた事もなかった。
そして一番の問題は、その接吻をされるたびにふわふわと心が浮かんでしまう自分だろうと、ジェムは何よりもわかっていた。
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