1.運命が変わる前の出来事
明けましておめでとうございました。新しくスタートします。
更新は遅いですが、よろしくお願いします。
乙女ゲーム雰囲気はやや薄めですが、下地としてありますのでタグ付けてあります。
しんじらんねえ、あの餓鬼第八位の術式を使いやがった。
はやく第三結界を発動させろ!
八位の炎だ、もう焼ききれてしまう!
増援部隊は何をしているんだ!
発動展開が遅すぎます! 相手の発動のタイミングについていけません!
早くしろ! このままじゃこのあたり一面が火の海だ!
いったいあの子供はどうやって第八位ほどの術式を……
ぼやぼやしている暇はないぞ! 急いで手持ちの結界をすべて使うんだ!
多重展開を行うとゆがみが発生します! 何が引き寄せられるかわかった物ではありません!
それでもやらなかったらここが全滅だ! この最悪あの餓鬼の命は無視して継続を止めろ!
第三結界、承認しました!
第四結界、発動します!
第五結界、展開中です!
第二結界を発動させる術者はいないのか!
ここにいないのは分かっているでしょう!
隊長、第八位術式、火焔刀剣が展開しています!
全ての音が煩わしいのだ、と子供は思っていた。
全ての音も声も、子供の耳には雑音のような物でしかなかった。
ただ子供は、手の中にある物を握り締めて、その鼓動に耳を澄ませて立っていた。
俺が拾い上げたのだ、と子供は思っていた。
だから誰にも渡さないのだと思っていた。
取り上げられるならば抗うのみだと思っていた。
それゆえに子供は、それを抱きしめて握り締めて、片手で子供の体にはあまりにも代償が重すぎる力を行使していた。
第八位とか、第三位とか、そんな物は子供にはわからない物だった。
しかしそれだからと言って、子供の力や能力に問題を起こすわけでもなかった。
子供はただただ、手の中の物を取り上げられないためだけに、脳髄が沸騰しそうな術式を操っていた。
それはまさに天才であり天災。異端の中の異端。
一体どこの誰が、どこの大魔法剣士が同じ事を可能にしただろうか。
第八位の炎の術式は、それだけの技術と技量を示していたのだ。そして残酷さもだ。
子供は息を吸い込み、片手に握りしめていた力を解き放ち、その膨大な世界の力をより合わせたものを、相手方に叩きつけた。
焔爆。
と言っていい物が、炎の海があたり一面に広がりかけた。
相手方は何重にも展開している結界術のために、その炎を防いだが、二度目三度目はないだろう、と誰もが思うだけの物だった。
撤退だ!
しかし、逃げられます! 三年がかりで見つけたのに!
だがそれでも、このままだと全滅だ!
殿下や公爵様にどういえばいいのですか!
今の状況を全てきちんとお伝えすればいいのだ!
責任は私が被る、と誰かが叫んでいた。
子供はどうでもよかった。また力をより合わせる。渡さないとひたむきに思うその心が、子供の苛烈な霊気に共鳴する、世界の力と一体化していく。
子供にとってみればとても簡単な事、というわけでもない。
自分が焼け死ぬのはいいのだが、そうしたら手に握る物も燃え尽きてしまうのだ。
そして子供はそれを許さなかった。
自分はいいのだ。
しかしこの手に握る物を、燃え尽きさせてしまうのは絶対に嫌だった。
頭が溶けそうだった。熱で浮かされるようで、ふらふらと頼りない足でそれでも立っていた。
二撃目が、放たれる。
炎熱で結界が目にもわかるほどひしゃげ、結界を構成する霊気と、より合わせられて肉眼で確認できるほどの炎の力が音を立ててぶつかり合い、火花のように霊気が散っていく。
有利なのは子供の力の方だったらしい。
結界の霊気がこらえきれないと言わんばかりに、ぐじゃぐじゃと音を立てて削れていく。
撤退だ!
誰かがまた叫び、言う。
私を残して皆は逃げろ!
隊長!
結界を維持している間に、お前たちは空間転移で手当ての出来る街に跳べ!
子供は言っている意味は何一つ分からなかったのだが、目の前で相手方の人間たちは掻き消えるように消えて、残されたのは女一人だった。そして女も力尽きて倒れ、結界が霧散する。
霧散したと思ったあたりで、子供の集中力は尽きて、炎の力もほどなく霧散した。
周囲は見事に焼野原であり、子供の周囲だけが青々とした緑いろだった。
そこだけが炎熱の余波を受けなかったと言わんばかりに。
子供は手の中の物を見た。
「にいちゃ?」
手の中の物は、きょとりきょとりと目を瞬かせると、ふにゃふにゃと笑った。
「行くぞ、ジェム」
子供は焦げ臭い空気を吸ってくしゃみを一つして、呼びかけた相手を抱きかかえなおすと、焼野原を裸足で歩き始めた。
じゅうじゅうと足の裏が焼ける音がしたのだが、子供は眉一つしかめなかった。
それだけの力を持った、そんな子供は宝物を大事に大事に抱え込み、歩き続けていた。
目指すのは、何故か知らないが追いかけてくる大人たちがいない、そんな場所だった。
その出来事から、十年ほどの月日が経過しただろう。
一転した世界である。森の中だろう、木々の生い茂る空間だ。
そこに一つのとてもか細い道を見つけると、その場所にたどり着く。
質素な建物ながら、割合頑丈そうに作られているそこは、屋根の上に聖印を掲げている所からして、修道院か何かだろう。
森の中に修道院や尼僧院があるのは、何らおかしな話ではない。
森という物を、魔性の一部と捉えて、そこを浄化するべく敬虔な神の使徒が住まうのはありふれた話なのだ。
そこもそうなのだろう。
丁寧に手入れをされている場所と言い、そこは手入れをするだけの人員を確保できているに違いない。
そこで、一人の青年がとんからとんから、と楽しそうに屋根の修理を行っていた。
その屋根は家畜小屋の屋根であり、その近くでは豚がのんびりと地面を掘ったり、泥だまりで転がったりと自由にしている。
ほかにも山羊もいれば、鶏も見受けられる。
中々色々な家畜が手に入る場所の様だ。
豚は残飯や生ごみを処理する事に最適な生き物であり、屠殺ができる人間がいればベイコンもハムも手に入る。
そして山羊の体毛は長く、ある程度の季節になればそれを刈り上げて、立派な冬物の衣類を作る事が出来る。
鶏に至っては卵も手に入るのだ。
とにかくそこは、牧歌的な空気漂う場所らしい。
そこでとんからとんから、小ぶりな木槌を使って屋根を修理している青年である。
とても手慣れた、熟練とは言えないが経験者の動きだ。
何者だろうか。
聖印を首からぶら下げていない所を見ると、聖職者やその見習いではないらしい。
だがここにいる事が当たり前なのか。
鼻歌交じりにそれをしていた青年は、不意に下の方から聞こえてきた声に視線を持ち上げた。
見張るような赤い目の青年は、その瞳を左右にやって音を確認したらしい。
「おい、お前ら、あんまり屋根直してる時に近く寄るんじゃねえよ。この前板が落っこちただろ」
音の方にかけられた声と、それにすぐに返事が返ってくる。
「だってレパード兄ちゃん、今日ずっと屋根直したり壁直したりしててつまんない」
「兄ちゃんがいない時に、森に行っちゃだめって尼僧様たちがいうし」
「んだったら尼僧様たちの手伝いしてろよ」
「やだー。尼僧様たちのお仕事、上の姉ちゃんたちが皆やってるんだもん」
幾人かの子供の声だ。その声にレパードと呼ばれた青年は、深紅に染められた爪の生える手で頬をポリポリとひっかいた。
「そんなら。確か明日は聖休日だから、お祈りするんだろ。聖堂の掃除とかしろよ」
「やっていいのかなあ」
「いつもやってることだけだったら、尼僧様たちだって怒らないだろ? 聖堂の女神様にお祈りしてから、お掃除させてくださいって言えばいいっていうと思うぜ」
「はーい」
子供たちは暇を持て余しており、そして掃除を厭わない性格の様だ。
彼の提案を聞いて、わらわらと四人ほどの子供が、家畜小屋の周囲から走って行った。
「よし」
最後の木釘を打ち付けた青年は、傾斜のやや急な屋根の上に安定よく立ち上がり、呟く。
「これで次に嵐が来ても、まあ屋根は飛んで行かねえだろ」
……どうやら家畜小屋の屋根は、嵐で飛んだらしい。
そう言えば、森の中だからさほど目立たないが、色々な枝が多めに落ちているようだ。
レパードはひょいとこれまた、軽々屋根から飛び降りた。
「これ、レパード! 子供たちが真似するような、粗野な振る舞いをする出ない!」
飛び降りるや否や、叱る壮年の女性の声が響く。
うへえ、とレパードは首をすくめて、その女性を見る。
頭髪を見事に剃り上げて、その上から布を被った女性は、首から聖印を下げている。
修道女なのだろう。
首から下は、実用的な衣類なので、都会のお決まりの衣類を着た修道女とは雰囲気が随分違う物であるが。
「お前もいい加減に、落ち着いて動くようにと言っておるじゃろう! お前はこの孤児院に来た時からふらふらふらふら、落ち着かない根無し草の様に。ジェムが、これだから町で仕事を見つけられないのじゃ!」
「そこで俺じゃなくて、ジェムの仕事先を心配する尼僧様の頭の中がすげえわ」
「お前は別段、ここにいつまでもいてもいいと思っているじゃろう。そしてここは男手が一人くらいいた方が頼もしい。特にお前は尼僧たちに手を出す頭もないしな」
「そう言う目で、なんで女神様の娘で、姦通罪が特に重い尼僧様を見なきゃならねえんだよ、俺とジェムをここまで育ててくれた人たちに、そんな真似するかよ、俺が」
ぶうっと唇を尖らせたレパードは、すぐさま空に目を向けた。
「んじゃ、尼僧様、俺はジェムを迎えに行くからな」
「明日は聖休日じゃからな、ジェムもここに帰ってくるのを楽しみにしておる。特にお前と一緒にいるのがうれしいらしい」
レパードはそれを聞き、自分の機嫌は最高に良くなりました、というような笑顔になった。
「俺もジェムと一緒にいるのが、一番幸せだもんよ。そっかそっか、ジェムもそーなのか!」
彼はそのまま、家畜小屋の脇の出っ張りにひっかけていた荷物の頭陀袋を肩にひっかける。
「そんじゃ尼僧様、俺が今日交換してくるものは?」
「塩じゃのう。それから胡椒じゃ」
「おー」
尼僧の言葉に返事をするレパードは、そのまま軽快な足取りで、孤児院の柵を飛び越えて、森の中に入って行ってしまった。
その、どこからどう見ても森を動く事になれた姿に、尼僧は小さく呟いた。
「あの愚か者がここに、ジェムを抱えてやってきたのは、もう十年も前なのじゃな」
尼僧の記憶の中に、きっとレパードの幼い頃がよぎったのだろう。
彼女も、自分の仕事を思い出してそこから歩き出す。
杖をつきながらも、しっかりとした足取りは、あと二十年は元気だろうと思わせる物、だった。
「ねえねえ! ジェムのお兄さん、今日もお迎えに来るのかしら!」
女学校の本日最後の授業が終わるや否や、少女に浮足立った声がかけられる。それを聞いたジェムは苦笑いをした。
「そんなに楽しみな物ですかね」
「楽しみに決まっているじゃない! こんな町ではめったにお目にかかれない超美形なのよ! この町の女の子は一回彼を見たら、一度や二度は恋に落ちるのよ!」
力説する仲間たちを見ながらも、ジェムはそれを否定できなかった。
彼女は物心ついた頃から、側にはレパードがいた。
だがそれでも、レパードの整い方が普通の男性以上だという事くらいは、分かるのだ。
「野性的な褐色の肌! 燃えるような情熱的な深紅の瞳! それから何といってもあの、銀色のサラサラの髪の毛! どれもこんな町でもそう簡単には、お目にかかれないものばっかりよ? 褐色の肌の人は東の方にしかいないっていうし、人間で赤い目なんてあの人以外に聞いた事も見た事もないし、おまけに美女よりも綺麗な銀髪よ? それでいて目鼻立ちが悪ければまあ珍しい、で済むけど! それがはめ込まれている顔から体からは、これまたこの辺のお見合い祭りでだって、比べられない位の格好良さじゃない!」
うっとりとした調子で語っている友達に、ジェムはもう何も言えない。
それを否定できないのだから。
「どうして彼は、町で暮らしてくれないのかしら! あの人たしか、ジェムより四歳年上なんでしょう? 孤児院にいるって事も不思議だけど」
「仕方ないじゃない、ジェムの孤児院は、森の中過ぎて、男の人が色々やらないと、とっても大変なのよ。だって、森よ、森! 夜になると扉の外までやってくる、いろんな怖いものが飛び交う森にあるんだから、彼くらいの男の人がいないと、困ってしまうのよ」
女友達たちが、口々にそう言うのを、ジェムは聞いていない。
ふわふわとした黒い癖のある髪を、首の下で一つに結んだ彼女は、手際よく帰宅の準備をして行く。
「ねえジェム、私たちも一緒に、学校の入り口で待っているわ!」
そんなすぐに返る用意をしている彼女へ、友人たちが声をかける。それに振り返り、ジェムは苦笑いをしながら言い切った。
「レパードを近くで見たいんでしょう?」
「そうよ! だって彼、あなたが来た途端にあなたを連れて、帰っちゃうんだもの!」
「仕方ないでしょう! 孤児院までの森の道は、かなり長いんだもの。誰かとおしゃべりしていたら、夜になっちゃうわ」
「確かにそれはとっても怖いわね」
いかにも文句だというように言った友達へ反論すればすぐに、森の中という事で理解してもらえて、ジェムはありがたいと思った。
これが森の怖さを知らない人たちだと、もっとしつこく、レパードへ紹介するように迫ってきたりするのだから。
特に都会の人たちになるほど、森の怖さを馬鹿にしている部分があったりするわけだった。
「それじゃあ、あのジュエリー様が来る前に、門の所まで行きましょ」
善は急げという調子で手を掴んできた友人に、ジェムは言う。
「マリエッタ、そんなに引っ張らないでったら」
「だってジュエリー様が彼の所に行ったらそれだけで、大騒ぎになっちゃうでしょ! ジュエリー様もあの人の事を思って刺繍をするっていう噂だもの」
「婚約者様がいたのに」
「婚約者様、ニキビの痕のすごい人だから、ジュエリー様は嫌なのよ。それに比べて彼の滑らかな肌と言ったら、あれこそ美ってやつよね」
マリエッタの言葉に、ほかの友人たちもこくこくと頷いた。
レパードが男前だというのは、共通の認識であるようだ。
ジェムもそれには異論がないのだが、他の領地の次男であるジュエリーの婚約者の見た目など知らないため、なんとも言いようがなかった。
「でも、よっぽど男前の人じゃないと、レパードさんと見た目だけは並べられないんでしょうね」
小さなつぶやきは、果たして今日も門の前で待っているだろうか、と盛り上がっている友人たちには、聞こえていない物だった。
そして女学校の廊下を、できうる限り音を立てない仕草で走った数名は、門の前で一人、どこの誰とも違うその男がいる事を確認するはずだった。
しかし事はそうはいかなかったのだ。
何処かから、大声で罵るような声が聞こえてきた。
それは遠くだったという事もあって、その音が徐々に近づいてこなければ音の中身はわからなかっただろう。
だがその音は門の方から聞こえてくるようで、門の方へ向かう少女たちの耳に聞こえてくるわけだ。
「この色情魔!」
聞こえてきたのは、罵倒するに至っては最悪と言っていい、悪魔に例えるそれである。
余程の事が無ければ、悪魔のようだとは例えたりしないこの王国で、悪魔などとののしられるのは相当の極悪人と言ってもいいだろう。
そんな人間が、よりによって女学校の前にいるなんて。
少女たちは思わず、その恐ろしさに立ち止まりかけた。
立ち止まりかけたのだが。
「ねえ、窓の所から覗いてみましょ、入口から見えるはずだわ」
誰が言ったか、ほぼ彼女たちは同時にそんな事を口にした。
色情魔、と言えば色欲の悪魔である事が一般的だ。そしてみだらと言うのは男にとっても女にとっても悪徳であり、悪徳の中でも上位と言っていいもの。
それの悪魔と呼ばれる男だ、直ぐに街の人たちがここから追い出してくれるだろう。
その前にそこまで言われる人間の顔を、見てみたい。
彼女たちのように、女学校などという女の園にいるうら若い少女たちにとって好奇心がくすぐられる事もあるわけだ。
ほかならぬジェムも、入口の前の窓のあたりにたむろする、ほかの少女たちと同じようにそこを覗き、はっとした。
門の前には、これ見よがしなほど立派な馬が数頭いる。
あれは明らかにこの町では、領主さま位でなければ手に入れられない上等な東方産の馬である。その優美なシルエットは、農耕馬とは大違いの姿だ。
あんなものを見られるなんて、と思ったのと同時に響き渡ったのはまた同じ男の言葉だったのだ。
「この悪魔が! わたしの婚約者をたぶらかすなど万死に値する!」
「たぶらかすも何も、何にもしてないのに何を言うんだ?」
男の声にこたえるのはもう一つの声である。
その声は笑いを隠しきれていない。
あれは間違いなく、笑ってしまいたいのだと長年の経験から、ジェムはわかってしまった。
「あの人何をしているのかしら」
「本当だわ、ジェムのお兄さんがあそこにいるわ」
「それに、ジュエリー様もいるわね」
「いやらしいわ、きっとジュエリー様がジェムのお兄さんに言い寄って、あの男の人に見つかったのよ」
「間の悪いお兄さんだわ、可哀想」
可哀想なのはおそらく、あちらの男性だろうとジェムは思ってしまう。
そして何より、ここで揉め事を起こせば問題だときっちり分かっているはずの、わが兄が何とも言えない調子でからかっている気がするのは、気のせいだろうか。
「これは出て行くしかないわ」
森に長い事暮らしており、そして森の中の常識と物差しで生きている兄は、こう言う都会の世界になれていないのだ。
そのため時折何かをやらかすのだ。
今回もそれだろう、相手が何を勘違いしたのかは知らないけれども、ここは通訳が出て行く番だろう。
彼女は溜息を一つ吐き出した後に。女学校の玄関からでた。
そして。
「レパードさん。何をしているんですか? 何か意思の疎通ができないの?」
大股で、さっさと話しを終わらせたいという雰囲気をにじませ、彼女はレパードの前にするりと割って入った。
今にも男が、レパードに殴りかかりそうだったからだ。
流石に女の子を殴ったりはしないだろう、という良識が働くと信じた結果の行動だ。
しかし。
「はっ、色情魔の情婦はとんと醜いのだな!」
余りにもあまりな侮蔑が響き渡り、ここでジェムは固まった。何故ここでいきなり罵倒されるのか、わからなかったのだ。仲間だと思ったら、何もしていない、いわれのない怒鳴り声を浴びせてもいいものなのか。
固まった後に何故か驚きすぎたのか、涙がこぼれそうにもなったが、ジェムはそれをぐっとこらえた。涙を流すとそれだけ、問題になるのだ。とてつもない問題が発生してしまうのだ。
それを回避するために、ジェムは根性で涙を抑えた。
だが。
「……あんた、いま。何言った?」
後ろの声が物騒な音に低く下がり、あ、まずいとジェムが思うと同時に彼女を後ろに引きずって背中に庇い、レパードが言った。
「おい、あんた。こっちをいくら言われようとも大した事じゃねえけどなぁ。ジェムの事、何て言った?」
「ますます、趣味の悪い悪魔だな! わが愛しの婚約者をたぶらかさずに、その見事なまでに醜い鳥の巣頭の女だけを貪っていればいい物を!」
ふう、と空気に熱が混じるのを、近くにいたジェムは感じ取っていた。
大変のよろしくない状態だ。
彼女は引きつったまま、何とかこれを止めようと頭を巡らせるのだが、ここまで言われたこのレパードが黙っているわけもないのだ。
「へえ」
灼熱の音が混ざる焔の声。
そんな言葉がよく似合う男が、それだけを言う。きわめて侮蔑を感じさせる音をにじませて。
「あんたみたいな、穴ぼこの空いたぼこぼこのニキビの痕で鼻の穴が四つも増えている野郎が、おれのジェムをみにくい。……さっきあんた、決闘だとか、言ったよな」
声とともに、闘気の様な物がじわりじわりと空気にこぼれ始める。
「受けるの面倒くさかったんだが、受けてやろうじゃなねえの。きっちりジェムに謝罪してもらうぜ。穴ぼこ男」
レパードの声に、もう騎士は顔を真っ赤にしてかんかんだ。
今にも剣を抜き放ちそうだったのだが。
剣を抜いて行う決闘は神聖だ、という頭でもあったのだろう。
「この、見た目ばかりの男が! わたしを侮辱するなど百年早い!」
男は重い外套を脱ぐ事もせずに、殴りかかってきたのだ。
当然のように、レパードは後ろの少女を少し下がらせて、片手で男の腕を掴み、いとも簡単に流してしまう。
男は顔面から地面にぶつかった。
その見事な、無駄の一切感じられない動きに、見物していた人間たちから喝采があがる。
それに両手を振ってこたえるレパード。その背後で立ち上がる男が。また殴りかかってきた。
しかしそれも、レパードが体をかがめる事で失敗し、それの後の後ろ蹴りが的確に決まる。レパードの長い脚から繰り出される、見事な蹴りは相当痛い。
何しろ、足の一撃で壊れた扉くらいだったら吹っ飛ばすのだから。
そんな事を思ったジェムは、眼をきらきらとさせながら、いかにも令嬢という声で、領主の娘であるジュエリーが叫ぶのを聞いていた。
「お願い、私のためにあらそわないで……」
いや、誰もあなたのために争ってないんですけどね……
ジェムは何も突っ込もうとしなかった。
ジュエリーの婚約者の一撃は一つも決まらず、レパードの回避と同時に決まる攻撃はいちいち当たるのだ。
そして。
息を切らしてもいないレパードと、無駄な動きと空振りが多かった結果息も絶え絶えな婚約者。
見事な対比状態になったときだ。
「この……っ!」
婚約者が剣を振りぬいたのだ。ここで騎士の誉れも何も無視し、勝つ事にばかり心が向いたらしい。
まあここまで騎士が、ただの庶民に何もできなければ当然かもしれないのだが。
だが。
婚約者は疲れていたのに、大仰なまでの動きで剣を抜き放ったのだ。
そうするとどうなるのか。
疲弊のたまる腕は変に動き、彼は後ろに倒れ込んだ。ちょうど行商が店を広げていた場所だ。
品物が壊れる音がして、一つの液体の入った瓶も見事に壊れ、他の瓶も次々と壊れたのだ。
「あっ! なんてことを! 逃げろ!」
行商は引きつった声をあげるとその場から慌てて逃げ出し、近くの建物の屋根によじ登った。
何が起きるのか。
驚いていれば、それがおきた。
液体の中に、何か生き物の入っていた瓶があったらしい。
それが、他の液体を飲み込んで膨れ上がる。
そして樽一杯分の大きさになったと思えば、眼が一つ現れる。
ジェムは血の気が引いた。
「軟泥動物!?」
あらゆる物理攻撃が通用しない、貪欲な魔物だ。普通はとても小さく、これに体の垢を食べてもらって肌をつやつやとさせる店すらある生き物だっが。
だがそれは、通常の軟泥動物と違い、いかにも気味の悪い緑に染まったのだ。
それもあんな大きな!
「皆、高い所に昇って!」
彼女は大声で叫ぶ。それと同時に数多の人間が、周りとともに屋根の上に昇った。
レパードは、ジェムを担ぐや否や自分も屋根に上がった。ジェムが何もする前にそれを行動しているのだから、かなり機敏と言っていいだろう。
軟泥動物は広がり、液体を数々の見込み肥大していく。
「やばいぞ! やつはさっき、強化の薬を飲んだんだ!」
「あんたなんでそんな物売ってたんだよ!」
「美しくなるための調合だったんだ! あの軟泥動物だって、とても弱い物を切り取ったんだ!」
「……意外と普通の言い訳だった」
誰かが突っ込み誰かが納得している。
だがその間にも、その緑の半液体動物は広がっていく。
「あれを倒すには、炎の門を開門できる門士でなければ……!」
「馬鹿野郎。そう簡単に、炎の門を開く門士がいてたまるか!」
そんな言葉も聞こえてきているのだがジェムもそれがとても難しいと、感じていた。
奇なる術とかいて奇術というそれは、異なる世界の門を開き、その力を操る存在が行うとても珍しい技なのだ。
ここはかなりの交易路が集中した地点であるのだが、それでも門氏は珍しいのだ。
というのも門士は国家の資格を持つ事が基本であり、資格をとった後に都から離れる事があまりないからだ。
まして、炎なのである。
炎の門は人間が開く門の中で最も、難関だと言われているのだ。光や闇と言った伝説の門とは違い、存在が確認されているのに開ける人間がめったにいない。
それは人間という生き物が、体の中に炎を宿さない性質であるからだと言われているそうだ。
この前女学校の授業で教わったジェムは、そんな事を思っていた。
人間は次の命を産み育てる事が出来る。そのため地の性質を持つ。
人間は、体の中に水が流れている。そのため水の性質を持つ。
人間は、体から息を吐きだす事で風を作る事が出来る。そのため風の性質を持つ。
そのためその三つの門を開く門士は門士として珍しくないのだが。
炎は人間が体の中で生み出せない物であるがゆえに、炎の門を開く事はとても珍しいのだ。
と習っていた。
「だが、このまま行くと森の方まで行くんだぞ!? 領主さまの狩場に軟泥動物が入って、生き物を軒並み飲み込んで見ろ、この町もただじゃすまないぞ! 罰せられるに違いない!」
隣でやいのやいのとやっているのだが、ジェムはそうは暢気になれなくなった。
「森に。……!」
森にはジェムの弟分たちや妹分たち、そして修道女たちがいるのだ。
皆が飲み込まれてしまう!
どうやって止めたら、どうすれば?
彼女が広がりすぎた死の使者を食い止める方法を、何とか考えようとしている時だ。
「なあなあ、ジェム。あれそんなに厄介か?」
「厄介に決まってるじゃないですか! 止めようもないんですからね? 何をのんびりしていられるんですか!」
「んー。だってあれくらいだったらどうにかできるんじゃね?」
「出来るならやってくださいよ!」
隣のレパードが極めて暢気な声で言いだしたので、ジェムは苛立ってそう言った。
だが。
「そうだろな。ちびども巻き込むのはいやだからな、ジェム泣くし」
行動の基本は全てジェム、と言わんばかりにレパードが言ったその時だ。
彼は服の中に手を突っ込み、胸の前で止めていた籠手を外した。
彼はそれで腕を覆っていたのだ。
いままでもそれを外した所なんてめったに見なかった。
何をし始めるのかと思えば、レパードは彼女の視線を受けて言った。
「いや、燃えると困るだろ」
籠手を外した彼は、上着の袖をめくった。そして。
「……」
ぼう、と視線が揺らいだと思えば。
彼が前方に伸ばした腕に、いきなり炎が走り始めたのだ。
炎は走り、爪先にともる。とてつもなく赤い爪が、内側から光るようだ。
「えっ」
何が始まるのか、と呆気に取られていると、走った炎が指先からこぼれて、軟泥動物に滴り落ちるように落ちて行った。
そして。
いきなり、町のあちらこちらで細い細い火柱が上がり始めたのだ。
それは一気に軟泥動物を蒸発させていく。さすがの半液状生物も、蒸発させられてはたまった物ではない。見る見るうちに縮んでいく。
レパードは縮ませるだけではない。彼の視線の先では炎が生き物のように素早く這い、軟泥動物を完全に鎮圧しようとしている。
軟泥動物は炎に巻かれて逃げ場を失い、縮みに縮み、大きさは瞬くまに小さく変わっていく。
命を削り取られているのだ。焦熱の力によって。
レパードの行う事によって。
そうしてとうとう、それは完全に干からびて命を失った。その証拠に、魔物が命を失うと飛び出す魔粒がぽんと一粒、吐きだされたのだから。
辺りは静まり返っていた。何が起きたのかは明白で、そしてそれを行った人間があまりにもあり得ないから何も言えないのだ。
今起きていたのは何なのだろう。
隣にいたジェムですらそう思ったのだから、ほかの人だってわからなかったに違いない。
しかし本人であるレパードは気にする事もなく、籠手をはめ直して、腕も、真っ赤に染まった爪も隠して屋根から下りる。
「ジェム、帰ろうぜ、今日はリンゴのパイだって修道女様が言ってたぞ」
その前に塩と胡椒だな、どこで交換してくれるか、ジェム分かるか―?
お気楽と言った調子で言う彼を見て、ジェムは何も言えなくなって屋根から下りた。
降りた途端に彼に当たり前のように受け止められて、レパードが彼女に顔を摺り寄せてご満悦と言った顔で笑う。
「今日のリンゴのパイは、肉桂がたくさん入ったやつだってよ、ジェムはこの前風邪気味だったからな、きっとよくなる」
「風邪はとっくに治っていますよ」
「んじゃあ、お祝いだな、ちびの一人に里親ができるんだってよ」
「それは素敵な事ですね」
さっきの物は何をしたから起きたの。
ジェムはそう問いかけられないまま、相手の背中を追いかけた。
今日はきっと塩も胡椒も交換できないだろうな、と内心で思っていた。
そしてそれは現実となり、レパードはぶうぶうと文句を言いながら、来た時と変わらない荷物で孤児院までの道のりを歩く事になったのだ。
<1. 運命が変わる前の出来事>
感想は受け付けておりません、すみません。




